長い序章-記憶の中の出来事
廃墟になった街の出口で男は私に振り返り、そして言った。
「なんだ、ついていきたいのか? 俺なんかと一緒に行きたいのか?」
ふるふる。私は小さく首を横に振る。股が裂けるようにじんじんと熱い。
「じゃあ、なんだ。お前にもう用はない」
ふるふる。首を振っていると頭にまで痛みが響く。いや、本当は立っていたくないくらい体の調子が悪い。けれども、男が行ってしまうから必死になってついてきた。どうしてか、私には理解できないままに。
「じゃあ、何か? 俺に言いたいことでもあるのか?」
……。ぼんやりと、男の顔を見上げる。
「……」
けれども、何も言えなかった。舌が麻痺したように喉の奥から出てこない。
「殺すぞ」
男は言った。ふるふる。首を横に振る。私の内臓は、逆巻く海のようだった。
「……」
そうして、男はもう、何も言わなかった。小さく舌打ちをすると、私に背を向けて歩きだす。
私はそんな後ろ姿をただじっと見つめていた。男は行ってしまう。男は行ってしまう。動くもののない街に、たった一人。知っている人間を皆殺しにされた上に、あんなことをされた上に、この男は私を見捨てて行ってしまう。声が、心の奥底から吹き上がる。
「……ひとりは、いや」
それだけ、言う。その声に男は歩みを止めた。振り返り、不思議そうにこちらを見る。ずっと気になっていた鈍く尖った緑の瞳。その目がわずかに、細くなる。
「――人は、生まれたときから、ずっと一人だ」
吐き捨てるように言う男の言葉は、私には理解できなかった。
「でもっ」
声を張らした言葉は、遮られる。
「だから、お前も、一人で生きろ」
ふるふる。その言葉は受け入れがたくてひたすらに首を横に振る。
「わからないか?」
男はわずかにいらついたようだ。足早に私に近づき、手袋をはめたままの手を私の顔の上にかざす。
――――。
殺される。そう思った。わき出た恐怖は反射的に体を硬くする。
けれども男のその手は私の頭を潰すことなく、ゆっくりと下へ降りていった。
「いずれ、お前にもわかる」
その途中、男は指で私の頬をかするように触れた。手袋に付着していた固まることを忘れている鮮血が、私の頬に赤い線を引く。
「……」
私はそれを無言で受けた。確かに触れたはずなのに、男の指の感触は全く感じることはできない。
「それまでお前が、生きていられたらな」
赤い痕跡を私の頬に残し、男は静かに私から離れた。ゆっくりと背中を向ける。
そしてそれが別れだった。男はもう振り返らず真直線に、私の前から歩み去ってゆく。一面の銀世界の中、どこか肩を怒らせて去ってゆくその後ろ姿は彼が言うとおり、ほんとうにたった一人、世界でたった一人であるように見えた。
「……」
そうして、そのときだけ、彼は憎しみとか怒りとかを超越したところにいた。
男は背を向けたまま歩き続け、その姿は白い世界に解けてゆくように消えてゆく。
私はずっとそれを見送っていた。見えなくなるまで。気配が完全に消えるまで。
やがて、世界は、無音になった。
私は、あのときからずっと濁ったままの空を見上げる。
どうすれば?
息を吐き出しながら口にし、そう思う。白く濁った息は塊のままどこまでもどこまでも高く昇っていった。
しばらくして、私は足りない頭で理解した。
つまり、単純に、ただ単純に。自分は見捨てられたのだ。
私から全てを奪っていった男からも、いままで私が住んでいた世界からも――等しく、かつ同様に。
私はあははと笑い出す。頬に鮮やかな血の痕をつけたまま。股から濁った血を引き垂らしながら。
あは、あはははは、あはははははははは。
ただただ、漠然と、漫然と、私は街と外との境界で、笑い続ける。吹きさらしの氷混じりの風が私の顔をなぶっていった。
それでも結局、街に戻るしかなかった。街は死体で満ちていたのは知っていたけれど、私は戻るしかなかった。街はしんと静まり返り、物音一つしない。
そうして死体。死体。たくさんの死体。
道に転がる死体は、まるで、壊れたおもちゃのようだった。凍った雪の上に血が赤いシロップのようにまき散らされていた。そうして不自然なくらい血にまみれた死体。細切れになった肉片。
「パウンドケーキ。野いちごのソースがかかった……」
私は人知れず呟いていた。
野苺のソースのかかった街ほどの、大きなケーキを食べる夢。昔、そんな夢を見たことがあったのを思い出す。血塗れの死体や細切れになった肉片は、潰しきれない野苺の果肉や種に見えた。
そして私が無邪気にそう思えたのは、寒さが匂いを凍らせていたから。
この街は、死の匂いからかけ離れていた。不思議なくらいに。
家の中を覗いてみてもそう思えた。しゅんしゅんとサモワールが湯気を立てていても、まだ部屋の中が暖炉の熱を残していても、そう見えた。
みんなみんな血塗れで肉片のくせにどこか眠っているみたいだった。
みんなみんな血塗れで肉片のくせにどこか幸せそうに見えた。
透明な膜の中を歩いているような気分だった。
住んでいた家へとたどり着いた。そこにも動くものはなかった。中も同じだった。同じように、死体があった。父と母。兄が二人と双子の姉。それから馬と犬二匹。みんな眠っているように血塗れで、幸せそうに肉片だった。
「……」
やっぱり、私は気が狂ってしまったのだろう。けれど、そんなことは夢にも思わない。ただひたすらに、家族達の幸せを追認するように、私は微笑かける。そうして、次に笑って、それから泣いて、最後に疲れてぼんやりとしゃがみこむ。
しゃがみこんで、私は何かを待っていた。
ただひたすらに、待ち続けていた。
拒否し続けた『本当』の死を?
それも良いかも知れない。
あの男は私に生きろと言った。
その言葉に逆らえば、胸がすっきりすることだろう。
きっと、すっきり、するだろう――。
……。
……。
「……」
死ねなかった。単純に言えば、そういうこと。
人は、何もしないでいても、そう簡単には死ねない。
少なくとも、ただ部屋の隅にうずくまって泣いているだけでは、死ねない。
私は思う。
死ねなければ、生きるしかない。
結局、あの男に従うのか。
あの男の言葉に従うのか。
仕方ないとは言え、どこか割り切れなさを覚える。
この街をこうしたあの男は『一人で生きろ』とそう言った。
一人で生きろ。言葉の意味すら分からない。この街には一人で生きている人間など、只の一人もいなかった。貧しくともみんな助け合って、生きていた。それは私が生まれる前からずっとそうだったと聞いている。
こんなところで人が一人になれば、どのみちすぐに死んでしまう。外には飢えた野の獣がいるし、この寒さでは外で夜を明かすことすらままならない。
――つまるところ。
あれは人間ではないんだ。
そう思った。
人間ではないから、一人でも生きてゆけるんだ。
なんだ、ばかばかしい。
私はあの男の言葉をまじめに考えていたことがひどく馬鹿馬鹿しく思えた。
私は人間だ。
だから、きっとこのまま死んでしまうんだろう。
外に出る。不思議と寒さは気にならなかった。
最後は獣の餌になろう。
それが死ぬのに一番楽な道であるように思えた。
私は町を後にする。
きっと二度と戻る――いや戻れることはないだろう。
「さようなら」
小さく呟いて、私はゆっくり歩き出した。
低く顔を見せ始めた陽光が、自分の向かう先を祝福しているように見えた。
街から出ると獣とはすぐ会えた。白い毛皮をまとった狼たち。森の影から私のことを覗っている。彼等は自分の優位を確信したように、森の影から出てゆっくり、そして静かに、私に近づいてくる。
「おいで」
私は優しく言った。精一杯、にこやかに微笑んで。恐らく群れの長であるだろうひときわ大きな狼に向かって両の手を伸ばす。ああ、これで終わるのだ。妙な感慨があった。意外と早いのが嬉しかった。狼たちは本当にゆっくり近づいてくる。どこか不思議そうに。戸惑っているのかもしれない。けれど、それはきっと私が逃げないせいだろう。狼たちは私を取り囲むように移動しながらその円を狭めることなく、一定の距離を保ちながら、私の様子をじっと観察している。私は少しじれったくなってきた。一歩狼に近づく。狼たちは一歩私を取り囲む円を広げる。その繰り返しをしばらく続けた。
そうしてどれだけ長い間私と狼たちは対峙していただろう。やがて、一際大きな狼は襲いかかることもなくやれやれといった感じで私に近づくと、差し出したままの私の手に鼻先を近づけてどこかいやいや臭いを嗅いだ。そうして一歩下がると大きな声で遠吠えをした。それに釣られて他の狼たちもまた同じように遠吠えをする。
“新たな魔人があらわれた”
“クリエムヒルトにつたえねば”
“いそぎ、いそぎ、つたえねば”
“クリエムヒルトにつたえねば”
“若い魔人はまだ弱い”
“クリエムヒルトにつたえねば”
何を言っているんだろう。この狼たちは。それよりなぜ私は狼たちのしゃべっている言葉を理解できたのだろうか。
なんと――なく?
まさかそんなわけ無い。聞き間違いでもない。
そうしてわかってしまったと言うことは、つまり――。わたしはその場に膝を付く。
――私は人ではなくなってしまったと言うことなの?――
私はその場に座り込むと頭を膝と膝の間に埋める。
何時一体どのときに。私は人ではなくなった?
あの男に捕まったときか汚されたときかそれとも初めからか。
そしてクリエムヒルトって誰だろう。
私にとって何故かひどく恐ろしげな名前のように思えた。
顔を上げると全力で走り去ってゆく白い狼たちが遙か遠く、風景に溶け込むように見える。彼等は本当に遠く遠く走り去ってゆく。こうしてわたしはまた一人取り残された。獣にすらも見捨てられた。私はゆっくり立ち上がると、とぼとぼと当てもなく歩き始める。当てがあるわけではなかった。ただ、どこかへ行きたくて。私は一人歩いて行った。
ザクリザクリと音を立てながら、凍った雪が固まった硬い硬い地面を歩く。視線を下に向け自分の運命を呪いながら。
「魔人って一体なんだろう」
私は歩きながら考える。あの男のようなものを魔人と言うのだろう。たった一人で私の住んでいた街の生きるものを動かなくすることのできる男。それはまさに魔人と言うに他ならない。
そうして狼たちは私のことも魔人と言った。
私にも同じことができる――出来てしまうのだろうか。ふと思い立ち、足を止め、顔を上げる。冬の太陽よりも高く。手を伸ばす。冬の太陽よりも高く。
そうして静かに私は開いていた手をぎゅっと閉じた。
――――。
……何も起こらない。
私は安堵した。男はこうやって手から赤い蛇のようなものを飛ばして私以外の生きているものをみんな切り刻んでいった。みんなみんな血まみれの肉片にしていった。……もしかしたら、何か呪文が必要なのかも知れない。けれどもそんなことは知らなくて良いことだった。いや、知りたくもない。……。
私が握った手を下ろしそれを見つめてほっとしていると、唐突に背中から熱いものを撃ち込まれた。熱いものはちょうど握った手に当たって突き刺さって止まる。あ、銃弾。と思った瞬間、続けて二発目。今度は頭を吹き飛ばされた。私は人形のように倒れ、どくどくと胴体と頭から血を流す。動けない。いや、動きたくない。そんな私に向かって近づいてくる足音があった。
「あぶなかった。もう少し近かったら、バラバラにされていた」
壮年の男の声だった。すぐ側まで来ると私の頭を踏みつける。そうして仰向けに倒れた私の体を足でひっくり返した。
「ふん、てっきり感づかれたと思ったが、そうではなかったようだな」
「あのそれってどういう……」
私が尋ねる途中で三発目がまた頭に撃ち込まれた。すごく痛い。泣きそうなくらいに。
「まだ動けるか、魔人」
……ここは静かにしていた方が良さそうだ。私は倒れたふりをして息を押し殺す。男は大きくため息をついた。四発目が飛んで来る。私はその痛みの恐怖に震え、男は僅かに口元を緩めた。
「……生きてるのはわかっているんだぞ」
私は沈黙した。体を動かさないように頑張った。それでも体は痛みの恐怖に震え肺は呼吸するのを止めない。……私は諦めて男に尋ねてみることにした。
「……それでは、質問してもいいですか」
「いいだろう。どうやらお前は本当にまだ何も知らないようだからな」
男は私から目を外さずに言った。その目を見ながら私は言う。
「……魔人っていったいなんなんですか」
「今のお前さんのような存在のことだよ。心臓を撃っても頭を吹き飛ばしても死なない、不死の魔物」
「では、私をこれからどうするつもりですか」
「封印する。どうやっても死なないからな」
「そんな!」
私は悲鳴を上げた。男がライフルを構え直す。私はそれがもたらす痛みを思い出し、全身の力を抜き、言った。
「……私は、死にたい」
そういったとき目から涙が零れた。いや、血や脳漿と混じっていたから、本当に涙かどうかわからないけれど。
「お前は死ねない」
銃を構えるのを止めた男は言った。それは冷酷な宣告。
そして言い終わると男は背中のサックを下ろしそこから片刃のノコギリを取り出した。所々錆が浮いていて、あまり手入れされていないことがわかる。私はおそるおそる尋ねてみる。
「……。それで、どうするつもりですか」
「お前の両腕を切断する」
「やめてください!」
男の無慈悲な言葉に私は必死になって叫んだ。
「さっきのようなことをされても困るのでな」
「さっきのようなこと?」
「手を空に上げて握ったろ? あれは赤蛇の魔術。その周りの生きているもの全てを殺す魔人の魔術だ」
「あれが……」
「幸いさっきは周りに生きているものがいないせいで発動しなかったようだがな」
そう、なのか。私は自分で納得した。
「なんだ。試さないのか?」
「試す、理由がありません」
「俺が憎くないのか? それを使えば俺を殺せるかも知れないぞ?」
「人を……殺すなんて考えたこともありません」
「そうか」
男はノコギリを置くと代わりにロープを出して私の両の手を手早く、かつかなりきつく縛った。
「これなら手を上げられないだろ。切断する代わりだ」
「ごめんなさい」
「謝るようなことじゃない。違うか?」
「……そうですね」
「それじゃあそこでじっとしてろ。寝ててもいいぞ」
「眠れる……わけがありません」
私は反論するように言った。
「そうか、そんなに痛いか。まあ今のお前は血まみれだものなぁ」
その言葉で思い出した。血まみれの街。血まみれの道。わたしは声を出す。
「はい。あの、街が……」
「街がどうした」
「魔人に皆殺しにされて……」
「やったのはお前か」
私は必死で首を横に振る。
「そうか」
「あの、そうかって……」
「じゃあ俺には関係ない話さ」
男は紙巻き煙草に火を付けると言った。
「そんな、ひどい……」
「ひどくない。あの魔人は俺には倒せない」
「知って、いるのですか」
「……」
男は何も答えなかった。やがて静かな声で私に言う。
「……もうすぐ迎えが来る。それまで寝てろ」
その言葉の通りに眠気か、はたまた想像を絶する痛みのせいか、私はじきに意識を失った。
――――。
次に目を覚ましたとき、天蓋付きの四頭引きの馬雪車うまぞりが隣に止まっていた。
体の痛みも不思議と引いている。ただやっぱり撃たれたところは穴が空いていて、縛られた箇所がじんじんと痛い。
「お目覚めか」
声をかけたのはやっぱり私を狙撃した男で、この現実が夢ではないことを改めて思い出させる。
「どうだ、痛みだけは、引いただろ」
「はい……」
ぼんやりと答える。そしてちょっと不満げに男に言う。
「縛られたところが痛いです」
「切断した方が良かったか?」
「……」
男の言葉に私は不服そうに黙り込む。男はそれを見てにやりと笑った。そうして雪車そりの中に向かって呼びかける。
「司祭、起きましたぜ」
「はいよ」
その言葉と共に出てきたのは暖かそうな毛皮を全身にまとった中年の男。やれやれといった感じでのろのろと雪車そりから降りてくる。
「すっかり体が冷えてしまったわい」
私よりずっと暖かそうな格好なのにその中年の男は心底寒そうに言った。この男がきっと司祭なのだろう。全然俗っぽくてそれらしくは見えなかったけれど。
「で、これか」
「へえ」
中年の司祭が言い、私を撃った男が答える。
「上玉だな。まあ顔があまり残ってないが」
「コイツで二発ほど打ち貫きましたから」
肩に下げたライフルをのベルトを叩いて自慢げに男。
「かわいそうにのう。幼いのに」
逆に哀れげに司祭。
そうだ。私はかわいそうなのだ。そう思ったとき、泣きたくなった。魔人に人ではない体にされて、家族と街のみんなを皆殺しにされて、男に撃たれて、これがかわいそうでなくてなんなのか。私は小さく鼻をすすった。鼻があったのかわからないけれど、中年の男は優しげに声をかけてくる。
「どこか痛むところはないか?」
「手が痺れて……」
この人ならばと私は言ってみる。
「……残念じゃがそればっかりは我慢して貰うしかないの」
けれども返事はやっぱり同じだった。私はさらに尋ねる。
「あの、本当に、私は魔人なんですか」
「見ればわかるじゃろ。ライフルで頭と背中を撃たれたのに、ずいぶんと元気なものじゃないか」
「……」
たしかにそうだ。普通の人間なら撃たれた時点で死んでいる。やはりそうなのか。私は大きくため息をついた。
「傷もじきに癒えよう。ここが何もない凍土でなければ、もうすでに直っているやもしれんな」
「それってどういう……」
「魔人は周りの生命力を奪って、力となす。つまり今お前がしゃべれているのも血が止まっているのも俺達や馬の生命力を少しずつ奪っているからだ」
私を狙撃した男が、口を挟む。わたしは司祭様と話していたので少し機嫌が悪くなった。
「あなただけの命を奪って差し上げましょうか」
「そんな器用なことが出来るかな」
「やってみなければ、わからない」
「やっぱり細切れにしたほうが良かったかな」
男は本気のようだ。前に見せた片刃のノコギリを取り出す。仲裁したのはやっぱり司祭様だった。
「まあまあ。そういう目に遭えば、恨むのも無理はあるまいて」
「まあ、そうでしょうね」
男は手に持ったノコギリを下に向けてため息をつく。その様子がどこかおかしかったので私は少し満足した。
「それじゃあ、、出発しようか」
「どこへ……いくの」
「おまえさんの故郷。いや故郷だったところ、かな」
「どうして……」
私は尋ねる。
「いけば、わかるさ」
けれどもそういって司祭様はにっこりと微笑んだ。そういうと片手を上げて御者に合図する。今まで気がつかなかった、黒い服を着た御者が私を雪車そりの中に入れた。司祭様も入ってくる。
「俺は外ですか」
私を狙撃した男が不満そうに言った。当然のように司祭様が答える。
「あたりまえじゃ」
「へいへい」
そんなやりとりもどこかおかしくて、私は久しぶりに人のぬくもりに触れた気がした。そうして男に対して優越感すら覚えた。雪車そりは私達四人を乗せるとゆっくりと進み始める。私の故郷に向かって。……私はそれがどんな意味を持つかまだ何も知らなかった。
雪車そりは進む。わずかに揺れる天蓋とランプの光の中、私はぼんやりと考えていた。
何故こうなったのだろう。
何故こんなことになってしまったのだろう。
何故私は今こうしているんだろう。
何が悪かったのだろう。
どこが悪かったのだろう。
「少女よ。聞いておるかね」
「は、はい」
ぼんやりしていると司祭様に話しかけられた。私はわずかに――今の体で出来る範囲で――姿勢を正す。
「お前さんの住んでいた街に着く前に詳細をいくらか聞いておきたいのだが、かまわんかね?」
「……はい」
「それでは、お前さんの名前からまず聞こうか」
「……リューシカ……」
私はようやく自分の名前を言う。
「そうかそうか。わしはハドロフじゃ。覚えておいてくれても構わんぞ」
「他の人の名前は……?」
「そりゃそれぞれに聞くがええ」
ハドロフ司祭――司祭様はにっこりと微笑む。
「で、何があった」
「魔人が突然街に現れて……」
「違うな」
「どうして……」
私が疑問を口にすると司祭様は重々しい口調で答えた。
「お前さんが生きておるからじゃよ。その前があるはずじゃ、その前をわしは聞きたい」
その前……。私は必死で考える。けれどもわからなかった。わたしは正直に司祭様に答える。
「わかりません……」
「いいや、きっとあるはずじゃ。どんな小さなことでも良い。思い出してくれんか」
司祭様は頑なだった。私は再び考える。
そうして一つ思いついたことがある。街を滅ぼした時に魔人が私に言った言葉。
『みんなお前のおかげだ。感謝する』
あれはどういう意味だったんだろう。視界を閉ざす。視界の奥で一つ思いついたものがあった。壊れた人形。この前の村祭りに旅芸人の集団が持ち込んだ、干涸らびて壊れた人形。
「ひからびて、こわれたにんぎょう……」
呟く。司祭様は身を乗り出した。
「その人形は血を与えると動くとか言ういわれでもなかったかね?」
そう、そう、そうだ。そんな見世物。いわれどころか、あの人形は実際に動いた。旅芸人一座が血を与えて、実際に動かして見せた。醜悪で、哀れな動き。縛られて動けないのに、もっともっとと求める動き。奇怪で、奇妙。他の人達はその動きを見て笑っていたけれど、私は正直胸が痛んだ。だから――。だから――。
「かわいそうだから、かわいそうだから、真夜中に、天幕に忍び込んでばらばらの両手を繋げて、両足を繋げて……心臓にささった杭はどうしても抜けなくて、抜くときに勢いで干涸らびた体が私に覆い被さった……」
「その時に出血しなかったかね」
私の言葉に司祭様は早口で言った。
「しました……ほんのちょっぴりですけど」
司祭様は頭を額に乗せた。そうして苦い声で言う。
「それが原因じゃよ。お前さんの優しさが徒になったな」
「でもそのときはその人形は動かなかったんですよ……」
私はその時のことを思い出しながら言う。
「動かないふりでもしていたんじゃろ。それくらいの智恵はある。それより朝起きて騒ぎにならなかったかね?」
「いいえ……。叱られることもありませんでした」
「ますます悪賢い奴じゃ」
憮然としたように司祭様は言った。
「おそらくソイツはお前さんが来なかったかのように自分の体を偽装しておいたのだろう。肝心な封印は外したままで、な。そして街を離れたところで旅芸人達にまず襲いかかり、そして街まで舞い戻ってきたのだろう。おそらく自分を笑いものにした人間達を皆殺しにするために」
「……」
司祭様の推論に私は押し黙ってしまった。いや、打ちのめされていた。それなら、私のせいか。しかし司祭様はなにやら考え込んでいるようだった。長い沈黙。やがて司祭様は口を開いた。
「……。それなら旅芸人の足取りを掴めばソイツの行き先もわかるやもしれん」
司祭様が言うとほぼ同時に雪車そりが止まる。そして同時に聞き慣れない声が聞こえた。あのライフル銃の男の声では無いからきっと黒い御者の声だろう。私はこの男の言葉を初めて聞いた。
「着きましたぜ」
まさか別れを告げたばかりの街に帰ってくるとは思ってみなかった。それもこんなに早く。街はまだ静かだった。出て行ったときとまるで変らない。私は雪車そりに乗ったときのように、相変わらず腕を縛られたまま黒い御者の男に抱きかかえられて、街へと降り立った。誰も何も言わなかった。この街が終わっていることは誰もが知っているようで、こんな血まみれの光景は誰もが見慣れているようだった。
「さて、お前さんの家はどこかね」
司祭様が言った。私は自分の家や家族の死体を見せるのを少しためらった。けれども、結局は正直に答えてしまう。
「あの大通りの先の革細工の裁縫店……です」
「そうかそうか。それじゃあ行こうか」
そういってライフル銃の男を促す。男もそれは理解したようで、肩からライフルを下ろして構えると、先行して進み出す。後には司祭様、そうして私を抱えた黒い御者。三人、いや私を含めると四人はゆっくりゆっくり雪の地面を進む。
「獣の気配はするかい?」
「いいや、まだ感づかれてないようですよ」
司祭様の問いにライフル銃の男が答える。黒い御者はきょろきょろと辺りを見回している。もしかしたら怖いのかも知れない。
道中特に何事もなく、私の家までたどり着く。
「ここかい」
「……はい」
改めてみると凄惨な光景で、私はこんなところにいたことが恐ろしくなってしまう。
ライフル銃を構えた男が慎重に扉を開けた。入り口には真っ二つに裂かれた父の体があった。見慣れた灰色の目がカッと見開いてこちらをじっと睨んでいる。少し大きな奥の鏡の前には二人の姉の死体。同じよう二つに切り裂かれて四つ、――いや鏡に映っている分を含めると八つになって絡み合い、血まみれで倒れている。
「ひどいもんじゃの」
中の様子を見てぼつりと司祭様が言う。私はその言葉に少し救われたような気がした。
「憎くないかね」
「……」
だから次の質問には答えられなかった。ただ心の奥で黒い衝動がどくんと跳ね上がるのを感じた。
「家族を、街の人間をこんなにされて、憎くないかね」
同じような質問。同じような黒い衝動。さっきよりも強い。
「憎い……というより……つらい……です」
私は湧き上がる黒い衝動を抑えながら言った。
「そうじゃものなぁ。これもみんなお前さんの軽率な行動が招いたことじゃからのぅ」
「え?」
司祭様の唐突な言葉に私は聞き間違いではないかをそんな声を出す。
「そりゃつらかろうて。これはみんなお前さんがやったことと同じじゃ。変わりがない。家族も街も皆滅ぼして。一人だけ『つらい』で済ませるとはずいぶんと人の命を安く見られたものじゃのう」
くくくっと笑いながら司祭様。まるでさっきまでと様子が違う。わたしはがくがくと体を震わした。そんな私を黒の御者はがっちり掴んで離さない。
「あの……なにを言いたいのですか?」
「頭の悪い小娘じゃのう。つまりぃ、お前さんは死ぬべき存在なんじゃよ」
「で、でも魔人は死なないって」
「死なないわけ無かろう。そうでなければこの世は魔人だらけになってしまうじゃろ?」
「で、では、どうやって殺すのですか」
「お前とつながりのあるもの――類縁の血を使うのさ」
司祭の代わりに私を狙撃した男がそう言った。その手にはもうライフルを持っておらず、血まみれのノコギリを手に持っている。その血の出先は……。私の父。新たな傷が刻まれている。私は怒りに頬を染めた。縛られた手を離そうともがく。けれど御者の力は強くて
「安心しろ、首を切断するだけだ」
そんなことをいう血まみれのノコギリを持ったの男。
「だいたいお前は死にたかったんじゃないのか」
「……」
そうか、私は死にたかったんだった。司祭様と話して、希望を少し持った自分が馬鹿らしく思える。うなだれて私は全ての抵抗を止めた。血まみれのノコギリが光る。私の体が床に押しつけられる。
そうして私の首はごりごりと時間をかけて切断された。私にできる抵抗は痛みを耐えることだけだった。
後のことはわからない。ただ黒い衝動は、私の中で強く強く生き続けていた。どこからくるのだろうか。どこから――。そんなことを思いながら私の意識はかき消されるように消えて無くなった。