ハルメクです。
いや、やはり挨拶からするべきでしょうか。
どうも、ハルメクです。
小説やら何やらを書かせてもらっています。あまり人気はありませんが。
誇張でも装いでもなく、僕は弱い人間です。弱くて弱くて、そこにつけ込まれる始末です。
こういうエッセイじみたものを書くと、いろいろ批判されてしまいますが、許してください。私小説やエッセイを書いている専業作家の方々もいることですし。
弱い人間。
この弱い人間とは何でしょうか。
いろいろありますが、【腕力がない】、【意気地がない】、【能力がない】【自信がない】、【健康でない】、【精神力がない】などなどのことを世間では総称して『弱い』と言われます。
『弱』ければ汚い辛い騒がしい厳しい社会で生きていくことは難しい、とやはり人々は考えています。
それはそうなのでしょう。
汚い辛い騒がしい厳しい社会では『弱い』者は所謂『強い』者に負けて仕舞うからです。
この構図から昨今問題とされている『負け組』と『勝ち組』という言葉が浮かびます。高学歴の人とそうでない人。成功者と落伍者。
しかし、僕が提示してきた『強い』者が高学歴の人、成功者であるかというと必ずしもそうではありません。同様に『弱い』人が学歴のない人、落伍者であるかというと、そうでもないのです。
仮想社会。
学校を例にとってみましょう。
僕は現在、高校三年生です。憧れの作家の出身大学にサイコロを振って偶数の数が出るぐらいの確率で合格しました。その大学も所謂難関大学であり、高学歴には違いがありません。ちょっと不遜極まりないですが、でも、許してください。自分ではそれ程思い上がっていませんから。
話を戻します。
僕の高校では、難関大学に合格することは極めて珍しいのです。
進学校ではないので、就職か専門学校か指定校推薦やAO入試で名の知られていない大学に行くことが常です。
始めに記した精神的弱さ、身体的弱さを持った生徒は仮想社会という学校内では『負け組』という名を冠することになります。・・・外見の美醜なども関わってきますが。
この『負け組』たちは精神的に強い、身体的に強い人たちへの隷属化を強要されたりします。たぶんこれは極一部の学校だけかもしれません。
しかし僕の学校ではそういうことが≪日常≫としてあります。
『弱い』者と『強い』者の関係。
僕は大学に合格しました。では、僕は『弱い』者でしょうか? 社会的に『弱い』者でしょうか?
仮想社会、学校で就職や専門学校という進路を選ぶ生徒に『負け組』と見なされるほど『弱い』人間でしょうか?
ここで二つの価値が交差します。
仮想社会内では『弱い』人間だが、社会内では『強い』人間である僕。
仮想社会内では『強い』人間だが、社会内では『弱い』人間の生徒。
『生徒』は混乱するでしょう。
仮想社会での『弱』い者が実際には本物の社会では一般的に見て『強』い人間だからです。
この価値の転換、または内在的位置との相違は『生徒』に影響を与えます。
『生徒』はまず、この社会的『強』さを取り込む、または破壊することを主体として行動します。
つまり自分の社会的『弱』さを『僕』の隷属化、または『僕』の社会的『強』さである『学歴』を『頭の良さ』に変換し、それをまた『頭の良いやつは何でもできる』に変換して『僕』が苦手とする分野で『僕』を上回ろうとするのです。
また、『いじめ』によって、仮想社会で虐げ続けて優越がもたらす甘美に浸るということもあります。
結論として、この生徒たちは、自分より『弱い』者を創り出して安心や優越を感じたいまたは支配欲を満たしたいのです。
じゃあ弱い弱いと一方的に定義された僕はどうすれば良いでしょうか。この腕力の無い僕が意固地の無い僕が。
それは、生き様を見せつけてやれば良いのです。僕の生き様を。
どんな試練にも耐え、そして大学に行き、学ぶことやその他の活動をし、自分の生き様を確立するのです。
それが、僕の唯一の抵抗であり、武器になるものである、と考えます。
それは強い生徒が持つことのできない生き様なのですから。