彷徨
丘を越えたところで雪が降ってきた。初雪。いずれこの地を白く染めてゆくだろう。だが今はそんなことを考えてはいられない。私は痛みを堪えて周囲に向かって叫ぶ。
「狼! 狼はいる!」
「……なんでしょうか」
私の叫びに呼応するように、狼が一匹現れた。さっきの狼と同じかどうかはわからない。私は狼に向かって言う。
「伝えて。寺院に。魔人には秘められた力がある」
「なんですって」
「その名は赤槍赤い槍を目標に対して真一文字に撃つ技よ」
「……それだけですか?」
「わからない……でもまだあるかもしれない。でも伝えて欲しいの。貴方たちの情報網を使って。お願いできる?」
私の懇願に狼はやれやれと言ったように答える。
「……わかりました」
「急いで。お願い」
「……」
無言で狼は背を向けると、走り去っていった。
「ふぅ」
そこでため息をつく。一つの役目は終わった。私は座り込み、体に埋め込まれた散弾を一つ一つ抜いてゆく。応急処置用のピンセットを出し、散弾を探り当て、一つ、また一つと引き抜いてゆく。ひどく痛みの伴う作業。ヴィザリオ師を少し恨んだ。引き抜き終わると食事を摂る。食事と言っても食料はほとんど馬車に置いてきてしまったので、緊急時の携帯食だ。まあ馬車で食べていたものと大して変わりはないが。食事で体力を回復出来ることは私の強みでもある。塩気の強い肉を喰らい、また命の水を飲む。良い感じだ。体が火照り、傷が癒えてゆくのを感じる。
少し休んで立ち上がる。仲間を捜さないと。今度はヴィザリオ師の銃を肩に担ぎ、私は周囲を見回した。しかしどこへいけばいいのだろう。あいにくというか私には地理感というものがない。ほとんど寺院から出たことがないのだから当たり前だ。ボロジノフや村人が殺されたあの森に戻るのは絶対に駄目だ。ではどこへ。考えて頭が真っ白になる。
孤独。
喪失。
そして若干の開放感。
一人になるのはいつ以来だろう?
ぼんやりと思った。
『だから、お前も、一人で生きろ』
誰かの声がする。頭からかき消す。仲間を仲間を捜さないと。ザイチェフ師とユージンを探さないと。初雪が降りしきる冬の荒野。けれどもどこへ向かうべきか。
……。
まだ体力が足りない。傷も癒えてない。置き去りにしてきたクリエムヒルトの馬車へと向かおう。そう思い、森を迂回し私は馬車があったはずの方へゆっくり歩を進めていった。
……迷った。
完全に迷ってしまった。
今自分がどこにいるのかすらわからない。たしか馬車の方へ向かっていたはずだが……。迂回が大きすぎただろうか。きっとそのせいなのではないだろうか。若干鈍った頭でそう結論づける。
どこまで行っても同じような光景。世界ってこんなに広かったんだ。白くなり始めた大地を歩みながらそう思う。
何か手がかりになるようなものは。何もない。狼を呼ぶか。なんとなくまだ呼びたくない。もう少し一人でさまよいたい気分だった。
何故?
自らへの罰?
それとも不遜な開放感?
歩を進めながら考える。けれども考えても考えて答えは出ず。
合流するなら急がないとという焦燥感だけが膨らんでゆく。
しかたない。雪交じりの風に吹かれながら、私は少しの無念さを押し殺して狼をまた呼んだ。
「狼? いる?」
「ずっと見ていましたよ」
どこからともなく現れる声と姿。
「伝えてくれた?」
「おそらくは」
「それで知りたいのだけれど。私の仲間はどこにいるのかしら」
「仲間というとどちらですか」
「え?」
「あなたは半魔人です。仲間というのは人間、魔人、どちらのことですか?」
そんなこと考えたこともなかった。けれどその問いは胸に強く突き刺さって。一瞬世界が崩れるような気がした。
「……もちろんヴィザリオ師とユージンのことよ。二人はどこにいる?」
私は気持ちを持ち直して言う。
「……いえ、わかりません」
「あなたにもわからないことがあるのね」
「もちろんですよ、リューシカ」
さも当然のことのように狼は言った。
「では馬車のある場所はどこ? そこで装備を調えたいの」
「でしたら、だいぶ道を外れています」
狼の言葉に私は呟くように言う。
「……そうなんだ」
「あの丘を越えれば貴方たちが辿ってきた道が見えますよ」
「ありがとう」
「そこから一人で引き返しても良いのですよ」
「ううん。まず合流する。向こうも私達を捜していると思うから」
「それは信頼ですか?」
「わからない。……直感かな?」
私は答えた。
「そうですか。では気をつけて」
「何度もありがとう」
「いいえ、気をつけて」
そう言うと狼は去っていった。あの丘の向こう、か。私は気合いを入れ直すとまた少し命の水を飲み、歩き始める。
丘を越えると確かに道が見えた。そうして轍も。私達の馬車のものだった。とすればそれを辿ってゆけば、馬車のあるところへ行けるはず。急がなくては。全てが雪に覆われつつある。甘美な時間は終わったのだ。私は轍を辿り、目的の馬車まで歩いて行く。
馬車の所まで行くのはかなり時間がかかった。だいぶ道に迷っていたらしい。
そこにはもはや人間は誰もいなかった。雪にうたれた馬車に繋がれた馬達がぼんやりとたたずみ小さくいななき、寂しげに身を寄せ合っていた。私は馬車に繋がれた馬を解放する。行く当てがあるかどうかわからないが、ここで息絶えてゆくよりましだろうと思って。殺しても血肉にしても良かったが、そんな気にはなれなかった。それより自分たちの馬車に乗り込み、十分な食料と命の水。替えの武器、服そして真冬用のコートを取り出した。ヴィザリオ師の荷物も開け散弾銃の弾も補充する。この銃がまだ使えるかはわからないがきっと助けになるだろう。手早く着替え、喰らい、コートを羽織る。予備の鉈はあまり手になじまないが、気にしている余裕は無い。準備は出来た。
あと欲しいものは……。
わたしはハドロフ司教の死体のあるところへ向かった。ハドロフ司教はあのときのまま時間が止まったかのように、真っ二つになって地面に倒れている。ヴィザリオ師も体中をバラバラにされ地面に転がっていた。私は失礼だとは思いつつハドロフ司教の死体をまさぐる。そうして見つけた。小さな鍵。それは私の右手を戒めを解く鍵。そっと胸のポケットにしまい込む。いまはまだ必要ではない。いつか必要になるかも知れない。
立ち上がる。もう日は落ちていた。今日はここで過ごすのも悪くないだろう。ぼんやりと思い、馬車へと戻った。道具を持ちだし、二人を埋める。雪で地面が固くなる前に。
しばらく作業していると背後から声を掛けられた。
「何してるんだ」
「二人を埋めているんです」
振り返りもせずに答える。
「そうか、すまない」
「ヴィザリオ師、あなたは?」
手を休め、私は尋ねる。
「ちょっと酒が欲しくなってな……。それだけさ」
「酔ってますね」
「酔わなきゃやってられるかよ」
「……」
呟く声に弱さが混じっていた。私は言うべきか少しためらったが、いまや一行のリーダーは彼だ。少しの沈黙の後、私はヴィザリオ師に言う。
「……なんだよ」
「ボロジノフが死にました」
「そうかい」
気のない返事が返ってきた。次に私は尋ねる。
「ユージンはどこにいるか知っていますか?」
「ああ、俺と一緒だ」
「そうですか、とりあえずこれで生き残ったの人達は全て揃いましたね」
私は確認するように言った。
「……ああ。半分になっちまったな」
「そうですね」
「それでそのユージンはどこに?」
「あの森で寝てる」
そういってヴィザリオ師は近くの森を指さす。
「今日のことで走り回されて疲れていたものな、無理もない」
何があったかわからないが向こうも向こうで大変だったらしい。けれども私はザイチェフ師に向かって尋ねる。
「貴方が留守中に襲われたらどうするつもりですか」
「……ん、ああ、どうでもいいさ」
「よくありません。今や貴重な戦力です」
少し怒ったのだろう。実際怒ったのだ。私はザイチェフ師に言う。
「新兵を鍛えるのも上司の役目か。……まったく」
参ったとでも言うように頭をかくヴィザリオ師。小さく吐き捨てるように言う。
「生き残れるかもわからねえと言うのに」
「そうですね」
その言葉には私も同意した。その冷静さが彼を傷つけたらしい。ザイチェフ師は言葉に怒りを込める。
「なんでお前は落ち着いていられるんだ!」
「その酒。本当はハドロフ司教達に捧げに来たんじゃないんですか」
問いには答えず、私は手に持った酒を見てそう指摘する。
「ふん……。飲んじまうさ」
「お好きに」
「ああ、そうさせてもらうわ」
急に抱き寄せられた。あまりに急なことだったので私は道具を落としてしまう。耳元でザイチェフ師が呟く。
「お前は……冷たいな」
「半魔人ですから」
私は答えた。
「そうか、そうだったな」
「どうかしたのですか」
「なんでもないさ。気の迷いさ」
「怖くでもなったのですか」
わたしは聞く。
「まあな」
素直な答えが返ってきた。
「私を赤ん坊のころから知っているくせに」
「そうだな」
「私の母とも出会ってますね」
「ああ」
「そして銃で撃って殺しましたね」
「そうだったな。恨んでいるか?」
「……いいえ」
わずかに声が震えるのを自分でも感じる。こういうのには自分も弱いようだ。初めて知る。初めて知ることばかりだ。
「ふん……」
「ユージンの所に戻りますか」
「ああ」
「私もついて言っていいですか?」
「何でそんなことを聞く」
「いえ、なんとなく」
「あたりまえだろ」
「そうですか。安心しました」
「変な奴だ」
「生まれたときから、変ですよ」
私は少し気が楽になって言う。
「ああ、そうだったな」
ようやく体を離しザイチェフ師は言う。
「彼等を埋め終えたら、行きましょう」
私も僅かに呼吸を落ち着かせ、言う。
「言われなくても」
そうして私達は無言で作業を終えた後、ユージンが眠る森に向かって歩みだす。ザイチェフ師は体をわずかにふらつかせながら。私はその後を静かに追っていった。なんとなく、らしくないなと自分に言い聞かせながら。