屏風の卵(三十と一夜の短篇第31回)
屏風の鶴が卵を置いて出て行った。
妻帯したことはないが、たぶん嫁に出て行かれるというのは、こんな感じなのだろう。
画家の友人に見せると、四条派絵師の描いた屏風にはよくあることらしい。つまり、描かれた鳥が写実的だと起こるのだそうな。
「じゃあ、フェルメールとかレンブラントでも同じことが起こるのか」
「起こらない。彼らは鶴を描いたことがないし、書いたとしても静物画。死んだ鶴だ」
納得いったようないかないような。
でも、ヒエロニムス・ボスの描いた化け物どもが卵を置いて出ていくようなことはないと分かって、安心している自分もいる。
しかし、この卵、どうしたものか? 温めれば、孵化するだろうか? しかし、孵化したとしても、親に捨てられた子鶴にとって、この世はさぞ生きづらいものだろう。
それなら、いっそ一思いに玉子焼きにしたほうがずっと功徳だと思い、外を歩いていた小坊主を連れてきて、この屏風の卵を玉子焼きにしてくれと言ったら、小坊主は向かい鉢巻に、捕縛用の縄をむんずとつかんで、屏風とじりじりにらみ合った。そのうち、屏風の卵が自分を恐れて出てこようとしないので、外におびき寄せてくれと言い出した。馬鹿者め。それができれば、とっくにそうしてる。わたしは小坊主を蹴っ飛ばし、追っ払った。
さて、卵とわたしの関係はのっぴきならないものがあった。彼奴め、わたしが玉子焼きにしてやろうとしていることに気づき、左右に立派な仁王をはべらせ始めたのだ。
卵のくせに油断ならぬやつ。わたしはたとえ屏風のなかとはいえ、仁王を敵にまわす以上、総力戦を覚悟したが、翌日、見ると、仁王はいなくなっていた。どうやら卵の資力では仁王二体を用心棒に雇えるのは一日が限界らしい。所詮、卵の浅知恵だった。
とはいえ、こちらから向こうにちょっかいを出す手法はない。卵とのにらみ合いは続く。卵は鶏のものより大きいが、薄茶色で汚れみたいな模様がついている。それが直立しているのだ。アリゲーターやコモドオオトカゲの卵だと困るので、図鑑で確かめてみると、いかにもこれ鶴の卵。
ひょっとして、昔流行ったたまごっちの一種だろうか。それを考えると、空恐ろしくなる。あの爆発的人気を誇ったたまごっちが、このスマホ社会に課金制ゲームアプリとして降臨した暁には多くの課金ソルジャーたちがむなしく散っていく。
決めた。やはり、この卵はオムレツにしてやる。多くの課金ソルジャーの貯金を守るため、わたしは心を鬼にして立ち上がった。ハインツのケチャップも買ってきた。ケチャップを絵皿にドボドボ注ぎ、筆で念入りにかき混ぜると、絵描き歌を口ずさみながら、みなさんご存知の、あのカッパみたいな面構えのコックさんを描きあげた。
卵の驚きは相当のものであっただろう。まさか四条派の屏風にケチャップでコックさんを描くやつがいようなどとは想像もしなかったのだ。骨董的価値にあぐらをかいた卵の油断としか言いようがない。わたしの決意をなめないでもらいたい。
拙宅のベルが鳴ったのは、コックさんがボールを片手に卵を鷲づかみした瞬間だった。
戸を開けると、そこには歩き巫女のまた、恐ろしく美しいのがいる。
「あの、もし××さまの御住まいはこちらでしょうか?」
「はい」
「わたくし、お願いがあって参りました」
「わたしで叶えられることでしたら、叶えて差し上げましょう」
「では――あの、屏風の卵をお助け下さいまし」
なるほど。この美女も卵のまわしものか。仁王を雇うので資力が尽きたと思っていたが、彼奴め、とんだ搦め手を使いやがる。
人並みにスケベなつもりではあるが、美女をけしかければ陥落すると思われるのは癪だ。ましてや、相手は卵である。まだ生まれてすらいないのだ。
「せっかくですが、あの卵はオムレツにすると決めたのです」
「どうかそのお考えを改めてくださいまし」
歩き巫女はわたしの足にすがりつく。
「ええい、くどい!」
熱海で見かけた金色夜叉の銅像のごとく、歩き巫女を蹴っ飛ばした。
そして、光の速さで戸を閉め、鍵をかけると、格子のあいだの曇りガラスに必死で戸を叩く歩き巫女の姿が見えて、
「うらみます、うらみますよ」
と、ねばっこく言ってくる。
「あー、あー、きこえなーい」
と、耳を塞いで大声を張り上げながら、屏風のもとに戻る。
すると、そこにあるはずのもの、つまり、割られた卵の殻とオムレツ、そしてその製作者たるコックさんがいないのである。
ただ薄汚れた金箔を張った屏風だけがきちんと立っている。
はて、おかしい? コックさんのやつめ、仕事をほったらかしてどこにいるのか?
そもそも、卵のやつはどこにいったのだ? わたしが最後に見たときは卵はボウルの縁に今にもぶつからんとしている様子だったのに。
そのとき、わたしの素足がぐちゃっと嫌な感触のものを踏んだ。
血かと思えば、ケチャップである。それも滴ったケチャップは一つではない。足跡の形をして、右、左、右、左と歩いたように跡が残っている。
ハインツのケチャップで描いたコックさんが貞子的能力を発揮して、外に出たらしい。わたしは神棚へ飛びつくと、骨に鉄を使った扇子を取り出し、非常時にはこれでぶん殴る覚悟でコックさんの野郎に「やい、貴様、卵はどうした? オムレツはどこにある?」と問いただしてやろうと、足跡を追った。縁側から庭に折り、裏手の入り口から出て、そして、道路まで行ったとき、わたしは真っ赤で大きなキャデラック・コンバーティブルにはねられて、風車のようにくるくるまわりながら、空へと吹っ飛ばされた。
だが、その一瞬、わたしは見た。歩き巫女が運転するキャデラックに、わたしを裏切ったコックさんと、そして、後部座席で紫の座布団の上で鎮座する鶴の卵の姿を。
ホホホホホ。
ケラケラケラ。
彼奴らの笑い声がきこえる。
陽動作戦にまんまとはめられた。
卵のほうが座布団一枚分だけ上手だった。
だが、今更泣いても悔やんでも、どうしようもない。
わたしの体はプロペラと化し、竹トンボのようにどこまでも昇っていく。
どこまでも、どこまでも。




