朝の光景-夢から覚めた私
目を覚ます。私は『リューシカ』。ここクリエムヒルト寺院の飼い犬だ。飼い犬というのは語弊がある。私は人間の姿形をしているし、一応人らしい扱いも受けている。この右手をきつく戒める籠手さえなければ、の話ではあるが。
さっきまでの出来事は夢だ。いいや記憶。母親の胎内に宿りつつあった私の記憶。最近、夢としてよく見るようになった。
つまり私は夢の中で首を切断されて殺された、『リューシカ』の娘に当たる。
三人のこともよく知っている。ハドロフ司祭――現在は司教――は夢でも名乗った。残りの二人も知っている。私の母の首を切断したザイチェフ師は私の銃や狩猟の師だ。もうひとりの黒い御者――私の母を床に叩き付けた――ヴィザリオ師は私の近接格闘の師だ。
別にいまさら憎いとも思わないが、この夢を見るようになってすぐは微妙に距離を取るようになったことを覚えている。
そして今の私にはわかっている。魔人滅すべし。それはこのクリエムヒルト寺院の悲願であり、またハドロフ司教の教えでもある。
この異国風の名前の寺院が設立されたのは中世に遡る。いまは遙か西にある国がもっと東にあった頃にとある騎士団の内部組織として設立され、その騎士団が解体した後も細々と活動を行っていたが、南からやってきた正教に追われ、または魔人を追うようにさらに東へ東へ移動してきた。
今はこんな辺境の地にあるちっぽけな寺院でしかないが、私達は知っている。ここが魔人討伐の最前線であることを。
十五年前に私の母がもたらした魔人の災禍。それはまだ完全には収まってはいない。その魔人を討伐するのが私達の役目。そう、その魔人の類縁――娘たる私こそが、その魔人に対する最後の切り札なのだ。
そのために私は女であることを捨てた。いや捨てさせられた。その代わりに教えられたのが銃――右手を戒められた私はライフルではなく片手で扱えるリボルバーであるが――の使い方と、ナイフの使い方だ。それと野外で生きてゆくために必要な知識。それ以外のことは何も教えられなかった。今日もまた訓練が始まる。私は服を着替え、髪を軽くなでつけると寺院へと向かった。冬の太陽はまだ昇ってはいない。
外に出ると強烈な風に包まれる。同時に背中から声。
「リューシカ、今日も早いですね」
振り返る。ソーニャの笑顔がそこにはあった。
ソーニャは、魔人に襲われた村の生き残りだ。かといって彼女も魔人――というわけではない。運良く村を離れているときに魔人に村が襲われて彼女一人が生き残った。その後行く当ても身寄りもない彼女をこの寺院が引き取った。年は私より二、三歳上だろうか。いやもう少し上かも知れない。少し童顔で笑顔が魅力的な彼女。いまは私の身の回りの世話などをしてくれている。
「おはよう、ソーニャ」
そう言って私達は軽く抱き合い、頬に口づけをし合う。特に他意はない。この辺りでは伝統的な挨拶だ。
「ソーニャはこれから朝食の支度?」
「はい、リューシカは朝の稽古ですか?」
ソーニャの言葉に私は頷く。一人で行う朝の稽古。体を温め、朝のご飯をおいしくする。ザイチェフ師あたりはウオツカの方が体が温まると一笑に付すところであろうが。……ザイチェフ師は無駄なことは一切しない人だ。きっと今も自分の部屋でぐっすり眠っていることだろう。まあ私には関係のない話だ。寒風の中、外へ出る。
「お気をつけて」
ソーニャは誰に対してもこのようにへりくだった態度を取る。それはこの寺院に拾われた恩もあるだろうけれど、私には彼女がこの寺院の全ての人間を恐れている証拠のように思えた。――もちろん私のことも。
いや私のことを一番に恐れているのだろう。魔人の血を引く私のことを。
それ以上考えないようにして、私は修練場へ向かった。さすがに今の季節、外で激しく体を動かすのは無理だ。いや死の危険すらある。魔人の血を引いている私はそうそう死なないが、やっぱり寒い中よりは少しでも暖かい方が良い。私は凍った雪を踏みしめて修練場へ向かった。
修練場で体を動かし、私は魔人の血のせいでなかなか火照らない体を恨みながら座り込み、考える。
私がどれくらい魔人の血を引いているか。ハドロフ司教が言うには六割ほどだという。なんでも早めに魔人である母の命を止められたのが幸いだったそうだ。それでも取り出すまで三ヶ月ほど私は死んだ母の胎内にいた。母の胎内で私はずっと蠢いていたそうだ。それなりに育ったところで母の腹を割き私が生まれた。そして母と同じ名前を付けられ、その後はずっとこの寺院で暮らしている。実地訓練で寺院の外に出たことはあるけれど、母の記憶にある街やソーニャが育った村などには、いままで一度も行ったことがない。別に生きたいとも思わないが。
「……よし」
休憩はとれたと感じ、私は立ち上がると、これも毎日の日課である寺院の隅にある自分の同じ名前を持つ母の墓標へと向かった。
寺院の隅にある墓地。その片隅にある自分と同じ名前が刻まれたそっけない墓標を見る。母は死ぬ前に香油を塗られることもなく、私を取り出した後に体は燃やされてここに眠っている。いや本当に眠っているのだろうか。まだ生きていて、地面の下でもがき苦しんでいるのではないだろうか。そんな感覚に襲われるのは、やはりあの夢のせいだろう。あの夢には母の恨みや悲しみ、そして無念さが詰まっている。私が今ここにいることを母はどう思っているだろうか。
――いいやなんとも思うまい。母としての自覚すらなく殺されたのだ。その後生まれた私のことなど、気にするはずもない。それでもどうしてかここに来てしまうのが私の日課になってしまっていた。
それでも。
母は私を見てどう思うだろうか。それを思うと恐怖感に駆られる。望んでない子供。それはまず間違いないだろう。間違いなく、間違いなくそうだろう。それを思うと胸が張り裂けそうになる。……。私は沈黙し母の墓標を見る。見つめ続ける。
――――
「やはりここでしたか」
後ろから聞こえるソーニャの声。今日はずいぶん長い間物思いにふけっていたのだろう。
「朝食の準備が出来てますよ。皆さんお待ちです」
「わかった、すぐ行く」
私は口なじんだ男言葉でソーニャに答え、母の墓標に背を向けた。
二人並んで食堂へ続く道を歩く。ソーニャの口からは白い息が立ち上り、私の口からは立ち上らない。これも魔人の血がなせる仕業だ。
食堂に着く。暖炉に火が入っており、暖かい。長方形のテーブルの真っ正面にハドロフ司教、そしてザイチェフ師とヴィザリオ師。ほかにも数人の司祭達。
ハドロフ司教が立ち上がって言う。
「おお、待ちかねていたぞ“リューシカ”。はやく自分の席に座るが良い」
「はい、司教様」
そう言って私は自分の席に座る。ソーニャは私の右隣の席だ。右手は不自由な私の代わりに、遠くの食べ物を取ってくれたり、汚れた服を拭いたりしてくれる。
そうしてハドロフ司教の祈りの言葉が始まり、それが終わると朝食が始まった。
とは言っても朝食は侘びしいものだ。種なしの黒パンに、少し冷めた豆のスープ。そして乾し肉を薄く切ったものがいくつか。けれど全てソーニャが作ったものだ。ソーニャは特に料理の専門家というわけではないし、この寺院に金銭的なゆとりはそんなにない。これでも朝食にしては豪勢な方だと言えた。
「リューシカ。あまり食欲がありませんね」
「ああ、今日はちょっとね」
まだ今朝見た夢のことが根を引いているのだろう。私はあまり食欲がなかった。ソーニャは少し悲しげな顔をする。きっと自分のせいだと責めているのだろう。ソーニャには自虐癖がある。私はソーニャを傷つけないように、明るく振る舞った。少し無理してスープも食べる。豆と冬野菜が入っていて、おいしい。
「乾し肉も取りましょうか?」
「いや、いい。このスープがおいしいから」
左手でスープをすくいながらそう言うと少しソーニャの顔が明るくなった。わかりやすくて私も安堵する。けれどそういう私も『わかりやすい』のかもしれない。
やがて食事を皆が食べ終わると、ソーニャは皿を片付け始める。私も手伝いたいところだが、片腕だけではソーニャの迷惑になるだけだ。ここはソーニャに任せることにして、私はハドロフ司教に尋ねる。
「今日の私の予定は?」
「いつも通りに」
夢の中よりは少し頬の痩けたハドロフ司教がそう言う。
「わかりました」
そう言った時だった。
「……狼達が騒いでおります」
食堂の扉がゆっくりと開き、従者に付き添われて杖をついた一人の老婆が姿を現したのは。