1 ひとりの旅立ち
ドラゴンに会いたい。
旅の始まりは、目覚めたときの泣きたいような思い。
いつものように金獅子が輝きながら空で眠り始めたとき、窓から差し込むその光が、セツにはいつもと違ってとてもまぶしく感じた。
「いないんだ、もう」
昨日まで小さなサイドテーブルを挟んだ向こうに眠っていた金髪の女性。今は空っぽのベッドしかない。
哀しみと寂しさが、まもなく襲ってくる予感がしていた。
セツは裸足のままベッドから抜け出してはしごを下りると、扉を開いて家を出る。
ローブを着たうさぎが、朝露をヒイラギの葉に乗せて歩いていく。半分殻に覆われたまま、小鳥が空を飛ぼうとしている。
深呼吸して、セツは泣きそうな顔で空を仰いだ。
「僕も行かないと。まだアニマに還るときじゃないもんな」
この世界の暦で、セツは今年十八歳になる。
「心配しないで、シーリン。いつか会える日まで泣かないから」
青い大気に笑いかけて、セツは旅の支度を始めた。
セツは目的地を、古代竜の谷と決めた。
ドラゴンたちはほとんどが個体で生きているが、そこでは集団を作っている。そういった特殊な場所でないと、ドラゴンに出会うことはできない。
「……本当に会わない」
シーリンが教えてくれたことを、セツは旅に出て実感した。
草原に残るわだちの跡を辿って歩き、三つほど街にも立ち寄ったが、ドラゴンの噂も耳にしない。
もっともセツとシーリンが住んでいた森も色々な種族が行き交ったが、ドラゴンが通ったことは一度もなかった。
「シーリン、この地図まちがってないか?」
思わず地図に文句を言って、セツは羊皮紙をにらみつけた。
ため息をついて座り込むと、持ち歩いている石版に傷跡をつける。
今日で旅に出てちょうど一月だ。歩みは少しも進んでいる気はしないが、時間だけは確かに過ぎている。
ひとやすみすることにした。泉の脇にひざをついて、水をすくう。
水面に映った自分の姿を見て、セツは口をへの字にする。
セツは貧弱で、半性(この場合は男性)の割に性の特徴を持たない。地味な灰色の外套とズボン、使い古した皮のベルトくらいしか服も持っていない。
黒髪と黒い瞳はこの世界では少し珍しい。髪は短く、色白で、髪と瞳の黒さが目立つ。十八歳としては幼い目鼻立ちだ。
それに誰かと話すより、一人で黙々と細かい作業をすることが好きな性質でもある。
この世界に落ちてくる前、セツはよく「もやしっ子」と言われていた。もやしが何かは忘れたが今でも時々その言葉だけは思い出すから、たぶん気にしていたのだろう。
あなたの価値はこれから作っていきなさいと、シーリンは言った。
セツは首を横に振ってふてくされる。
「慰めにならない。どうして少しくらい嘘をついてくれなかったんだろう」
頭を押さえてうなると、セツは指の隙間から苦笑をこぼした。
「一人芝居ができるくらいには元気なんだな」
セツは膝を抱えて、膝に頬を寄せる。
言葉をやめると、しんとした静寂が耳を打った。セツは目を閉じて、少しだけのつもりでうたたねを始める。
まだ夜には早く、歩こうと思えばできそうだったが、なぜか力が入らない。
ふいにひやりとした空気が流れてきて、セツは眉を寄せる。
「……何?」
濃霧が立ち込めてきたのに気づいて、セツは意識を引き戻す。
鞄から銀の小皿を出して、小瓶の薬剤を振る。三度かき混ぜて、霧を含ませた。
「毒はない……が」
銀粉に似た霧だった。視界が光沢のある白に染まっていく。
空で眠る金獅子は、数刻も前に起きて地平線の向こうへ走り去った。今空にあるのは、銀の瞳を持つ巨大な銀鴉だ。時折羽ばたいて闇を動かしながら、穏やかな瞳で世界を照らし出す。
銀鴉の光の中でも銀色とわかる霧は、セツの住んでいた森にはなかった。あまり吸い込まないように鼻と口元に布を巻いて、セツは辺りをうかがう。
つっと背筋を冷たいものが走った。
何かが来る。その直感に、セツは背中から短槍を抜いた。
「動くな!」
腰を落として短槍を突きつける。
鋭い声を放ったセツは、次の瞬間に目を瞬かせる。
家のような巨体が霧の中に浮かび上がる。全身が鱗にびっしりと覆われていて、一噛みでセツの体を断ってしまいそうな鋭い牙を持つ。先が鉤状になっている爪は両手に五本ずつ。力強い曲線で縁どられた翼から銀色の燐光をこぼす。
ただその勇ましさに反して、瞳だけは静けさが宿る。
「……ドラゴン」
つかの間、セツは呆然と立ち尽くす。自分が見ているものが信じられず、興奮のままみつめるだけ。
それは翼や腕に水かきがあり、体の表面に銀色の水滴をつけている。おそらく飛ぶよりは泳いで生きる個体で、風を本性にしていた黄金竜のシーリンとは違う。けれどまぎれもなくドラゴンで、見れば見るほどシーリンを思い出す。
胸を衝くのは懐かしさと愛おしさ。セツの手から短槍が滑って行く。
ドラゴンは誘うように爪を動かす。ぱっくりと空いた口の中は、闇に満ちていた。
その闇からこぼれる禍々しさはシーリンとはまるで違って……セツはうつむいて思った。
この世でもっとも高貴な生き物が、半性を誘惑などしない。
セツは落ちかかった短槍を片手で握り直した。もう一方の手を懐に忍ばせて、香草を詰め込んだ小瓶を取り出す。
『アニマを巡る風の声よ』
セツは霧の中を後ずさりながら、すりつぶした香草を自分の周りにまく。
『いつかアニマに還る僕に教えて。貴女の異端児……』
風を切って、セツは短槍を一回転させる。香草の粉が舞って短槍にまとい、刃先が光った。
『モンスターの姿を示せ!』
突風に押されて、ドラゴンの姿が揺らいだ。全身が縮み、瞳孔が開く。
ドラゴンの姿はかき消えて、現れたのは体のあちこちが赤黒く変色し、血の臭気を放つ異様な生き物。
錆びた血の匂いを口から吐き出しながら、セツの背丈の倍ほどの化け物が彼を見下ろしていた。
「錆猫!」
セツは横に跳んで爪をかわすと、霧の薄い場所に向かって走り出す。
錆猫は金切り声をあげながら、二度、三度と飛び掛かる。セツは身を屈めてそれをよけながら舌打ちした。
「く……!」
霧の中は水の力が強い。水と石の異端児である錆猫とやり合うには良くない環境だ。
錆猫の爪をよけながら霧の出口を目指したが、濃霧は途切れる様子がない。それどころかますます濃くなっている気さえする。
セツははっと思い当った。
「テリトリーだ」
モンスターが領域を作ると、その環境も変えてしまう。本来その場所になかったアニマが吸い寄せられて、モンスターをますます強くする。
それを証明するように、辺りは岩だらけになっていた。先ほどの草原はどこにもなく、走るにも邪魔になる岩が多い。
逃げきれない。結論に至って、セツは苦い気持ちになった。
「錆猫には……」
知っている。モンスターに対抗するすべも、シーリンは教えてくれた。
ただそれはセツにとって苦手なこと、戦うことだ。
「痛っ!」
迷いがよぎったとき、肩を錆猫の爪が掠める。
セツの右肩から血が噴き出す。鉄の匂いに興奮したのか、錆猫は耳がつんざくような声を上げた。
今やドラゴンとは似ても似つかない、螺旋を描いた赤い瞳がセツを見ている。舌なめずりして、もっと血が噴き出すところを探している。
迷っている時間はない。セツは腰に下げた袋からこぶし大の石を取り出す。
『瑠璃。貴女に乞う』
セツは錆猫の爪をかわしながら、青と紫の混じる、氷のような石に語りかける。
「『血と熱に侵されたアニマを感じるのなら』……ぐっ!」
錆猫の爪がうなって、それをよけた拍子にセツの手から瑠璃石が離れる。
セツは態勢を崩して膝をついた。息が上がって、とっさに立ち上がれない。
石が浮かび上がって流動した。セツの足元に、瑠璃色の雪の結晶が描かれる。
錆猫は身を屈めて、セツにとどめを刺そうと飛び掛かってきた。
セツは腰を落として短槍の刃を錆猫に向ける。セツの足元から冷気が立ち上り、腕を伝って切っ先が凍っていく。
『セレクション!』
錆猫の牙と短槍の刃がぶつかったとき、その境目で大気が膨れ上がった。セツは両手で柄を掴んで、足を踏ん張る。
熱と血と氷。生命の流れ(アニマ)が錆猫とセツの間で暴れる。生命がどちらかを選ぶ瞬間がやって来る。
膨れ上がったアニマが爆発して、セツは後ろに吹き飛ばされた。一度弾んで、岩肌に背中を強くぶつける。セツは倒れたまま息を詰まらせた。
ひととき意識を失っていた。
ひらりと何かがセツの頬に舞い降りたとき、目をまたたかせて空を見る。
霧が晴れていて、白い花が降ってくる。
「……雪?」
体を起こすと、数歩先で錆猫が凍りついていた。ぱらぱらと崩れ落ちて、その欠片が白い花のように辺りに降り積もる。
どうやら生命の流れはセツに味方したらしい。
セツは後ろに倒れ込んで、舞い散る錆猫の残骸の中で目を閉じる。
氷の粒はセツの目頭で溶けて、頬を伝っていった。




