白の結界
空気が震動するような音だけが、微かに響くトンネルの中。
暖色のマフラーを巻いたノゾミは、だいたい僕の三歩ほど後ろを歩いていた。
もう結構な道程を、この普段通りの間隔を保って進んだように思う。
だけどそれは別に、僕ら二人が昔ながらの様式美を大切にしている、という訳じゃない。
ただ、それが僕たちにとって一番心地良い距離感だったというだけの話だ。
いつも隣に寄り添いあうというのは、どうもお互い性に合わないらしかった。
ナトリウムを燃やした光が、辺り一面を淡い橙に染めていた。
ひび割れたアスファルトから、一年中目にする雑草がぽつぽつと顔を出している。
きっとそれらにも各々名前があるんだろうが、知らない以上は雑草でしかなかった。
それよりも、アスファルトの亀裂から足の裏へと伝わる感触が、今は少しだけ不快に感じた。
短いトンネルを抜けて、すっかり凍りついた空の下に出る。
とっくに肌の感覚はマヒしてしまっているが、今日は朝から相当に冷え込んでいた。
テレビのニュースを付けた途端、今年一番だなんだとやたらに騒ぎ立てていて嫌になったものだが、窓を開けてみればなるほど、吐く息の白さはいつにもまして存在感のあるものだった。
それは、今も相変わらずで。
凍った地面を踏みつける歩調に同期するように漏れる呼吸からは、薄めた白い水彩絵の具をでたらめに塗ったような印象を受ける。
あるいはそれを一滴水に落としたみたいに、生まれた色は広がったそばから溶けていく。
くすんだ灰色のジャンパーを着ているせいもあって、俯きがちの僕にその様はよけい鮮明に見えた。
一度立ち止まって、ノゾミの方を振り返る。
眼前の銀世界の中で、マフラーのオレンジ色と絹のような髪の艶っぽい黒さばかりが異様に際立って見えた。
同時に、彼女との間に必要以上の距離を感じてしまい、無意識のうちに引き返して数歩距離をつめる。
二人の足は同時に止まって、そして、動くものは何もなくなる。
吐き出される息の白さと対照的に、雪の白さは決して動くことのない、無地のキャンバスのような無垢で静かな白だった。
白いキャンバスに白い絵の具をぶちまけても、違いは一目で分かるように。
震える歯と歯をぶつけて食いしばると、少し鉄臭い味がした。
***
ねぇ、行ってみたいところがあるんだ。
唐突にノゾミがそう言いだしたのは、僕が丁度うるさいテレビの電源を消し、二度寝でもしてしまおうかと考えていた時だった。
二人でいるには若干手狭なアパートの一室、ほとんど万年床の布団の上。
既に日はだいぶ高くのぼり、朝と昼の中間あたりに差しかかったころ。
今日は休日ではなかった。
まっとうな人間なら、とうに活動を始めている時間帯だった。
大学は、有り体に言えばさぼった。
それも二人して、だ。
だけど少しも珍しい事ではないし、いつしかチクリと刺す罪悪感も消え去っていた。
正常なら、自然とどちらかがもう一方の抑止力となるものなのだろうが。
他人のことは知らないが、双方怠惰な二人組となれば歯止めが効かないから、どうにもタチが悪い。
例えるなら、僕たちのように。
互いの相乗効果で下へ下へと、どんどん螺旋を描くように落ちていって――
ある時を境にぷつりと、全てがどうでもよく思えてしまうのだ。
言うなればそれは、修復不可能な僕らの欠損で。
同時にどこか、鎮静剤代わりにもなっていた。
ちょうど眠気を伴いはじめていた僕は彼女に言葉を返すのも億劫で、身をよじって拒否の意を示そうとする。
当然のことだ、あまりの寒さに嫌気が差して大学を休んだというのに、それじゃあな。
一瞬そう考えて、すぐに自分の中から撤回した。
いや、あんな場所に行くくらいなら、たとえ吹雪にあって凍えようがいくらかマシだ。
あんなにも空気が淀み、息が詰まって、騒々しくて、有象無象の人間がいやになるほど蠢く場所に行くくらいなら。
それは、あの場所に限ったことじゃない。
吐き気を催す程に、頭が痛くなるほどに、この街はもう、そんなものばかりで。
もう随分と長い間、僕の奥底のほうで渦巻いている何かがあった。
この世界には誰一人僕の味方なんて、いない――ただ、彼女だけをのぞいては。
きっとそれは、ノゾミも同じ気持ちのはずだった。
すでに僕たちは半分、いや、きっと七割方くらい。
世間一般でいうところの「ヒキコモリ」状態になってしまっていたのだろう。
***
幅の広さの割にはあまりに車通りの少ない道を、ひたすら歩き続ける。
端からみれば辛うじて二人連れだとわかる程度に、曖昧な距離を保ったままで。
ノゾミが行きたいと伝えた場所は、一応僕にも覚えがある場所だった。
だからこそ、僕がこうして彼女に先導して歩くことができるのだけど。
降り続く雪はしんしんと。
ひどく音のない世界では、そんな音まで聞こえてくるように錯覚してしまう。
人間の脳や感覚器官なんて、時折適当な働きをするもんだ。
「少し、霧が出てきたな」
吐く息の白さがいつの間にか目立たなくなっていたことに気付いて、ノゾミの方を振り返らずに言った。
反応は返ってこない。
「もうすぐ着くよ」
「……わかってる」
ようやく聞こえたノゾミの声は、微かな震えをはらんでいた。
何となくだけれど、それは寒さのせいだけじゃないように思えて。
「…………」
足を止めないまま振り返る。
うつむいた彼女の表情は、どこか何かに怯えているような。
あるいは、何か思いつめているような、そんな印象を受けるものだった。
それでも僕には依然として、彼女の考えていることが理解できていなかったのだけど。
***
ああ、本当に下らない高校生活だった、と。
結局、最後の最後になって口に出してしまったのだった。
三年もの時間を捨ててしまったようなものだと認めてしまう行為に思えて、それだけは口にしまいと決めていたのに。
でも、きっと致し方ないことなのだ。
人生で一番輝かしい時になるはずのそれは、靄がかかった灰色にさえぎられて、ちっとも眩しく思えなかった。
僕の「青い春」というやつは、どうもカビかなにかの青さだったらしい。
このまま順当にいけば、きっと臨終の間際にだって似たような皮肉交じりの文句を吐くことになるのだろう。
これっぽっちも満たされることのない人生だったとか、そんな感じに。
辟易としつつ古ぼけたクリーム色の校舎に背を向けたところで、傍らのノゾミに思いっきり引っぱたかれた。
程よく鬼気迫った、重さの乗ったビンタだった。
『へぇ、それは私が一緒に居たってこともひっくるめて、下らなかったと言いたいわけね』
まさか、こいつからそんな小恥ずかしい台詞を聞くことになるとは。
まだ痛む頬をさすりながら、返答に困って足元の小石を蹴りとばした。
僕とノゾミの慣れ初めは、ひとまずここでは割愛する。
大まかに言えば、一見平凡な男女の邂逅のようで、でもそれが僕ら二人だったゆえに、少しだけ普通から外れてしまった――そんな感じだったな。
***
本来ならそれなりの景色を見ることができるその場所は、今はすっかり濃くなった霧に覆い隠されてしまっていた。
わずか数歩先を確かめるのも怪しいほどの、濃霧。
それはある意味結界のようで、まるで世界から隔離されてしまったような錯覚をした。
濁りきった風景を前にして、しばしの間僕たちは何も言わずに立ち尽くしていた。
やがて先に口を開いたのは、僕からだった。
「折角来たけど、こうも霧が濃くちゃな。骨折り損だ」
半分独り言のような口調で言う。
僕は疑いもしていなかったのだ。
ノゾミがここに来たいと言い出したのは、この場所から望める景色を見たかった、ただそれだけなのだと。
自分の、とんだ勘違いを。
「……いや、そうかな」
彼女の声に、先刻のような震えはもう感じられなかった。
→route B
「むしろ好都合、かな。だってさ、何も見えないんだよ? だからさ」
言葉を途中で打ち切り、彼女はゆっくりと眼の前の柵へと歩み寄る。
膝ほどまでの高さしかない、低い木の柵だった。
柵の向こう側は切り立った崖になっているのだが、今はその様子を窺うことはできない。
その柵に彼女は両腕を乗せ、片足をかけて上体を持ち上げる。
さっと血の気が引いていく感覚に、一瞬全身が震えた。
「なんにも怯えないで、済むじゃない」
続いた言葉は、もう聞こえてはいなかった。
考えるよりも早く、身体は弾かれるように動いていた。
すでに重心を預けかけていたノゾミの背中に飛びついて、目一杯引き戻す。
勢い余って、二人そろって地面の上に投げ出された。
しばらくの間、僕は動くこともできずにいた。
血が引いて蒼白になった顔面に、一気に血が集まっていく。
鼻の奥がひどく熱くなって、少し涙が出そうになった。
たっぷりと時間を空けてから、彼女がおもむろに身体を起こす。
いまだ動けないでいる僕に、つとめて明るい調子で言う。
「やだな、もう。なに早とちりしてるのさ」
何も言葉にできず、なにひとつ飲み込めないまま、僕は困ったように笑う彼女を見あげた。
「私が言いたかったのはさ、ただね、なーんか世界に私たちしかいないみたいだなー、って」
それ、だけ。
それだけ、だったんだよ。
途切れたその言葉の続きは、言葉にならない嗚咽にかわる。
声を殺したまま泣きじゃくる彼女を、僕はただ呆けた顔で見ているしていることしかできなかった。
→route A
「私はさ、案外こういうの嫌いじゃないかも」
そう続けると、彼女は目の前を横切る柵へと近づき両手をかけた。
彼女に促されるまま、僕もその後に続く。
二人並んで、白く凍りついた木の柵に腰掛けた。
そんな行動を僕が訝しんでいると、彼女の左手が僕の右手を包み込むように握ってきた。
不意な温かさに、つい動揺を隠せなくなってしまう。
思えばいつからだっただろう、手を繋ぐということをしなくなったのは。
これまでずっと寄り添って生きてきて――だからこそ、麻痺しきってしまっていた部分も、きっと少なくはなかったのだろう。
今となっては、互いが互いの味方であることに慣れ過ぎて、いつしか相手を認識する事さえ危うくなっていた事実を、否定できない。
このひどく寒い日に起こしたささやかな行動をきっかけに、ノゾミという存在が確かな暖かさを伴って戻ってきたかのように感じて、僕は心の底から安堵した。
本当に、いつから忘れてしまっていたのだろうか?
――ねえ。
このまま一緒に死んじゃえばさ。
「ずーっと二人きりでいられる世界に、いけるのかな」
あまりに唐突で、穏やかすぎた。
思考は心地良い安堵に弛緩しきってもいた。
だからなのだろうか――ノゾミのその言葉に、僕はすぐに反応することができなくて。
繋いだ手はお互い冷えきってしまったせいか、最早暖かさも冷たさも感じなくなっていた。
耳を疑うことはしなかった。
むしろ、共感のような感情さえ湧き上がってくる始末だった。
彼女の考えていることは依然として、僕にはわからない。
僕はただ、自分自身に対して戦慄を覚えて、背中を震わせるばかりだった。
「……だってさ、最後の最後までこんな、こんなのって……あんまりだよ」
違う。
「最初はさ、本当に、純粋に君とここに来てみたいって、そう思って……それなのにこんな、お誂え向きな状況を作ってやったから、さっさと死んで楽になっちまえ、みたいなさ」
震えてるのは、僕の背中だけじゃない。
「それが望んだことなんだろ、って、押し付けられてるみたいな気分で、もう……自分でも、何がしたいのか、分かんなくなって」
繋いだままの彼女の左手が、震えている。
垂れ下がった右手が、両脚が、小刻みに震えている。
「怖いに、決まってるじゃん……そんなの見えなくたってどうしたって、平気なわけないよ……!」
抑えきれなくなった涙があふれて、ノゾミの紅潮した頬を伝っていく。
すぐ隣の彼女を、僕はこれ以上見ていられなくなって。
「もう、いいんだよ」
「……え?」
そして、彼女の手を引いた。
分厚い雪の絨毯に、僕とノゾミは背中から無防備に倒れ込んだ。
身体は思いのほか深く沈み込んで、視界は雪で閉ざされてしまった。
一拍おいてからようよう起き上がると、ちょうど同じタイミングで身体を起こした彼女と目が合った。
しばしの間、見つめて。
僕からノゾミの髪に残った雪をはらうと、彼女はすこし照れたように目を伏せた。
自然と漏れ出した笑い声は、どちらからともなく。
***
あれほど濃かった霧は嘘のように、みるみるうちに晴れていった。
いつもの街より遥か高い場所から、白く染まったいつもの街を見下ろして。
二人並んで、手を繋いだままで。
ノゾミは泣いていた。
もう隠すこともせず、子供みたいに大きな声で。
ぽろぽろ落ちた無数の滴が、雪にいくつもの小さな穴を空けていった。
僕はノゾミの頭を胸元に抱き寄せると、長い髪を、数度だけそっと撫でる。
いつしか雲は割れ、自身を阻む壁をなくした光が一斉にこぼれ落ちていく。
その垣間に見える空には、すでに淡く朱が交じりはじめていた。
お久しぶりです。
センターまで2か月切りました。どうしよう。