目標はハンカチーフです
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春の舞踏会にむけて、準備は着実に進んでいた。
冬の間、エリアルはいつも父が治める領地で過ごす。リリスも母親に連れられて、何度も訪れてくれるので寂しいことはなかった。
「リリーーッス」
エリアルが訪れたリリスの胸に飛び込むようにしてそのまま腰を抱きしめ、抱き上げてクルクルまわすと、リリスは楽しそうな悲鳴を上げる。
「もう!エリアル、私たち、もうすぐ大人になるのよ、いつまでも駄目じゃない」
リリスを抱き上げたまま、お腹に擦り寄ると暴れ始めたので、仕方なく下ろすと、涙目で怒られてしまう。
だから止められない……。エリアルは少し乱れたリリスの髪を直しながらそう思った。
「もうっ」
膨らませた頬をつつくと、文句を言いながらも抱きしめてくれた。
「いらっしゃいませ、リリス。楽しみに待っていたのよ」
少しだけエリアルの背が高いが、それほど変わらない。抱きしめると目線が近い。
「お招きありがとう。あら、おば様は?」
二人がクルクル回っている間に母親たちはもう居間に移動していたようだ。
「いきましょう、リリスのためにリンゴのタルトを焼いたのよ」
リリスの大好きなリンゴのタルトをエリアルは朝から焼いていたのだ。
「エリアルは刺繍とかは全然しないのに、お料理は本当に素晴らしいわよね」
口にホロホロと溶けるタルトに舌鼓をうちながら、リリスは好物を美味しそうに食べている。
「そういえばエリアルが刺繍してるところは見たことないわね」
今更ながら、母親のファレルが首をかしげながらそういった。リリスの母親のクラリスはファレルとエリアルを交互に見ながら、疑問を口にする。
「ファレル、エリーに教えてないの?」
貴婦人の嗜みともいえる刺繍を教えていないなんてありえないことだ。
「エリー?」
ファレルがエリアルに聞くのにはわけがある。
ファレルはエリアルの教育には一切口を出していない。エリアルはいつも忙しそうに沢山の先生に勉強を教わっている。だから、その中にはもちろん刺繍などの嗜みも入っているものだと思っていたのだ。
「刺繍はやっておりません」
ファレルの顔に驚愕の文字が浮かぶ。
「でも繕い物は出来ますよ?」
「そんなものは侍女にでもやらせればいいのです。ちょっと待って、他にもなにかやってないものとかあるんじゃ・・・」
「いえ、他は大体はやってると思います。刺繍は時間がもったいないとお兄様が省いたのです」
ファレルの背中にオーラが立つ。普段は大人しいエリアルの母も怒ると怖い。
「なんですって。クレインに使いを!すぐ呼びなさい!」
母の勢いはとまらなかった。侍女にそう命じて、エリアルを見つめる。
「エリー、今まで、クレインを信じてあなたの教育を全て任せてきました。貴方は何を習っているの?」
考え込むエリアルは、どうもいってはいけないことを言ってしまったらしいと気づく。でも、何が良くて、何が駄目なのかよくわからない。
「ダンスと行儀作法・・・最近はリュートを習っています」
フムフムと母は頷く。
「国の歴史や経済も少しだけわかるようになってきました。おとついは弓でウサギを狩って、捌いてシチューにしました。ウサギは鹿のように大きくないので、簡単なんです。捌き方も上手だって褒められましたよ?野外で火をおこすのは結構難しいんですけど、なれたものです」
母の顔色が青から白に変わって、そのままソファにもたれるように倒れてしまったのには驚いた。
「お母様??」
エリアルの呼び声にも答えられないようで、意識がなかった。
「ファレル、ファレル」
クラリスの悲鳴が居間に響いた。
後は、父が母をベットまで運ぶまで、騒然としたのだった。
「どれがいけなかったのかしら?」
呆然とつぶやくエリアルの肩を抱きながら、リリスが言う。
「後半はほとんど駄目だったんじゃないかしら・・・」
がっくりと肩を落とすエリアルを慰めながら、道理でエリアルがいつも多忙なわけだと納得した。
貴族の子女は、たしなむものは色々あるけれど、それほど日常は忙しくない。社交的であればあるほどお茶会などで忙しいが、エリアルはあまり外に出る方ではない。それなのにリリスが遊びに行くことを一週間ほど前に伝えておかないと予定が入っていて会えないのだ。リリスが泊まりにいってる間も朝はゆっくりな食事の前にはいない。常にリリスにとっては難しそうな本を読んでいるし、暇さえあれば調理場で料理を手伝っている。普通の貴族の子女は調理場には顔を出さない。
クレインがエリアルに何を求めているのかリリスにはわからなかった。
「どうしたんだ、クレイン」
クレインが家からの呼び出しの書簡を受けて固まってるところに上司である軍務司令官が通りかかって声をかけた。
珍しいことだと上司ことアルフォードは眉をひそめる。
クレインが少し脂汗をかいて、固まっているなんて、なんて面白いんだと思う。しかし、それが軍務にかかわることだとしたら、とんでもないことだ。この男がこんなことになってるとしたら、かなりヤバイ。明日にはこのサラマイン王国が包囲されるかもしれない。
なんてね~と、一人で楽しんでいると、ギギギとクレインが動いた。
「すみません、私用で1週間ほどお休みがいただきたいのですが・・・」
クレインは申し訳なさそうにいう。
「どうしたんだ?」
「母が倒れたらしく、少し見舞いに行きたいのですが、何分領地のほうなので・・・」
抑揚のない声は、母親の心配のためかとアルフォードは納得する。
アルフォードにはもう両親はいないが、だからこそ大事にしてあげてほしいと思うので、
「かまわん。いって来い。日にちは気にせんでいい。親孝行してやれ」
と肩を叩きながら言ってやった。
クレインは、少し視線を下げてため息を吐いた。
「刺繍ってものは人生でそう大事なものなんでしょうかね・・・」
情けない声でアルフォードに尋ねる。
「刺繍ってお前が? お前には必要ないだろう。でもあれだな、刺繍入りのハンカチーフでももらったら嬉しいものだぞ」
恋愛相談だったのかとアルフォードは勝手に解釈して、そうクレインにアドバイスした。
アルフォードもこれが原因でエリアルに刺繍という名の勉強が増えるとは、思ってもいなかっただろう。
兄は二日で帰ってきた。馬をかなり急がせたようだった。
「もう、お兄様、マリエルが疲れてるわ」
兄を連れ帰った馬はマリエルという牝馬だ。賢く体力があり、鹿毛が美しい。お尻のプリプリさが自慢のクレインの相棒だ。
「マリエル、後で手入れしてやるから少しまっててくれ」
顔色が悪いのは疲れではないだろう。
「お兄様、マリエルは私が手入れしとくわ」
一緒に帰ってきた従者に任せても良かったが、久しぶりにあったマリエルを触りたかったので、エリアルはクレインの許可をもとめた。
「わかった。よろしく頼む」
「マリエル~、さあ、休憩しようね。身体洗ってあげるわ」
というと、エリアルについてくる。
エリアルは動物に好かれる性質だなとクレインは思う。
マリエルは賢い馬だからこそ、触る人間を選ぶ。自分の気に入らない人間は蹴り上げるのだ。最初からエリアルには懐いていた。
こんな風にあの巨大な獣もきっとエリアルのことが好きになるだろうと、クレインは考えている。
「この年になっても、母親に叱られるのは怖いものだな」
少し遅くなった歩調に従者のジンシルが尋ねるように視線をよこすので、本音が出てしまった。
「クレイン様は怒られることなんてありませんからね」
何故ならわからないようにするからだ。
苦笑しながら、クレインは屋敷へ入る。やはりその足取りは重かった。
兄はたくさんのお土産を主に母に持って帰ってきた。
王都で有名なお菓子が並ぶ。
「まあ、クレインはお菓子でファレルを懐柔できたのね」
ファレルの機嫌はこの二日にくらべれば増しになっていた。ご機嫌と言うわけではないけれど。
「おば様申し訳ありません」
この二日間のファレルの荒れようは酷かったという。それをなだめていたのが、クラリスだったのだ。
エリアルは自分のことながら、自分に何ができるわけでもないことを知っていたので、リリスと舞踏会のドレスについて話したり、森でリンゴをとったりしながら楽しんでいた。
「エリー、君へのお土産だ」
エリアルに美しい箱を差し出した。三段の引き出しになってる箱には色とりどりの糸が入っていた。その糸のしなやかさ美しさはエリアルでもわかった。
「まあ、美しい刺繍糸ね」
「あら本当ね。こんなに沢山あれば、大丈夫よ。エリアル、すぐ上手になるわ」
ファレルの目はやはり据わっていた。エリアルは、恨めしげにクレインをみつめ、諦めたようにため息をついて同意した。
「そうですね」
リリスがぽんぽんと肩を叩いてくれたのだけが救いだった。
舞踏会からはじめたほうがよかったのかしら。なかなか前にすすめません><。