血に酔う
点在する村々を避けるように二台の幌付きの雪車は進んだ。中からは外の様子を覗うことは出来ない。幌の両側にはクリエムヒルト寺院の紋章が描いてある。雪車は四人乗りなので後始末に向かうのは計八人。私以外はみんな男だ。まあ、私も男装しているので傍目には男、いや背の高い少年ぐらいには見えるだろう。
私が乗っている雪車は私の他にはハドロフ司教と外にザイチェフ師とヴィザリオ師。思い返せば夢――いや記憶と同じ人選。母を殺した人達。そのことがどうしても頭の隅をかすめてしまい、なんだかひどく居心地が悪かった。
けれど母のこと、母が亡くなった後のことを尋ねるわけにはいかない。あの夢、いや記憶のことはまだ誰にも話していない。いや、話す必要もないことだ。私は目を閉じる。早く目的地に着いてしまえばいい。そんなことを思いながら。誰も彼もあまり口を開かず携帯食料を食べ、途中休憩を繰り返し目的の街にたどり着く。
あと休憩の途中ザイチェフ師がぽつりと私に言った。
「お前魔人に襲われた村を見るのは初めてだったな」
「はい、そうですが」
私は答えた。
「血を見て狂うなよ」
「大丈夫です。覚悟は出来てます」
私は真剣に答える。惨状なら夢の記憶としてみたことがある。だから大丈夫。そんな自信が私にはあった。
――その考えが甘かったと思い知らされるのは、私達が村に到着してからだった。
村の入り口に二台の馬車を横付けする。そして私達は魔人に襲われた村へと降り立った。
「ふむ、確かにもう終わってしまったようじゃな」
ハドロフ司教が不快げに言う。確かにそんな空気が感じ取れる。私達と私達を乗せてきた馬達以外生きているものの気配がまるでしない。
どくん。動かないはずの心臓が脈を立てた…様な気がした。
「……とりあえず、見て回りましょう」
珍しく声を出したヴィザリオ師の言葉に従うように、私達は村の大通りに足を踏み入れた。
村は予想通り、血まみれだった。生きているもの全てがその活動を止めていた。そして血の臭い。濃厚な血の臭い。人々が惨殺された血の臭い。動物たちが惨殺された血の臭い。血の臭い。血の臭い。あり得ないほど濃厚な。血の、血の、血の臭い!
「おい、リューシカ! どこへ行く!」
引き留めるザイチェフ師の言葉を引きちぎるように、私は前へ飛び出した。そして大声で叫ぶ。いや、笑う。大笑いする。
「あははははははははははははは!」
「夢で見た光景と一緒だよぉ!」
もう私は自分が押しとどめられなくなっていた。
「血の臭い血の臭い血の臭いぃぃぃぃぃぃ!」
駆け出す。村の中心にある教会の前で振り返る。周りには死体の山だ。みんな教会に向かって逃げようとしたのだろう。壊れた扉から覗くそんな教会の中も死体の山だった。
「あはは死んでる! 本当にみんな死んでる! すごいすごいすごーい!」
「誰か止めろ!」
誰かが叫んだ。誰でもいい。どうでもいい。それよりも、なによりも右手が熱い。
「右手が! 右手がムズムズするぅ!」
「撃ちますか」
すでにライフルを構えたザイチェフ師がそんなことを言う。
「いいや言わせとけ。どうせ右手の封印は解けん」
ハドロフ司教があっさりという。
「しかし作業に支障が」
「小娘の雄叫びなど放っておけ。総員、作業に移るぞ」
ハドロフ司教の言葉は私をいらつかせた。だから叫ぶ。大声で糾弾する。
「全部聞こえてるぞぉ! ハドロフ! ザイチェフ! ヴィザリオ! 私の母を殺した奴らめぇ!」
「……あんなことを言っておりますが」
ヴィザリオが言い、ハドロフが顎に手をやる。
「ふむ。どこで知ったのやら」
「覚えているんだよぉ! この頭が! 心が! お前達が私の母にした卑劣な行いををっ!」
私の叫びにハドロフが反応した。
「ふむ、で、どうするかね?」
「だから殺してやる殺してやる殺してやるっ!」
私は腰からリボルバーを抜き、ハドロフ司教に向ける。
「撃て」
銃を見せた私に容赦はなかった。ハドロフ司教の言葉と同時に、いや言葉よりも早くすでに狙いを定めていたザイチェフが素早くライフルで私の左肩を撃ち抜く。私は糸が切れたように教会の前でどうと倒れた。
「縛り上げろ。“リューシカ”を――彼女の母のように」
ハドロフ司教がヴィザリオに命令する。私は抵抗することなく観念して縛られる。自分の血と肩を貫く痛みで納得する。何に酔っていたんだ自分は。自分の血の臭いはどこまでも自分を冷静にさせた。荒い呼吸で地面を見つめる。やがで出血も呼吸も収まってきた。いまいましい魔人の力だ。いまいましい魔人の。これが私を狂わせたのだ。
「落ち着いたか。リューシカ」
頃合いを見計らっていたのだろう、ハドロフ司教が言う。私はうなだれたまま、
「はい……」
とだけ言った。
「見張りはわしに任せて、各員は自分の作業を始めてくれんか?」
ハドロフ司教がそう言うとみな少し不安げな顔をしてそれぞれの作業を始める。
しかし当のハドロフ司教と言えば私の見張りをせずに村の中心にある教会に雪車から持ってきたはしごをかけて上り、周囲を警戒し始める。
「何をしているんですか」
言っても届かない。
「私を見張っているんじゃないんですか」
少し大きな声で言ってみたが、ハドロフ司教は真面目な顔で辺りの様子を覗っている。
「ハドロフ司教!」
私は意を決して今自分に出来る限りの大声を出す。
「なんだリューシカ。もうそんな大声でしゃべれるようになったのか」
上の方から呑気なハドロフ司教の声が聞こえてきた。
「……何をなさっておられるのですか」
「じゃから見張りじゃよ」
「?」
司教の言っている意味がわからない。
「あやつは来ないのう」
「あやつ?」
私が言うと、司教は僅かに微笑んだようだ。けれどもその微笑みは母を殺したときの微笑みによく似ていただろう。
「そりゃお前さんの父親のことじゃよ。娘の血の臭いを嗅ぎつけてこっちに来ると思ったが……、来ないのう」
「……」
そして理解した。司教が私を選んだのは、戦力としてではなく、最初から餌として魔人を呼び寄せるためだったのだ。いやその可能性を考慮していた、と言うべきか。私はその事実に愕然とした。左手をぎゅっと握りしめると全身に痛みが走る。
「私は……何のために……十五年間……」
呟く。何度も何度も。あの厳しかったことも。辛かったことも。あのたまに優しかったことも、すべて私の記憶として体からすり抜けてゆく。私は自分が空虚になってしまったような感じがして身を震わせる。震わせ続ける。時も忘れて、ずっと。ずっと。
やがて後始末が済み、教会を残して村に火がかけられた。殺された村人も血まみれの家々も燃やされてゆく。煙が漂い、聖水をかけられた死体は私にとって不快な臭いを出す。
「司教、もう少し待ちますか」
「いや、もういいじゃろう。リューシカを乗せて帰るぞ。まだ傷跡は残っておるが帰るうちに癒えるじゃろ」
「了解」
「教会に火を放て。行くぞ」
ハドロフ司教はフードを目深に被り、そう言った。そうして教会に火が放たれ、全てが終わった。私の積み上げてきた信頼も自信もすべて木っ端みじんにして。
「だから狂うなと言ったじゃねえか」
「……すみません」
帰り道、私達を乗せた馬雪車の幌を開けてこちらを睨むザイチェフ師の言葉にすっかり酔いが覚めた私が言葉を返す。
「まったく魔人退治に役に立つと思って俺は真剣に教えていたのに!」
どうやら本当に怒っているようだ。私は素直に謝った。
「……ごめんなさい」
「くそっ」
そういってザイチェフ師は幌を閉じてしまった。私は見捨てられた気がしてうなだれる。
「あんな風に血に酔うようではこれから覚束ないのう」
ハドロフ司教が言う。自分でもそう思うので私は言った。
「まったく、自分でもそう思います」
「それにしてもじゃ、何故母のことを知っておる」
「それは……」
私は最近母のこと――自分が胎児ですらなかった頃の記憶を夢に見るようになったことを語った。
「ふむ、不思議なことよの」
「あの……あれは……やっぱり事実ですか……?」
「うむ。だいたいはな」
ハドロフ司教はあっさりと認めた。
「魔人を殺すのに容赦はいらねえ。これでも配慮した方なんだぜ」
聞いていたのかザイチェフ師がまた幌を開けて言う。
「口を挟むな、ザイチェフ」
「……すみやせん」
しかし今度は幌を閉じなかった。ザイチェフ師はじっと私を見つめている。その目にはどこか後悔の念が感じられた。
「とにかく、なんとかせねばの」
ハドロフ司教が重々しく言った。
「私、これから……どうなるんですか……」
尋ねる。ハドロフ司教は少し考えた後に口を開いた。
「わしたちだけなら隠し通せただろうが他の皆に知られてしまったしのう。査問会は免れまいて」
「そう、ですか……」
言葉とは裏腹に頭はひどく落ち着いていた。そんなものだろうと思っていた。むしろいままでが厚遇過ぎたのだ。私はそれ以上は押し黙って雪車が寺院に着くのを待った。そんな私の様子をザイチェフ師が幌の隙間からじっと見守っている。