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悪魔の形 —————これが私の異世界——————  作者: 一沢


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第4話


「客間か。やっぱり、相当な富豪なのかもしれない」


 白いシーツが敷かれていたベットに、落ちるように背を預ける。


 柔らかなマットレスと枕に全身を受け止められ、一日中歩き回り、寝支度を整えた身体が深い眠りへと誘われていく。目を閉じれば、もう開かないとわかる程に。


 夕食を終え、お茶の時間を楽しんだ後だった。


「実は、客間が一つしか無いんです」と、店主さんが困り顔で言ってきた。


「あ、なら、私達は」


「流石に、おふたりを同じ部屋に泊まらせる訳には行きません。アビゲイルさんは、私の部屋で、あなたは客間を使って下さい」


 当然と言えば当然の配慮だった。


 だが、あれだけ人の恋の話に入り込んできたのに同室は許さないとは。仮にも一時だが教職に付いた身。不純異性交遊と呼べる年齢のそれは、許してくれなかった。


「今頃、アビゲイルが質問攻めか‥‥」


 屋敷と同様に、両手を腹に乗せて自分の内臓の動きを感じ取る。


 体調管理として『あちら』から続けている夜の日課であり、正常の動きを内臓がしているか調べられる唯一の方法だった。触診とは身体の表面ではない、骨や血管、果ては腫瘍すら感じ取れる正しい医療行為であった。ここにも香料を使っているのか、店先よりも薄いが植物の香りが漂ってきた。その上、路面側を窓にして月明かりが差し込む部屋は、なかなかに良かった。


「そういえば、アビゲイルと話さないで寝るのって久しぶりかも」


 呟きながら、起き上がって月を見上げる。


「月が異常なのは、変わらずか」


 元いた世界で見た月は一つだった。だが、こちらの世界は二つだった。


 そして片方は見慣れた大きさなのに、もう片方は本来の倍はあろうかという大きさ。それだけ近くにあるのか、それとも本当に大きいのかは定かではない。


「狼‥‥」


 この時間の筈だ。


 そう思ってベットから離れて窓の下を覗いたら、兵士が歩いていた。


「パトロール。このあたりにいるのか?」


 気になるが、気にしたところで仕方ない。


 アビゲイルには、ああ言った手前だが、やはり自分も気になっていた。


「眠らないと」


 自分に言い聞かせて、ベットに戻った時。扉が叩かれる。


「アビゲイルか、いいぞ」


 叩き方で分かった。眠れない夜、アビゲイルが部屋に訪ねてくる時と同じだった。


「入るねぇー。どう、この服?」


「ガウンか、大人だな」


「そうでしょうー♪」


 少しだけ自慢するように部屋へと足を踏み入れる悪魔の雰囲気が、普段とは違っていた。白いパジャマに、白いガウン。そして下した長い髪のお陰で普段より大人っぽさが何割も増している。こちらの感想に満足した悪魔は、やはり全身を見せるように一周回ってガウンを揺らし、髪から漂う甘く柔らかな自身の香りを振りまいてベットに座る。


 ただし服を見せつける筈の仕草———胸の布を張る行為に、脇や背中の布が引っ張られて白いパジャマとガウンが悲鳴を上げているようだった。


「これ、ミシュレさんがくれたんだよ」


「ミシュレ?」


「店主さんのこと。聞いてない?」


 そう言われれば、最後まで店主さんで通してしまっていたのを思い出す。明日にでも改めて名前を聞こうと心に決める。


「聞いてなかった。それでミシュレさんは?いいのか、こっちに来て。」


「もう寝ちゃった。話し疲れちゃったみたい」


 そういうアビゲイルも、だいぶくたびれた様子で肩を回している。


「どこから話した?」


「君が椅子の上で眠った時からかな?そこまでは、君に聞いたって」


 本当に最初から最後まで聞き出すつもりらしい。


 何故、そんなにも興味があるのか。自分にもアビゲイルにも理解できない趣味であった。正解のわからない疑問に心を砕いている、オレンジの髪をした我が悪魔が「早く」と言わんばかりに、ベットの隣を叩いてくる。


 望む所、ではあったものの。いざ、自分から挑むのは、なかなかに何かを消耗する気がしてならない。恐れながら、そして止まらない欲望に付き従ってアビゲイルと肩を並べると————満足気に、猫のように全てを見透かした者の表情をしてくる。


「ふふ、私の勝ち♪」


「なら、これは?」


 心臓が胸骨を突き破ってしまいそうだった。


 隣に座った勢いに頼りながら、柔らかな脂肪に包まれた白い足へと頬を落とす。反発など一切起こらない。深く受け止めてくれる悪魔の足は以外な程筋肉がなく耳が完全に埋没するのを感じ取れた。


 トドメとばかりに滑らかなシルク状の寝巻に頬擦りをすると、過呼吸となったアビゲイルの狼狽が肌を震わせる振動となって伝わってくる。


「こ、この程度で勝ったつもりなんて———い、いつまで経っても私には勝てないからね!!」


 そう言いながら強気に耳を撫で始める震える手から、嗜虐心をくすぐる何かが生まれ出る。破裂しそうだった心臓の鼓動は失われ、ようやくアビゲイルを喜ばせる事が出来たと笑みを浮かべてしまった。


「あの人は、ずっとここで店を構えてるのか?」


「そ、そうだよ。ここは元々お父さんの友達がやってたお店なんだけど、いろいろあってミシュレさんが受け継いだの」


 そういう繋がりだったとは知らなかった。


 だが家族ぐるみの付き合いをしているように見えたのは、正しかったようだ。続けて何かを聞くべだと思ってはいるが、月明かり越しだとしても顔を赤く染めているアビゲイルの様子には、この時間が永遠に続けばいいと願わずにはいられなくなる。


 足を奪う、そう決めてしまった自分は頬擦りを続けながら体温を奪い、移しにかかる。冷たかった腿はいつの間にか、外からも内側の血管からも温められ、火傷をしてしまいそうになる。


「そ、そんなに私の足が好きなら、毎晩あげてもいいよ!?」


「約束したい」


「約束!?」


 オウム返しに聞き返す言葉を無視して、つい寝返りを打ってしまう。


 今も内臓を通る血の音が聞こえるアビゲイルの腹部にまぶたと鼻を突き入れて、顔全体であの柔らかな白い肌を求める。


 その結果、もはや言葉すら発せられなくなった悪魔は、頭がショートでもしたように頭や耳を撫でるだけの傀儡となってしまう。


「アビゲイル?」


 やり過ぎたか?そう思って、更に寝返りを打って顔を見上げるが———突き出てた胸部の所為で顔色はおろか、鼻先すら視認出来なかった。


 仕方ない。今も狂おしい足から離れて立ち上がると、光を失った目のままで自分の頭の置いてあった場所を撫で続けている深窓の令嬢を見つける。


「大丈夫か?」


「大丈夫。大丈夫だから。大丈夫だから大丈夫なの」


「‥‥そうか、大丈夫なのか」


 なかなか正気に戻らないアビゲイルを取り戻す為、顎を持ち上げて唇を近づける。


 唐突に元に戻った悪魔は、やはり狼狽しながら「な、なに!?どうすればいいの!?」と慌てふためく。だから———やはり続けるしかなかった。


「ここは俺の部屋だ。夜這をしに来たアビゲイルには、悪戯が必要なんだ」


「そ、そうだね。うん、君が部屋に来たり、私が行ったりした時、悪戯し合ってるもんね」


 手を引いて立ち上がらせたアビゲイルを引き寄せて、普段の屋敷の夜のように『この身体』を椅子替わりにさせる。二人で重なり合ったベットは軋む音を出すが、それもほんの一瞬で終わってしまう。


「ここ最近、君には翻弄されてばっかり‥‥もしかして、経験者だったりするの?」


「俺の初めては全部アビゲイルに捧げてる。アビゲイルこそ、手慣れてそうだった」


「手慣れてなんかいないもん!!だって、だって‥‥それは。私達だってちょっとはそういう事に興味あるから———みんなで勉強したりして」


 上流階級の学校なのだから、生涯添い遂げる相手探しの捌け口のような側面を併せ持っていると思っていたが、実の所は『夢見る少女』と『夜を隠す少年』達の園であったようだ。


 あちらの性教育の教科書など持ち込むもうものなら、卒倒しかねない。


「そういう話、誰と誰がとかの話もなかったのか?」


「す、少しはあった。だけど、私達の学校は恋愛禁止だから噂すらも立たせちゃダメなの。———家が大きかったり、特別な血を受け継いでる人達は学校側の黙認したり入学を認めるたりするけど‥‥」


 どこの世界も特権階級という物には、特例を認めているようだ。


 『元の世界』の学校でも、生まれや能力によって授業に生活、休日だって好きに変更できる旨を説明されていた。終ぞ、関わらずに終わった単位も、その内のひとつであった。


「結構、自由でもあるみたいだな。アビゲイルはどうだった?」


「わ、私にはそんな人は」


「それだけじゃなくて、学校は楽しかったのか?俺は、ほとんど学校には関わらずに生きてきたから、そもそもどういった場所なのかわからないんだ」


「‥‥学校かぁ」


 膝の上から月を見上げる彼女の横顔には、やはり女神や天使ではなく蠱惑的な悪魔を彷彿とさせた。そして———こういった異性は自分の天敵でもあった。


「しばらく行ってないけど、楽しい所だよ。同い年の子達に、知らない知識。本とか先生とかから学ぶ勉強は、苦手だったりつらい時もあったけど、うん、楽しくて覚え甲斐があったと思う」


「‥‥楽しそうだな」


「うん!!思い出してきたかも、あのね」


 膝の上で振り返って、目を輝かせながら思い出話をしてくれるアビゲイルに笑みを浮かべて答える。確かに、彼女の言う通りとても楽しい空間であるのは間違いなさそうだ。———きっと、あちらでも全力で彼ら彼女らを守りに徹していれば、きっと————自分にもこういった経験。人に話せる宝となっていたのかもしれない。


「どうしたの?もう眠くなっちゃった?」


「いいや、もっと聞いていたい。だけど少しだけ花を見たくなった」


「あ、いいね!!ミシュレさんに内緒で見に行こうよ」


 全力で肯定しながら手を引いてくれたアビゲイルには、まだまだ話足りない経験を持っているようで、廊下でも言葉が尽きる事はなかった。







「君の国は、どうだったの?」


 学校での思い出話に疲れたアビゲイルがこちらに話を振ってきた。


 月明かりに照らされた花々達に、青々とした緑で着飾った植物達にも、夜の顔で求められているようだった。適当な作り話をすればいい、どこかで聞きかじった、もしくは数度潜入や学生の振りをしていた時を振り返ればいいじゃないか。


 自分の本能はそう叫んでいた。


 だって、人に話せる内容など持ち合わせていないのだから。


「そうだなぁ。どういうのが聞きたい?」


「なんでもいいよ。君の生活にも興味あるから」


 つい、微笑んで返してしまう。心を読まないアビゲイルは、自分にはただただ眩しかった。同時に自分の罪を求め、せせら笑う悪魔のようでもあった。


「‥‥俺の一日は、一日は」


 木製のテーブルに爪を立て、剥ぎ取るように引っ掻いてしまう。


 その時に気が付いた。アビゲイルは、いつもチャンスをくれていたのだと。


 あの世界を告白する時間をさけ続けていたのは、ずっと自分の方だった。


 叫べばいいじゃないか。


 俺の一日は、失った手足や、いつの間にか摘出された内臓を調べる時間から始まったのだと。そして次に目を開けた時、いつの間にかよく似た肉片が繋ぎ合わさっていたのだと。指の骨や肘の関節の違和感を無くす、準備体操をしていたと。


「言いたくないんだね」


「‥‥俺、臆病で卑怯なんだ」


「うん、そうかもね」


 何もかもを知っていて待ち続けてくれる。アビゲイルなら、何を話しても信じてくれる———劣化が止まった身体と精神には、機械仕掛けの悪魔の力が宿っていると。


「————どうすればいいんだ」


「何を?」


「どうすれば、俺は笑える。アビゲイルと一緒になれる」


 テーブルの溝に爪が刺さり、それでもなお引き寄せようとした時だった。冷たくて柔らかい手が覆いかぶさる。心に傷など持ち合わせていない。


 だけど、癒しと救済を求める心ばかりは、捨てられなかった。


「全部、忘れちゃえばいいよ。全部忘れて、私と悪戯し合えばね」


「何も考えなくていいのか」


「うん、それでいいと思う。だって、もう過去には戻れないし、選択肢なんてなかったんだから。君は、やっと君の欲望を満たせる———私で満たしちゃえばいいよ。だって元いた場所の事なんて、もうどうでもいいでしょう?」


 夜の、夢の中だけで現れるアビゲイルの顔だった。


 淫靡で淫蕩で耽美で———道徳心が消え去った悪魔は、夢という何もかもの理性が解き放たれた世界に現れ、何もかもを奪って空にしていく。


 欲望のまま、この身体と自分の身体を捧げる退廃的の悪魔に包まれる時間を毎晩待ち望んでいた自分は、既に悪魔の囁きの虜となっていた。


「君は、すごく理性的。欲望なんてないんじゃないかってぐらい、私の指に果ててくれなかった。だから私も本気になったの。だから沢山の言葉と、この身体を使って、やっと絶頂してくれた時———私はあなたの悪魔になった。嬉しかったでしょう?」


「‥‥アビゲイルを、そう見たくなかった」


「どうして?だって、ずっと待ってたのに。この私を」


 口が真横に裂けたようだった。


 時折見せる『悪魔のような清楚なアビゲイル』など、目の前にはいなかった。


 そこにいたのは自分の存在意義を掛けて、この俺を堕落させ、自分の元に落として魂を愛でる恐ろしい悪魔だった。舌なめずりなど生易しい。


 今のアビゲイルが放つ、値踏みをする視線に背筋を震わせてしまう。


「ふふ、可愛い。食べちゃいたい‥‥」


 冷たい少女の手ではなかった。艶やかに瑞々しく光を反射させる手には、仄かな熱を感じさせた。撫でられれば吐息が漏れ、握り返せば二度と離せない麻薬。


 ああ、だけど。自分は既に、この手なしにはもはや生きられなかった。


「また握って欲しい?導いて欲しい?この君だけの悪魔に」


「———また、アビゲイルに入りたい。だけど、」


 ふと、目の前の落とすべき魂が笑ったのが解せないでいる悪魔が、普段のアビゲイルの顔を取り戻す。そして指を刺した方向を見て、顔が白く染まるのがわかる。


 店の出口に用意してあった茶葉は、間違いなくアビゲイルを昏倒させたハーブティーそのものだった。味は論ずるに値しないが、効能の程は間違いなかった。


 内臓を温め、アビゲイルに対して向けてしまう欲望は普段よりも拍車がかかっているのがわかる。ここであの茶を飲めば、更に深くアビゲイルと愛し合える。


「必ず気に入ります!!って言って、ミシュレさんが用意してるんだ。あれを呑んでから、ふたりでしよう。それに———アビゲイルもお茶のお陰で、その気になってる。少しぐらい苦しんでから現実、その後に夢でした方が、楽しんじゃないか?」


「もしかして、君って加虐趣味‥‥?」


「もしかしてだけど、アビゲイルは自分が被虐趣味だって知らなかったのか?」


 立ち上がって茶葉を取りに行こうとしたが、手を全力で抱きしめて止められる。


 そして想定通りに、全力で首を振って拒絶の意思を伝えてきた。


「場所も選ばないで誘うのはもうやめるから!!だから、あのお茶は嫌ー!!」


「ああ、そうしよう。避妊も使わないでするのは、今後もダメだ。その時が来るまで。これは教授からだけど、アビゲイルは学校に戻りたいんだろう。なら、まだ身重にする訳にはいかない。お互い、もっと大人になってから———気を付けよう」


 思い出したように顔が赤くなる姿は、あの優しいアビゲイルそのものだった。


 悪魔の力の弊害なのだろうか。夜毎に、あの表情をする我が愛しい小悪魔は、一時だけは何者をも手玉に取る悪魔となるが、それが過ぎればただの少女となる。


「うー、夢に出るから覚えておいて。必ず善がらせるからね」


 きっと本当に手も足も出ないでこと切れてしまうのだろう。


 本来、夢は夢として曖昧に消えてしまうが、アビゲイルが訪れる夢はどこまでも現実的で、夢の中では大悪魔としての手腕を振るう情事は、いつもなすがままだった。


「ごめんな。秘密ばかりで。何時まで経っても話せなくて」


「うんん。きっとそれでいいんだと思う。私の力と同じで、君にも言えない事があるんだと思う。———やっと君にも秘密が出来たね」


「‥‥ありがとう。やっとアビゲイルと一緒に成れた」


 お互いでお互いに笑いかけていると、思い出したようにアビゲイルが小さく欠伸をした。その可愛さたるや、時たま工場に顔を見せる猫もかくやという程だった。


「そろそろ部屋に戻ろう」


「うん、そうする。もしミシュレさんが起きてたら、大変だから――――」


 月光が雲に隠れた、建物の影に入った。


 そう目を瞑れば、この夜は甘く清らかに終わっていた事だろう。だが、つい先ほどまで窓ガラスへ差し込んでいた月を求める為、視線を移してしまった。


「え、なに、あれ」


 自分とアビゲイル、ふたりが同時に視認してしまった。


 自分だけが気付いていればすぐさま背中で隠していた筈なのに。


 月が消えてしまった起因は、影でも雲でもない――――血によってガラスが覆われてしまっていた所為だった。そして窓越しの通りには、まだ何かが蠢ていた。


「見るな」


 ひと一人分はあろうかという夥しい血が、今も窓ガラスから滴っている。


 そして、ガラスを突き破るように叩きつけられる腕であった物の衝撃すら、耳に届いてしまう。幸いだと考えるべきか、『それ』が血によって隠れ、正しく認識される直前にアビゲイルを胸に隠せた。


 今も何が起こっているのかわからないアビゲイルは、あれが血であったのかも疑問に思いながら、身体にしがみついていた。けれど―――この顔で理解してしまう。


「何が起こってるの‥‥」


 返答をする声など発せられなかった。


 静かに口で口を塞ぎ、目を合わせて頷く。「声を出してはいけない」、ふたりの頭の中だけで発せられた声に震えながら従う彼女は、守るべき対象となる。


 衣擦れの音さえ立たせない。座り込む余地すら奪えない。このまま過ぎ去るまで、ただの風景に――――血と肉の袋であると認識される訳にはいかなかった。


 瞳の光すら向けられない世界に、石畳を踏みつける音と、爪を当てる音だけが響く。この空間の支配者は、紛れもなく外の獣だった。殺傷された人間が兵士なのか、ただの市民なのか、自分にはわからない。


 だけど、あれは紛れもなく人を狙い、殺した。


「動かないで」


 唇が動きそうになった彼女の舌の根元を、舌で押さえつけ腰を強く引き寄せる。肘が鳴るのを絡ませた足を椅子代わりにし、態勢を楽にさせながら呼吸すら許さない。


「頑張る‥‥」


 目を閉じ、身体の全てを捧げたアビゲイルを抱き締める。


 震え上る背筋を止める手立てなどない。汗が噴き出る首元を抑える術もない。今出来るのはこの自然現象にも似た殺戮の時間を、ただひたすらに耐える事だけだった。


 —――どれだけの時間が経ったか。咀嚼音すら止んだ時、血と肉で汚れた身体を擦り合わせた獣が、息を吐いた。遠吠えでも咆哮でもないただの呼吸に、脳の血が凍り付くのがわかる。そして身体に突き刺さるアビゲイルの爪の感触さえ消える。


 そして—――ようやく待ち望んだ時間が来た。


「銃の、」


 舌を叩いて声を発した時、闇を切り裂く連続した発砲音が夜の街に響く。


 悲鳴ひとつ上がらない月と街灯だけの世界に、兵士達の指示と火薬と鉛の音が通りに詰まり弾かれる。けたたましい音に耳を叩かれながら乗じ、緊張の糸が完全に絶たれたアビゲイルと共に床へと逃げ込む。


 そして飛びつくように分厚い硬板に包まれた店の窓側、通り中を飛び交う銃から身を隠れら時—―――そこでようやく獣が咆哮を上げる。


 この街で、獣に最も近い距離にいるのはこの自分達だった。身を竦ませ、脳を裂く理性なき声に目玉さえ弾き出される。もはや握力すらなくなったアビゲイルとまぶたを塞ぎ合い、この嵐が消えるのを待ち続ける。


 けれど、そこで自分は目を開いてしまった。


「な、なに、何が起こっているの?」


 この音で起きない者など、この帝国でいない筈がなかった。


 今も戦火の音と香りに包まれた帝都にて、幼い頃から生きてきた彼女は―――銃を持って店先に現れてしまった。銃声の中でも決してかき消されない美声を響かせた店主に、アビゲイルが跳ねるように飛びつく。


「逃げて!!」


 ガラスが破られる。けれど、それは銃声によってではなかった。


「ここだッ!!!」


 足元の自分が運び込んだ銅製の鉢を獣へと投げつける。


 水分を含んだ土が詰まった金属製の鈍器に背骨が叩かれた、血をその身に滴らせた獣が――――到底人間とは思えない巨大な眼球を向ける。


 自分の手足で届く存在ではなかった。


 気まぐれに爪を振るわれた程度で、自分の手足は壁へと叩きつけられる。そしてただの習性である牙の合わさりで、頭は形を失う。それも、ほんの数秒もいらない。


「逃げろ!!」


 背を向けていたアビゲイルは正しかった。ミシュレさんを追い立てるように店の奥へと逃げていく。ふたり分の足音に振り返りそうになった獣へ、運んでいた中でも最も匂いが強かった植物を更に蹴りつける。


 牙を覗かせた血の獣が更にこちらへと向き直った時、扉の鍵が閉められる音がした。拳を握った所で何も出来ない。もう鉢を投げ付ける隙さえない。


 外の兵士へと逃げ込む余裕など存在しない。獣が狩りに移ったのなら、自分の生涯は――――ようやく此処で終わる、だから。


「‥‥聞こえるか、悪魔」


 呼びかけに、悪魔は高笑いで返した。


 —―――二度と頼らないのではなかったのか?—――


「宿主が、こんな早く死んでいいのか?」


 —―――口の減らない。では、何を求める?—――


「生き残る事」


 —―――上々だ。ようやく楽しめそうではないか。では、何を差し出す?—――


「知れた事を、言ってるんじゃない!!」


 両の爪を鈍く輝かせた獣が宙を舞う。それは必殺の狩り。


 首を噛み砕き、逃げ惑う獲物の振り払いを深く刺した爪で抑え、動脈を必ず切断する捕食者にのみ許された強者の証。攻撃とは生ぬるい、これは殺人でしかない。


「喰らってみせろ!!」


 捕食者の一撃が腕に食い込む。だが、それは狙った箇所ではなかった。


 生まれ出たのは漆黒の筋が絡み付いた――――肉を編まれた身体。


 眼球を見開いた捕食者は、そのまま噛み千切る咬力を選ぶが――――この身体に牙や爪がどれだけ意味があろうか。獲物であった人間の身体から生え出た腕は、瞬時に形を取り戻し、切断して食い込んだ牙と爪を覆い尽くし逃げ場を完全に奪い去る。


 獰猛な獣の捕獲方法。それは腕を縛り上げ、顎を完全に閉ざす捕縛技巧。


「兵士には見つかりたくない」


 絞め殺すつもりで捩じ上げた獣が完全に動きを止める。


 暴れ狂う音が終わり、トドメの刺し時だと察した兵士達の駆け足が聞こえてくる。


 仕方ないと考え、是からの道筋を造り出す。


「逃げろ!!まだ動くぞ!!」


 叫んだ瞬間、指揮官と思わしき声が静止を求める。


 関節と筋肉を数倍に増して造り出された腕を振るい、獣を外へ投げるしかない。


 重量さえ無視した投擲という非現実的な光景など、兵士達からすれば自分の意思で獣が飛び出て来たのと相違ない―――そう確信した時だった、


 獣が新たなエンジンやギアでも搭載、起動させたように手足と口を結び上げていた黒の肉塊から徐々に猶予を作り始める。


「死に損ないが―――」


 左腕を覆い隠すように生み出されている腕に、更に肉を送り続ける。心臓から血をそのまま送り出す感覚が持続的に開始される。なのに、獣はあり得ない筋力で立ち上がる。


「—――予定変更。殺すか」


 右手から造り出す――――あちらの世界の知識の産物である、徹甲弾の砲口。


 弾はタグステン、劣化ウランを編み込み、硬芯として造り出した――――装甲を貫通する事を目的として造り出された『硬芯徹甲弾』を我が肉体で仮想する。


 視覚化出来る世界の果てを通り過ぎ、放たれた砲弾の力は弾着時の速度の二乗、質量により更に増大。肉体を持つ獣には有り余る膂力を持つ。


 よって、これならば易々と殺せる。


「飛び込んだ家を間違えたな。では、死ね」


 油断した。獣をただの獣と見間違えた。


 全身のバネを使い潰し、再度床へと倒れ込む。視界の隅を覆う血の塊と思わしきそれは獣の口中から現れていた。血の塊は残っていた窓を易々と破壊していく。


 ガラス片を浴びながら、砲弾の照準を固定する―――だが、その時には顔を目が掛けて飛び込む光景だった。


 狙いは済ませている。ならば、早撃ちの真似事をするしかない。呼吸すら遅い、肺の膨らみなど待っていられない時と時の狭間にて、響き渡った銃声はふたつだった。


 徹甲弾は獣の中心へと放たれ、人の数倍はある身体は天井へと叩き上げられる。そして僅かに空中で停滞した瞬間—―――去った筈の猟銃の銃口が火を上げていた。


 獣の皮膚が分厚かったのが功を奏した。


 背中の中心を捉えた重量を持つ鉛玉によって獣は窓に外へと弾き出される。


 待ち望んでいたらしい外の兵士達が号令と共に再度銃声を上げ、獣へと発砲していく中、足音は遠くへと去って行くのが聞こえた。


「大丈夫!?」


「‥‥大丈夫。だけど、すごいな」


「見直した?ちゃんと銃は使えるんだよ」


 身長の半分以上はある長大な猟銃を手にしたアビゲイルが、駆け寄りながら声を掛けてくれた。そしてその後ろから同じ銃を手にしたミシュレさんも。


「ごめんなさい。守って貰って」


 手には銃と共に、救急箱を下げている。けれど、あまりにも派手にやり過ぎた結果だった。残っていた兵士達が安否確認の為に流れ込んでくるのを振動で感じていた。


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