サトレサトレヤ怪ナリト
私は物心ついた時から色々な声が聞こえた。
人が考えている心の声、動物の言いたい事など、なんと説明したらいいのか分からないが、兎に角色々な本音が聞こえた。
どんな人でも何を言いたいのかなんとなく分かり、どんな動物でもぼんやりと思考を伝えてくる。
幼稚園の時、大人が話しているのを間近で聞いて、放つ言葉とは違う言葉に頭が痛くなった。
小学生低学年の時。先生が目の前の子の良い所を言い合いましょうというレクリエーションをした。その時、私の相手となった女の子は耳当たりの良い言葉で私の事を褒めながら、内心真逆の事を思い、私の事を嘲笑っていた。
女は裏表が激しいと知ったのはその時。いくら小学生低学年と言えども、女は女。どこかで必ず違う事を考えているのだ。
小学生高学年の時。男子は言葉を喋りながら、心でも同じ事を考えていた。楽は楽なのだが、たまにど直球でエロイ事を考えている時があった。男はやはり男。そう思って少し嫌な顔をしたら、ど直球な言葉で私の心を抉ってきた。
中学生の頃。もう無理だと思い、母親に相談すると病院へ連れていかれた。
そこで『統合失調症』と判断され、様々な薬を貰って、やがて声は聞こえなくなっていった。
そして高校生である現在。
声はもう聞こえない。心の声が聞こえないというのは非常に心穏やかでいられるものだ。
が、一つだけ変わっていない事がある。
それは――
『幼子、そのようなペラペラなものを食べても力にならんぞ。やはり米ぞ。米は良いぞ』
朝食である食パンを齧っていると、上から声が響く。
私――錦儀大和――はソレをギロリと睨みながら気にしないようにモクモクと口を動かす。
幼いころから変わっていない。
黒い靄をかき集めた様な、ふわふわとしたもの。それは狐のような形を作っているが、決して狐のような可愛いものではない。
異形な何かを狐に似せただけの、全く異なる恐ろしいモノ。
口から尻尾に至るまで、その身体は吸いこまれそうな程黒い。
毛の流れる方向にだけは白く線が入っているが、稀に不可思議な曲線を描く。見ていると気持ちが悪くなるようにぐるぐるぐるぐる、不規則に回る。初めて見た時はまるで虫が這っているようだと感じ、背中がぞくりと震えた。
目は赤黒く、時間が経った血を思わせる。唯一口内だけが人間と同じような色をしているが、口から覗くそこには乱杭歯がぎちりと並んでおり、見るだけで不吉な想像をしてしまう。
そんな化け物が、私の上に……十年以上前から変わらぬ姿で私の日常を見続けていた。
見るだけでも卒倒しそうな化け物だが、十年も一緒に居れば色々と分かってくるものもある。
例えば、私が食べている姿を見て、身を乗り出しながら涎を垂らしているこの姿。見る人が見れば(残念ながら私にしか見えないのだが。……残念? 残念か?)、今にも私を食い殺そうかと言わんばかりの凶暴な姿だ。辛抱ならんと私の頭をパクリと丸飲みにしてしまいそうなのだが……。
「はいはい、あげるから。頼むから頭に涎垂らさないでよ」
その実ただパンを欲しがっているだけなのだ。米を進めるのも、今ここに米があれば食べているパンが余るのではないかという打算の末生まれた言葉にすぎない。
私が少しだけパンを千切って宙に放ると、待ってましたとばかりに勢いよく宙を泳ぎ、パンを食べる。
その姿を見て、本当に実家から遠い高校で一人暮らしにして良かったと思うばかりだ。もしも何も知らない人が見たら、パンが空中で消えたかのように見えるだろう。
『うむ、うむうむ。幼子よ。もう一口』
触れないのにパンは食べられるって、どういう理屈なんだろうか。
ゆっくりと味わうように咀嚼した後、私の目の前に来てがばりと大口を開ける。手ごとパクリとされた昔の事を思い出して、「ひゃ」っと声が出た。
思わず顔を逸らせば、赤くなった頬を見られたのか、目の前の異形がクツクツと声を洩らす。
「図々しいわね。それに何度も言うけど、私は幼子じゃないって何度も言ってるでしょ。もう高校生だよ」
『カッカッ、我から言わせればまだ幼子よ。たかだか十五の小娘が幼子じゃなくて何だと言うのじゃ」
「昔で考えれば十五は元服で成人なんだから」
長く生きている――正確には生きているとは言えない――相手に対し、ならばと昔の話で攻めてみる。
『そうやって必死に大人だと言い張るうちはまだ幼子よ。悔しくばもう三百年は生きてみぃ」
「くっ……この畜生めが……人にお願いする立場の黒狐のくせに……」
この異形を私は黒狐と呼んでいる。命名理由は至って簡単。名付けなんて簡単でいいのだ。その黒い姿と狐であることから…………ではない。
当時幼稚園生だった私はその異形に向かって、「狐さんはなんていうの?」と尋ねると、狐はぽかんと口を開けて驚いた。呆けるようにして開かれた大きな口と乱杭歯を前に、私はビクリと震え、知らず後ろに歩を進めていた。
『我が見えるのか? 幼子よ』
それが私が異形と交わした初めての言葉だった。
私が「もちろん」と答えると、そうかそうかと笑いながらこう高らかに宣言した。
『我に名などという高尚なものは無い』
彼は名の上がる程有名な妖怪ではなく、一介の矮小な妖怪に過ぎないと言った。そんなようには見えないが、そもそもそんな小難しい言い方をされても子供が理解できるはずもなく、とりあえず名前が無い狐なんだとだけ理解した。
「そっか。じゃあくろこね! あなたはくろこ!」
そして口を付いたのがこの名前である。
「狐さんってコンコンって鳴くでしょ。それで、黒いから、あなたはくろこー」
なんという単純な名前だろうか。これを聞けば分かる通り『黒狐』という漢字は後付けだ。
『クッ……ククク……クハハハハ……』
名付けた瞬間、黒狐は笑いの三段活用を用いて大いに笑った。
それはもう楽しげに。愉快だと。
口をがばりと開けて大笑いするその姿は、知らぬものが見れば恐怖だろうが、私にはくろこが喜んでいるのが如実に伝わり、思わず「にしし」と笑みを零した。
『よいよい。では我はこれからくろこと名乗ろうぞ。して、幼子よ、主は何故そこまで楽しげなのだ? 我を恐ろしいとは思わんのか?』
くろこはまるで恐れるのが当たり前かのように尋ねる。それはそうだ。恐怖を模ったような彼を見て恐ろしいと思わないはずがない。くろこはそれをよく分かっていた。
「だってくろこ楽しいんでしょ。くろこは凄くキレイだもん。怖いはずないよ」
そして私が紡いだ言葉は、くろこを再び驚愕へと導いた。
『ほ、綺麗、綺麗とな。これまた愉快じゃ。我のこの姿を見て綺麗とは、如何な僧坊でも表さぬぞ』
「ん、くろこは綺麗。頭が痛くならないから」
『……なるほど、の。幼子や、お主、覚りの素質があるようじゃの。ああいや、分からぬのならよい』
くろこは何かを察したようだが、私にはなんのことか分からなかった。
そうして私は異形の狐と友達になった。
……そんな昔の事を思い出しながら、家を出る。外では黒狐と会話をしないようにしているが、黒狐は一方的に話しかけてくる。
『幼子や。主はまだその薬剤を飲み続けるのか?』
薬剤とは私の統合失調症に対する薬のことだ。おかげで周りの考えている事は聞こえなくなったが、私はまだ治療を続けている。医師の判断によるものだが、私には未だに黒狐が見える為、あながち完治していないとも言い切れない。
最早物理的にモノを喰らう相手を妄想とは言えない。そんな事は分かっているのだが、もしかしたらこれも、パンをあげたつもりになっているだけで、実際には私が食べているのかもしれない。
自らの事なのに断言出来ないのだから呆れてくる。
「飲むよ。だってさ、黒狐が見えるって普通じゃないでしょ」
まだ周りに人影はない。そう言う時に限れば、外でも黒狐と遠慮なく会話をしている。……変な目で見られる可能性もあるが、そこは医師お墨付きの診断書があるのだから、と開き直れる。……当然開き直れない時もあるのだが。例えば学校とかいう集団生活の中では特に。
『折角の覚りの素質を無に返すとは……。我には理解出来ぬぞ』
「現代日本ではね、それは病気だって言われてるんだよ」
黒狐は「それでも我と話せているのは幼子が覚りの素質があるからであろうに」とぼやく。
『幼子。我と接するのは嫌いか?』
まるで拗ねたかのように尻尾が下がっている。こうやって見れば本当にただの動物だ。……浮いていなければ。変な靄が周りになければ。喋らなければ。他の人に見えれば。
「そうじゃないけどさ、普通か異常かで言えば、異常な事なんだって」
『また普通普通と……。主ら人間はいつも二言目には「普通は」だ。普通とはそんなに尊いものか?』
「ま、この世の中だからねぇ。異端は中々過ごしにくかったりするんでしょう」
私、幽霊と話せるんです! なんて、ただの異常者だ。白い目を浴びせられるのは目に見えている。
出る杭は打たれるではないが、余計な事をして変な注目を浴びれば潰される。現代日本の集団心理とはそういうものだ。
『我からすれば主らの普通は異常なのだが』
「それは黒狐が異常な存在だからじゃないかな」
『異常もそう悪いものでもあるまい』
黒狐は流石妖怪というべきか、悪い雰囲気や気? なんてものを事前に察知して教えてくれる。別にそこに行くと必ずトラブルが起きるというものではないが、トラブルが起きやすくなるという。
そういう澱みを見る事が出来るなら、黒狐の見ている風景と私の見ている風景は全く異なっているのだろう。
事実今日も何度か道を変えて歩いている。……お陰で登校に時間が掛かるのだが、トラブルに見舞われるよりは良いだろう。
『そもそも考えてもみれば、今偉人とされている者たちは皆異常な者ばかりではないか』
「うーん、でもやっぱり異端視されて潰されちゃった人が多い事実もあるわけで。そう考えれば平凡に生きたい私は……」
そこまで考えて、こうやって黒狐と話している時点でぜんっぜん平凡じゃないわと頭を抱えた。
『凡な者を集めてなんとする』
「っていうか黒狐、仮にも妖怪だよね。なんでそんな人間に肩入れしてるの」
『む? 好きな者の種族に肩入れするのに理由など必要か? 幼子。そこな道は右だ」
「あい、右ねりょーかー…………」
……
……
……へ?
ちょっと待て。今黒狐は何と言った?
『幼子。右だ。右』
違う、その前だ。黒狐は右の前に
『おい聞いておるのか。右に行くぞ、そちらは良くない』
あぁ、あれか、あれだよな。友達として、友達としてって意味だよな。焦らせやがって黒狐の癖に。
『ッ、大和!』
グイっと明確に触れられないハズの何かに引っ張られた。
――パァァン!
目の前で轟音と共に何かが弾けた。
何が起きた?
何かに引っ張られて、それで……
私の居た所に、何か落ちてきた?
カラン、カランと地面を叩く音がした。
そちらを見ると、ペットボトルの蓋のようなものが遠くの地面に転がっていて……
クチ、と靴下が水を含んだ音を立てた。
地面は目の前を中心に広がるように濡れていて……
ペタリと、座りこむ。
何が起きたかは、なんとなく分かった。
私の居た所に、水の入ったペットボトルが落ちてきたのだ。
奇跡的に怪我は無い。
直撃しなかったのは分かる。でも、破裂した破片は……。そう思ってぼやけた頭で自分の足を見ると、太ももまで黒い靄のような何かで覆われていた。
『……』
ゾクリと背中が粟立った。
「……くろ、こ?」
黒狐はただでさえ卒倒しそうな恐ろしい顔を更に――今まで見た事が無い形相に変え、頭上を見上げている。
『……そこか』
「まっ……」
勢いよく飛び出そうとした黒い靄に向かって、必死に手を伸ばす。
今まで触れたことすら無いそれは、ほんの少しだけ掴む事が出来た。
『……大和?』
「……いか、いかないで……。傍に居て……」
カタカタと靄を掴んだ手が震える。
視界が滲む。滲んだ視界で黒狐を見上げる。
『……分かった』
異形の狐が放つ、温度が無いはずの言葉が暖かい。
狐が寄り添うように、靄で身体を包んだ。
身体は未だに震えている。
怖い。
怖かった。
でも、何故か凄く安心出来た。
高い場所から落ちたペットボトルは想像以上に音が響いたらしく、辺りは直ぐに騒然とする。
音を聞いた人が来て、警察が来て、野次馬が来て、話を聞かれて。その間ずっと黒狐が傍に居てくれて、私も黒狐の事を放さなかった。
やがて騒動が終息し、私も抜けた腰が戻ってマトモに歩けるようになると、黒狐がポツリと呟いた。
『全く、このように甘えられてはの。やはりまだまだ幼子じゃ』
「うん、そうだね」
『ぬ、いつになく素直だの』
黒狐は「調子が狂うわ」と続けたが、私は構わず黒狐の靄を握り、ホゥ――と息を吐く。
「黒狐、ありがと」
異形はキョトンと赤黒い目を見開き、数秒も経たないうちに目を細めてカッカッと笑った。「幼子が無事ならそれで良い」とでも言いたげに。
「それとね」
末端の黒い靄を放し、黒狐の顔に手を触れる。
いつも空を飛んでいるから、いつも高い位置に居る。
でも今に限っては、私を気遣ってか、少しだけ降りてきている。
それでも私よりも少し高いのは、格付けのつもりかな。
生意気。黒狐のくせに。私が居ないとパンも食べられないくせに。
ユラユラ、ユラユラ。
尻尾が揺れてる。
私を心配するみたいに、揺れている。
目は口ほどにモノを言うって言うけど、黒狐の場合は尻尾の方が分かりやすいね。
片手だけじゃなく、両手を顔に添える。
暖かくもなく、冷たくもない。体温なんて存在しない。そんな異形の狐だけど。
とても、温かい。
クチ、と水を含んだ靴下が音を立てる。
……
……
再び靴下が音を立て、それと同時に私は言ってやった。
「大好き」
これはきっと、異常な事だ。絶対におかしい。普通じゃない。
十年という長い時間を掛けて、私は悟る。
異常もそんなに、悪くない。
――サトレサトレヤ怪ナリト――
異形な漫画を見て、ふと、異形恋愛モノが書きたいと思いたちました。
需要はどこにあるんだろうか。知らない知らない。
そしてその上で和モノ(そんなにガッツリとしたものじゃない)を書きたいと思った。
その結果、和モノか?これ?な感じに仕上がりました。
名前すら無い妖怪。図体だけ立派で力はそれほどない浮遊霊的な存在。
覚りという、人の心が読める妖怪。
この二つの存在を中心に話を作りました。ほら!ギリ和モノダヨ!(無理がある?)
人の心が読める→覚り→現代でも人の心が読めるって言う人は居る→統合失調症→つまり、統合失調症は覚りの素質がある人なんや!現代では病気だって言われるけど、立派なスキルなんや!!
……と妄想したわけです(何)