急報
第三十三代クリエムヒルト大僧正。私も見るのは久しぶりだ。この名前は代々受け継がれるものだと聞いている。狼と心を通わせられるものが、代々その名を受け継ぐとされていた。その言葉と同時に食堂に緊張が走る。けれども誰も口を開かない。
やがてハドロフ司教が言った。
「魔人、ですかな」
「……おそらくは」
「場所は」
「東に雪車で三日ほどの村落です」
クリエムヒルト大僧正がどこか諦めたように言う。
「……では間に合いませんな」
「けれども、後始末をせねばなりません」
ハドロフ司教の言葉にため息をつくように大僧正は言葉を返した。
「して、魔人の名は」
「ドラコフ」
その言葉に周りがざわめく。ドラコフ。ドラコフ。それは決して口にしてはいけない名前。この寺院のような清められた場所以外では、決して口にしてはならない名前だ。それは呪いの言葉。外でその名前を呼べば悪霊を招くとされている。それくらいに強大な魔人。
そうしてそのドラコフこそが私の母の街の人間を皆殺しにした魔人なのだ。つまり私の父。私の宿敵。倒すべき相手。戒められた右手に力を込める。
「久しぶりですな、あやつが山から下りてくるとは」
ハドロフ司教は言った。そうドラコフ――いやソイツはなかなか人前に姿を現さない。思い出したように何年かに一度村々を襲うけれども、いつもは山岳地帯に籠もっている。
村々を次々と襲って回るのは低級の魔人だ。そんなことをすれば目を付けられこの寺院でだけではなく、この国の軍隊や正教の魔人狩り部隊によって討伐されてしまう。その点ソイツは頭の良い魔人と言えるだろう。
山岳地帯はソイツの本拠地だ。高低差があって視界が悪いから見えないところから赤蛇を使われてやられる。今までに何組もの勇気ある――あるいは無謀な軍の選抜隊や正教の討滅部隊あるいはこの寺院からも討伐隊がソイツの住処である山岳地帯まで出向いたが、帰って来たものはいなかったと言われている。
だからドラコフ――ソイツを倒すには山から降りてきたところを叩くしかないというのがのが現状での判断なのだが、実際はこのようにソイツはなかなか本拠地である山岳地帯から降りてこないのだ。だから。
「それでも、もしかすれば……機会かもしれませんな」
ハドロフ司教がそういうのも無理からぬことだった。ソイツを倒す機会など限られている。けれどクリエムヒルト大僧正は首を横に振った。
「……まず無理でしょう。もう遠くへ行ってしまいました。おそらくは山へ帰ったのでしょう」
「ケッ、腰抜け野郎め」
ザイチェフ師が吐き捨てるように言う。まあそんなザイチェフ師も外ではソイツの名前を口には出さないのだが。
「とにかく現地に向かってください。ハドロフ司教」
クリエムヒルト大僧正はそんな罵声を気にした様子もなく言った。
「かりこまりました」
立ち上がり、ハドロフ司教が一礼をする。
「……頼みましたよ」
そう言って大僧正は従者に付き添われて食堂から退出した。
食堂の扉が閉まると、周囲がざわめき出す。そうして四方から私に向けられる視線とささやき。それは仕方ないだろう。私はドラコフ――ソイツの娘なのだから。けれど。こうやって異質なものとしてみられるのは気分の良いものではなかった。……それが事実だとしても。どうしようもない真実だとしても。私は戒められた自分の右手を見つめた。ここにはソイツと同じ赤蛇が眠っている。
「リューシカ? 大丈夫ですか」
それを見ていたのだろう。ソーニャがおそるおそる声をかける。
「大丈夫。こういうの、慣れてるから」
私は軽く笑って答えた。ハドロフ司教が言う。
「さて、わしと共に行くものはおらんかの?」
「……」
誰も答えない。食堂を沈黙が支配する。魔人の後始末。それは誰だってやりたくない仕事だ。死者をひとまとめにして火で浄化し、村にも火を付けて燃やす。
「では、わしが勝手に決めるぞ」
ハドロフ司教が宣告した。そうして次々に名前を呼んでゆく。その中にはザイチェフ師とヴィザリオ師の名前もあった。そして最後に。
「リューシカ。お前さんも行ってみんかね?」
ハドロフ司教がかすかに笑みを浮かべて言った。
「命令であれば御意のままに」
私は一礼して答える。ハドロフ司教は今度こそ笑った。
「はは、命令というわけではないぞ。ただお前さんもそろそろ外の世界を見てみたいだろうと思ってな」
……どこかうさんくさい。だいたい魔人に襲われた後の村を見て外の世界を見たなどと言えるだろうか。そこで気がつく。ハドロフ司教が指名した名前は戦闘に特化している人ばかりだ。
つまりハドロフ司教はドラコフ――いやソイツと出会い、戦うことを期待している――?
「わかりました。行きます」
ならば私も戦力たり得るだろう。私は魔人の血を引いている。赤蛇の能力は効かない。それにいままで十分に鍛錬を受けてきたという自負もある。それにドラコフ――にとどめを刺せるのは類縁である私の血だけなのだ。私はハドロフ司教の企みに乗ることにした。
「決まったの。では各自準備をしたら出発じゃ」
ハドロフ司教が言い、私達は解散した。選ばれなかった人は安堵の顔をし、選ばれた人間は険しい顔つきをして食堂から去ってゆく。そして残ったのは後片付けをしなければならないソーニャと私だけになった。
「心配ないよ。ヴィザリオ師やザイチェフ師も一緒だし」
私は先回りして心配そうな顔つきのソーニャに声をかける。
「そうですね。何事もないと良いですけど……」
まだ心配そうなソーニャ。私は明るい声で言った。
「うん。きっと何もないよ。それじゃ、私も支度をしてくるね」
「はい、お気を付けて」
「ソーニャもお皿とか落っことさないようにしてね」
私はからかうように言った。
「そんなことしません!」
「ここにきたころは良く落っことしていたじゃない」
「あれは昔のことです!」
「あはは。それじゃいってくるね」
そう言って逃げるように食堂から出る私。道化を演じるのは正直疲れる。
食堂からでるとザイチェフ師が待っていた。
「わかってるな。今回の面子」
小さな声で言う。
「……はい」
「準備を怠るなよ」
「わかっています。師匠」
「よし、行け」
ザイチェフ師の言葉に私は無言で頷くと、私は走り出すように背を向けた。ああ、あの男が私の母の首を切断したのだ。急にそんなことを思いだして私は背中が寒くなるのを感じながら。
夢。あの夢。私は思い返す。
……誰も信用できない。ハドロフ司教でさえも。
私は『リューシカ』。この寺院の飼い犬。条件が揃えば簡単に見捨てられる存在。魔人ドラコフを殺すためだけに生かされている存在。