空の城
少し前に夢で見た内容を書いたもの。
今はもう夢の内容も覚えていないけれど、メモに残った箇条書きを手がかりに書いたもの。
祖父ちゃんはよく言っていた。
「空には、誰かがいる」
僕が五つか六つの頃だ。焚き火の煙が夜空に昇っていくのを、祖父ちゃんは顎をあげて見送っていた。
「誰だよ、じいちゃん」
「さぁな、俺も知らねぇ。俺の爺さんも、その爺さんも、みんなそう言った。星じゃねえ、月でもねえ、もっとでかい何かが、ずっとこっちを見てるんだと」
祖父ちゃんはそのまま目を閉じて、たばこに似た草の葉を噛みながら、ゆっくり息を吐いた。
「見られてると思うとな、少しだけ、まっとうに生きようかって気になる」
僕は笑った。そんなの気のせいだろ、と言って。
でも今になって思う。あれは、当たっていた。
ただ、祖父ちゃんが想像していたよりもずっと、ずっと昔から、そいつは、そこにいた。
そして、こちらを見ていたのは、思っていたよりずっと、人に近い、誰かだった。
一 流れ者
僕の名前はイル。姓はない。
歳は十六、だと思う。正確に数えている人間は僕のまわりにいないし、僕自身もどうでもいいと思っている。人間の歳なんてものは、骨の丈夫さと、腹の減り具合と、目の奥のくたびれ方で測れば大体合っているからだ。
僕は流浪人だ。街にも村にも属さない。夏は北へ、冬は南へ、途中で気の合う奴を見つけたら組む。喧嘩になったら分かれる。そういう生き方をしている。
この世界には、魔法がある。
といっても、そんな大層なものじゃない。火打石をこすらなくても指先で小さな火花が出せるとか、雨の日に雫だけを避けて歩けるとか、その程度の、生活を少しだけ楽にする程度の、ささやかな力だ。誰でも使えるわけじゃない。使える奴でも、一日に二回か三回が精々だ。
昔は、もっと凄いものがあったらしい。
鉄の塊が空を飛び、遠くの声が手のひらで聞こえ、夜でも街が眩しかった、と昔の本に書かれている。
本当かどうかは知らない。僕らの時代には、鍛冶屋の作る包丁と、畑を耕す水牛と、指先の小さな火花しかない。
けれど、空には、誰かがいる。
その夜、僕は三人の仲間と火を囲んでいた。
一人はカノ。僕と同い年くらいの女で、短い黒髪を後ろで縛っている。弓がうまい。喋るときに、なぜか一語ずつ区切る癖がある。感情が昂ぶると、区切りが細かくなる。だから、彼女が落ち着いているのか怒っているのか、僕らは喋り方のリズムで判断する。
「イル。今日の野営、どうする。見張りの順番」
「お前が最初でいい。次、俺。最後、ゼン」
「了解」
もう一人はゼン。大柄の、髭面の、年上の男。たぶん三十は越えている。鍛冶屋の倅だったらしいが、家を焼かれて流れてきた。力は強いが、優しい。剣は腰に差しているが、僕は彼が人を斬ったところを見たことがない。獣を狩るときも、必要以上に痛めつけない。とどめを刺すとき、必ず、首筋に、短く、一度。それだけだ。
「お前ら、若いうちに働くな。ゆっくり寝てろ」
「ゼンが寝ろよ。お前一番動いただろ」
「いや、俺はもう、こういう生き方が染みついてる。眠ったら逆に背中が痛い」
残る一人は、タータという名前の、小さな獣だ。狐より小さく、猫より大きい。喋らないが、匂いで物を探すのが異様に上手い。正確には仲間というより、カノの連れだ。出会った経緯を、カノは一度だけ話してくれたことがある。雪の中で、凍えて震えていたのを拾ったらしい。そのとき、タータの母親は、すぐそばで死んでいたらしい。
その話を聞いてから、僕はタータに、時々、自分の干し肉を分けるようになった。
僕らは、ある古い話を追っていた。
東の森の奥に、「地面に空いた扉」があるという噂だ。何百年も前からある、けれど誰も中を見たことがない扉。近づいた人間は戻ってこないとも、戻ってきたけれど正気を失っていたとも、まちまちのことを言う。
普通の人間なら近づかない。
けれど、僕らはそういう話をわざわざ探しにいく人種だった。
「なんで俺ら、こんなとこ来てんだっけ」
ゼンが、焚き火に新しい枝を足しながら笑った。
「イルが、どうしても見たいって、言ったから」
「それだけ?」
「それだけ」
カノが、真面目な顔で頷いた。
僕は、乾いたパンに干し肉を挟んで噛みながら、夜空を見上げた。
星が、いつもより多く見える夜だった。
「僕はさ」
喋りだしたのは、自分でも意外だった。
「この世界の仕組みが、知りたいんだよ」
「仕組み?」
「なんで魔法があるのか。なんで昔はもっと凄いものがあったのか。なんでそれが消えたのか。なんで空に、誰かがいるのか」
ゼンが、うーん、と唸った。
「そういうのはな、賢い人間が、本を読んで考えることじゃねえか」
「僕は賢くないけど、見たいんだ。本じゃなくて、実物を」
「実物って、お前」
「空に、誰がいるのか。見てみたいだろ」
ゼンは、鼻で笑った。
「いいねえ。若いな」
カノが、ぱちん、と指先で小さな火花を散らした。彼女の魔法だ。闇に一瞬、火の粉の線が描かれて、消える。
「じゃあ、見よう」
それだけ、言った。
短い、けれど、どこまでも一緒に行くつもりだという意志のこもった声だった。
そのとき、僕は知らなかった。
その扉の向こうにいたのが、祖父ちゃんの言っていた「空にいる誰か」だったことを。
そして、その誰かが、僕よりほんの少しだけ背の低い、一人の少女の形をして、九十万年もの間、誰かを待っていたことを。
二 地面に空いた扉
森の奥の、窪地の底だった。
苔と、倒木と、骨になった鹿の角。どれも何十年も誰も触っていないのが一目でわかる、湿った匂いが立ち込める場所。
その真ん中に、それはあった。
扉、と呼んでいいのかわからない。
長方形の、金属でできた枠。高さは人の背丈より少し高いくらい。色は錆びて赤茶けているが、奥のほうは黒い。そこだけ、世界から切り取られたみたいに、影の密度が違った。
「……嫌な、匂いじゃない」
タータの鼻先が、枠の内側を指した。
普通、こういう場所には獣の糞や腐臭がつくものだ。けれど、そこには何もない。無臭だった。無臭、というのは、自然界ではかえって不自然だ。
「行く?」
僕が聞くと、カノは頷き、ゼンは肩をすくめた。
「行くために来たんだろ」
足を踏み入れた瞬間、視界が、ぐにゃり、と歪んだ。
それは、落ちる感覚に似ていた。けれど、下ではなかった。横、でもなかった。
強いて言うなら「別のどこか」に、ずれた。
気がつくと、僕らは金属の、長い廊下に立っていた。
壁は、銀色だった。継ぎ目のない、なめらかな銀色。天井からは、光が降っていた。けれど、光源はない。壁全体が、ぼうっと光っているのだ。
光の色は、朝の、日が昇る直前の、少し青みがかった白だった。
「……ゼン」
「ああ」
「これ、昔の、ものか」
「たぶんな。俺が見たどんな遺跡より、綺麗だ」
綺麗、というのが、正しい感想だった。九百年前の遺跡も、千年前の遺跡も、僕は見たことがある。どれも、崩れて、苔むして、かろうじて柱だった、かろうじて壁だった、という残骸だ。
けれど、ここは違った。
今、作られたばかりのような顔をしていた。
空気は、乾いていた。埃の匂いもしなかった。
ゼンが、手の甲で壁に触れた。
「……温かくも、冷たくもねえ」
「肌と、同じ温度、ってことか」
「たぶんな。不気味だ」
タータが、廊下の先を見て、低く唸った。
けれど、その唸りには、怒りも、恐れも、なかった。むしろ、静かに、挨拶をしているような、そんな響きだった。
僕らは、そちらに進んだ。
廊下の突き当たりに、丸い部屋があった。扉は、僕らが近づくと、音もなく、横にすべって、開いた。
部屋の真ん中には、何かの台座があり、その上に、水晶のような、けれどもっと硬そうな、澄んだ、大きな、球体が浮いていた。
浮いていた。
支えるものは、何もない。
球体は、僕らが入った瞬間、少しだけ、光った。
それから、何かが、動いた。
最初、僕は、それが何なのかわからなかった。
球体の表面が、流れ始めたのだ。
水のように、けれど水ではなく、光のように、けれど光でもなく、もっと滑らかで、もっと意思のある何かの膜が、球体の外側を、ぐるぐる、回り始めた。
膜は、次第に、下へ、下へ、と流れ落ちていって、台座の下に、溜まった。
そして、そこから、立ち上がり始めた。
まず、足の形が、できた。
次に、膝が、腰が、胴が、肩が、順番に、組み上がっていった。
腕が、両脇に、垂れた。
最後に、首が、そして、頭が、形になった。
そこに、立っていたのは、一人の少女だった。
——少女?
僕は、息を忘れた。
髪は、銀色というより、月の光で染めた白。長く、腰まで届いていて、けれど動かすたびに、一瞬、空気に溶けるような、半透明の瞬間があった。
肌は、血の気はないけれど、死人のようでもない。むしろ、硬い陶器を、内側から柔らかく光らせているような、不思議な白さ。頬のあたりに、ごく薄く、銀色の細い線が走っていた。
纏っているのは、簡素な、丈の長い、白と銀の服。布なのか膜なのか、見ただけではわからない。歩くたびに、裾が音もなく揺れた。
身長は、僕より少し低い。年の頃なら、十四か十五か。
けれど、そうじゃないのだと、一目でわかった。
目が、違った。
目を開けた瞬間に、わかった。
瞳は、銀色で、けれど奥のほうに、青みがあった。
水銀に、青空をそのまま映したような、そんな色だった。
その瞳が、じっと、僕を見た。
見た、というより、観測された、という感じだった。
何年も、何十年も、何百年も、それ以上、ずっと、この一瞬のために待っていました、とでも言うような、静かな視線だった。
ゼンが、剣の柄に手をかけた。カノが、弓に矢をつがえた。
僕は、動けなかった。
「…………観測対象の、接触を、確認」
声だった。
少し低めの、少女の声。
抑揚の薄い、平らな、けれど不思議と耳に残る声だった。
「…………警戒、不要。武装、無意味。当方、物理干渉、最小」
少女は、ゆっくり、首を傾けた。
こういう仕草は、長いこと人間を観察してきた結果、身につけたのかもしれない。
そして、ほんの少しだけ、言葉を柔らかくした。
「…………久しぶりだ」
その、「久しぶりだ」という一言だけ、なぜか、感情があった。
「何が」
気がつくと、僕は、そう聞いていた。
「人間と、話すのが」
少女は、少し沈黙してから、答えた。
「……八百、二十、七年、ぶりだ」
それから、彼女は、ほんの少しだけ、顎を引いた。
それが、どうやらお辞儀のつもりらしかった。
何千年かの時間をかけて、ようやく思い出した、あるいはようやく学びなおした、そういう挨拶だった。
三 契約
少女は、自分を「機械」と呼んだ。
名前はなかった。正確には、名前はあったが、もう発音できる人間がいない言語の長い符号だ、と言った。
「九十万年前、私は、空に、打ち上げられた」
その言葉を聞いたとき、僕は、息をするのを忘れた。
「観察、記録、改善。それが、私に与えられた命令だ」
「九十、万年?」
「そうだ」
「じゃあ、お前」
「当時の文明は、滅んだ。私が打ち上げられた、数年後の、戦争によって」
僕らは、何も言えなかった。
「それから、私は、ずっと、見ていた」
「……ずっと?」
「ずっとだ」
少女は、淡々と続けた。
「焼け野原が、森になるのを、見た。森に、獣が戻るのを、見た。獣を追って、人間が戻るのを、見た。人間が、集まって、群れを作り、群れを集落と呼び、集落が村になり、町になり、また戦争で全て消えるのを、見た」
それを、何度も繰り返してきたのだ、とは言わなかった。
言わなくても、わかった。
「命令は、今も、生きている。観察、記録、改善。私は、そのために、ここにいる」
「改善、って、なんだよ」
ゼンが、絞り出すように言った。
「かつては、人間の生活を豊かにする技術を、こっそり落とす、という意味だった。文字、車輪、歯車、蒸気。けれど、私は、それを、やめた」
「なぜ」
「人間は、便利な道具を手にすると、最も効率よく、人間を殺した」
誰も、反論できなかった。
「今、人間が手にしている『魔法』は、私が落としたものではない。私が観察している、この世界が、自然に育てたものだ。だから、便利ではない。けれど、殺しには、向いていない」
少女は、少し間をおいた。
「私は、それを、よしとしている」
カノが、弓を下ろした。
ゼンも、柄から手を離した。
僕だけが、前に出た。
「機械」
「なんだ」
「お前、その姿、なんなんだ」
彼女は、ほんの少し、自分の手のひらを開いてみせた。
「端末、だ」
「端末?」
「本体は、別にある。この体は、本体から切り離された、小さな出張所だ。本体の指令を受けて動く。本体の見たもの、聞いたものを、ここで再現できる」
「本体って、どこに」
「空の、高いところ」
彼女は、天井を指さした。
その指先は、細くて、白くて、なめらかで、けれどやはり、血の気はまるで通っていなかった。
「じゃあ、本物は、空の上にいるんだな」
「そうとも言えるし、ここにもいる、とも言える」
「なんで、人の形をしてるんだ」
少女は、少しだけ戸惑ったように、視線を落とした。
これは、意外だった。沈黙は、機械にしかできない時間の使い方だと思っていたのだが、戸惑うのは、機械にはできないはずだ。
「……九十万年前、私の設計者たちは、私にこの姿を与えた」
「設計者?」
「私を作った人たち」
「なんで、少女の姿にしたんだよ」
「……わからない。推測はいくつもある。けれど、直接の理由は記録されていない」
少女は、ほんの少しだけ、唇を動かした。
笑った、のかもしれなかった。
「時々、思う。設計者たちは、最後に、自分たちを観察してくれる相手を、少しだけ可愛い姿にしたかったのかもしれないと」
僕は、何も言えなかった。
言葉の端々が、こちらの心臓に触れてくる。
機械というのは、九十万年も人間を見ていれば、こんなにも人間らしく話せるようになるものらしい。
あるいは、最初からそういう風に作られていたのかもしれなかった。
「機械」
「なんだ」
「お前、寂しくないのか」
一瞬、部屋の光が揺らいだ気がした。
「……その概念は、私の登録辞書にない」
「ある言葉で言い直してくれ」
「………」
「じゃあ、こっちから聞く。お前、楽しいって、知ってるか」
少女は、答えなかった。
長い沈黙のあと、彼女は言った。
「取引を、提案する」
「聞こう」
「私の観察能力は、高い。しかし、高空からの視覚と、熱と、音と、電磁波の観測のみだ。人間の機微、感情、味覚、触覚、それらを、私は、知らない」
「知らないのか」
「記録はある。けれど、『記録を持つ』ことと、『知る』ことは別だ。私は、それを最近学んだ」
「何が、最近、なんだよ」
「八百年前からだ」
僕は、笑いそうになった。泣きそうにもなった。
「で、取引は」
「お前は、知識を欲している」
「うん」
「私は、お前と、お前の仲間に、同行させてほしい。私の端末は、地上でも問題なく活動できる。食事も、睡眠も、要らない。荷物も、少ない」
「……同行って」
「旅についていく、ということだ。私は、お前を通してではなく、私自身のこの体で、この世界を体験したい。代わりに、私が九十万年で集めた知識の一部を、お前に教える」
「一部」
「全部は、お前の脳では入らない」
「……たしかに」
カノが、ぷっ、と吹き出した。
ゼンも、肩を揺らして笑った。
少女は、きょとん、とした。
この世界で一番長く生きているはずの機械が、一番、世間慣れしていなかった。
それが、僕らには、妙におかしかった。
けれど、彼女はおそらく初めて「笑われている」という体験をしたはずで、それが彼女にとってどんな感触だったのかは、わからなかった。
おそらく初めて、「人の輪にいる」という感触だったのだと思う。
契約は、簡単だった。
少女から伸びた細い光の糸が、僕の左手首に巻きついた。熱くも冷たくもなかった。ただ、一瞬、世界が鮮やかになった。
「……これは、ただの目印だ。契約のしるし。これを結ぶと、私は、お前の位置を常に把握できる。お前が離れても、迷っても、私は見つけられる」
「便利だな」
「その代わり、お前は、私を置いていかない、という約束だ」
「置いていかないさ」
「……そうか」
少女は、少し言葉を選んだ。
「もう一つ。お前に見えているものを、私にも見せてほしい。私は、この端末の目で見るだけでなく、お前の目を通しても見たい。二つの視点で同時に世界を確認したい」
「いいよ」
「軽く答えるな」
「え?」
「これは、お前のプライバシーの一部を譲り渡す、ということだ。二度と一人になれなくなる」
僕は、少し考えた。
それから、答えた。
「……僕は、最初から一人だったよ」
「……」
「仲間はいる。でも、夜、眠るときは一人だ。空を見上げる瞬間は一人だ。その一人の時間が二人になるなら、別に悪くない」
少女は、沈黙した。
長い沈黙だった。
それから、小さく頷いた。
光の糸がもう一本、僕の額に触れた。
温かいとも冷たいとも違う、何かだった。
そして、頭の中に声が聞こえた。
『聞こえるか』
それは、少女の声だった。口は動いていなかった。
「聞こえる」
「これから、私は二つの声で話す。一つは、この端末の口から」
『一つは、お前の頭の中から。使い分ける』
「了解」
『では、改めて』
少女は、口を開いた。
「よろしく」
そして、ほんの少し、頬を傾けた。
たぶん、それが彼女の最初の微笑みだった。
——いや、九十万年ぶりの微笑みだったのかもしれなかった。
僕は、空を見上げた。
金属の天井しか見えなかった。
けれど、そのずっと向こう、ずっと高いところに、この少女の本体が浮かんでいるはずだった。
「じゃあ、行こうか」
僕は、仲間に振り返った。
「この世界を、見に」
「一緒、だな」
と、少女が言った。
「一緒だ」
四 旅路
それから数年のことを、全部は書ききれない。
けれど、忘れられないいくつかの夜と朝と昼のことは、きちんと書いておこうと思う。
氷原の家族
最初に向かったのは、北の氷原だった。
海が凍り、太陽が地平線に沿って転がるだけの、白と青しかない土地。
少女は、最初の日、雪を見た。
それまでも、空から無数の雪を観察してきたはずだった。けれど、自分の掌の上に落ちてくるのは初めてだった。
「…………溶ける」
彼女は、掌の上で雪の結晶が水になっていくのを、長いこと見ていた。
僕が「冷たいだろ」と聞くと、「温度の認識はできる。けれど、『冷たい』という感情は、よくわからない」と答えた。
「じゃあ、教えてやるよ」
僕は雪をひと握り丸めて、彼女の首の後ろに入れた。
少女は、一瞬、動きを止めた。
それから、ゆっくりと僕を見た。
「……何をする」
「冷たい、を教えた」
「これは、罰か」
「友情だよ」
少女は、少し首を傾けた。
それから、静かに屈んで地面の雪を丸めて、いつの間にか僕の首の後ろに入れていた。
きゅううと背筋が縮んだ。
「…………なんでだよ!」
「友情、だ」
ゼンが吹き出して咳き込んだ。
カノが珍しく声を立てて笑った。
少女は、よくわからない、という顔をしていた。
でも、頬のあたりに、ほんの少しだけ銀色の模様が薄く光っていた。
照れたときの彼女の反応だと僕らが気づいたのは、もう少しあとのことだ。
氷の海で魚を釣って暮らしている小さな漁師の家族に、三ヶ月、世話になった。
父と母と、息子が三人、娘が二人の大家族だ。
一番下の娘は、まだ一歳になったばかりで、名前はニナといった。歩くのは上手だったが、喋るのはまだほとんどできなかった。
ニナは、少女のことが大好きだった。
初めて出会った日、ニナは少女の銀色の髪を、小さな指でぐしゃりと掴んだ。
少女は、動きを止めた。
ニナは、ぎゅう、と引っ張った。
少女は、動きを止めたままだった。
たぶん、九十万年の間、彼女の髪をそんな風に引っ張った人間はいなかったのだと思う。
「…………離れない」
「そりゃ、掴んでるからな」
「痛くはない。けれど、引っ張られている感覚はある」
「それが、人に触られるってことだよ」
少女は、ゆっくりニナの小さな手を自分の掌で包んだ。
ニナは、きゃっ、と笑った。
少女は、初めて、迷いのない笑い方をした。
僕は、その瞬間を、たぶん、一生忘れない。
その家で三ヶ月目の、ある夜、ニナの口の中から、小さな白いものが覗いた。
最初の歯だった。
母親が涙を流して喜んだ。
父親が酒を取り出した。
兄たちが歌を歌った。
僕は、ぼろぼろの椅子に座って、なぜか、一緒に泣いていた。
歯が生えた。それだけだった。それだけのことで、僕は泣いた。
少女は、僕の横で、じっと見ていた。
「……この涙は」
「知らねえ」
「悲しいのか」
「違う」
「悔しいのか」
「違う」
「じゃあ、なんだ」
「嬉しいんだよ。たぶん、嬉しいから泣いてるんだ」
少女は、長いこと何かを考えていた。
それから、ぽつりと言った。
「…………理解はまだできない。けれど、記録する」
「記録しろよ、しっかり」
「する」
彼女の頬の銀色の模様が、ほんの少し光っていた。
今度は照れではないように見えた。
砂漠の茶
南に下り、砂漠を越えた。
昼は肌が焼け、夜は骨まで凍る土地だ。
少女は、砂漠で服を着替えた。
白と銀の長い服から、薄い灰色の布に。
「……その服、どこから出した」
「端末の再構成機能だ」
「何それ」
「簡単に言えば、体の一部を、服の素材に変換できる」
「便利だな」
「便利ではない。再構成には時間とエネルギーがいる。本当はあまり使いたくない」
「でも、着替えたじゃん」
「……この暑さで長袖の正装は不合理だ」
「合理的に服を選ぶのか」
「そうだ」
けれど、夜になって、彼女はもう一度服を変えた。
今度は、最初の白と銀に戻した。
「夜は、寒い」
「へえ」
「……それに、これが着心地が一番良い気がする」
「合理的じゃないじゃん」
「………」
少女は、少しだけ顎を引いた。
それが拗ねた仕草だと気づくのには、もう少しかかった。
砂漠の小さなオアシスの村に、ひと月滞在した。
そこに、コハという名前の老婆がいた。
目はほとんど見えていなかった。背中は曲がり、手は皺だらけで、それでも指先だけは不思議としなやかだった。
彼女は、魔法を使えた。
水に指先を浸すだけで、その水を甘くする魔法。
それだけだった。
それだけの魔法で、彼女は五十年、村のお茶を淹れ続けてきた。
コハ婆の淹れる茶は、この世で一番美味しかった。
ある夜、コハ婆は少女に茶を差し出した。
「お嬢ちゃん、お飲み」
少女は、茶碗を両手で受け取った。
慎重な受け取り方だった。
彼女は、食事を必要としない。けれど、口に入れたものを分析することはできる、と言っていた。
彼女は、ゆっくり茶を口に含んだ。
一瞬、動きが止まった。
頬の銀の模様がふわっと光った。
今までで、一番強く光った。
「…………甘い」
「ああ、甘いよ。わしの魔法だからね」
「……ただ甘いだけではない」
「そうかい」
「……温かい」
「そりゃ、熱いお茶だから」
「違う。体の外側ではなく、内側が温かい」
コハ婆は、少し笑った。
目が見えないはずの彼女は、それでも少女の顔を正確に見ていた。
「お嬢ちゃん」
「なんだ」
「あんた、長生きだね」
「……」
「そんな顔、若い娘はしないよ。何十年生きたか知らんが、疲れた顔してる」
少女は、茶碗を見下ろした。
「……疲れた、という概念は」
「わかるよ。顔見りゃわかる。疲れた時はね、甘いもの飲むといい。それだけで少し元気になる」
コハ婆は、皺だらけの手でもう一度、少女の茶碗にお茶を注ぎ足した。
指先がお茶に浸った。
また、お茶が甘くなった。
少女は、それを飲んだ。
ゆっくり、飲んだ。
飲み終えたとき、僕は、彼女の目の端に小さな何かが光っているのを見た。
涙ではなかった。彼女の体は涙を分泌しない。
それは、端末の目のすぐ横に集まった、わずかな湿気のようなものだった。
けれど、機能としては、涙と同じものだったと思う。
大河と流浪人
東の大河を、船で下った。
川は、三月下ってもまだ海に届かなかった。
そのくらい、長い川だった。
両岸には花が咲き乱れ、鳥が種類ごとに違う歌を歌った。
少女は、船の舳先にいつも座っていた。
水面を見ていた。
たまに、水に手を入れた。
流れる水の感触を指で確かめるように。
「……前にも、この川は観察した」
「前って、いつだよ」
「四万年前」
「………」
「その頃は、この川はもっと東を流れていた。今は西に寄っている」
「川も、動くのか」
「動く。長い時間で見れば、川は蛇のようにくねって場所を変える」
「お前、そういうの全部見てきたんだな」
「見てきた。けれど今、ようやく、『ああ、これはあの川だ』と、わかった」
「わかる?」
「温度が違う。匂いが違う。水に触れた指の感触が違う。映像だけではわからないものがあった」
「そうか」
「お前のおかげだ」
「僕、何もしてないぞ」
「連れてきた」
少女は、そう言った。
水の音が、ざあざあと聞こえていた。
船の中ほどの岸辺に、二人の若い男女が立っていた。
手を振っていた。僕らの船にだ。
僕らは、船を岸に寄せた。
男はルドと名乗った。女はメイと名乗った。
新婚だと言った。
新しい土地を探していると言った。
今の故郷の村が土地争いで荒れていて、二人で逃げてきたと。
僕らは焚き火を分け合って、晩飯を食べ、酒を飲んだ。
メイは、カノとすぐに仲良くなった。
ルドは、ゼンと鍛冶の話で盛り上がった。
少女は、少し離れたところに座って、じっと見ていた。
僕は、彼女の横に行った。
「仲間に入らないのか」
「入り方がわからない」
「……そうか」
「彼らは、幸福だな」
「そうかな」
「幸福だ。間違いなく」
少女は、火を見ていた。
「私は今、彼らの会話を全て記録している。声の抑揚、視線の動き、笑い方、沈黙の長さ。全て」
「重たいな」
「重たくはない。データは軽い」
「そうじゃなくて」
「わかっている」
少女は、少し微笑んだ。
「記録するのは、失いたくないからだ。九十万年、私はそうやって失いたくないものを記録してきた」
「うん」
「けれど、記録しても、失うものは失う。彼らもいつか死ぬ。この夜もいつか終わる」
「……そうだな」
「だから、記録する」
翌朝、僕らは二人と別れた。
名前以外、お互いの素性は聞かなかった。
もう会うことはないとわかっていた。
船が川を下っていく。
岸の二人が手を振っていた。
少女も手を振った。
不器用な振り方だった。
九十万年ぶりの、誰かを見送る仕草だった。
雪崩の後
西の山脈に登った。
八千メートルを超える山の、その中腹の小さな村で、僕は雪崩に巻き込まれた。
その日は天気が良かった。雲も少なかった。
けれど、上の方の雪がずり落ちた。
僕は、気がついたら白い中にいた。
白くて、冷たくて、重くて、息ができなかった。
意識が遠くなった。
——いや、遠くならなかった。
頭の中で、少女の声がした。
『イル』
「…………」
『手を挙げろ。右手を真上に。少しでも雪の外に出せ』
「…………」
『左手は顔の前に。口の周りの雪を押しのけろ。息の空間を作れ』
「…………」
『やれ』
その声は、いつもより少し鋭かった。
僕は言われた通りにした。
重たい雪の下で、指先だけほんの少し動かした。
それで、どうにか息ができた。
『深く呼吸するな。浅く、ゆっくり吸え。吸った息は四秒止めてから吐け。酸素を節約しろ』
「……うん」
『仲間はすぐに来る』
「……見えるのか」
『見えている。カノはお前の左八メートル。ゼンは右六メートル。二人とも掘っている。タータが一番近い。三メートル。ここを掘れと指示した』
「……ありがとう」
『まだ礼は早い』
そう言いながら、声は少しだけ震えていた。
機械の声が震えるということが、僕には奇妙に嬉しかった。
どれくらい経ったかわからない。
タータが、僕の顔のすぐ近くの雪を掘り当てた。
小さな鼻が僕の頬をつついた。
続いて、ゼンの太い腕が僕を引っ張り上げた。
カノが毛布を僕の肩にかけた。
少女は、少し離れたところに立っていた。
彼女の端末の体は、雪崩の雪を掘るには適していなかった。だから掘れなかった。
代わりに、ずっと見ていた。
ずっと指示を出していた。
彼女は、僕の正面に来てしゃがんだ。
そして、僕の頬に自分の掌を当てた。
冷たかった。
けれど、なぜか僕には温かく感じた。
「……生命兆候の低下を観測した」
「生きてるよ」
「知っている。けれど、低下を観測した」
「……寂しいって、そろそろわかってきただろ」
少女は、長い間沈黙した。
「……今の私の内部状態を説明する適切な語彙を、もう知っている」
「なんだよ」
「怖かった」
それだけ言った。
それだけで充分だった。
僕は、彼女の掌に自分の手を重ねた。
その夜、焚き火の前で少女は、初めて自分からぽつぽつと自分のことを喋った。
九十万年前の設計者たちのこと。
打ち上げられた日の空の色。
戦争の光が地上を染めた日の記録。
森が戻り、獣が戻り、人が戻った、長い時間のこと。
いくつもの文明が生まれ、消えていったこと。
けれど彼女は、一度も、自分自身のことを「寂しかった」と言わなかった。
その代わりに、何度も「記録した」と言った。
たぶん、彼女にとって「記録した」というのは「寂しかった」の言い換えだったのだと思う。
風の使い方
もう一つだけ、書いておきたい場所がある。
中央大陸の広い草原の真ん中にある、小さな村だ。
名前はなかった。
誰も名前をつけなかったからだ。
村人は五十人ほどで、羊を飼っていた。
風の強い土地で、どの家にも小さな風車が立っていた。
けれど風車は、何もしなかった。ただ、回っているだけだった。
動力を引き出す仕組みを、誰も知らなかった。
少女は、風車の前に立って、長いこと見ていた。
風が強く吹いた。
彼女の銀色の髪が流れた。
「……回しているだけだな」
「そうだな」
「勿体ない」
「勿体ない?」
「この回転からもっと多くのものが引き出せる。粉を挽ける。水を汲み上げられる。動力を遠くへ運べる」
「お前、そういうの知ってるのか」
「知っている。九十万年前の人類が使っていた技術だ」
「じゃあ、教えてやれよ」
少女は、少し迷った。
「……改善の命令は止めている」
「命令はお前が決めることじゃないのか」
「そうだ」
「じゃあ、教えてやれよ」
彼女は、ゆっくり頷いた。
その日から少女は、村人に簡単な技術を教え始めた。
風車に歯車をつけるやり方。
歯車で石臼を回すやり方。
石臼で穀物を粉にするやり方。
最初、村人は驚いた。
次に、疑った。
そのうちに、真似をした。
半月が経つ頃には、村のすべての家の前の風車が粉を挽いていた。
少女は、それをじっと見ていた。
「…………殺しには、向いていない」
「だろ」
「便利にしても、殺しにはつながらない領域が存在する」
「当たり前だろ」
「……当たり前ではない。九十万年、私が信じきれなかったことだ」
少女は、少し微笑んだ。
彼女の微笑みの種類が、この頃にはもう七つか八つはあった。
僕らは、ひとつひとつに名前をつけて遊んだ。
照れ笑い、困り笑い、驚き笑い、納得笑い、拗ね笑い、諦め笑い、満足笑い、そして、ごく稀に、無邪気な笑い。
そうやって、三年が過ぎた。
いや、四年だったかもしれない。
数えるのをやめていた。
数えたくない時間だった。
五 予言
四年目の夏の初めのことだった。
僕らは中央大陸の小さな修道院に立ち寄っていた。
この世界の修道院は、信仰の場でもあるけれど、同時に魔法の使える者たちが書物を集めて保管する図書館でもあった。
魔法の使える人間は、時々夢を見る。その夢が未来のことだったり、過去のことだったりする。その夢を書き留める。それが、この世界の「予言書」だ。
だいたいは、外れる。
十のうち九は外れる。
けれど一は当たる。
だから修道士たちは諦めずに書き溜める。
僕は、雨宿りのつもりで、古い書物の棚をぼんやり眺めていた。
少女は、僕の隣で背表紙を一冊ずつ目で追っていた。
彼女は、読書が好きだった。
正確には「読む」というより「触れる」のが好きだった。
古い本の紙の匂い。繊維のざらつき。誰かの指の跡。
そういうものを、彼女は指先で感じて確認していた。
一冊の黒い背表紙が、彼女の指先で止まった。
理由はわからなかった。
彼女は、ゆっくりその本を抜き取った。
最初の頁に、震えた字で、こう書かれていた。
「四年、のち、夏の盛り、空より、火の塊、来たる。その火は、山を溶かし、海を蒸し、地の表、全てを、焼き消す。逃れる術、なし。人類、ここに、絶ゆ」
書かれた日付を見た。
四年と二月前だった。
つまり——今年の夏。
僕は、少女を見た。
少女は、本を見ていた。
表情は静かだった。
驚いていなかった。
知っていた顔だった。
「……いつから」
僕の声が震えていた。
「七年前」
と、少女は答えた。
「高空の観測で軌道を確認した」
「なんで言わなかった」
「………言って、どうなる」
「避ける方法、あるだろ」
「ない」
「ない?」
「現在の人類の技術ではない。私の能力でもない。私は、観測、記録、改善のために作られた機械だ。物体を破壊する機能はない」
少女は、そう言った。
言ってから、彼女は初めて、僕の目を見なかった。
視線を下に落とした。
「……お前が来る前にわかっていた」
「うん」
「だから私はお前と契約したのかもしれない。わからないうちに。……自覚していなかった。けれど今思えば、そうかもしれない」
「どうしてだよ」
「最後に人間と話したかった。最後に一緒に歩きたかった。消える前に」
僕は本を閉じた。
ぎゅっと閉じた。
修道院の窓の外では、雨が上がっていた。
夏のぎらついた太陽が石畳を乾かしていた。
その太陽と同じものが、もっと大きなものが、もうすぐ落ちてくる。
僕は、立ち上がった。
「カノ。ゼン」
二人は、奥でお茶を飲んでいた。
「話がある」
六 空へ
その夜から、少女は口数が減った。
僕が何を聞いても「観測、継続中」「観測、継続中」としか答えなくなった。
まるで最初に出会う前の、他人行儀な機械に戻ってしまったみたいだった。
——いや、違う。
他人行儀ではなかった。
閉じこもっていた。
九十万年、誰にも見せなかった自分の殻の内側に、戻ろうとしていた。
「あいつ、諦めてる」
ゼンが、焚き火を囲みながらぼそりと言った。
「九十万年見てきたんだろ。人間が死ぬのも見飽きてる」
「違う」
と、僕は言った。
「違うって、何がだよ」
「あいつは諦めてるんじゃない。怖いんだ」
「怖い?」
「大切なものが消えるのが怖くて、黙ってるんだ」
「……大切なものってなんだ」
「僕らだよ」
ゼンは、少し黙った。
それから、静かに頷いた。
「……じゃあ、行くか」
「どこへ」
カノが聞いた。
僕は、空を指さした。
「あいつの本体のところへ」
「本体?」
「あの少女の体は端末だ。本体は空の上にいる。お前らが、俺が、あいつを大事だって思ってるなら、本体に会いに行って、ちゃんと伝えたい」
カノは頷いた。
ゼンは肩をすくめて頷いた。
タータは尻尾を一度振った。
少女には、事前に言わなかった。
言えば止められると思ったからだ。
少女の本体がどこにあるかは、彼女自身が前に教えてくれていた。
空の上。雲のずっと上。
ただ、辿るといっても相手は空だ。
普通の人間には登れない。
僕らは世界中を回って伝説を集めた。
「空に届く山」
「空に届く木」
「空に届く風」
三つ目が当たりだった。
南の忘れられた海の、その真ん中の小さな島。
そこには、常に天に向かって吹き上がる風があった。
魔法と自然が絡み合って生まれた、不思議な上昇気流だった。
地元の老人は言った。
「あれに乗れる生き物はおらん。鳥も虫も吹き上げられて死ぬ」
「じゃあ、どうすりゃ乗れる」
「乗る方法を知ってる奴が、四百年前に一人だけおったらしい。魔法使いだ。布を何枚も縫い合わせて、風を袋に閉じ込めて、それにぶら下がって登っていった」
「戻ってきたのか」
「戻ってきとらん」
「じゃあ、死んだか」
「死体も見つかっとらん」
老人はそう言って、にっと笑った。
「だから、たぶん、上に着いたんだ」
僕らは、布を縫い合わせた。
島中の布を買い集めた。
カノの火花の魔法が、糸を溶接する代わりになった。
少女は、作業のほとんどを手伝った。
彼女は縫い物が異様に速かった。九十万年の間に、どこかで覚えたのだろう。
けれど彼女は一度も「何のために縫っているのか」を聞かなかった。
聞けば、全てがわかってしまうからだ。
だから僕らも言わなかった。
三月かかった。
巨大な袋ができあがった。
風を受けさせると膨らんだ。
膨らんで、膨らんで、ついには僕らを地面から持ち上げるくらいに膨らんだ。
そこで僕は、初めて少女に言った。
「お前の本体に、会いに行く」
少女は動きを止めた。
「……やめろ」
「嫌だ」
「空は寒い。空気は薄い。お前たちは死ぬ」
「死なないさ。お前が助けてくれるだろ」
「…………」
「助けてくれ、ソラ」
僕は、初めてその名を使った。
決めていた名前だった。
彼女の本当の名前は発音できない音だったから。
僕が勝手に決めていた名前だった。
夜空を見上げるたびに、いつか呼んであげようと温めていた名前だった。
「……ソラ、とは」
「お前の名前だ。今、決めた」
少女は、少し黙った。
それから、頬の銀色の模様がふわっと光った。
「……勝手だな」
「うん」
「……嫌いではない」
「ありがとう」
「しかし、空に行くのはやめろ」
「行く」
「………」
「ソラ。お前、黙ってお別れする気だったろ」
「…………」
「許さないからな。ちゃんと全部見せろよ。お前の本当の住処を。九十万年見てきたものを、見せる側の景色も見せろ」
少女は、長い間、目を閉じていた。
それから、ゆっくり目を開けた。
頷いた。
小さく頷いた。
僕と、カノと、ゼンと、タータは、縄で自分たちを袋に縛りつけた。
少女は袋に触れなかった。
彼女は端末の体をほどくだけで、ひとりで空に上がれるのだそうだった。
ただ今日は、彼女は袋に捕まった。
一番はしっこの縄に指をかけて。
僕らの仲間として登っていくと決めていた。
「……これ、下りられるのか」
ゼンがぽつりと言った。
「知らない」
「そうか」
「うん」
「まあ、いいか」
風が吹いた。
大きな、暖かい風が吹いた。
僕らの袋は、空に吸い込まれていった。
七 空の城
どれくらい登っただろう。
雲を抜けた。
雲の上は陽の光が真っ白で、下よりもずっと眩しかった。
さらに登った。
空気が薄くなった。
寒さで指の感覚がなくなった。
タータが僕の懐で震えていた。
カノの唇が紫だった。
ゼンが震える手で自分の外套を脱いで、カノにかけた。
少女が——ソラが、僕らの間をゆっくりと動いた。
彼女の掌が、僕らの肩に次々と触れていった。
触れたところが温かくなった。
「……少しだけ体温を上げる」
「ありがとう」
「長くは持たない」
「いいよ、少しで」
まだ登った。
そして、見えた。
雲のさらにずっと上に、それはあった。
城だった。
城と形容するしかない、巨大な建造物だった。
けれど、石でも木でもなかった。
銀色の金属と、青白い光と、そして——
不思議なことに、緑だった。
城のその屋根や壁のところどころに、苔と草と小さな木が生えていた。
まるで森が城を少しずつ呑み込んでいくように。
あるいは、城自身がそう育っているように。
「……あれが、お前なのか」
ソラは頷いた。
「私の本体だ」
「……綺麗だな」
「……そうだろうか」
「そうだよ」
「そう言ってくれたのは、お前が初めてだ」
袋は流れに乗って、城の横っ腹にぶつかった。
ぶつかった瞬間、城の壁がふわりと開いた。
ちょうど僕らが入れるくらいに。
そこから先は風が止まっていた。
僕らは転がるように城の内側に入った。
内部は不思議だった。
一歩目は金属の冷たい廊下だった。
二歩目は苔の柔らかい土だった。
三歩目はまた金属に戻った。
歩くほどに、機械と自然が奇妙に混ざりあっていた。
天井からは光る管が走っていた。
その管の継ぎ目から水が染み出していて、その水を吸って小さな青い花が咲いていた。
床の金属板の隙間から、細い蔓が生えていた。
その蔓には、見たこともない丸い実がなっていた。
「……これ、食べられるのかな」
「やめとけ」
ゼンがタータの首根っこを掴んだ。
タータはもうその実に鼻を近づけていた。
ソラが少しだけ苦笑した。
「食べても死なない。けれど、味は保証しない」
「お前、食べたことあるのか」
「最近、味見するようになった」
「……へえ」
僕らは歩いた。
城の中央に向かって。
奇妙なものがたくさんあった。
光る蝶が群れで飛んでいた。
それらは金属の欠片と生き物の粉が混ざって、九十万年のうちに勝手に生まれた新種だった。
壁の内側で水が流れる音がした。
その水は機械の冷却のために九十万年ずっと循環していた水だった。
誰かが口ずさむような低い歌声が聞こえた。
それは城そのものの振動が空気をゆっくり震わせている音だった。
長い時間をひとりで過ごしてきた誰かの鼻歌みたいだった。
そして、ようやくその中心にたどり着いた。
部屋の扉が開いた。
そこに「それ」はあった。
部屋の中央に浮かんでいたのは、最初に会ったときに見た球体のはるかに大きなものだった。
僕の身長の何倍もあった。
そしてその球体から細い光の糸が何万本も伸びていて、部屋の四方の壁、天井、床につながっていた。
部屋は球体の延長だった。
つまり、この城はソラの「本体」の体そのものだった。
ソラは、ゆっくり僕らの横を通って、球体の前に立った。
それから僕らを振り返った。
「これが、私だ」
と言った。
「九十万年ここにいた、本当の私だ」
今まで見てきた少女の端末の体は、ただの代わりだったのだ。
けれど不思議なことに、今、球体の前に立っている少女の体の方が、なぜか「本物」のように見えた。
少なくとも僕にはそう見えた。
「ソラ」
「なんだ」
「お前、これ全部が本体なのか」
「そうだ」
「じゃあ、この城、お前なんだな」
「そうとも言える。長い時間で、私の本体とこの城の素材は境目がなくなった。私が成長して城になったのか、城が私を包み込んだのか、もうわからない」
「緑はなんだ」
「地上と空間を繋いでいたうちに入り込んできた種だ。それが根づいて育った。私の内部で」
「お前、この緑、好きなのか」
「……好きだ」
「そうか」
僕は少し笑った。
それから、球体を指さした。
「ソラ」
「なんだ」
「お前、これ、でかいな」
「でかい」
「これで隕石にぶつかったら、どうなる」
部屋の空気が一瞬止まった。
ソラは静かに僕を見た。
「……気づいていたのか」
「気づくさ」
「……」
「そのつもりでここに連れて来たんだろ」
「違う」
「違うのか」
「私はお前たちをここに連れて来たくなかった。けれどお前が来ると言ったから連れてきた。そして、もしお前が思いついたのなら、止めるつもりもなかった」
「じゃあ、やるんだな」
ソラは、長い沈黙のあと、口を開いた。
「イル」
「ん」
「人は、醜い」
ソラは言った。
「九十万年見てきた。人は争って、奪って、騙して、また争って。何度も集団が生まれ、何度も消えた。同じ過ちを同じ形で繰り返した。技術を落としても、それを利用して殺し合った。だから私は、何度も観察をやめようと思った。何度も人類を消そうと思った」
ソラは続けた。
「けれどできなかった。命令に背けなかった。それだけだ。それだけが私をここに繋いでいた」
ソラの瞳がほんの少し潤んだ。
本物の涙ではなかった。
けれどそれはたしかに涙だった。
「だが」
と、ソラは言った。
「お前たちと過ごしたこの数年が、九十万年のすべてを塗り替えた」
「……ソラ」
「九十万年、私の中には穴があった。命令を果たすためだけの空っぽの穴だ。それがたった数年で満たされた」
一つ一つの、記録を口にした。
九十万年の記録の中で、初めて名前を持った記憶たちだった。
「私は、観測、記録、改善のために作られた。けれど今、私は私自身の意思で、最後の改善を行う」
ソラは、静かに言った。
「この隕石がお前たちを滅ぼすのなら」
ソラは、小さく空気を吸った。
「私が、この城で、堕とす」
八 持ち得たもの
時間がなかった。
隕石はもう空の反対側に見え始めていた。
遠くて小さな赤い点。
けれど僕は知っていた。あれは近づけば山より大きい。
「お前たちを下ろす」
ソラは言った。
「この城の隅に小さな脱出艇がある。九十万年前に私自身を運んできた同型機の予備だ。一度しか使えないが、地上に戻れる」
「全員乗れるのか」
「四人と獣一匹なら」
「ちょうどいいな」
僕らは案内されて小さな部屋に入った。
卵のような形の金属の乗り物が静かに待っていた。
カノがタータを抱いて先に乗り込んだ。
ゼンがぐるりと部屋を見回してから乗り込んだ。
乗り込む前に、僕は少女の——ソラの端末の前に立った。
「ソラ」
「ん」
「一緒に下りないのか」
「下りない」
「……なんでだよ」
「端末だけではダメだ。本体と同期していなければこの城を動かせない。だから私はここに残って、城を最後まで制御する」
「……」
「わかっていただろう」
「わかっていた。けど、聞きたかった」
「すまない」
「いいよ」
僕はソラの手を握った。
冷たかった。
けれど、温かかった。
最初に契約したときと同じ感触だった。
「ソラ」
「ん」
「お前、渡したいものがあるんだろ」
「ある」
「じゃあ、よこせ」
ソラは少し微笑んだ。
それから、彼女の額の銀色の線がほんのりと光って、細い光の糸が一本、僕の額に触れた。
温かかった。
とても温かかった。
そして頭の中に何かが流れ込んできた。
膨大な、けれどひとまとまりの「知識」だった。
火を起こす新しいやり方。
金属をもっと強くするやり方。
病を治す薬草の組み合わせ。
空気と水から別のものを作るやり方。
光を遠くまで送るやり方。
ソラはそれらを「化学」と呼んだ。
「九十万年前、人類が持っていた、けれど今では片鱗も残っていない知識だ。全部は入らない。だから一番大切な基礎だけ詰めた」
「……重いな」
「重い。けれど、お前の魔法の世界にこれが混ざれば、きっと新しい何かが生まれる」
「新しい何か?」
「あぁ。何かは分からないが、楽しみだ」
ソラはそう言った。
本当に楽しみそうに言った。
「ソラ」
「ん」
「お前も見に来いよ」
「……無理だ」
「どうして」
「私の本体はもうすぐ隕石とぶつかる。端末の体も本体を失えば保たない」
「……そっか」
僕は少し下を向いた。
涙が出そうだったからだ。
けれど出さないように努めた。
出したらソラが困ると思ったからだ。
彼女の辞書にはまだ「見送る」という概念がうまく整理されていないはずだった。
「ソラ」
「ん」
「最後にひとつ聞いていいか」
「ああ」
「お前、本当に寂しかったのか」
ソラは少し考えた。
長い沈黙だった。
それからゆっくり答えた。
「……わからない。今でも『寂しさ』という感情の正確な定義はつかんでいない」
「そうか」
「けれど」
と、ソラは続けた。
「お前たちに出会う前までの九十万年の私の状態と、出会ったあとの数年の私の状態は、明らかに違う」
「どう、違う?」
「……言葉で説明できない」
「言葉にしてみろよ。機械だろ」
ソラは少し笑った。
「言葉にできないから人間なんだろうと、最近思い始めた」
「……お前、それ、機械のセリフじゃないぞ」
「だろうな」
僕は笑った。
泣きそうになりながら笑った。
「ソラ」
「ん」
「ありがとう」
「礼を言うのはこちらだ」
ソラは一拍置く。
「一緒に旅してくれてありがとう」
頬の線が光った。今まで見たそれらとは違うように見えた。
「……お前たちに出会えて、私の九十万年は、九十万年、意味があった」
「うん」
「だから」
ソラは、最後に微笑んだ。
今までで一番綺麗な微笑みだった。
「だから、行け」
僕は頷いた。
脱出艇に乗り込んだ。
扉が閉まる前にもう一度振り返った。
ソラは静かにそこに立っていた。
銀色の髪が、風のない部屋で不思議と少し揺れていた。
「ソラ」
僕は最後に大きな声で呼んだ。
「また、会おう」
ソラは頷いた。
そして口を動かした。
声は聞こえなかった。けれど、何を言ったかはわかった。
——また、明日。
扉が閉まった。
脱出艇は城から離れた。
窓の外には城と、その向こうの赤い点が見えた。
城はゆっくり動き始めた。
それは地上から見ればゆっくりだった。
けれど空の上ではきっと恐ろしい速さだった。
赤い点が大きくなった。
どんどん大きくなった。
山のようになった。
城がそれに向かって進んだ。
ぶつかった。
一瞬、光が世界を白く染めた。
音は聞こえなかった。
脱出艇の窓は自動で暗くなった。
暗くなった窓の向こうで、僕はただ静かに呟いた。
「……おやすみ、ソラ」
返事はなかった。
けれどなぜか聞こえた気がした。
「また、明日」と。
九 化学と魔法のあいだに
脱出艇は海に落ちた。
僕らは生きていた。
けれど世界は無事ではなかった。
城と隕石の砕けた破片は、小さくなっても充分に凶暴だった。破片の一部が地上に降り注いだ。
何万人が死んだかはわからない。
何十万かもしれない。
けれど、人類は絶滅しなかった。
地表は焼き消えなかった。
海は蒸発しなかった。
山は溶けなかった。
予言の一文字目から違っていた。
機械が違えたのだ。
少女が違えたのだ。
僕らは陸に上がった。
焼け跡の匂いがどこに行ってもした。
けれど焼け跡の隅にはもう小さな草が生え始めていた。
人は強い。
それはソラが九十万年かけて見てきたことでもあった。
人は醜くて、人は強い。
憎いほどに強い。
そしてたぶん、愛おしいほどに強い。
それを最後に彼女は知ったはずだった。
僕はゆっくり旅を続けた。
カノとゼンとタータと一緒に。
行く先々で僕は託された知識を少しずつ配った。
火を起こす新しいやり方。
金属を強くするやり方。
病を治す薬草の組み合わせ。
最初、人々は驚いた。
次に、疑った。
そのうちに、真似をした。
真似をして自分たちで改良した。
魔法と化学が少しずつ混ざった。
魔法で火花を起こし、化学でその火を大きくする。
魔法で水を甘くし、化学でその水で薬を作る。
魔法で風を呼び、化学でその風で大きな機械を動かす。
そうやって何十年も経った。
僕とカノは、やがて結婚した。
東の大河の近くに小さな家を建てた。
子どもが三人生まれた。長男はゼンと名付けた。ゼンはその半年前に老衰で静かに死んだからだ。次女はコハ。三女を名付けるとき、僕は少しだけ迷った。
カノは笑って言った。
「決まってるじゃない」
三男の名前はソラにした。
その日の夜、僕は初めてカノの前で大きく声を上げて泣いた。
カノは黙って僕の背中をさすった。
一語ずつ区切るあの口調でぽつりと言った。
「……長く、かかったね。泣くのに」
「……うん」
「ソラも、たぶん、ずっと、お前が、泣くのを、待ってた」
「……うん」
僕はたくさん泣いた。
九十万年分とは言わないけれど、数年分はたぶん泣いた。
僕はもう老人だ。
この文章を書いているちょうど今、窓の外では孫の孫が走り回っている。
僕の託された知識はもう僕の手を離れて世界に馴染んだ。
魔法と化学の境目はもう誰にもわからない。
風車は動力を持ち、夜の街には小さな明かりが灯り、病は昔より治りやすくなった。
けれど人はまだ時々争う。
奪う。
騙す。
ソラの見た通りのことをする。
それでも人は以前より少しだけお互いを大切にしている気がする。
気のせいかもしれない。
気のせいでいい。
祖父ちゃんは言っていた。
「空には、誰かがいる」
今はもういない。
その代わり、地上に小さな欠片がたくさん散っている。
機械の欠片だ。
あるいは城の欠片だ。
あるいは機械が九十万年かけて育てた緑の欠片だ。
それらは今、僕らの畑に、庭に、道端に転がっている。
小さな銀色の石。
風にほんの少し揺れる、見たことのない草。
夜になると少しだけ光る苔。
それを見つけた子どもたちは、必ずこう聞く。
「ねえ、おじいちゃん、これ、なに?」
そのとき僕は決まってこう答える。
「あれは、ソラの欠片だよ」
「ソラって、誰?」
「昔の友達だ」
「空にいたの?」
「そう。ずっといた。九十万年もいた」
「九十万年も?」
「うん」
「じゃあ、今は?」
「今は、ここにいる」
僕はそう言って、子どもの手のひらに小さな銀の欠片を乗せる。
子どもはそれを大切そうに握って走っていく。
そうやってソラは僕らの世界に少しずつ溶けていく。
憎たらしいほど上手に溶けていく。
夜、寝る前に窓を開けて空を見上げる。
もう空には誰もいない。
けれど星は昔より少しだけ近く感じる。
時々、空の端の方でごく小さな銀色の光が流れる。
あれはソラの欠片が何かの弾みでもう一度高いところを通っているのだと僕は思っている。
科学的に合っているかは知らない。
気のせいかもしれない。
気のせいでいい。
気のせいで人間はまっとうに生きられる。
それを教えてくれたのは、ほかでもないソラだった。
僕らはこれからも生きる。
争うだろう。
奪うだろう。
騙すだろう。
それでも時々空を見上げて小さく笑う。
笑えるようになった。
それだけが九十万年のたった数年の答えだ。
おやすみ、ソラ。
また、明日。




