5 過去
二日の後にセツの熱は下がり、折れかかった短槍の修理も済んだ。
セツとラグランは図書室の螺旋階段を下り、床一面に広がる本の前で止まる。
横たわる本は、セツが最初見たときと違って閉じていた。濃い茶色をした重厚な表紙の片隅に、「ミュシャ」と記されている。
「用意はいい?」
ラグランに問いかけられて、ふとセツは違和感に気づく。
「ラグラン、いつの間に」
図書室に入る前は、ラグランは男性の姿をしていた。今は控えめな紺色の瞳をした女性の姿に変わっている。
ラグランは目を逸らして苦笑を浮かべた。
「男性の姿でミュシャに会うのは気まずいから」
「どうして?」
ラグランは困り顔で首を横に振る。
「私はミュシャの人生に触れたかったということ」
セツは不思議な思いがしたが、ラグランはそれ以上説明するつもりはないようだった。
二人で階段を下りて、巨大な本のページに手をかける。
開いたページは白紙だった。セツはペンでページに文字を書きこむ。
『本に息づく知恵のフェアリーよ。僕の仲間を帰して』
文字はゆらめくと、水が染みこむように消える。
代わりに赤いインクで文字が浮かび上がった。
『フェアリー、そう呼ばれるのは不愉快だわ。この世界を踏み荒らす者たちの名前だもの』
セツはラグランと顔を見合わせて、またページに文字を書きこもうと屈みこむ。
瞬間、ミュシャの赤い文字が光った。
『フェアリーの罪、身をもって知りなさい!』
「セツ!」
本から閃光が迸り、セツの足元が消える。
悪意そのもののような黒い波に飲まれて、セツは呼吸もできなかった。ラグランに肩をつかまれていなければ、嵐のような波に押し流されていたかもしれなかった。
ラグランは翼を出して波をやり過ごすと、セツをつかんだままゆっくりと下降していく。
地面に降り立って、セツは辺りを見回す。
そこは砂ぼこりの舞う大地だった。周りを巨大な円形の建物が取り囲んでいて、階段状に椅子が作られている。
セツはぎくっとした。椅子に座って、半性たちがこちらを見下ろしている。
負の感情を向けられたわけではない。けれど数が多すぎる。何十という瞳に囲まれて居心地が悪い。
「危ない!」
ラグランに肩を掴まれて、飛び立つ。背中を火に焼かれた気がして、セツはラグランに支えられながら振り向く。
火柱が立ち上っていた。薪木がうず高く積まれて、轟音を立てながら火が燃え上がる。
火の中に横たわる、いくつもの影。それに気づいて、セツは真っ青になった。
「半性が……!」
もがくように手を伸ばしたセツを、ラグランは後ろから抱えて抑え込む。
「あれは死体だ! アニマが止まってる」
その言葉に、セツはびくりと体を震わせて首を横に振った。
セツは死体だからと安心できなかった。これから何が起こるか、シーリンに聞いて知っていたから。
ラグランもそれを知っていたらしかった。眼下でごうごうと燃える火柱を、どうすることもできずに見下ろす。
火柱がひときわ高く燃え上がったとき、炎の中で半性の影が変形した。
角と牙を突き出し、巨体を振り回しながら走り出すそれは、猪と象を掛け合わせたような形をしていた。
「……たくさんの死体を燃やすと、モンスターになる」
モンスターは階段を突き崩して、落ちてきた半性たちを追い回す。辺りには、逃げ惑う半性たちの悲鳴が渦巻いた。
ふいに笑い声を聞いて、セツは自分と同じように翼ある半性に抱えられている一人の男に気づく。
「俺の言ったとおりだろう! 知恵なき者ども!」
高らかに笑っているその男は、セツと同じように動物や植物の特徴がない。セツはその男と自分に通じるものを感じてつぶやく。
「フェアリーと」
セツは彼をモンスターから遠ざけている翼ある半性が、悲しそうにうつむくのを見た。
「ドラゴン」
ラグランがつぶやいて痛ましそうに顔を歪める。
眼下では半性たちが踏み荒らされ、角や牙で突かれて血を流している。短槍を握りしめるセツに、ラグランは言う。
「これは本の中の過去でしかない。離れよう」
ラグランはセツを抱えて飛び始める。ラグランの言う通りだったが、セツは通り過ぎていく火柱を見つめずにはいられなかった。
本のページはめくられ、何人ものフェアリーを見た。
川の流れを変えた者、珍しい植物を採っていた者、山を燃やして更地を作った者。
洪水で街は飲み込まれ、森が荒れ果てて、山はアニマも通り過ぎない砂地に変わった。
フェアリーに世界を傷つける悪意などなくとも、アニマを変えれば、そこに生きる半性たちは傷ついた。
セツがどこを見ても、世界はフェアリーの残した傷跡だらけだった。
「……知ってた」
シーリンはセツに、そのことも教えてくれていた。セツだってアニマを変えながら、おのずと学んだ。
セツはうつろな目で世界の傷跡をみつめる。
「フェアリーが生きているだけで世界は傷つくんだ」
張り裂けそうに胸が痛くて、セツは目を逸らすことができなかった。
やがて砂漠に出た。むせ返るような熱気が辺りに満ちて、草一本生えない大地が続く。セツは呼吸を整えようとして、ふとラグランが苦しそうに息をついていることに気づいた。
「ラグラン?」
「少し降りていい?」
ラグランはオアシスのほとりに降りるなり、崩れるようにうずくまってしまう。
「ごめん。私は木が本性のドラゴンだから」
「じゃあ熱に弱い。待ってて、水を」
セツは泉の水を銀の小皿ですくって、毒がないか調べる。匂いをかいだ後、一口飲んで異常がないか確かめる。
「……あ」
そのとき、セツは水の中にアニマの声を聞いた気がした。よく知る誰かが耳元でささやく感覚に、顔を上げる。
「きれいな水だ。飲んで」
「ありがとう」
セツは水筒に水を汲んでラグランに含ませる。
「これ」
ふいにラグランも顔を上げて泉を見た。
「ラグランも気づいた? オーブが近くにいるみたいなんだ」
セツは水筒をラグランに持たせて立ち上がる。
「泉の中を見てくる。ラグランはここにいて」
「罠かもしれない」
ラグランはセツの腕をつかんだが、セツは首を横に振った。
「この暑さだ。泉が枯れたら、オーブは水が本性だから弱ってしまう」
「私も……」
ラグランは立ち上がろうとして、セツに肩を押し留められる。
「大丈夫。すぐに戻る」
不安を断ち切るように、セツは踵を返して泉に向かう。
セツは息を大きく吸って、泉に潜る。
泉の中も熱気であふれていた。体に水が重くのしかかってくるようで、セツは顔をしかめながら泳ぐ。
泳ぎながら、呼吸ができることに気づいた。セツは一度ためらってから、濁った呼吸を吐き出す。
「オーブ!」
呼びかけると、泉の中に声が木霊した。セツは耳を澄まして、小さな仲間の気配をうかがう。
水の流れに乗せて、銀の光が漂ってくる。セツはそれに導かれるように、泉の底に急いだ。
「……オーブ」
泉の底に、銀の籠が沈んでいた。オーブが籠の向こうで膝を抱えていて、セツは泣きそうな思いになる。
「怪我はない? 今出してあげる」
籠の鍵を壊そうとしたが、鎖で巻かれていて解けなかった。仕方なく、籠ごと抱え上げる。
セツは籠を持って浮上すると、水面に顔を出した。
「まずオーブを……」
泉のほとりではラグランが待っていて、セツは先にオーブの入った籠を手渡す。
背後の泉がゆらめいた気配がした。とっさにセツはラグランを突き飛ばす。
足を何かに掴まれて、セツは胸から転んだ。
「う……!」
振り向くと、泉が一瞬で干上がっていた。炎を上げながら砂が渦巻き、その中心で巨大アリが待ち構えている。
「フレイム・アント! ぐ……!」
セツは渦の中を滑りながら、アリ地獄に引きずり込まれていく。
フレイム・アントが放つ炎で、セツの足や手が焼ける。砂が傷に食い込んで、鋭い痛みが走った。
熱でぼやけた視界には、何人ものフェアリーが背後にひそんで見えた。火傷を負い、うめき声を上げながら這って砂の手を伸ばし、セツを炎の中に引きずり込もうとする。
幼い日にセツが恐れた地獄の光景に、セツは意識が遠くなる。
彼らと自分は何も変わらない。そう思うと、もがく力も抜け落ちていく。
「セツ、つかまれ!」
ラグランが飛び立ち、羽ばたきながらセツに手を伸ばす。熱砂でセツの体は滑り落ち、ラグランの手がつかめない。
ラグランの翼も炎で焼け焦げ始めた。ふらついて、体のあちこちから煙を上げる。
「離れて、ラグラン!」
「馬鹿!」
ラグランは鋭く声を放つ。
「フェアリーを見捨てるドラゴンがどこにいる!」
ラグランの姿が揺らぐ。紺の瞳が朱色に、押さえていたものがあふれるように手足が伸び、骨ばった体格を作った。
大きくなったラグランの手がしっかりとセツをつかまえて、セツをアリ地獄から引っ張り上げた。
セツとオーブを腕に抱えて、ラグランは大空に舞い上がる。
セツは火傷の痛みで目の前が霞んで、探すように手を動かした。それをラグランがつかんでくれた。
「……甘やかしすぎかな、僕も」
ラグランがため息をついて、仕方ないなと笑った声。
それをぼんやりと聞きながら、セツの意識が途切れた。




