2 隣人
潮騒の中に半性たちのにぎわいが混じる。
不吉な噂を聞いた十日後、セツは今までにない大きな街にやって来た。
「あれが海? 大きい!」
港町サリと呼ばれるそこは、セツにとって初めて見る巨大な水たまりがあった。
「そうです。たくさんの生き物の住んでいる、水のアニマの故郷ですよ」
目を輝かせるセツに、オーブは微笑ましそうに答える。
セツは目にしているものが信じられない。それは空より深い青をしていて、規則正しく動いている。音楽のように鳴りながら、やって来ては戻っていく。
「あっ! 木の家が動いてる?」
「あれは船というものなんです」
オーブは一つずつ説明する。
「アンシエントドラゴン・バレーへは陸路でも行けますが、海を船で渡った方が早い。船には半性たちが乗っていて、歩くよりずっと早く進めるのですよ」
「そうなんだ……」
セツの前に出て、オーブは海の上を往く建物を指差す。
「その船の持ち主が、「知恵ある隣人」。交渉して、船に乗せてもらいましょう」
交渉と聞いて、セツの顔がいっぺんに緊張する。
オーブは苦笑してうなずいた。
「知恵ある隣人は変わった方が多いので、なかなか難しいでしょう。私が交渉しますので、セツは近くにいてください」
「ありがとう。助かるよ」
セツは安堵のため息をついて、オーブと小指で握手する。
海も大きかったが、街自体も広く、建物が隙間なく並んでいた。海へつながる街道は白亜の石畳で作られ、半性たちが肩をぶつけそうになりながら歩いて行く。
「そこの店に入りましょう」
「うん。……あ」
肩の上のオーブにうなずきかけて、セツは立ち止まる。
「お酒の匂い」
オーブは心配そうにセツを見る。
「あまりお好きでないのは知っています。お酒を飲みすぎると性質の変わる半性もいますから、気をつけてくださいね。まだ昼なので、よほどのことはないと思いますが……」
セツはうなずいて、木の扉を両手で押し開ける。
アルコールと木の匂いが混じりあった、独特の空気に包まれる。
そこは丸太を積み重ねて作った、山小屋のような酒場だった。酒樽と瓶が壁一面に並び、昼間なのにどこか薄暗い。二階建てで、一つだけある天窓から午後の日差しが淡く差し込んでいた。
二階の方は客がいるらしく、少し騒がしかったが、一階では店員らしいペンギンがモップで床掃除をしている。
「ここには知恵ある隣人は出入りしますか?」
「時々ね。でも名乗らない隣人も多いからなぁ」
オーブがペンギンの店員と話している間、セツはなんだか落ち着かなくて店の隅に向かった。
普段なら、たとえ交渉をオーブに任せたとしても一緒に話を聞いている。確かにお酒の匂いは苦手だが、今は昼で、近くで飲んでいる客がいるわけでもない。
でもここに入った瞬間から、二階から誰かがこちらを見ている。
セツはその誰かと目を合わせないように、なるべく下を見て無視しようとした。
モンスターと出会ったときの恐怖感とはまた違う。寄せては返す波のような、規則正しいのにつかみどころのないリズムだ。
不安の中、セツは思わず目を閉じた。
「おいしそうな匂いがするわ」
ずるっと嫌な感触が体に張り付く。
慌てて目を開く。いつ来たのか、下半身がタコの半性が、セツにからみついていた。
セツは振り払おうとしたが、手足ごと抑え込まれる。次の瞬間、声をなくした。
半性の触手が、セツの襟から服の下に入り込んだから。
「あ! セツから離れなさい!」
オーブが気づいて慌てて飛んでくるが、タコの半性はうっとうしそうにオーブを払いのける。
肌を這う生ぬるい触手に、セツは身が竦んで動けない。酒くさい息が頬にかかる。
「まだ混じってない半性の匂い。ちょっとだけ、その甘い血を吸わせて」
セツが声にならない悲鳴を上げたときだった。
「だーめ。あなたにはまだ早いわ」
明るい声が割って入って、セツの肩の力が少し抜けた。
『潮風のアニマに願う。彼女を本性に還してあげて』
タコの半性の顔に誰かが手の平を当てて言う。潮の匂いが辺りに立ち込めた。
半性の姿がぼやけたかと思うと、見る見る内に縮んでいく。始めはセツの身長ほどだったのに、セツの胸まで、やがて足元に張り付くくらいに小さくなった。
「お酒はほどほどにね」
小ダコの姿に戻った半性は、きょとんと眼をまたたかせて、何事もなかったかのように隅のタコ壺に入って行った。
天窓から差し込む光が、セツの目の前を照らし出す。
その半性は、セツと似ているようで似ていない。
動物や植物の特徴はないが、セツより頭一つ分背が低くて体に凹凸がある。この世界では珍しい黒髪で、光の加減で紺色に透ける。肩につくくらいの髪に一筋だけの三つ編みも、どこか性別をあいまいにしていた。
年はセツより五つほど年上だろうか。からりとした明るさと、不思議な落ち着きがある。
フェアリーのようで、むしろその雰囲気はセツよりオーブに近い。
オーブとその半性の間で、波のようにアニマが揺れた。
「あなたは半性のドラゴンですね」
オーブが緊張した声で告げると、彼女は笑い声を立てた。
「同族に隠し事はできないわね」
「ドラゴン……」
セツははっと息を呑んで、彼女をみつめる。
「そう。私はラグラン。会えてうれしいわ。フェアリーは珍しいからね」
楽しげな紺色の瞳に見返されて、セツはとっさに目を逸らした。
先ほど二階から見ていた目だった。この目に見られると落ち着かない。
「ああ、女性は苦手?」
「ちが……」
とっさに苛立ちのような気持ちがせりあがってきて、セツは顔を背ける。
「大丈夫。簡単な手品よ、妖精さん(フェアリー)。だからこっちを見て」
セツが探るように視線を下げると、底の見えない微笑みが見えた。
ラグランは胸に手を当てて、綺麗に一礼してみせる。顔を上げたのは……「彼女」ではなかった。
「……え」
波打つ炎のような癖毛の赤髪と朱色の瞳、引き締まった長身痩躯がある。
「いい子だね」
白い歯を見せて笑ったその表情は、セツと同じ「男性」だった。
思わずたじろいだセツの前に、オーブが庇うように出る。
「どういうことですか? ドラゴンは両性具有で、半性を失うことはあっても入れ替えるなんて……」
「僕はモンスターみたいなものだからね」
ラグランは悪びれずに答える。
「まあアンシエントドラゴン・バレーに帰れないのは少し寂しいけど、これはこれで満足してる。君もそうだろう?」
オーブは見透かされたような言葉に、気まずそうに下を向いた。
「妖精さんたちは船を探しているって?」
ラグランはオーブに追及するのをやめて、セツの方を向いた。
「僕も「知恵ある隣人」。僕自身はアンシエントドラゴン・バレーには入れないけど、近くまでなら船に乗せていってあげるよ」
唐突な提案に、セツは戸惑った。
アンシエントドラゴン・バレーに早く行きたい。この目の前の存在はつかみどころがないけど、ドラゴンに向かっていく思いは止まらない。
ちらとオーブを見やった。彼女はセツと目が合うと、難しい顔をして黙ってしまう。
セツはラグランに目を戻す。異性のはずなのに、オーブの方がはるかに一緒にいて安心する。こんな気持ちを持ったまま、あの木の建物の中で一緒に暮らせるのかわからない。
けどふいに、セツは一つだけ確かなことを口にしていた。
「……ありがとう。あなたは助けてくれた」
そっけないほどの一言だったが、ラグランは表情を和らげる。
「どういたしまして」
「僕はセツ。ドラゴンに会うためにアンシエントドラゴン・バレーを目指してる」
セツはぼそぼそと言葉を続ける。
「ドラゴンに出会えてうれしい。あなたとも話をしてみたい。……オーブは?」
オーブは注意深くラグランを見ている。同族ゆえに警戒もあるのかもしれないとセツは思う。
やがてオーブはセツを振り向いて言う。
「セツに同行します」
セツは安心したように笑って、オーブとの手と小指で約束を交わす。
「おやかわいい。僕も混ぜて」
「あ」
ラグランは身を屈めて、オーブの手にキスを落とした。
セツは思わず苛立つようにラグランを見上げた。ラグランはくすくすと笑って小首を傾げる。
「君を知ってるよ、セツ。シーリンに半性を捨てさせた子」
「シーリンを知ってるのか?」
驚いたセツに、ラグランは「ちょっとだけ」とウインクをする。
「ドラゴンの世界は狭いんだ。道すがら、そういう話もしよう」
ラグランは手を差し出す。
なんだか面白くないけど、なぜかはちっともわからない。セツは首を傾げながらも、差し出された手と握手を交わした。




