わけあり
俺は荷物を全て運び入れるとほうっと息を吐き出した。六畳一間しかない狭い部屋だが、荷物が極端に少ない俺には充分な広さだった。月々の家賃が一万六千円という破格な安さが魅力だ。不動産屋の頼り無さそうなじいさんも約束を守ってきちんとリフォームしてくれていたようだ。
訳在荘というあまりにも胡散臭い名前だったが、第一に安いし静かで俺は気に入ったのだ。
壁も天井も真っ白なクロスに張り替えられ、染み一つ無い。フローリングに変えられたピカピカの床にも傷一つ無い。
俺は床にごろんと床に寝転がって、天井を見詰めた。不意に思い出してトイレに駆け込んだ。良かった──水洗だ、ポットンじゃなかった。完璧だっ! あのじいさん、見掛け以上にやるじゃないか? トイレのことは言い忘れていたのにやってくれたのだ。
俺はほっとして、部屋に戻ると南側の大きな窓を開け放った。前の住人の忘れ物だろうか、古い物干し台が放置されている。ベランダと言うにはあまりにも狭いが、そのまま使わさせてもらおうか?
ここは静かだ──駅から徒歩七分という立地にも関わらず周囲は建物に囲まれており、車の音すら聞こえてこない。
西側のやや小さめの窓を開けても静寂に包まれている。窓の外には何を育てているのか小さな畑のようなものが見える。
長葱かな? 否、それとも玉葱かな? まあその内に分かるだろう。
じいさんが趣味で作っているのかもしれない。
などとぼうっと畑を見ていると突然、ドアをノックする音が聞こえてきた。
一体、誰だよ? そういえば父さんが引っ越すと必ず発生するイベントがあると言っていた。ええっと──確か、保険の勧誘かか新聞の勧誘だと言っていたような気がする。母さんもそんなの相手にする必要なんか無いからと笑っていた。
もう来たのかよと内心ごちながらドアをそっと開けると、意外にもそこに立っていたのはお巡りさんだった。ドキドキしながら簡単な質問に答えると、お巡りさんから電話番号と名前(青出 渉)が印刷されたシールを貰った。
アオデワタル? それともアオイデショウかな? どっちにしても胡散臭えなあ──本物かな? まあ、電話することもないか──
「電話のそばかどこか分かり易いところに貼っておいて下さいね。
何かあったら、こちらに連絡を下さい」
お巡りさんはそれだけ言うとそそくさと帰っていった。俺はボソボソとご苦労様ですと背中に向かって呟いた。その時、お巡りさんが何かを言ったような気がしたが俺には聞こえなかった。
もしかするとこれも引っ越すと必ず発生するイベントの一つかもしれない。
全く、父さんも母さんも肝心なことを言ってくれないんだから──よっしゃ、じゃあ、街でも探検するか? 俺は引っ越し荷物を開くのもそこそこにして、アパートを後にした。どぶに填まらないように気を付けながら建物の隙間を抜けて、商店街の中程に出た。
殆んどの店のシャッターが降りたままだった。