プロローグ
「この冬は前衛基地を作りましょう」
ハドロフ司教が言った。私が地下牢から出てからほぼ一年経過したある秋の日の全体会合のことである。
「奴――ドラコフに対抗するにはこの寺院からでは遠すぎると常々思っていたのです」
「予算は?」
ハドロフ司教の発言にダヴィード司教が尋ねる。
「ドラコフが出没する近辺の村々の協力を得て確保します。彼等にとってドラコフは当に災厄。すぐ側に我らがいると知れば安心するでしょう」
「なるほど。その根回しは済ませているのですかな?」
「当然です。夏のうちに済ませておきました」
「さすがやり手ですな。して結果は」
「まあ上々と言ったところですかな」
「明細を」
二人のやりとりを聞いていたクリエムヒルト大僧正がハドロフ司教に言った。
「はい、ここに」
ハドロフ司教はクリエムヒルト大僧正の言葉に従い紙切れを何十枚か手渡す。恐らく一枚一枚に村々が出す金額や資材などが書かれているのだろう。大僧正はそれを確認していたが、やがてそれをハドロフ司教に返し、言った。
「わかりました。では認めましょう。今冬はドラコフ退治に的を絞った布陣を取ります」
「ありがとうございます、大僧正」
ということでその後討議を重ねた結果、ザリコフツカヤの村に前衛基地が作られることになった。しかし私にすることはない。片腕が不自由な私はこういった資材運搬については完全なお荷物だ。いつも通りの鍛錬のメニューを一人でして過ごす。ハドロフ司教はといえば資材運搬の指揮で、いつも側で監督してくれるザイチェフ師とヴィザリオ師はその補佐で忙殺されていた。
「なんでオレが計算なんてしなくちゃいけないんだ」
「黙ってくれ。……数を間違う」
二人の様子をこっそり見に行ったら、慣れない事務仕事に両者とも苦労しているようだった。私は一人寂しく訓練を続ける。私にはそれしかないから。それ以外何も教えられてないから。狙いを込めて弾を撃つ。……命中。誰も褒めてくれる人もない。叱ってくれる人もない。だんだん鍛錬がおざなりになって行くのを感じながら、この秋は過ぎていった。
そして冬の始まりの前。沢山の馬車がここクリエムヒルト寺院から出て行った。わたしはその車列をぼんやりと見送る。今回私は留守番なのだ。それは当然のことと言えたし、私にとっては残念なことでもあった。
『寺院に魔人の子がいるとはあまり村々の連中には知られたくはないのでな』
前衛隊の隊長でもあるハドロフ司教の言葉が軽く胸に刺さっている。所詮はドラコフに最後のとどめを刺すときに私の血が必要なわけであって、退治に絶対に必要なわけではないのだ。それまでは大人しく過ごす。それが私に課せられた役目。そしてその後は……。あまり考えたくない。
「まあソーニャがいればいいや……」
ぽつりと呟く。寂しさを紛らわすための物だったが、また事実でもあった。ザイチェフ師もヴィザリオ師も馬車に乗って行ってしまった今、寺院で私のよく知る人間はソーニャだけになってしまった。あのおじいさんは地下から出てこないし。そういえばあのおじいさん名前は何というのだろう。地下では名前を呼べなかったから『おじいさん』で通してきたが、名前ぐらいは知っておきたいと思う。
そんなことを思いながら私は馬車の列を見送った。別の魔人の危機がこの寺院に迫っていることなど露ほども知らずに。