私を殺してください
初稿執筆:2016年
県警の不審者情報欄に俺のことが載ったのは、今年の十月末のことだった。
やっちまったとか、なんであんなことを、みたいなことは、俺は微塵も考えなかった。
ただ、とうとうここまできちまったんだなあ、という奇妙な感慨のようなものだけは、胸の奥に湧いているのがわかった。もちろん、達成感とか、満足感なんてものはあるはずもなく、ただ鼻から乾いた嗤いが漏れてきただけだったが。
ひたすらに空虚な、自分への嘲笑。行きどころのない憎しみに歪んだ、醜い微笑み。
ここまで堕落した自分をかつての知り合いが見たら、なんて言うだろうな。
ふとそんな考えが頭をよぎり、俺は一人でかぶりを振った。
いや、違うな。自問すべき問いはこうだ。
――今の自分の姿を見た彼らに、俺はなんて言って欲しいんだろう。
きっと俺は「信じられない」とか「馬鹿なことを」とか、そういう答えを望んでいるんだと思う。少なくともかつては今と違ったということを、彼らの口から聞いて確認したいのだ。
だが、実際はそうならないだろう。彼らはきっと、今の俺を見て、こう言うのだ。
「やっぱりこうなったか。遅かれ早かれ、いずれこうなるだろうと思ってたよ」
人間性なんてものは、そう簡単に変わるものではないのだ。そのことをあのころの俺に気づかせてくれなかったことが、俺に対する、彼らの一番の罪悪だ。
一番はじめに出会ったときから、「おまえはダメな人間だ」と指摘してくれさえいれば、俺はここまで壊れたりはしなかった。ダメな奴として、分相応のダメな生き方に満足していられただろうから。そうすれば、少なくとも社会を恨んで復讐しようなんて考えは持たなかったはずだ。
ダメ人間と認められず、身の丈に合わぬ生き方を強いられた俺は、常に水底を爪先立ちで歩くような危うい人生を送ってきた。水面から顔だけを出し、あぶあぶしながら必死にあがいていた。
今、爪先が折れてしまい、立ち続けることができなくなった俺は、暗い泥沼の底に沈みゆくほかなくて。
だから俺はこうして、電気を消した真っ暗な部屋の中で黙々と焼酎をあおりながら、県警のホームページに掲載された不審者情報を眺めてニヤついている。
もう二度と、再び浮かび上がることはできないと、わかっていたから。
* * *
さて、俺がいったい何をして不審者扱いされたかという話だが、簡単に言うと、道行く女子高生に猥褻な声かけをした、ということだった。
俺は、コンビニで買った安いカップ焼酎を片手に、複数の高校の生徒が使用している通学路の脇に置かれたコンクリートブロックに腰を下ろして、下卑な笑みを浮かべながら、通りすぎる女子たちにことごとく卑猥な言葉を投げかけ続けた。
「よう姉ちゃん、ちょっくら乳を揉ませてくれねえか」
「ねえ、こっちきて、おっちゃんのお喋り相手になってくれよ」
別に、彼女たちに本気で危害を加えようと思ったわけではない。ただ、浅はかな自己満足に浸っていたかっただけだ。これ以上落ちぶれようのない自分の姿を客観的に見ているだけで、言いしれぬ安心感を得られた。だからその場に警察官が駆けつけて、両手に縄をかけられても、どうってことはないと思っていた。
だが結局のところ、そうはならなかった。面倒ごとに巻き込まれたくないという自然な心理からくるものだろう。か弱き少女たちは、実際に手を出されるまでは、俺という存在を、自分たちからは完全に無関係なところに置こうとしていたようだった。たとえ俺に声をかけられても、彼女たちはただ道端に吐き捨てられた吐瀉物を見るような目つきで一瞥し、早足で歩き去っていくだけだった。
おそらくSNSか何かでは、「通学路にきもちわるい人がいる」といううわさが広まっていて、そこから警察にも情報がいって、不審者情報に掲載されるに至ったのだろうが、それ以上のことはなく、ましてやその場で警察に通報されて、駆けつけてきた警官に取り押さえれるというような出来事は、一切起こらなかった。
いつまで経っても変化せぬ状況に、俺は次第に白けてしまって、自分を貶めるという惨めな行為にも、飽きを感じるようになってきていた。
だが、そんなある日のことだった。
俺がいつものようにコンクリートブロックに座って、下校時の高校生たちを眺めていると、突然一人の少女が、俺の座るブロックのすぐ隣に、腰を下ろしてきた。
俺が声をかけるよりも早く、である。これには俺も度肝を抜かれた。
思わず体をのけぞらせて、ブロックから立ち上がってしまった。
「なにを驚いているんですか?」
少女は俺の顔を見ることもせず、ただ前だけに視線を向けて、淡々とした口調で言った。
「あなたの希望通り、話し相手になってあげようとしているんじゃないですか」
「お、おう」と、俺は口ごもりながら答える。「そいつはどうも」
少女の着ている制服は、近くにある私立高校のものだった。けして学業優秀な進学校とは言えないが、金持ちの子供だけがいくことを許される、坊ちゃん高校だ。育ちのよい家の子供であることは間違いなかった。
これはあれだろうか、と俺は考える。犬に手を噛まれたら、咄嗟に引き抜こうとするのではなく、むしろ喉の奥に腕を突っ込んだほうが、放してくれる可能性が高いという理屈からきた行動だろうか。向こうから話しかけてくる不審者相手には、おどおどして警戒するより、自分から積極的に話しかけていったほうが、向こうが警戒して、今後一切近寄らなくなる可能性が高いという考え方だろうか。
いやいや、と俺は一人自問してかぶりを振る。
そんなバカなことをする奴があってたまるものか。危険すぎる。そもそも女子生徒が一人でだぞ。そんなことをするくらいなら、携帯で一一〇番をぽちぽちっと押して警官に頼んだほうが、よほど手っ取り早いし、安全だ。
「どういうつもりだ」
と俺は言った。「俺が言うのもなんだが、そういう危ないマネは、しないほうがいいと思うぜ」
「臆病者」
相変わらず冷淡な口調で、少女は言った。
「いつもお酒を飲んでいるから、もしかしたらと思ってましたが、やっぱりそうでしたか。あなたはお酒の力に頼らないと、こんなこともできないような、小心者なんですね」
的確だ。自分の人間性を見透かされたような気がして、俺は背筋が寒くなるのを感じた。
「臆病者――言い換えると、善人です」
と、少女は、今度は思いもよらぬ言葉でもって俺を形容した。
「褒めてませんよ。悪いことをするだけの度胸がない、ただの腰抜けだということです。人畜無害と言ったほうがいいですかね。だから安全だと判断しました。少なくとも、あなたは自らの意思で人に危害を加えることはできない」
「大人の男を甘く見ると、痛い目を見るぞ」
俺が強がって、力のこもらない声でそう言うと、少女は「はっ」と鼻で笑った。
「思いきって悪いことができないから、臆病者だって言ったんです。あなたは行動のひとつひとつに、ためらいがある。隙だらけなんですよ。通報して、逃げ出すくらいのことは、私でも十分できます」
「大した自信だな」
俺は諦めて肩をすくめ、彼女の隣に座り直した。「それで、何の用だ?」
「あなたに興味があるんです」と、少女は言った。
「俺に?」と、問い返す。
その言葉の意味するところが、すなわち恋愛絡みでないということは、俺もわかっていた。
だが、「興味がある」という言葉は、思いがけず俺を嬉しくさせた。これまで他人から興味を持たれたことなんて、一度としてなかったから。
だが、その高ぶった気持ちを粉々に打ち砕く台詞が、すぐに少女の口から発せられた。
「あなたのような、何の魅力も価値もない、ごみくずのような人間が、どうしてそうなってしまったのか――またどんなふうな考えを持って生きているのか、それを知りたいと思いました」
「言ってくれるじゃねえか」
俺は実際に少し腹立たしく思いながら、悪態をついた。
「でも、自覚はあるんでしょう?」
少女はまたニコリともせずに言った。「だからこんな無意義な行為にふけっているんです」
「自覚のあるなしにかかわらず、他人に言っていいことと悪いことがある。お姉ちゃん、さっきから偉そうに言ってるけど、あんたもけっこう、性格に問題あるんじゃねえのか?」
「ばれちゃいましたか」
少女は――かわいこぶっているわけではないのだろうが、くいっと小首をかたむけてみせてから、そう言った。
「意外と頭いいんですね。ここで切り返されるとは思いませんでした。理責めにすれば言い返せないと思ったんですけど」
「こう見えても大学出だ」
「へえ、どこの大学なんですか?」
少女が興味深げに聞いてきたから、答えてやった。遠い地方の町にある、国立大学だ。名前を聞けば、誰もがそれなりの学力だと認識するようなところだ。
その大学名を聞けば、しがない私立高校の生徒のことだ。きっと「すごいですね」とか言って感動されるだろうと思ったが、少女の反応は俺の期待を裏切るものだった。
「ふふっ、なるほど。そういうことですか」
「なにがそういうことなんだ」
「いえ。その学歴と、あなたの悲惨な現状との関係性がなんとなく掴めたもので」
俺はそのとき――あくまで嘲りを含んだ苦笑いでしかなかったが、少女が初めて表情と呼べるようなものを見せたような気がした。
「その学歴のせいで堆く積み上げられたあなたのプライドと、本来の自分の持てる能力の釣り合いが取れず、理想と現実の落差に失望して、ヤケになっている。そんなところでしょう」
「ああ、その通りだ」と、俺は言った。「ぐぅの音も出ないほど、あんたの言ってることは正しいよ」
「でも、なるほどです。あなたが立派な不審行動をとっているわりに、あまり不審者に見えない理由が、よくわかりました」
「俺が不審者に見えないってか?」
「いえ、よく見るとですけどね。容姿がとりたてて醜いわけでもなく、奇抜な格好をしているわけでもなく。服装に無頓着で、いささか不潔そうな印象は受けますけど、そこさえ目を瞑れば、そのへんを歩いていそうな、普通の人です」
確かに、俺は太っているわけでもなく、痩せすぎているわけでもなく、いたって標準的な体型をしていると自分では思っている。顔立ちも――自分では嫌いだが、一目で他人に不快感を与えるほどの際立った醜悪さを備えているわけでもない。いわば容姿は一般人と何ら変わるところがないのだ。
「ですがまあ、たとえそうだったとして、あなたがごみくずのような最底辺の人間であることには変わりありませんが」
すんでのところで礼すら言いかけた言葉を、俺はごくりと喉奥深くまで飲み込んだ。
「そのごみくずで最底辺の人間に、積極的に関わりを持とうとするあんたは、相当な変わり者だな」
「もとより承知の上です」と、少女はつまらなそうに目を細めてそう言った。
「用件は何だ」俺は改めて尋ねた。「暇だから、俺をからかいにきたってわけじゃないんだろう」
「鋭いですね、さすが国立大卒」
少女は、嘲るように鼻で笑ってそう言った。「実は、ごみくずで最底の人間であるあなたに、一つお願いしたいことがあるんです」
「人にモノを頼むときは、もう少し下手に出るもんじゃないのか」
「これ以上落ちようのないところまで堕ちた人に対して、どうやって下手に出るっていうんですか」
「それは、ごもっともだ」
俺は納得してうなずいた。「で、その頼みってのは? ――悪いが、よほど簡単なことじゃない限り、ごみくずで最底辺の俺では力になれそうにないぜ」
「簡単なはずです。少なくとも、失うものの何もない、あなたのような人間には」
その言葉から察するに、何か犯罪に加担してくれとでも言いたそうな雰囲気が感じとれた。――難しいことでないなら、それもいいかと思った。
彼女の言う通り、俺は失うもののない人間だ。就職に失敗して以来の、ここ数年のフリーター生活で、新卒当時は人並み以上にあった俺のプライドは、微塵のかけらも残らずボロボロに粉砕され、自尊心ごと精神を破壊された。挙句の果てには親兄弟にも見捨てられ、でき上がったのは、何のとりえもない、生きている価値さえ見出せないような、完全なる粗大ごみだ。
だから俺は、多少の罪を犯して警察に捕まるくらい、なんともないことだと思っていた。
むしろやってやりたいと思った。
だってそうだろ? 自分を救ってくれない世界の決めたルールを、どうして律儀に守ってやる必要があるんだ。
俺の目に浮かんだ野卑な光を感じとったか、少女はやがて満を持したかのようにうなずいて、こう言った。
「あなたには、私を殺して欲しいんです」
思わず、手に持っていた焼酎のカップを落としてしまった。
さいわい、飲みきった後だったので、中身は入っていなかったが。
酔いの回った状態であっても、少女の口から発せられたその言葉は、俺の思考を撹乱するのに十分な異常性をはらんでいた。
今、この子は何て言った?
自分を殺して欲しい?
ばかな。なぜだ? なぜそんなことを考える。
俺は改めて少女の顔を見つめ直した。
一目でわかる。美人だ。それも滅多に見ないほどの美形である。おそろしく整った顔立ちに浮かんだ表情は、とてつもなく冷徹で、自信に満ち溢れている。一点の翳りもない、そのまっすぐな視線に当てられていると、こっちが思わず自己の矮小さを思い知らされ、萎縮してしまいそうになる。そんな威厳すら感じさせる圧倒的美貌の持ち主だった。
これだけ容姿が優れているのだ。きっと学校でも人気者だろう。男子生徒からは、さぞもてはやされているに違いない。それとも何か、やはり日常生活を送るうえで、性格面にあらわれた難点はカバーしきれず、周囲に打ち解けらずにいるのだろうか。そのことを嘆いて、自殺願望を持つに至ったのだろうか。
しかし、彼女の気丈そう顔つきからは、悲観にくれている様子など微塵も感じられない。この娘であれば、たとえ自分が周りから浮いていようが、まったく意に介すことはないだろう。そんなふうにすら思えた。
「なんで死にたいんだ」
俺は素直な疑問を口にする。「学校や家庭に問題があるのか? 死ぬ以外にも、解決するための選択肢はいろいろあるだろう」
「勘違いしないでください。これは消去法から叩き出したような、後ろ向きな選択肢じゃありませんよ。私は、自ら進んで『あなたに殺される』という道を望んだんです。積極的に」
「現状に不満があるわけじゃないのか。ただ自殺したいだけなのか」
「誰が自殺したいなんて言いましたか?」
少女は、さも心外と言いたげな口ぶりで言った。「私は、あなたに私を殺して欲しいんです」
「何が違うんだ」
動揺を隠しきれていない口調で俺は言う。「死ぬという結果は同じじゃないか」
しかし少女はかぶりを振った。
「全然違います。自殺と殺人は別物です」
「それは、生きている人間にとっての話だ。死んでしまった人間にとっては……」
ふと、そこまで言いかけたところで、俺はにわかにはっとする。彼女の意図しているところに、ようやく理解が及んだような気がしたからだ。
「もしかしてあんたは、『自分が殺された』ことを、誰かに見せつけてやりたいと思っているのか?」
「……あなたは、本当に察しがいいですね。そうです、おっしゃる通りです」
「いったい誰に? 恨んでる相手でもいるのか」
たとえ恨みに思う人間がいたとしても、自らの死をもってその復讐を遂げようとするなど、考え方が普通じゃない。それはもはや恨みではなく、呪いとでも呼ぶべきものだ。いったい何があったら、そこまでの怨恨を他人に対して抱けるのか、俺には想像もつかなかった。
だが、少女の返答は意外にあっさりしたものだった。
「恨んでる相手はいません。しいて言うなら、これまで私が関わってきた人たち、みんなですかね。親兄弟、学校の先生や友達を含めた、みんな」
「意味がわからない」
俺は思わず頭を押さえる。「何があったら、そんな愚かな考えに行き着くんだ」
「あなたは何か勘違いしているみたいですけど」少女は今度は肩をすくめ、ため息まじりに呟いた。「私は別に、その人たちに復讐しようとか思っているわけじゃありませんよ。ただ教訓を示してあげたいと考えているだけなんです。啓発といってもいいかもしれません」
「教訓?」
「そうです、教訓。あなたたちが私に見せてきた世界は、すべて間違っていたんだという教戒」
「どういうことなんだ」
「知りたいですか?」
「ああ」
俺がそう答えると、ふいに少女は、ふっと口もとに虚無的な微笑を浮かべたような気がした。
「そうですね。ですがまずはその前に、こちらから聞いてみることにしましょう。あなたから見て、私はどういう子供に見えますか? 正直に答えてください。簡単なイメージでいいですよ」
「育ちのいいガキだな」俺は素直に見たままの感想を述べる。
「それから?」
「頭もよさそうだ」
「見た目については?」
「男にモテそう」
「つまり、可愛いと?」
「まあ、ぶっちゃけて言うとな」
そこまで聞いておいて、少女は「ふふっ」と不敵に微笑んだ。
「だいたい正解です。学業基準で言えば、私はけして優秀な生徒じゃありませんけど、生徒会長とかやっているので、先生たちからの印象は悪くないはずです」
「よくそこまで驕り昂ぶれるもんだ」と、俺は少し呆れながら言う。「さぞ気楽で愉快な人生を送ってきたんだろうな」
「ええ、その通りです」少女は謙遜するそぶりもなく答えた。「今まで、何ひとつ不自由のない、満たされた人生を送ってきました。――あなたの想像できないような、豊かな人生を」
資産家の家に生まれ、優しい父母のもとでいっぱいの愛情を受けて育てられた。恵まれた容姿から周りにはもてはやされ、誠実な性格のおかげで他者からの信頼は厚く、また芸術方面の才能にも恵まれた。
本当に、俺とは住む世界が違うお嬢様なのだと、その話を聞いて痛感させられた。
「……その満たされた生活が、全部間違いだったんです」
しかし少女の口にしたその言葉は、憎悪にも似た、とげのような鋭さをはらんでいた。
少女は話を続けた。
「中学三年生のころ、私は、交通事故を目撃したんです」
「交通事故?」
「はい。……いや、交通事故って呼んでいいのかな。私の目の前で、五歳くらいの男の子が、車に轢かれました。撥ねられたのではなく、轢かれたんです」
やたら「轢かれた」という言葉を強調した言い方が、俺には引っかかった。
「その車が、駐車場から出てきたところでした。運転手が気づく間もなく、子供はタイヤの下敷きになり、泣き叫ぶでもなく『ぎゃっ』と一声悲鳴を上げて、死にました。ゆっくりと、頭を圧し潰されて」
少女は、まるで一語一語を噛みしめるように、その凄惨な光景を俺に語って聞かせた。
「私は、見ましたよ。男の子の頭が、柘榴の実のように弾け飛ぶのを。赤黒い液体と一緒に、いろんなものが流れ出てきました。そのとき、私がどんなふうに感じたか、あなたはわかりますか?」
「怖い……かな」
年端もいかない普通の少女なら、目の前で突然見せつけられた「死」という現象に対して抱く感情としては、それが一番自然のような気がした。あるいは、それなりに正義感の強い人なら、自分が動いていれば助けられたかもしれないのに、という悔恨に苛まれるかもしれない。
しかし少女の答えはこうだった。
「残念、はずれ。どちらでもないです。私はそのとき、こう思ったんです」
――汚い。
「もちろん、自分でも愕然としました。さっきまで元気よく走っていた男の子が、ぐちゃぐちゃに潰れた人形のようになったのを見て、私はそれまで感じたことのないような、非常な嫌悪感を覚えたんです」
「何も不思議なことじゃない」と、俺は少女をフォローするかのように言った。「昔から、死は穢れたものとされ、忌み嫌われてきた。きみの中に湧いた感情は、ごく自然なものだ」
「そうかもしれません」
少女はどこか遠い目をして言葉を繋ぐ。「でも、その汚らわしい『死』が、こんなにも身近なものだったんだってことに気づかされたのが、私にとって問題だったんです。彼らはそれまで一度も、私にそれを見せようとはしてこなかったから」
そこで少女はしばし間を置いた。まるで胸の中の空気を入れ替えようとするかのように、ふぅと大きく息を吐き出す。
「それ以来、私は自分の置かれた、何ひとつ不自由のない満たされた環境が、信じられなくなりました。汚れたもののない自分の人生が、薄っぺらなまがい物にしか見えなくなったんです。誰かに褒められても、周りから認められても、友達と仲良くしてても、ちっとも嬉しくなくなったんです」
「精神的なショックからくるものだろう」と、俺は現実的な意見を述べてやった。「カウンセリングを受けるべきだ。そうすれば、すぐに治る」
「そんなものじゃないですよ、これは」
少女はいくらか感情のこもった声で言い添えた。
「世界はこんなにも汚くて醜いものなのに、みんな誰一人としてそこに目を向けようとしない。私はそれが嫌なんです。苦しいんです。息苦しいんです。偽物しか映し出さないスクリーンに囲まれて生きていくのは!」
贅沢な悩みだと思った。
周りから認められ愛され、才能にも恵まれ、何ひとつ不自由なく育ってきた人間が、よりにもよってその「幸せ」が気に入らないから、俺に殺して欲しいだと。
誰からも疎まれ、必要とされず、見捨てられ、見放され、ひとりさびしくあてもなく生きる人間の気持ちなんか、この女は想像したこともないんだろう。
少女は続けた。
「だから、あなたに私を殺して欲しいんです。できるかぎりむごたらしい方法で。そうすれば、あの人たちにわからせてあげることができます。きれいなものばかり見せてきたこの世界が、どれだけ間違っていたかを」
「だが、自分が死んだらそれで終わりじゃないか。どれだけ有意義な主張を持っていようと、死んでしまったら、何もかも無意味なものになる。どうしてそんな簡単な答えに辿り着けない?」
「それでいいんです。もともと、生きる価値のない人生です」
「付き合いきれん」
本心からそう言って、俺は立ち上がった。
「死ぬなら、俺の目の届かないところで勝手に死んでくれ。自死に他人を巻き込むんじゃねえ。あまつさえ、勝手に人を殺人犯に仕立て上げようとするな」
「明日も来るんですか?」
立ち去ろうとした俺に向かって、少女はどこか心もとなげな声で呼びかけた。
俺は答える。
「あんたが来るんだったら、もう来ないかな」
そうでなくても、このへんの高校生にはすでに警戒されている。これ以上こんなことを続ける意義もだんだん見出せなくなってきたし、ここらが身の引きどころだろう。
「連絡先おしえてください」
少女はカバンからスマートフォンを取り出しながら、俺に言った。
「教えてくれないと、自殺しますよ。あなたに殺されたって遺書を書いて」
「あんた、俺の名前知らないだろ」
「名前なんて必要ありません。私があなたと一緒にいるところを、すでに何人もの生徒が目撃しています。ただこう書けばいいんです。名前も知らない男の人に殺されましたって。これで万事OKです」
減らない口を持った子供だ。俺は仕方なく、少女の差し出したスマートフォンに自分の番号を登録してやった。
別に、罪を擦りつけられるのが怖かったからじゃない。彼女が本当に自殺するのが心配だったわけでもない。
俺はもしかしたら、心のどこかで、彼女と交わしたおかしな会話を楽しんでいたのかもしれなかった。
思えばこの何年か、女の子と会話したことなんて――いや、バイトをやめてしまってからは、まともに人と言葉を交わすのすら久しぶりだった。
だから俺は、たぶん期待していたのだ。――彼女から電話がかかってくることを。
もう一度、今日みたいに彼女と会って話ができることを。
本当に、馬鹿げた話だと思ったし、自分の愚かさに、へどが出そうだったが。
「ついでに聞いておきます。名前は?」
去り際、背を向けようとした俺に、彼女が尋ねた。
「山内一郎だ。あんたは?」
「田中花子、でいいです」
「そうかい」
俺が偽名を使ったことを即座に見破ったのだろう。その名前が本名でないことは、聞き返すまでもなく明らかだった。
俺は少女に振り向きもせず、手を振ってその場を立ち去った。
* * *
それから三日と待たずに、少女からの電話は鳴った。日曜の夜十時過ぎだった。
「滝谷橋へ来てください。そこで会いましょう」
俺が携帯を耳に当てると、開口一番、こちらの反応をうかがいもせずに、彼女はそんなことを言ってきた。
滝谷橋とは、この近くにある渓谷の上に架けられた、地元では名の知れた吊り橋の名前だ。地上からはおよそ二十メートルほどの高さがあり、しかも真下は露顕した岩肌の合間を縫って走る激流の冷水。飛び降りれば、普通に死ねるようなところだった。
自死願望のある彼女が、こんな真夜中にそんな場所へ出かけていく理由など、一つしか思い浮かばない。実際、そこは自殺の名所として名が通っていた。
「来ないと、死にますから。遺書はもう書きました」
「待ってろ。三十分で行く」
俺は急いで単車にまたがり、国道をぶっ飛ばした。さいわい日曜の夜ということもあって、車の量は少なく、目的地には十五分ほどで着くことができた。
俺がバイクを停めると、少女は向こう岸の林の中から姿を現し、欄干に肘を置いて、こちらに物憂げな視線を投げかけてきた。
この前のときとは違う、私服姿だったが、暗色のスカートに、上はグレーのパーカーを羽織っただけのラフな服装で、まるで部屋着そのままで出てきたかのようだった。
少女は口を開いた。
「意外と早かったですね。三十分て言ってたから、もっと待つかと思ってました」
「女の子が夜中に一人で出歩くのは、感心しないな。危ないじゃないか」
「そうですね、変質者が出たら大変ですもんね」
少女は、あくまでつまらなそうな口調で、淡々とそう言った。「あなたみたいな」
そしておもむろにスカートのポケットから物騒な刃物――まるで板前が魚を捌くのに使うような、恐ろしく刃の長い包丁だ――を取り出すと、二、三度振って刀身に月の光を映してきらめかせ、今度はそれをこちらに向けて無作法に放り投げてきた。
カラン、と音を立てて包丁は俺の足元に転がる。
「さ、これからすること、わかりますよね?」
「わからないな」
俺は刃物を拾い上げ――投げ捨てるのも憚られるので、バイクのシートに放り込みながら、かぶりを振った。
「もうこんなバカなことはやめにしないか、片町いずみさん?」
俺がそう言うと、彼女は少し驚いたような表情を見せた。
「私の名前、知ってたんですか。どうやって知ったんですか」
「どうもこうもあるか。あんたの通う学校のホームページを見たら、生徒会長の名前なんてすぐに見つけられた。ご丁寧に顔写真つきでな」
そして、そこから俺の知りたい情報を導き出すのは、簡単な作業だった。
片町なんて、この辺りじゃあ滅多に見ない珍しい苗字だ。それに加えて、例の私立高校に徒歩で通える範囲内の住所。自宅の電話番号を割り出すのは、造作もないことだった。
すでにポケットの中の俺の携帯には、その番号が打ち込んである。通話ボタンを一回押せば、それだけで自宅に電話がかけられるようになっている。ダメなら警察にかける。
こんなところで、少女の脅迫に乗せられて、殺人鬼の汚名を着せられるのはごめんこうむりたかった。
「さわりましたね?」
しかし少女は、身元がばれたからと言って、慌てる様子もなく、口もとに不敵な笑みを浮かべて、そう言っただけだった。
「何のことだ?」
「さっきの刃物。あれ実は、もう私の血がついてるんです。さっき腕を切って、血をつけておきましたから。それはもう、べっとりとね」
そう言って、少女は上着の袖をめくって、俺に見せた。細くて白い右の下腕に、すっぱりと一直線の切れ込みが入り、そこからはいまだに真っ赤な鮮血が流れ出ていた。
「そしてその刃物には、あなたの指紋がついています。これがどういうことか、わかりますか?」
――してやられた。
俺は瞬間的にそう悟った。
少女は「俺に殺して欲しい」と言ったが、実際に俺が手を下すところまでは、必要としていなかったんだ。
彼女が欲しかったのは、「俺に殺された」という事実だけ。たとえそれが虚偽のものだったとしても、それをでっち上げられるだけの証拠が揃えば、それで十分だった。俺の意志など、はなから問題視していなかったのだ。
俺は迷わず通話ボタンを押した。コール音が鳴るのが聞こえる。片町を刺激してしまわないよう、まだ耳には当てずに、相手が電話に出るのを待つ。
ちくしょう、どうして出ない。自分らの子供が、今にも命を捨てようとしているんだぞ。
夜中に子供が家からいなくなって、普通は心配するもんじゃないのか。
「見てください」
ふと、片町が俺に呼びかけるように言った。
「きれいな星空です」
その言葉につられて、俺は空を見上げた。生い茂った木々の梢から、満天に広がる星空が覗いている。
確かに、きれいだ。それはまるで夜空に敷いた銀色の絨毯のようでもあった。
そのとき俺は、どうして彼女は空を見たのだろうかと、疑問に思った。思えば、俺はここへ来てから、轟々と音を立てて水が流れる、真っ暗な谷底ばかり見ていたような気がする。
たったの一度も、空を見上げようなんて気にはならなかったような気がする。
なぜ少女は、空を見上げたのか――。
「私のこと、恨みに思うなら、思ってくれていいですよ。……それじゃ、さようなら」
そうして彼女は、ふわりと体を浮かせて欄干を飛び越え、谷底に身を投げた。
それはまるで、そうなるのが初めから決まっていたかのような、流れるような自然な動きのように見えた。
滔々と流れる水の音に紛れて、パンッと何かが弾けるような音が聞こえたような気がしたが、それと同時に、ポケットの中のコール音が途切れ、受話器の向こうから人の声が届いてきた。
「もしもし、どちらさまでしょうか」
俺は携帯を耳に当てたが、何も言葉を発することができず、すぐに通話を切ってしまった。
震える手で携帯を握り締めたまま茫然と立ち尽くし、やがて今度は一一〇番に通話番号を切り替える。
上手く喋れないかもしれない。何も説明できないかもしれない。
でも、そうしなければいけないと強く思った。
ひとりの人間の命を救えなかったことが悔しい――なんて、思わなかった。
ただ、星空を見上げてきれいだと呟くような人間が谷底に落ちて死に、反対に谷底の闇にばかり目を向けているような人間が、ここに立って生きているということが、どうしようもなく不条理なことのように思えてしまって、それが悔しくて悔しくてたまらなかった。
さいわい、警察はすぐに電話に出てくれた。
今、目の前で起こったありのままを告げると、俺は脇の草むらに、電話を放り捨てた。
作者評価:
2015年に三重県内で起きた高校生の殺人事件から着想を得て、
長編を1本書いてみようと思い立ったのですが、
話を膨らませられなかったので、短編にまとめることにしました。
幸福な立場にあるはずの人間が、自死願望を持つに至る過程への、
理由づけを僕なりにしてみた結果です。