1 予兆
――アンシエントドラゴン・バレーがモンスターに襲われた。
セツが不吉な噂を聞いたのは、ゴエを出立して一月ほど経った頃だった。
「モンスターか。最近多いね」
バッタの羽を生やした宿の主人は、郵便配達のカモメから手紙を受け取ってうなずく。
一階に食堂と厨房、二階に客室が二部屋あるだけの小さな宿だった。ちょうど食堂で朝食を取っていたセツには全部話が耳に入ってくる。
「ドラゴンは無事なんですか?」
「うん?」
思わず立ち上がって問いかけたセツに、郵便配達のカモメはのんびりと返す。
「たぶんね。アニマの寵児がモンスターに食べられるとは思えないし、危なければ谷を離れるんじゃないかな」
「それならいいんですが……」
「僕も噂で聞いただけなんだ。今、アンシエントドラゴン・バレーへは道が通じてないからさ」
セツはあいまいにうなずきかけて、顔を上げる。
「道が通じていないなら、誰が噂を持ってきたんですか?」
「あはは、誰なんだろう?」
カモメはあまり興味がなさそうに笑う。
「僕は同じ郵便配達のカモメから聞いたよ。彼も同じで、たぶんその前も同じ。いきなり空から噂が降ってくるわけないもの」
セツは納得できなかったが、彼は嘘を言っている素振りでもなかった。
カモメは宿主に郵便を渡すと、あっさりと去っていく。セツは難しい顔をして部屋に戻った。
「オーブ。本当に、アンシエントドラゴン・バレーでドラゴンに会えるのかな」
「どうしたんですか?」
オーブは棚の上で、セツ特製の小さな針と糸で刺繍をしていた。セツの深刻そうな様子に、手を止めて見上げてくる。
「旅の間、いろんな半性がアンシエントドラゴン・バレーへの道が閉ざされていると噂していた。実際、そこへ行った半性の話も聞いたことがないんだ」
口元に手を当てて、セツはベッドに腰を沈める。
「アニマの呼ぶ先へ向かえばいいと、シーリンは言っていたけど……そこは僕のような半性の辿りつける場所なんだろうか」
「誤解がある気がします」
オーブは少し考えて言う。
「アンシエントドラゴン・バレーは、ドラゴンだけの場所ではないのですよ」
「違うのか?」
「確かにドラゴンが集まる場所ですが、アニマが呼んだ者は誰でもその場所がわかるんです。私の友達はアニマに呼ばれなかったので、生涯アンシエントドラゴン・バレーに辿りつくことはできませんでした。私もモンスターとなってアニマに背を向けましたので、今となってはアニマの呼び声が聞こえません」
オーブはひらりと飛んで、セツの膝の上に降りる。
「でもアニマの呼ぶ声が聞こえるなら、セツは行けますよ」
「アニマ……なのかな」
セツは迷いながら言う。
「子どもの頃から時々、風の中に立っているときや、眠りに落ちる前、誰かが話し掛ける声が聞こえる。シーリンのようで、少し違う声。それがアニマの声なのかなってシーリンに訊いたら……彼女は何か言いかけて、黙ってしまった」
オーブはくすりと笑う。
「オーブ?」
「なるほど。でしたら大丈夫。必ず、アンシエントドラゴン・バレーでセツを待っているドラゴンがいますよ」
「ドラゴン? アニマではないの?」
「アニマでもありますが……」
オーブはそこで言葉を切ると、声を立てて笑う。
「楽しみです。どんな方でしょうね」
なんだかオーブにからかわれているようで、セツは複雑な気分だった。
きょろきょろと所在なさげに視線を動かして、はっと思い出す。
「アンシエントドラゴン・バレーがモンスターに襲われたっていう話を聞いたんだ」
途端にオーブは表情をかげらせる。
「心配です」
「うん。早くアンシエントドラゴン・バレーに辿りつきたい。ドラゴンに傷ついてほしくないんだ」
「では」
オーブは思案して、セツの手にそっと触れる。
「「知恵ある隣人」の力を借りに行きましょうか」
セツはその不思議な響きに首を傾げて、オーブの次の言葉を待った。




