異変
最初に異変に気がついたのはいつものように外で馬車を操っていたザイチェフ師だった。
「おい、村の方で煙が上がっているぞ」
馬車の中に声をかけるザイチェフ師。
「村って、ザリコフツカヤのことか?」
ザイチェフ師の言葉に馬車の中のユージンが機敏に反応する。
「ん……たぶんな。あれは総員退避ののろし……か?」
「なんだって!」
立ち上がり馬車の幌から顔を出そうとするユージン。それをザイチェフ師の横に並んで座っていたヴィザリオ師が言葉で制止する。
「待て、人の声がする」
「……どんな?」
私が小さな声で尋ねる。
「静かに……。こっちに近づいてくるようだ」
ヴィザリオ師のその言葉にザイチェフ師の言葉が重なる。
「ああ、見えてきた。あれは……村人だな。たぶん、ザリコフツカヤの」
その言葉に私は立ち上がりハドロフ司教に言った。
「私は降ります。何かありそうな予感がします。よろしいですか?」
「それは魔人の直感か?」
私の言葉にユージンが言う。
「違います。でも近づいてくるのが本当に村人であるか確認する必要があると考えます」
「それってどういう……」
「ああ、そうしてくれ」
ユージンの言葉を遮り、私の言葉にハドロフ司教は言った。
「わしも降ります。よろしいですかい」
続けてボロジノフも言う。
「じゃあオレも……」
ユージンの言葉をボロジノフが遮った。
「一人は司教の側に付いていた方が良い。おぬしはここに残れ」
「……」
不服そうにボロジノフを見るユージン。そんな二人の様子を見てハドロフ司教はため息をついて言った。
「わしも降りよう。それならいいじゃろう?」
「はい」
「……」
嬉しそうなユージンと困り顔の二人。もちろんユージンがそれに気がつくことはないのだろうけど。こうして私達は皆馬車を降りることになった。ハドロフ司教はザイチェフ師に言って馬車を止めさせる。その間にも村人達は数も増えこちらに向かって近づいて来ていた。二人の師匠も地面に降りて軽く身構える。そうして私達は村人と接触した。
「皆さん一体何が……」
近づいてきた人達に私が口を開く途中で彼等の悲痛な言葉が割り込んでくる。
「魔人が! 魔人が襲ってきたんだよぉ」
「いきなり村を襲って来て……着の身着のまま逃げてきたんだ」
「広場に血だまりが出来てた……魔人の仕業だ」
口々に言う村人達。魔人。……魔人。血がどくんと動くのを感じる。それはまさかドラコフという名前の魔人ではないだろうか。ドラコフ。口にしてはいけない名前。禁忌の魔人。そうして私の父。
「……どうした?」
少し呆けていたようだ。ザイチェフ師の言葉で我に返る。
「……奴か?」
ヴィザリオ師も気になっていたのだろう、村人に問う。村人達は顔を見合わしていたが、やがて一人が頷くと、他の村人達も同じように頷いた。
「そうか……」
慨嘆するように天を仰ぐヴィザリオ師。私も衝撃を受けていた。ついにドラコフ――父に出会えるのだ。ぎゅっと今戒められた右手に力を込め胸の動悸を押さえるためにわざとハドロフ司教に小さな声で軽口を言う。
「裏をかかれましたね」
「うむ……」
その言葉に渋い顔のハドロフ司教。
そして興奮するユージン。
「村が奴に襲われただって! だったら急いでいかないと!」
「落ち着け。訓練通りに動けば被害は最小限に食い止められているはずだ」
ユージンをなだめようとするザイチェフ師。しかしそれは逆効果だったようだ。
「でも、何人かは死んでるってことだろ!」
「それは……そうだが……」
「だったら今すぐ行かないと!」
今にも走り出しそうなユージンをハドロフ司教が止める。
「待て待て、慌てても良いことなんて何にも無い。こういうのは状況を見極めてからだな」
「オレ、一人ででも歩いてでも行きますよ」
振り返り決意高らかに言うユージンにハドロフ司教はしばらく考え込んでいたが、やがてため息をついて言った。
「……仕方ない。魔人がいるならわし等も行かないとな。それが奴ならなおさらじゃ。ザイチェフ。馬を進めてくれ。リューシカ達も一旦馬車に戻れ」
馬車の方に背を向けたハドロフ司教にザイチェフ師が声を掛ける。
「残念ながらそいつは無理なようですぜ」
「……ああ」
ヴィザリオ師も同意する。何が起きているのかと辺りを見回してみればこちらを目指してやってくる人、人、人や馬車の群れ。
「こりゃいったい……」
「この馬車は目立ちますからね。助けに来たとでも勘違いしているのでは?」
唖然とするハドロフ司教の言葉にヴィザリオ師が言う。
「これ以上この馬車では進めない。……じきに身動きが取れなくなる」
「いまのうちに逃げ出しますかい?」
「うーむ、逃げるところを村の人に見せるわけにはいかんじゃろうて」
ザイチェフ師の言葉にハドロフ司教。
「ではどうします? そろそろ接触しますぜ」
「魔人が来たときはおのおの散って逃げるように教えたはずなんじゃがな……」
ぼやくように呟くハドロフ司教。
「おーい、クリエムヒルトの狩人たちがここにいるぞー」
私達を見つけた人達が口々に叫ぶ。
「ま、待て。人を集めるな。襲われたときはバラバラに逃げるように教えたではないか!」
ハドロフ司教は集まりつつある村人達に言うがクリエムヒルトの馬車を見て安堵の表情を浮かべた村人達は聞き入れようとはしなかった。逆にこう尋ねられる。
「でもアンタ達、魔人と戦えるんだろ? そのために来たんだろ?」
「それはそうじゃが……」
「だったら今戦っておくれよ!」
ハドロフ司教の言葉に村人達の中から声が上がる。
「しかし、こっちにも準備ってものがじゃな……」
「ああまどろっこしいなぁ! まったくおーい集合の合図だ。早く上げてくれ! クリエムヒルトの連中が助けに来てくれたってなぁ!」
「あーい!」
誰かが叫びそれに呼応する声。そして上がる合図の花火と呆然とそれを見つめる私達。そんな中ユージンだけが楽しそうだった。ハドロフ司教に近づいて楽しそうに言う。
「腕を見せる良い機会じゃないですか」
「おぬしは何もわかっておらん」
憮然とした言葉を返すハドロフ司教。
合図を見たのか、それとも聞いたのか、森の影や丘の影から集まってくるさらに村の人達。それをみたハドロフ司教は私達に言う。
「今のうちに人が少ないところへ移動するぞ。これではまともに戦えん」
そして比較的人のいない方へとのっしのっしと歩を進める。慌てて私達も後を追った。だがその先にも人が現れる。ハドロフ司教は歩く向きをあちこち変えるがほとんどの村人は去年の逗留でハドロフ司教の顔をすでに知っているのか、クリエムヒルト寺院の旗印を掲げた馬車でもなく、合図の花火を上げた場所でもなく、ハドロフ司教そのものの姿を追いかける。ついには包み込まれるような形になって、私達はどこへも進めなくなった。
「えーい。離れんか。これでは何も出来ぬではないか!」
珍しく怒鳴るハドロフ司教。しかし人の安堵の声とざわめきは大きくその声もかき消される。ハドロフ司教は民衆に向かってあれこれと理を持って説得するがまるで効いた様子はなかった。
ついには顔を手で押さえるハドロフ司教。その一瞬の隙だった。死角から一体の影が私達の中に飛び込んできたのは。
「!」
それは身動きすら取れないあっという間の出来事だった。
両手に大きな鉈を持っていたその影はその武器を振り下ろし。
群衆の真ん中にいたハドロフ司教の体をバターを切り裂くように真っ二つにした。