3 ふたりの戦い
ラグランの船は、海を往くドラゴンの形をしている。
二階建てほどの高さがある船体は紺色が基調で、所々鮮やかな朱色に彩られる。先端にはドラゴンの鋭角的な顔の彫刻、後方には尾ひれがあり、真っ白な翼のような帆が二枚はためく。
「空と海どちらでも、誰より速く進めるのがドラゴンなのさ」
ラグランが話したとおり、船は飛ぶように出航する。
見渡す限りの海に出るまで、セツはめまぐるしく変わる景色に圧倒されて、ただ甲板で立ち竦んでいた。
「セツ、オーブ。部屋に案内しよう」
船が波に乗って進むままになり、船員の半性たちが休憩に入る頃、ラグランに声をかけられて我に返る。
「一人で寝られる?」
赤色に輝く瞳に見下ろされて、セツはむっとする。
「オーブと一緒だからいい」
「おやおや。女性と同衾とは大人だね」
ラグランはからかうように笑って、先に立って船室へ降りていく。
「調子のいい方。セツ、大丈夫ですか?」
肩の上でオーブが困ったようにつぶやいて、セツは答えに詰まる。
「ドラゴンってシーリンとオーブしか知らなかった。真面目で物静かな種族だと思ってたよ」
「私の知っているドラゴンたちもそうです。あの方が変わり者なだけですよ」
二人で首をひねって、うなずきあう。
「わ」
「二人はどういう関係?」
ラグランの顔がすぐ近くにあって、セツは悲鳴を飲み込む。
「はい、到着」
ラグランは一つの扉を後ろ手に開いた。
地下にありながら、その部屋は天窓から光が差しこんで明るかった。木造りの棚にベッド、床には朱色の絨毯が敷かれ、机にクローゼットと、一通りの調度が揃っている。
何より、入ってきたときからセツには気になるところがあった。
「羊皮紙の束……こんなにたくさん」
部屋は今まで泊まったどの宿より広いが、一見するとそう感じないのは、部屋の四隅に積み重なる羊皮紙の束のためだ。
「うん。これが妖精さんからもらう船賃」
ラグランは羊皮紙を一束手に取って、それを翼のように広げる。
「船旅の間、日記を書いてほしい。その日見たもの、考えたこと、どんなことでもいいから、できるだけ詳しく」
「セツの日記をどうするんですか?」
オーブが問いかけると、ラグランは指を口元に当てる。
「秘密。僕の道楽なのさ」
やはり変わり者のドラゴンらしい。セツはそう思って、それ以上追及はしなかった。
「時々停泊する以外は、波に乗って進むだけだから。日中は船室を探検しておいでよ。時間をつぶすにはいいものがたくさんある」
ひらりと手を振ると、ラグランは部屋を出ていく。
セツは荷物を部屋の床に降ろすと、オーブに手伝ってもらいながら荷を解く。
ハーブの粉、鉱石、水筒に食料、衣類、それほど多くはないがお金など、持ち歩くか部屋に置くか選別していく。
ゴエのフェアリーとの戦いで折れた短槍は、修復したものの、セツの身長ほどの長さに留まっている。
「念のため、これは持っていこうか」
持ち歩くには邪魔な大きさだったが、セツは短槍の柄を握った。
荷造りのために広げた敷物の上で、セツはふと顔を上げる。
「それにしても、こんなに見たのは初めてだ」
視界に映る羊皮紙の存在は大きい。鼻がむずかゆくなる独特の匂いも、昨日まではなかったものだ。
「他の部屋もこうなんでしょうか」
「どうだろう」
首を傾げて、セツは手元の作業に戻った。
荷物の仕分けが終わったら、セツは念入りに部屋の様子を見て回る。引き出しを全部奥まで見たり、座り込んで絨毯をめくるセツに、オーブは苦笑した。
「セツ、緊張していますか? 普段の宿ではそこまでしないでしょう」
セツは手を止めて、難しい顔をする。
「どうされました?」
「上手く言葉にできないけど、この船ってとてもにぎやかなんだ」
「確かに船員がたくさん乗っていますね。十五……二十くらいでしょうか」
「アニマが騒いでいる感じがする。海に囲まれているからかな」
お金と短槍、簡単に調合できるハーブや鉱石だけ持って、部屋を出る。幸い鍵はかかったので、安心して離れることができた。
地下にある船倉には、部屋が三つある。その内一つはセツとオーブの部屋で、もう一つはラグランのものだと教えてもらった。
三つ目の部屋には「書庫」と紺のインクで描かれた札がかかっていた。
「これだけ? 船員の半性たちの部屋は?」
「変ですね。船の上は機関室や作業室で、寝泊りできるようなところには見えませんでした」
オーブと顔を見合わせて、書庫の札をもう一度眺める。
セツはためらいながら、ノブを下げて扉を押し開く。
その途端、鼻がむずかゆくなる、あの独特の匂いに包まれた。
「わぁ……」
そこには圧倒されるほどの本が詰まっていた。皮の背表紙の立派な本から、羊皮紙を紐で束ねただけの簡単なものまで、ぎっしりと本棚に並んでいる。
本棚は螺旋階段を囲むように弧を描いて並び、入口はその螺旋階段の最上段にあった。
「地下に何層も続いてるみたいだ」
「こんなに底の深い船だったんですね」
停泊していたときに船の外観は見ているが、海に沈んでいる部分については知らなかった。
螺旋階段の手すりから下を覗き込む。中央は大きな吹き抜けになっていて、羊皮紙の匂いのする空気が流れてくる。天窓から光は差し込むが、底の方までは見えない。
「セツ、危ない!」
ふいに背後の扉が開いて、船員のカニが入ってくる。
セツは滑り落ちないように、慌てて手すりを強く握った。そのセツの上を飛び越えて、カニは中央の吹き抜けに飛び込む。
「え……」
カニは吸い込まれるように吹き抜けに消えた。
セツはオーブと視線を交わして、注意深く階段を下っていく。
相当な深さがあるように見えたが、三階ほどの高さを下りたところで底に辿りついた。光が届かないせいで、果てない地下のように感じたらしい。
「……いない」
辺りを確認してからセツは床に降りる。カニの船員の姿はなく、一番下のフロアには本棚もない。
その代わりに、歩くと奇妙な感触があった。足元がざらついて、時々へこむ。船の素材である木とは違う。
「これ、何だろう」
セツは屈みこんで、床を確かめようと手を伸ばした。
瞬間、むせ返るような匂いに包まれる。床が波打って、セツは半腰のまま手をついた。
あ、と短く声をもらす。
「羊皮紙。これは……」
自分が巨大な本の上に立っていることに気づいたとき、本に文字が浮かび上がった。
『忌々しい来訪者。お前など生まれてこなければよかった』
セツはその声に満ちた、刃のような悪意に身を凍らせる。
『原罪を抱えて永遠にさまようがいい!』
本にインクの染みが広がって、ページが真っ赤に染まる。
「セツ!」
波打つ本のページに押し流されるようにして、セツはオーブと引き離される。
視界が真っ赤に染まったかと思うと、そこは船室ではなく海の底だった。
水流がぶつかってきて、その衝撃に身を伏せる。不穏な気配に目を開けたら、巨大なカニがハサミを振り上げるのが見えた。
「ブラッディグラブ!」
ハサミの間をかいくぐって避けると、セツは岩場の陰に身をひそめる。
全身を鎧のような甲羅に覆われ、二本のハサミが鈍く光る。小柄なドラゴンほどの巨体だった。
ブラッディグラブはぎょろりとした目を高速で動かして、セツを探している。セツは息を詰めて気配を殺したが、まもなくその目はセツが隠れている岩場で止まった。
ゴポリと大量の泡を吐き出して、ブラッディグラブは方向転換する。その間に、セツは別の岩場に走った。
アニマに働きかけるための素材をほとんど持ってきていない。まして大岩のような体だ。槍の切っ先さえ通りそうにない。
動きが遅いのを幸いに、走って逃げながらこの海の出口を探す。
水面に上がれば出られるだろうが、水の中のように体が浮かない。呼吸はできるものの、次第に手足が重くなってくる。
ついに一歩も体が前に出なくなったとき、ブラッディグラブに追いつかれた。
ハサミに体を掴まれそうになって、とっさに短槍を挟んで体の前身を庇う。次の瞬間、短槍ごと全身を持ち上げられた。
「く……!」
短槍のおかげで断ち切られたりはしなかった。ただギリギリと締め付けられて、前身に挟んだ短槍が体に食い込む。
思わず身をよじったら、ハサミが短槍からそれて肋骨の下に触れる。骨が軋む痛みと恐怖に、セツはうめく。
『優しさを抱く水のアニマよ』
誰かの声に、水のアニマが騒ぐ。海の中なのに、風が吹いた気がした。
締め付けるハサミの力が少し緩んで、セツは海底に落ちる。急いでブラッディグラブから距離を取ると、そこに小さな仲間の姿をみつけた。
「オーブ!」
「遅くなってすみません。加勢します。セツ、練習したとおりに」
「わかった」
セツは短槍を構えて、動き出したブラッディグラブに向き直る。
「『慈愛を抱く』……ごほっ! ぐっ!」
アニマに話し掛けようとして、セツはたまらず咳き込む。体を締め付けられた衝撃で肋骨が軋み、内臓が痛んでしまったらしい。
「セツ!」
「大丈夫。オーブ、用意は?」
セツは血の塊を吐き出して、どうにか喉から声を出した。
震えながら短槍の切っ先の糸を切って、へし曲がった刃を外す。
「うまく反応してくれるか?」
セツは懐から銀の刃先を取り出す。
『慈愛を抱く石のアニマよ。力を貸して』
セツは銀の刃先を手早く短槍にくくりつける。オーブはその先に手を置いて告げた。
『水のドラゴンが願いをかける』
刃から霧が立ち上り、オーブが刃に吸い込まれる。
ブラッディグラブはハサミを振り上げて、今度こそセツを断ち切ろうと迫って来ていた。
ハサミをすんでのところでよけると、その上に跳び乗る。そのまま、ブラッディグラブの腕を駆け上がる。
ブラッディグラブはセツを振り払おうと身をよじった。セツは重心を変えてバランスを取ると、頭に飛び移る。
狂ったように動き回る目がセツをとらえる。ブラッディグラブが泡を吐き出しながら口を開いた。
『水と石のアニマに委ねる!』
短槍を突き出して、セツは叫ぶ。
『セレクション!』
ブラッディグラブの口の中に、セツは銀粉が輝く刃先を振り下ろした。
アニマが膨張し、セツは弾き飛ばされる。
「つ……!」
肋骨も内臓も、背中も痛んで、身動きが取れない。目の前がたわんで、意識が掠れていく。
ブラッディグラブが一度大きく震えた後、口から銀鉱石に石化していくのも、途中までしか見ていられなかった。
薄れていく意識の中、誰かが側に立っている。
長い紺のドレススカート、結い上げた栗色の髪。老齢の、良家の女性らしい落ち着いたまなざしを持つ彼女は、大きな本を持っていた。
本の中身を朗読したのか、口元がわずかに動く。
老年の女性は海底に倒れたオーブを拾い上げて、どこかに去ろうとする。
「待、て……オーブを、連れていくな……」
切れ切れの声で止めようとしたとき、女性が振り向いた。
地味な格好の中、やけに可愛らしい桃色の片眼鏡がセツの目に焼き付く。
「ドラゴンと心を通わすフェアリーがいるなんて」
書庫の底で聞いた、あの悪意に満ちた声だと思ったとたん、セツの意識は完全に闇に沈んだ。




