6 木の愛
三日間熱に浮かされて、セツはゆるゆると回復に向かい始めた。
オーブとラグランに看病されながら食事を取っては眠り、十日ほど経ったらしい。
ラグランの船は小さな島に着いた。
「アンシエントドラゴン・バレーへの最後の寄港地だよ」
ユノと呼ばれるその島は、空と海の境に作られたしるべのようなところだった。
金獅子の光が届きにくく、ほの暗い空に覆われる。その代わりにたくさんのランプが灯されて、温かな茶色の光で守られている。
ユノに着く頃にはセツの火傷の傷も塞がり、起き上がって一通りのことができるようになっていた。
ラグランは港に着くなり上機嫌で街へ出かけてしまう。
「腰の据わっていない方」
オーブが呆れ顔でラグランを見送ったのを、セツは苦笑だけ浮かべてみていた。
「そうかな。僕のせいで怪我を負ったのに、文句の一つも言わなかった」
「ラグランがあんな危険な本を持っていなければ、セツが怪我を負うこともなかったんです」
「ミュシャはラグランにとって大事なフェアリーなんだよ」
セツはそう言ってから、ふと気づく。
「オーブ、ちょっとラグランに冷たいんじゃないか?」
オーブはぴたりと止まって、戸惑うようにセツを見上げる。
「……変でしょうか」
「うん? 変って、そういうわけじゃ」
改めて問われると、セツにもよくわからなくなってくる。
二人の間に気まずい沈黙が流れた。
セツは困って、珍しくセツから切り出す。
「僕らも街に行こうよ。ここが最後の寄港地なら、買い物もしないと」
セツはオーブを肩に乗せて立ち上がった。
ユノの街は洞穴が連なっている。元々は海の中にあったらしく、波で掘りぬかれた岩をすみかにして、半性たちが行き来していた。
知恵ある隣人たちが寄港していくからか、市場がにぎわっていた。花の形をしたランプが至るところにつり下げられ、潮風が洞穴を撫でていく。
セツは麦や香草を買い足して、露店の店主に問いかける。
「真水はありませんか?」
船の中には水のろ過装置があったが、陸路で行くのなら水を十分補充しておきたい。オーブやラグランの本性を癒すのも水だ。
アメンボの手足を持つ店主は、セツの言葉を聞いてにっこりと笑う。
「ここでは水は売らないんだ」
「貴重なんですか?」
「売り物にならないからね」
そのときは首を傾げたが、セツとオーブが奥に進むと答えがわかった。
視界が開けたかと思うと、そこに真っ白な木が立っていた。
幹も葉も白く、けれど氷と違って透けてはいない。高さはセツの身長と同じくらいで小さいが、辺り一面に根を張ってきりっと立つ。
白い木は浅瀬にあって、周りは透明な水で満たされていた。セツは試しに銀の皿で水をすくうと、そこに香草を沈める。
一時様子を見て、セツは眉を上げた。
「これ、海水じゃない。飲み水にできるくらいの真水だ」
セツは浅瀬を渡って白い木に歩み寄ると、その幹にそっと触れる。
幹は思っていたより硬かった。匂いはなく、軽くノックをしても反響しない。ぎっしりと何かが詰まっている感触で、セツは耳を当ててみようと身を屈める。
その拍子にセツの指先が銀の皿の水を掠めて、白い沈殿物が現れる。
「……この木」
オーブがうなずいて答えた。
「塩で出来ているんですよ」
セツは顔を上げて、塩の木を見上げる。
洞穴の中にせせらぎが響いていた。半性たちのざわめきも流れてくる。上流の方では水汲み、下流の方では洗濯や水浴びをしている気配がする。
セツは幹に耳を当てて、その中には水が流れていないことに気づく。
「塩を吸い上げ過ぎたんだ。もう生きていない」
「でもこの木のおかげで、これだけの真水が出来たのでしょう。半性たちも生活できる」
「オーブ、どうしてなのかな」
セツは不思議に思って問いかける。
「塩を吸い続けたら命を終えると知らなかったんだろうか」
「植物は動物以上にアニマに敏感なのです。当然知っていたでしょう」
「誰かのために?」
オーブは首を横に振った。
「それも違うと思います。木は無性で、他者に興味はないのです。でも……」
「でも?」
「愛はあったでしょうね」
セツはきょとんとして、愛、とつぶやく。
「変なの。他者に興味がないのに、愛があるのか?」
「もちろんです」
セツは塩の木に手を当てたまま、それを見上げる。木に表情はなく、もう匂いも音も放つことはない。
ただ目を閉じれば、淡くて、つかみどころがなく、どことなく温かいものを感じた。
セツはオーブと顔を見合わせて笑う。そのとき、ひょっこりと木の後ろから顔を覗かせた影があった。
ラグランはセツの背中と腰から荷物を取り上げて、木の下に置く。
「そーれ!」
ラグランに突き飛ばされて、セツは水の中に飛び込む。
浅瀬に見えていたが、木から離れると足もつかないくらいに深かった。セツは一度頭まで沈むと、水面に顔を出す。
「ラグラン! セツは怪我をしたばかりなんですよ」
「だからいいんだよ。周りが海水だけで、しばらく水浴びもできなかっただろ?」
オーブが怒る声が聞こえる。セツは仰向けになって水面に浮かびながら、ふいに笑う。
冷たくて気持ちがよかった。セツはゆっくりと手足を動かしながら、水面を漂う。
洞穴の天井から時々水が滴って、セツの体や水面に触れていく。
セツはふとラグランの方を見やった。ラグランは服を着たまま泳いでいたが、目が合うと苦笑する。
もうずっと、ラグランの女性の姿を見ていない。
セツがためらいがちに問いかけようとすると、ラグランはうなずいた。
「気づいた? 僕はもう女性にはなれない」
フェアリーと過ごすと半性を失う。自分のせいだと気づいて、セツは息を呑んだ。
「いいんだ」
ラグランは首を横に振る。
「僕が女性の姿をしていたのは、ミュシャに近づきたかったからなんだ。僕はミュシャの友達になりたかった」
セツとオーブに目を細めて、ラグランは肩の荷が下りたように穏やかな声で言った。
「楽しいときは一緒に喜んで、悲しいときも一緒にいたらいいんだ。弱ってたら話を聞いてあげて、言葉もないときは一緒に黙っていればよかったんだ。セツとオーブを見てたらそう思ったよ」
ラグランは泳いでセツとオーブに近づくと、長くなった腕を二人に回す。
「ありがとう。僕は自分を選べたよ」
セツは何も言えなかった。
ずっと罪悪感があった。シーリンはセツの母になるために半性を捨てたように感じていた。
でもシーリンはそれを後悔するようなことは、一言も言わなかった。
あなたは変化なの。シーリンが話してくれたことがある。
たゆたう永遠の中でみつけた花のようなもの。それをみつけた喜びを、どうしたらあなたに伝えられるのかな。シーリンはそう言って、子どもだったセツの頭を撫でて長いこと考えていた。
オーブとラグランも、フェアリーを悪く言ったことがない。何度フェアリーのせいで傷ついたか知れなくても、彼らがフェアリーを語るときに宿るのはただ優しさだけだ。
僕は彼らに何ができるのだろう。見えないアニマを探すような気持ちで思う。
アニマを傷つける自分が、この世界に来てからずっと包んでくれた優しさに贈ることができるものは何なのか。今もわからないのだ。
やがて三人は水から上がり、たき火を起こす。服を乾かしながら、セツたちは火の周りに座った。
「セツはアンシエントドラゴン・バレーでドラゴンに会ってどうするの?」
ラグランが訊ねる。セツは少し考えて答えた。
「ドラゴンに会うために旅に出たんだ。オーブとラグランに会えたから、目的は果たしたと思ってた。でも」
セツはちょっと黙ってためらう。
「今はどうしてもアンシエントドラゴン・バレーに行きたいって思ってる。アンシエントドラゴン・バレーがモンスターに襲われたなら……あのドラゴンも危ないんだ」
「あのドラゴン?」
セツはオーブを振り向いて応える。
「僕はアニマの呼び声だと思っていたけど、近頃気づいた。ずっとアンシエントドラゴン・バレーから僕に話しかけてくれるドラゴンがいるんだ」
「友達なの?」
ラグランの問いかけに、ふとセツは言葉に詰まる。
「友達……友達に、なれたかな」
途端にわからなくなって、セツはしどろもどろになる。
「子どもの頃は、時々話せるだけで楽しかったんだ。でも最近、何を話していいかわからなくて、あんまり話せなくなって。もしかしたら嫌われてるのかもって、思うようにもなって……」
「はは!」
ラグランとオーブが顔を見合わせて噴き出したので、セツは困る。
「なんで笑うんだ? それって変なこと?」
「変じゃないさ」
ラグランは肩をすくめる。
「複雑な気持ちになるだけ。オーブもそうじゃないか?」
「ええ。ちょっと寂しいですけど、嬉しいです」
「なんだよ……」
セツは気まずい心地がしてうつむく。二人は笑いながら、そんなセツを見ていた。
「セツ、それが変化ですよ」
ふいにオーブがセツの頬に手を触れて言う。
「私たちドラゴンは、フェアリーのもたらす変化を待つばかりでした。でもアンシエントドラゴン・バレーには、セツに変化をもたらすドラゴンがいるんです」
「楽しみだ」
ラグランも同意して、わくわくとオーブに話す。
「誰だろう? 僕の知ってるドラゴンかな。オーブは想像つく?」
「どうでしょう。こればかりはアニマしか知りませんから」
結局二人が楽しそうな理由がわからず、セツは困惑するばかりだった。
体が暖まってくると、眠気が押し寄せてくる。二人の話し声を聞きながら、セツは船をこぎだした。
ラグランがセツの肩に上着を掛けてくれて、セツは半分眠りながらありがとうと言う。
「明日発とう。じきにアンシエントドラゴン・バレーだ」
「きっと古代竜たちも歓迎してくれます」
セツはうたたねをしながら二人にうなずく。
アンシエントドラゴン・バレーはアニマが呼んだ者を受け入れる場所で、ラグランやオーブは呼ばれていない。
二人と離れないといけない?
その寂しさに耐えてまで、僕は行きたいのかな。セツはまだ迷いながら、泣きたいような気持ちで目を閉じたままだった。




