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悪魔の形 —————これが私の異世界——————  作者: 一沢


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第1話

 肩を揺さぶられる。自然と反応した瞼が開かれた時、窓ガラスから差し込む日差しに眼球を焼かれる。白一色の光景に脳が命令するより先に瞳を閉じた時だった。


「見てみろって!」


「‥どうした?」


「ほら!あれだよ、あれ!!」


「‥‥ああ、あれか‥」


 再度閉じた瞳をなんだと思ったのか、絶対に譲らないとばかりにこちらが反応するまで揺さぶられた。仕方ない、だってこれで終わりだ。そう自分に言い聞かせた。


 入学早々の行事—―――内容としては親睦を深める為とやらだっただろうか。一年全員で行くバスツアー、確かそうであった筈だ。そう通達された筈だった。


「あんな山のどこがいいんだよ?土日潰してまで行く所か?」


 2時間のバス山道旅を経て、ようやく見えてきたのはただの山。


 強いて言えば、周りよりも多少標高が高い。その程度—――現時点で目視できる範囲の感想だった。だが、それだけはないと告げてくる『同級生』に、視線を向ける。


「説明しただろう!?あの山にはな!」


「新兵器だっけ?」


「ちっげーよ!!救出用操作機体の!」


 いつの間にか製造番号だなんだの話となったが、近年の地殻変動によって運用が決定されたロボットの実験場兼開発現場との事だった。


 しかし、あまりいい話は聞かないのもまた事実であった。


 運用テスト中の事故によって30人前後が正体不明の爆発で死亡した、とニュースで流れていた。けれど、そんな事はお構いなしに続けられる説明に意識が覚醒する。


 よく閉鎖されないものだ。そう口を衝きそうになったが止める事が叶った。これは国家的なプロジェクトなのだ、寧ろそれぐらいの犠牲は付き物なのかもしれない。


「はいはい、人類の未来の為の施設だったか‥」


「まぁ、いいさ。お前だって、見ればきっと!!」


「うるさいんだけど‥」


「こいつに言え」


「隣でしょう?あんたが止めなさいよ‥」


 後ろの席から聞こえてきたのは、気怠気な声だった。


「こっちは昨日の夜に思い出して急いで来たんだから‥。勘弁して欲しいんだけど」


「バイトか何かしてるんだっけ?」


「そう、バイトバイト」


 うるさいと言った少女に、隣の女子が話しかけた。眠そうな癖に同性からの質問には律儀に答えている。楽しくやってるなら、無視してくれればいいのものを。


 僅かながらの高揚感の発散場所を求めているようだった。


「‥なぁ」


「なんだ?」


 もう眠気が覚めてしまった。仕方ないと相手にする為、目頭を軽く解きほぐす。


「後ろの子たち、可愛くね?」


「顔見てないから、知らない」


「なら見ろって‥」


 いくら声を潜めても、この距離なら絶対聞こえるに決まっている。


 馬鹿なのか?けれど、やはり少年は肩を揺さぶるばかりだった。


 急かされるままに座席と座席の間から後ろを覗くと、1人は不機嫌そうに足を組み、もう1人は困ったように笑っている。やはりと言うか、当然のように話が聞こえていたようで、どちらとも目が合ってしまった。


「‥なぁ?」


「ああ、いいじゃないか?どうでも」


「勝手に覗いてそれ?自分の顔見てから言えば?」


「悪かった、どっちも綺麗だよ」


「気の抜けた返事、ありがとう。そっちは普通ね」


「どうも」


 『どうせもう一度寝て起きたら忘れる』


 いやもう、『忘れ始めた』。彼女達は一体どんな顔で声だったか?—―――考えるだけ無駄と意識を閉じて、消耗される脳細胞を留めにかかる。


「‥‥後、どのくらい?」


「後、10分ってところだ。楽しみになってきただろう?」


「そうかもな‥」


 着いたら、別の人間に『これ』を預けよう。あちらでも付きまとわれてはただただ邪魔で不愉快だった。だから、これは今だけだと言い聞かせて座席に設置された通路側の肘掛けに肘をつく。出来る限り、この声から離れたかった。


「あの‥‥」


「お、なんだ?」


「あ、いえ。そちらの‥」


 隣と背後が会話を始める。後10分など待てないかもしれない。何故こんなにも車内は騒がしいのだろうか。何故放って置いてくれないのだろうか。


 最後の祈りなど興味もないが―――終わりは『静寂』にと誓っていた。


「あ、そうすか‥。なぁ、呼ばれてるぞ」


 もう一度肩を叩かれる。骨を通して脳髄を揺さぶられる感覚に不快感、内臓が浮き上がりそうな感覚がする。耐える為無視しようと思ったが、続けて揺すられる。


「なんか用だってよ」


「‥どうかしたか?」


 聞こえないように、心で舌打ち。振り返って、通路側から後ろの座席覗き込む。


 決して狭くないバスの車内だが、それでも頭を座席から飛び出すと、後ろ全体が見渡せる。そして、もう忘れた顔も。


「気分が悪いの‥?顔色があんまり‥」


 心配そうなブラウンの目で見つめてくる。確かに見目麗しいのかもしれない。


「‥平気だよ。気にしないでいいから」


 気を遣ってくれたようだが迷惑だ。


 気分が悪いとわかっているのに、後ろを見る為に頭を振らせるなんて―――けれど、無駄な諍いなどここでは出来ない。そう信じ込ませて話しかけて、それなりの対応を続けながら、前に視線を戻そうとした時だった。


「あの、もしよかったら」


「ん?ああ、酔い止め‥。いいのか?」


「はい。どうぞ」


 飲み薬タイプの酔い止めが顔の横に突き出された。


 出来る限り指には触れないように、瓶の蓋を指で摘んで受け取る。


「‥‥甘い」


「私、甘くないと飲めなくて‥。どうですか?」


 瓶の蓋を開けて一気に流し込んだ結果、息が薬品臭くなった。けれど、胃酸の味よりもましだと納得する。だから――――諦めて返事を開始する。


「‥いい感じだ。ありがと」


 振り返らずに手を後ろに振って、目を閉じる。


「なぁ、知り合い?」


「次叩いたら、お前に吐くからな。いいか?もう、話しかけるな」


 再度眠れる時間などない。


 けれど揺さぶられた神経を整えるには、これが経験上最適だと理解していた。


 制服の上着を布団代わりにして被る。叩いてきた奴には、釘を刺す。これで暫くはゆっくり出来る。


 急勾配な坂も突然のカーブでも、全くスピードを緩めずにバスは山道を進んで行くのが、胃酸と酔い止めの混ざり具合でわかる。


 頭の中が、焼けつくように痛む。


 外的要因ではない精神の揺さぶりにも酔い止めが効いているらしく、突発的に巻き起こる激情も姿を見せない。気の迷いで全てを台無しには出来ない。


「良かったの?あんな奴に」


「うん、いっぱい持って来てるから。一本いる?」


「‥貰っとく」


 後ろからまた声が聞こえてきた。


「‥めんどくさいよね。わざわざ事故が起こった場所に行くなんて」


「あの事故、原因不明って言ってるけど、どうなんだろう?」


「さぁ、どうでもよくない?どうせ、素直に答える訳無いし」


「‥そうかもね」


 僅かに含みのある返事に、片方の少女が反応したのがわかった。


「気になるの?」


「‥少しだけ」


「‥ごめん、家族でもいた?」


「あ、そういう訳じゃないの。お父さんの仕事で少し関係してるってだけだから」


 慌てるような声が聞こえる。それと、思った以上に気怠気な声の持ち主は、人にかける情を持ち合わせているようだった。


 それとも―――新たな人脈の開拓口を見つけたのか。


「もしかして、お金持ち?」


「全然!そんな事無いから!」


「家どこ?」


「3番街の‥」


「お金持ちじゃん!!3番街って、あの3番街!?」


「すげぇ‥」


 気怠気な声が、感嘆な声に様変わり。そして、隣の少年も息を漏らした。


 3番街出身—――これまでの生活のどこかで会ったかもしれない。


 1番街、2番街という行政地区を囲むように作られた―――議員や代議士、政治家やそれに類する、もしくは意見できる管理する側が住む街。どうやら、酔い止めをくれた少女の親は、兵器製造が許された唯一の会社に勤めているらしい。


「私なんか7番街なのに‥‥生まれが違い過ぎ‥」


「7番街!?凄い!バイトって、モデル!?」


「え、ま、まぁ、そんなとこ‥。名刺見る?」


 どうやら、気怠気な声もただの一般人では無さそうだ。


 けれど、そんな思考を許さないと告げるように、三度肩を叩かれる。


「住む世界が違うなぁ。お前はどこ?」


「‥吐くぞ?」


「よせって!?実は俺、5番街なんだ。田舎っぽいだろう?」


「いいとこじゃないか。あそこは水がいい。それに水路が綺麗だ」


「まぁな。浄水とか食料とかも製造してるところだし。‥俺も気に入ってる」


 そこは街全体の食料自給の全てを担ってる。


 農場やダム、食料の研究をしている大学も多くあり、人工的な食肉や魚肉、それに一般的な野菜の完全な水耕栽培も達成した街。だが逆に言えば安く買いたたかれる街でもあった。同時に―――あまり縁のない土地でもある。


「起きたら、教えてくれよ。俺、外に出た事ほとんどないから、知りたいんだ」


「‥気が向いたらな」


「おう。じゃあ気が向いたら押してくれよな」


 外への展望を持ち合わせている―――きっと彼は良い人間なのだろう、むしろ良い奴と断言できる。無理に聞き出さず、自然とその時が訪れるまで待ち続けてくれる。


 あの街の空気がこの感性を造り上げた。証明は粛々と進んでいるようだ。


「そろそろ到着するので、降りる準備を!」


 名前すら覚えていない女の先生の声が、運転席近くの座席から聞こえてくる。


 煩わしい甲高い声だった―――本当に吐かせる気だろうか?酔い止めのお陰で収まってた頭痛が、戻ってきた―――思い出してしまった。


「‥5番街って、どんな感じ?」


「お!起きたのか?綺麗でいい街だぞ。街中に水道が張り巡らせてるから、夏でも涼しくてな。それに、大学の学祭でただで飯が食えてよ」


「‥いい所だな。行ってみたい」


「お、行くか?案内するぞ!」


「‥今度な」


 そう、今度。でも、その今度は永遠に来ない。


 ここは4番街。学問と言ったら、この街が筆頭に上がる学問の街。必ず誰もが通る道であって、誰でも入れて、誰でも外に帰れる街。


 だけど、『この自分は』この街から出れない。


 出れるとしたら、灰になった時だろうか―――






「眩しい‥」


 バスから降りた時の第一声は皆一様にそれで、自分も例に漏れなかった。


「水爆にも耐えられる装甲だったか?」


「お、なんだ知ってるんじゃないか。そうそう、水爆にも耐えられるドーム。本当かどうか試したら、俺らは滅ぶかもな」


「その前に滅ぶんじゃないか?原因不明の爆発で」


「ほら、早く行きなさい。それと、私語は厳禁で」


 背中を女の先生に押されて、ドームの中に押し込まれる。


 ドームの表面は青と紫が混ざったような色。他所の街で開発された日光吸収力80%を達成、発電の長期間の保管をもクリアした装甲で出来ていた。毒々しい、そう言ってしまうよく出来た―――隙ひとつない装甲だ。


「‥これが玄関なのかよ?」


「ああ。そうみたいだ」


 1番街の自治省のような玄関だった。寧ろ、それをイメージしてるのだろうか?


 外から見ても異様と言ってもいいほど巨大だったが、中も勿論、地下も掘っているからか、敷地面積の数倍にも感じられた。


 入った玄関は地上に露出しているドームの3分の1近くを使っている。そして吹き抜けにもなっていた。


「すげ〜何十階だ?」


「この下に倍以上あるんだろう?パンフレットでも無いと迷うかも」


 一階の筈の受付兼玄関から見える光景は、『異常』の一言しか出てこない。


「あれ、全部エレベーターか?」


 ドーム中央を大量のエレベーターが柱のように設置されていた。


 ―――不思議だ、地中まで埋まっているこの球体の血管に見えてくる。


 吹き抜けの天井は、『空』が見えているせいで透明で何もないように見えるが、実際は違う。あれは映像で、しっかりと装甲が天井の外を守っている。


「‥チッ‥」


 気に食わない。心の中で留めておくべき感情が顔を見せてしまう。


「はい!注目!」


 私語は厳禁とか言っておきながら、自分はこの大声だった。


「これから実験場に行くために、エレベーターに乗ります。だけど、ここは今も仕事中なので、全部のエレベーターを独占しては迷惑です。よってここで班を分けます。今回は一時的に出身の街で班を作るので」


 息が止まった―――冗談ではない。


「えー、今渡す冊子に班が書いてあるので、それに従って」


 説明を続けながらの先生達と、ここの案内の職員が冊子を手渡してくる。


 悟られぬよう、指を切る勢いで一瞬で冊子の目次を開ききる。そして施設見取り図の案内ページ、今後のタイムスケジュールをすべて無視。


 最後の項目、班分けについて書いてあるページにたどり着く。


 白紙だ。俺の出身は無い。安堵と共に、喉を干上がらせる想定外の事象への対処を逡巡する。けれど、どれもこれも現実的ではなかった。


「なんだ、結局身内とかよ」


 隣の5番街出身の少年はページをさらさらとめくり、班分けのページに辿り着くまでの過程を楽しみながら、こちらの焦りを煽るように「で、どこ出身?」と聞いてくる。


 ここで下手に話を合わせるべきでない。そう確信した。


「‥後でな」


「ん?おう、またな」


 ページを閉じて、身内同士であった事に残念そうだったり、むしろ喜んでいたりする学生の中を通り抜ける。そのまま何も見つめないで、教員達に声をかけた。


「先生、少しいいですか?」


 今後の段取りを会議している中、無作法に割って入ってきた自分に対する視線は怪訝な物だった。けれど、一番年若い女性が先頭を切って応えてくる。


「どうしたの?早く街のみんなと」


「名前が無いんです」


 背中を押しながら急かしてくるが、その手を振り払ってページを見せて名前が無い事を示す。この言葉は彼女達も驚いたらしく、皆一様に察しを開いた。


「冊子のミスかな?」


「はい、だから先生方と」


「あ、ごめんなさい。私達はこれから別の部屋に移動するから―――あなたの出身は?」


 教えられてないのか。


 それとも、このボケた顔は作り物か?彼女はこちらの手が回っていないのか。


 ――――自分は失敗したと確信する。すぐにでも答えられなかった時点で、詰みを悟った。どこでもいい、適当な街を告げればよかった。だけど生まれ育った街を誤魔化すには―――この場は相応しくなかった。すぐさま嘘だと露呈する。


「‥ねぇ、どうしたの?街に友達が」


 女性の声が神経を逆撫でする。背後の教員達も変わらずに、自分の答えを待っている。こうしているだけで、自分の身体が縮んでいくのがわかる。だけど―――


「そいつは1人です」


 女の先生の後ろから、男の声が聞こえてきた。


「そいつとは、私達が乗ります」


 教員の一団を割ってきたのは、2人の黒スーツを従えた灰色のスーツ。


「‥すみませんが、どなたで」


「よせ‥。すみません、後はお任せします」


 背中で何も答えない自分を守るように躍り出た女性の肩を掴んだ男性教員は―――皆揃ってエレベーター近くで屯っている生徒達の場所に走って行く。


「真っ当な学生生活が出来ると思うなよ?」


「‥別に、期待してな―――」


 Yシャツの襟を掴まれて、持ち上げられる。


 振って湧いた好機であった。こんな幸運に恵まれるとは―――。


「その口はなんだ?私のお陰で、外で暮らせるんだろうが!?」


 腹に膝が食い込んでくる。


 折角酔い止めで止められた胃液がせり上がり、灰色のスーツを汚してしまう。


「‥っ!おい!」


 2人の黒スーツに命令させて、両腕を掴んで、跪かせてくる。


「このスーツはお前が一生かかっても買えない代物でな?また俺に借りが出来たな!!」


 黒い革靴で、また腹を刺してくる。


 周りから悲鳴が聞こえるが、そんなもの構わずに靴や拳を続けてくる。


「—――もう反応もしないのか。慣れたか?」


「飽きたなら、離せよ」


 トドメのように、踵裏の鋭い剣山のような底で唇を切り裂いてきた。


「‥もういい。起こせ」


 両肩の関節を決めながら、無理矢理起こされる。起こされた唇から床に血が滴り、白と茶色の大理石の継ぎ目に血が流れていく。


「エレベーターは密室だからな。何かあったら大変だ。わざわざ、俺がお前の為に」


「お前はあの中で一番の無能だった。居場所が無いから、ここまで追い出されたんだろう?」


 よく蹴りや拳を使ってくるが骨は折れない。


 もう取り返しがつかない傷を負わせるような暴力を振る度胸が無いのも、変わらない。無能で小心者―――部下を連れている時点で、自分達の存在意義を盲目していた。どうして自分達が作り出されたのか、知らないわけがないのに。


「行くぞ。大人しくしとけよ、いいな?」


 髪を掴んで、目を無理矢理合わせてくる。


「返事は!?」


「‥はい」


 ようやく離した黒のスーツ達は、エレベーターの前で俺が殴られる姿を見ていた生徒達をかき分けて、エレベーターまでの道を作る。


「最初からそうしてればよかったのにな?ほら、さっさと、行けよっ!!」


 もう隠しもしないのか―――こちらぼ望んだ通りに『銃』を向けて急かしてくる。


 再度、悲鳴が上がる。やはり『これ』は失敗作だ、この施設はあらゆる街が出資して作られたドーム。そこで暴力騒ぎどころか、銃の持ち込みを向けてしまった。


 ―――始末されるのは決まっていたが、哀れだ。


 もうこの顔を見る事はないだろう。また自分も顔を見せる事もなくなる。


「さっさと行けよ!!」


 言いなりは嫌いだが、銃で撃たれるのは、もう御免だった。


 口からの血を制服で拭って、生徒達の壁を歩いて通る。


 5番街や7番街、そして3番街は口に手を当てている。そしてあの女の教員は、目も合わせない―――話を聞いたようだ。


 伝達不足により時間を失った―――あの男性教諭達も近々処分されるだろう。


 初めて話した『教員』という種族だったが、銃口には勝てないらしい。


「いい様だな。折角、自由になれると思ったのにな?」


「‥あばよ」


「あ?おかしくなったか?これからも、お前は」


「ここは『1番街』が作った施設。そこで『暴力』、『脅迫』、『拳銃』を出したお前が、ただで済むと思ってるのか?—―――お前も、貧乏くじを引かされたな」


 顔は見えないが三人分の息を呑む音が聞こえる――――灰色のスーツや黒のスーツの顔が真っ青に染まっていくのが、手に取るようにわかる。


「わかってるだろうが、手下共、お前らもだ。家族共々、もうまともな仕事どころか生きる事すら出来ない。逃げられるとは思うな、今までの贖罪を積め」


 慌てて転び、縋りつくように足を掴んでくるが、自分は蹴り付けて先に進む。


 自分達だけは救われる。


 そう確信して長い物には巻かれていたようだが、この言葉を見誤ったようだ。彼らも所詮は消耗品。長生き出来ていた事で、忘れていたようだ。


「わ、私は‥」


「俺だって、あなたがいいって!」


 未だ生にしがみつきたいらしく、すぐさま自分達の飼い主に泣きつく。


 これも広い意味では、仲間割れと言うのだろうか?それとも擦りつけ合いか。裁かれる時は、全員まとめて―――仲良く灰に、畑の肥やしとなるだろう。


 その情景を思い描きながら、ひとり―――真っ青な三匹の羊を置いて、エレベーターに乗り込む。振り抜いた時には、既に毅然とした男性諸君の表情は涙で汚れていた。わずかに優越感に浸ってしまう。


「逃げてみろ。どっちにしろ、もう会わない。達者でな」


 このまま失禁でもしかねないほど震えているコピー達を無視し、冊子を確認しながら地下20階のボタンを押す。


「最後だ」


「お、お前!?」


「死ぬのなら自分でやれ。早くしないと、今までお前がやってきた事が、そのまま帰ってくる―――散々繰り返してきたんだ、お前も股でも洗っておいたらどうだ?」


 最後まで聞こえたかどうか預かり知る所ではない―――ああ、ただ、最後にアイツの泣き顔をもう一度作れて満足だった。







「最後だ、お前に感謝を告げよう」


 エレベーターの中だというのに、なんの障害もなく電波が届く。


「あの愚か者の始末、よくやってくれた。これでなんの憂いもなく、お前を処分できる」


「あいつは、もう殺されたのか?」


「自分で死んだ。最後に周りも巻き込んで、生徒や職員に、何人も死傷者を出している―――悲しい事故、いや事件だ。まさか実行犯が、お前のような子供とは‥」


 あのコピーは、最後まで愚かだったようだ。


 あの三番街の女生徒にも弾丸が飛んだとすれば、もはやどれだけの首を堕とせばいいか想像もできない。我ら量産品にはあずかり知らぬ事だが。


「あの劣化の手駒も逮捕した。ふたり仲良く、家族共々街から逃げる気だったようだが。3人あわせて、暴行に殺人に、誘拐に、拷問に、あとあれだ、外患誘致」


「全部お前が命令したことだろう」


「どこにそんな証拠がある?」


 散々頼っておきながら、これだ。本当に手駒でしかなかった。


「今回のテロは、全てお前が仕組んだ事として処理する予定だ。安心して死んでくれ。もう起こす事もない、ようやく眠りにつけるぞ」


「ここは『1番街』が作ったドームだ。俺ひとりの責任に出来る訳がないだろう。あんたまで、銃を抜く気か?」


「まさか、全て下にやらせる。良かったではないか、身内に殺されて。見ず知らずの他人では寂しかろう?」


 一体何人殺したんだ。


 この言い方だと、本当の戦闘職の部隊が向かっている、違う、すぐ近くに隠れていたのか―――用意周到な事だ。そもそも逮捕とは名ばかりの口封じを敢行する予定だったようだ。恐らく頭蓋を狙撃、住処すら爆破処理し終わった所だろう。


「そこのエレベーターの前で待っていろ、すぐに到着して」


 連絡を切って、スマホのデータをSNSに暴露する。


「お前も馬鹿だな。大人しくデータを処分する訳無いだろう?だから、そこの席から上に行けないんだよ―――お前も、所詮奴隷だよ。管理者側にいるつもりだったのか?」


 今までの連絡内容は全て保存してある。


 そして偽造したアカウントで隠していたSNSにデータを全て投稿する――――様はない。自身の性癖すら仕事として、頼っていた罰だ。


 自分の恥部を公開しながら、電気椅子で眠ってくれ。


「これで1番街どころか、街全体のパワーバランスが崩壊する。逃げ回れよ貴族気取りども、民主主義が殺しにくるぞ。今までの嘘ハッタリは、もう通じない」


 ガラスのエレベーターに映る自分の顔を眺めていると、改めてわかる。


 もう表にも裏にも帰る場所は無い。


 劣化が進み、激情を抑えられない。記憶が断片的にしか呼び起こせない。


「悪い事したなぁ。えーと、誰だっけ?どうでもいいか」


 隣の奴と、後ろの2人。3番街出身の『人間』が死んでいたらのなら大事件だ。


 最早、俺を殺したからと言って終わる事件ではなくなる。


 融資に投資、あの会社から多くの金が流れていた。あそこからの供給がストップして、その原因が劣化筆頭自身だと明るみに出たならば―――今までの立場は勿論、あのゴミ溜めも全て解散、その上で処刑と解体――――これが現実だ。


「‥すごいな。もうこんなに。ネットニュースは相変わらず早い」


 本当ならデータの詳細と真実であるか否かを調べないとならないが、それはそれで面白い。


 この街は勿論、1番閲覧数が多いメディアのニュースサイトに続々とニュースが飛び込んでくる。これだけ続くと爽快だ。今まで不審死、不起訴、答弁を差し控えると誤魔化していた謎が―――すべて解明されていくからだ。


 世界の真実に触れたと確証しただろうか?


 悲しきかな、造り出されてきた人間が自分の存在理由を知った時、正気でいられる―――かなかなかに娯楽であった事だろう。まじかで見られなくて残念だ。


 闇から闇と葬ってきた暗部が、終ぞ明るみに出る。


「お、早いな」


 早速、劣化が止まらない大人から連絡がきた。


「面白いし、少し待ってみるか?―――――おう、なんだ?」


「貴様!?こんな事して!ただで済むと!?」


 絵に描いたような狼狽だった。


 まさか、自分が売られる立場になるとは思っていなかったのか、これ以上ない程の過呼吸がマイクの向こう側から聴こえてくる。そのまま心不全で、イってくれ。


「もうすぐお前の『周期』が来ていたはずだ。それに俺は死ぬんだろう?良かったじゃないか、1人で死ななくて。皆んなまとめてあの世行きだ。付き合ってやるよ」


 我、復讐はここに果たされたり。そう呟くと、大人は喉を『あ』だけを続けて、ひとりオペラを開始する。上下左右、グラデーションを感じさせる声だった。


「地獄には三途の川があるらしいぞ、今からでも水泳教室に通って、水に慣れておけよ。まぁ、そこで溺死でもされたら大変だけど。それとも跳び込めとか言わるか?」


「いいのか!?今なら、まだ間に合って」


 スマホを握り潰して、通話を切る。


「どっちにしろ、俺を殺すんだろ?癇癪持ちめ」


 冊子を開き、どのような順路で回るつもりだったのか、確認する。


「‥つまんない」


 見学、見学、見学。いじらせてもらえるとは思ってなかったが、まさかここまでつまらないとは。


「‥適当に歩くか」


 ここの職員に武装している保安官がいるとは思えない。


 もしいたら、問答無用であの馬鹿を射殺しただろう。


 それ位には、この建物は本来なら厳重であるべきなのに―――女性職員の悲鳴が何度も上がっても、誰もこなかった。


「‥いや、違うか。銃を出すまで待ったのか‥‥何人死んでもよかったのか」


 特捜部が入ったら嫌でも判明する事だ。


 一体どんな言い訳をするのか見ものだが――――それ以前の脳無しが見えてきた。


「お迎えか。劣化共が、俺を殺してどうにかなるレベルなんか、とっくに過ぎてるのに。いや、やっぱり『混成』に失敗した無能か。何にも考えられないから、手下止まりなんだよ。安月給め」


 10はあるエレベーターが続々と下に向かって動いているらしく、下向きのボタンが点灯していく。


 壮観だ、今まで追う側だったのに、今度は追われる側とは。


 忙しいなのか、暇なのか。どちらにしても、追ってくる奴らも全て、須らくあの世行きの処理だ。


「この期に及んで、あの劣化頭の言うことを聞くだなんて。小遣い分は働きたいのか?社畜どもが――――どうせなら!!」


 冊子を投げ捨てて、廊下を走り抜ける。


 立ち入り禁止エリアへと。


 一体どんな物が研究されて、実験されているのか。楽しみだ。核物質か?それとも、毒ガス兵器か?もしくは人体実験とか?


 どれにしても面白いそうだ。この手によって、1番街と13番街の正面衝突が引き起こされる。いい出し物だ。絶対に特等席で―――ああ、きっと特等席だ。


「‥‥俺、もうすぐ死ぬんだった」


 急に現実に帰ってきてしまった。でも、廊下を走るスピードは緩められない。


「本当に馬鹿だな!!ここで撃つか!?」


 エレベーターから降りてきた治安維持部隊が、なんの躊躇も無しに小銃を撃つ。


 姿勢をできるだけ低くして、最悪頭に当たらなければいいと、背中を晒して走り続ける。




 ――――絶叫と興奮に浸った所為だ。息が限界となってきた。


 この階層は、あのロボットの研究、実習、開発が目的の実験施設であった。同時に人材不足でもあるらしく、学生に対してのポスターが所狭しと壁に貼ってある。


 ただ、ポスターのロボットのデザイン性は皆無だ。


 ショベルカーの操縦席に腕と足、もしくは足代わりにキャタピラをつけているだけ。美しくない、人間モドキの鉄塊止まり。無骨だろうか?無味乾燥だ。


「止まれ!!止まらなければ撃つぞっ!!」


 未だに後頭部は勿論、背中にすら突き刺さらない弾丸は威嚇を続ける蜂のようだった。軽い断続的な発砲音と壁を削る固い音とだけが響く中――――そんな妄言に、つい返事をしてしまう。


「それだけ何十発も撃っておいてなにが撃つぞだ!?本当に揃って軒並み馬鹿だな!?だから、実行部隊止まりなんだよ!!」


 ここの職員は、もう全員退避したらしく誰もいない。


 いたとしても、これだけ銃声が響いている廊下に飛び出るような奴はいない。


 隠れる場所もない真っ直ぐで、クリーム色でゴム質の床を靴底で蹴り付けて走る。


 後ろからの銃声は止まないが一発も当たらない。追い込むのが目的なのか、それともただ下手なのか、やはり一向に擦りもしない。


「いいぞ!このまま追い詰めろ!!」


 ならそれに付き合ってやろう。だけど、この自分はどこまでも逃げられる。支給されていた―――『死亡祝い』として拝借したカードで。


「おい!どうして、あそこのゲートは!!」


 知らなかったらしい。


 潜入官には、この街のあらゆる禁止区域に入り込める鍵がある。返却数を確認しておかないから、こうなるのだと心の中で忠告する。


 廊下の先にあった鋼鉄製で電子ロックの扉をカード一枚で開ける。ここのロックの開発会社には、過去に潜入していた。


 開発会社とこの仕様を選んだ1番街の管理者側は癒着している。よって不都合な潜入の事実は闇に葬られたのを、下っ端が知る筈ない。これだから最下級は馬鹿だ。


 何も知らないと知ろうとしないをはき違えている。


「辞める餞別として貰っておいて正解だった」


 鋼鉄の扉が開いた瞬間に入り込み、扉裏側の端末を操作してロックをする。


「どうせ、すぐ開くだろうけど」


 口を閉じていく隔壁に、硬くて軽い弾丸が阻まれる音が聞こえてくる。


「税金の無駄だな。その扉と弾丸を誰が買ったのか知らないのかよ」


 硬貨をそのまま発射するように、何十発もの弾丸の音が響く。


 いい加減気付くべきだ。扉を傷付ければ傷付けるほど、自らの首にかかる縄が増えていくと。それとも、捕まるよりも恐ろしいものがあると思っているのか?


 その恐ろしい奴は、もう潰されたというのに―――後ろ指を刺される恐怖は耐え難いと知らないようだ。


「―――さてと」


 すぐ後ろには、エアシャワー室が設置されていた。


 どうやら生物実験の方だったみたいだ。


 もしくは生物のように繊細な機器かもしれない。息の水分だけで、ショートする回路もあるのだから。


「これで余計な埃とか取れるのか?」


 上や下、それに左右や前後の八方から軽い風を受けるが、それだけだ。


 ここでガス兵器でも噴射しておけば、始末できたというのに―――エアシャワーを浴びた先には、立ち入り禁止の赤字とハザードマークが板金されている扉があった。


「エレベーターか」


 ただ一階の為だけに造られた『エレベーターを守っている扉』の端末にもカードを当てて、無理矢理こじ開ける。軽い認証、電子音には間の抜けた声を感じる。


「開いてしまったな。なら行かないと」


 防護服も着ないで、秘密の実験場に行くのは自殺行為だ。


 けれど、なんにしても自分はこのドームからは生きては出られない―――だったら、死に方ぐらいは自分で選びたい。


「放射線か、細菌か、まぁ弾丸よりは苦しいだろな。俺も銃か、ナイフでも持ってれば良かった」


 すぱっと、死にたい時に死ねる。


 それは幸福だ。


 上でくたばったあの『劣化』は、よく人をいたぶって死ぬまで遊んでいた。


 あれはつらいだろうと、いつも思っていた。だが最近拷問が禁止されてから、その分を完成度が低い培養体、コピーや俺に拳を振っていたが、やはり小物だ。


 気が付いた時には、自分が最も劣化が止まらないでいたのだから。


「禁止された拷問をバラされるの、嫌がってたなぁ。怒られるのが嫌いだったのかも―――もう一度、拳骨でも叩き割ってやればよかったな」


 呟いてみるが、それは空虚な震わせとしてしぼんでしまう。死と呼ばれる『終わり』に慣れてしまった所為だ。上の劣化品はもう周期を終え、廃棄目前であった。


 どうでもいいのだ。結局。だって自分も、近々そうなっていたのだから。


「耳が痛い。そんなに地下なのか?」


 気圧が変わり、耳鳴りが始まった。クラクラしてくる。


 耳を押さえて耳鳴りに耐えるが、耳抜きをしなかったのが仇となった。


「酔い止め、もう一本貰っとけばよかった」


 あの子はいい子だ。生きていて欲しいが、原因の1人である『犯人』に祈られても迷惑かもしれない――――あの子とは、誰だったか?どうでもいい。


「そろそろか‥」


 スピードが落ちてきたのが、体感でわかる。


 さっきまで脳が浮くような感覚を受けていたが、今は両肩に泥でも乗せられているような重量感がある。耳を痛めてしまったかもしれない。耳鳴りは止んだが、奥に何か詰まったような感じが残っている。


「別にいいか。どうせ死ぬんだから」


 今更になって、怖くなってきた。


「誰にも看取られずに、1人か。―――俺の人生、ずっとこうか。嫌いだ、全部」


 最後に世界を呪っておく。人を呪わば穴二つ、世界を呪ったのだ、世界規模の呪いがきっと俺を待っているのだろう。


 ああ、せめてこの自分がいたという証として、呪いが残ればいいのに。


「くそ―――なんで‥なんで‥俺ばっかり‥」


 さっきまでの開放感は、もう消えてしまった。


「‥‥結局、誰にも褒められなかったか」


 扉が開いた時、薄暗い闇がエレベーターに差してきた。


 足に影がまとわりついてくる。気味が悪い。どこまでも逃がさない気だろうか?


「生まれたくなかったのは、俺もだよ」


 闇と影の空間に、足音を立って入り込む。


「広いなぁ。どこだ?」


 声と足音がよく響いてくる。床の質感はタイルに近いらしく、凸凹していて幾つも溝があるのがわかる。


 広い風呂場、といえばやけに庶民的な言葉になるが、そんな感じだ。


「何も見えない。今は、どこだ?」


 最初はエレベーターの光があったから良かったが、エレベーターが閉まってしまい、光が入る隙さえ消えてしまった。


「スマホ、潰さなければよかった」


 もしここに正体不明の何かがいれば、それも撮影して外に晒していたのに。惜しい事をした。だけど、死に場所を選ぶまでは歩こう。


「死なないと」


 どれくらい歩いただろう、もう1時間は歩いた筈だ。だけど、この暗闇の中では、体内時計が狂ってしまう気がする。


 歩幅と歩数で距離を測っていたが――――最初の内は考えていたが、もうやめた。無駄だと分かったから。帰る必要はないのだから。


「‥‥暇だ」


 自分の恐怖を紛らさせる為に、声を出してみる。


「次、生まれてくる時は‥‥この街は嫌だな。ずっと、つらかった」


 誰も聞いてない。そんな事は誰も興味が無い。もしいたとしても、こんな所にいる訳がない。だって、自分でさえ今の今までどうでもよかったのだから。


 話を聞いてくれる自称カウンセラーは何人かいたが、どれも上の空で聞いていた。


 ただ話を聞き流せばいい、そう言われていたのだろう。


 それだけで、救われる人間はいたのかも知れないが、お陰でこのざま――――凶悪犯兼内部暴露犯を見出せなかった白衣組も責任を取らされて処罰を受けるだろう。


「テロリストを見抜く事が出来なかった。その通りだし。」


 いくら歩いてもどこまでも真っ暗だ。どれだけ広いんだ?もしかしてエレベーター近くに車両でもあったか?


 この広さで徒歩での移動は違和感がある。


 研究所内に、そういった移動の為の乗り物があると、どこかで聞いたことがある。


「戻るのも面倒だな。‥もう、見えない」


 振り返ってみるが、もうエレベーターの扉は見えない。


「もう、死んでるのか?俺は―――」


 だとしたら、


「本当の『死』って、こんなに1人だったのか」


 急に、何かが脳を支配した。


 それは血であったり電気信号であったり細胞であったり―――それら全てが、叫ぶ声として口を操作する。止まらなくなった。感情の吐露という失敗作の烙印を、もはや止める手立てはなかった。だって―――止める必要もないのだから。


 床に膝を突いて、タイルに拳を叩きつけてみる。なにも変わらないというのに。


「嫌だっ!!嫌だ嫌だ嫌だ!!なんで、俺ばっかり!なにもしてないのに!!」


 ずっとこうだ。いつもこうだ。


 組織の不始末の世話をした時、全部お前の所為だから、お前が罪を被れ。


 こう言われた。なんで、俺なんだ。あの無能どもの所為が始まりだろう。俺の手柄を全て、あの馬鹿達が奪って行った。


 ああ、何故手柄なんて不可視の化物に、こうも縛りつけられないといけないんだ。


「もう、嫌だ。生まれも、今までも、ずっと―――」


 生まれたくて、生まれた訳じゃない。なのに、これだ。なんで生きるだけで、誰かの許可を得ないといけないのだ。息を吸う許可など、一体誰が与えた。


 俺がいつ、生んでくれなんて頼んだ?


「消えたい。死にたくない‥‥」


 急に、何かの起動音が鳴った。


 空気を吸い込んだ生き物のような低い音、そして電子機器の起動音のような高い音が鳴り始める。


「‥ここが、俺の終点か」


 特殊な装備か、それとも自動的に敵を撃ち殺す機関銃か。どちらにしても、もう顔をあげる気にもならない。


 どうでもいい。今までのように、好きにしてくれと祈り続ける。


「‥早く、やれよ」


 目の前が完全に黒く塗りつぶされていく。瞼を閉じて、暗闇に身を任せる。だけど、何も起きない。祈りなどという無駄な時間に嫌悪感を感じ始めた時だった。


「‥早く、殺せよ!!」


 顔を上げて怒鳴りつけてみるが、無駄だった。


 もう覚悟をした時間はとっくに過ぎた。だけど始まらない。


「‥なんだ?」


 立ち上がって、見てしまう。


「なんだ、これ?」


 巨大な機械。そうとしか言いようがない。


 強いて言えば、教会にある巨大なパイプオルガンに似ている。


 わかるのはキーボードある。それだけ。


 巨大なコードが絡み合うように接続された巨大な鉄の塊は、どこか艶めかしく、無機物と有機物の中間—――もしくは巨大な生物を無理やり人工的に改造したようでもあった。一歩下がればわかるが、本当にピアノかオルガンのようで画面なんかついてない。どこかの企業が作ったスーパーコンピュータの類だろうか。


 でも、こんな様式、見たことない。


 何故、個人で使うようなキーボードが設置されているの


「これの試験場なのか?」


 周りを見渡すが、やはり真っ暗だ。何かの操作コンソールと言われれば納得できるが、ここまで暗くては意味がない。だって―――、


「—――なんで、これだけ見えるんだ?」


 輝いている訳じゃない。


 そこだけスポットライトが当たっている訳じゃない。なのに、見えてしまう。


 死の覚悟をした所為で、さっきまで抱えていた怒りはどこに消えた。


「‥‥埃。誰も触ってないのか?なら、この部屋は?」


 真っ直ぐに歩いてきただけだから、正確にはわからないが恐らく、この部屋はこのピアノの為だけの部屋。これ以外に何もないと、感覚で断言できる。


 なのにキーボードには埃が積もり指に白い粉が残る。ベタつかない、完全な埃だ。


「‥‥死ねなかった」


 もう一度、膝を突く。


「なんだよ。なんで、安心してるんだ。死にたかったのに‥」


 キーボードに手をついて、立ち上がる。


「なんなんだ?エニアックの偽物か?骨董品にも程があるだろう‥‥動かないの?」


 ピアノの全貌を再度見るために一度離れるが、起動スイッチは無いように見える。


「ダメか。動かない」


 キーボードを適当に叩いてみるが、何も言わない。さっきの起動音は気のせいか?確かに、呼びかけられた音がしたのに。


「‥もういい、壊すか」


 元々いい死に場所を求めて来たのだ。それに、この機械も自分のようにお役御免になったから、ここで朽ちるに任せているようだ。


 なら、壊してもなにも問題無い。


「‥‥」


 拳を振り上げて、キーボードに狙いを澄ますが、止めてしまう。


「何やってんだ。こんな大きさ、壊せる訳ないだろう。痛いだけだ」


 ピアノから振り返って、もう一度闇に紛れようとした。その時、


「音が、」


 電子音とも唸り声とも感じ取れる音が聞こえてきた。


「お前も、俺をどうしたいんだよ」


 無意味な問いだ。こんな音声認識など、夢のまた夢の時代に作られたような代物に、声をかけてどうする。


「壊されたのか?」


 キーボードに指を置いて、聞いてみる。


「いいよな、お前は。黙ってれば、いずれ死ねるんだろう?俺は、自分じゃ選べない。誰かに殺されないと、死ねない」


 舌を噛み切る勇気なんてない。万人に出来て、万人が選ばない最悪の死に方。そんな最後、自分は耐えられない。死には慣れても、死ぬ痛みには耐えられない。


「‥遠くに行きたい。お前はどこから来たんだ?」


 答える筈ない。意識なんてない。例え、どこか遠くの国から来たとしても、これはそんな記憶を持てるメモリを持ってなどいない。


「なんで、だろうな。なんで、俺もお前も、こんな所で‥‥」


 馬鹿らしい死だ。愚かな終わりだ。


 こんな最後、望んでなんかいないのに、生まれたくて生まれた訳じゃないのに。許されない命に、意志など持たさなければ良かったのに。


「答えてくれ。俺は、ここで終わりか?俺は、ここに来る為に生きてきたのか?」


 『自分達』が何の為に作られたのか、『自分』には知る由も無い。調べる方法もない。だけど、ここまで厳重に仕舞い込んであったのだ。


 きっと誇りある歴史を作り上げ、歴史の終焉を―――この場で見守る事を許された。好きなだけ眠る事を許可された。好きなだけ微睡む時間を与えられない。


「俺は、どうすればよかった?なんで、こんなに呪われてるんだ」


 会う人間、会う人間、皆んなそうだ。


「早く死んだ方が楽になる。早く消えた方がいい。俺は、生きる事も選べないのか――――なんで、俺は、ここにいる。もう墓場から起き上がりたくない」


 ―――哀れだな―――


「え‥?」


 ―――ここまで哀れな奴。引きずり落としてやる意味もない。もう落ちる所まで、落ちているようだ―――


「誰だ?」


 立ち上がって周りを見渡すが、誰もいない。でも声は確かに、このピアノから。


「お前なのか?」


 ―――私に向かって、お前か。まぁ、いいだろう、お前の境遇に免じて許してやろう。久しぶりにいい物が喰えた―――


 確実にピアノ自身が喋っている。だけど、あまりにも暗く、何も聞こえなかったから、これは耳に届いているのか、それとも頭に直接声が届いているのかすらわからない。でも、確かに会話が出来ている。


「生きてるのか?」


 ―――生きている?随分と、つまらない事に興味があるのだな。好きに考えろ、私にとっては、やはりどうでも良い事だ――――


「‥お前は、誰だ?」


 ―――それこそどうでもいい。私は時代時代によって別の名前がある。無意味だ。価値が無い―――


 AIにしては人間に服従してこない。


 むしろ、自分の方が上の立場だと言っているようだ。


「なんの用だ?」


 ―――なに。特別、これといって用はない。ただ、お前が面白そうだから話しているだけど―――


「‥面白い?」


 ―――ああ、面白い。ここに来てから、ずっと暇であった。いい加減、話し相手が欲しいと思っていただけだ。お前程の奴が来るとは、思わなかったがな―――


「ふざけんなっ‥。俺はっ!!」


 ―――死にたいんだろう?


 その言葉に、振り上げた拳が止まる。


「‥俺を殺せるのか?」


「いいや、だが、殺せる状況は作ってやれる」


「‥っ!声が」


「そのようだ」


 低い調べが鼓膜を震わせてくる。


「お前は、なんなんだ?」


「そんな事を聞いてどうする?死ぬお前に、そんな知識、なんの価値がある」


「‥なら、俺を殺してみろ」


「契約も無しに魂を寄越すのか?それは私の主義に反する。それに、お前の魂など持て余してしまう」


 意味がわからない。魂を持て余す?どういう意味だ。


「よく聞いておけ、お前は死ぬには惜しい人間だ。私が保証しよう」


「‥なら、なんで、俺は死なないといけなんだ?」


「人間の尺度では、そのようだ。だが私の秤は、そうとは言っていない。お前にもっと苦しめと言っている」


「何が言いたいんだ?」


「お前の死に場所はここでは無い。そう言っている」


 決して宥めようとしている訳じゃない。寧ろ遊びたいと言っているようだった。


「でも、俺はもうどこにも行けない」


「そのようだ。ここから戻れば、お前を待っているのは、死だ。それ以外は何もない。お前は、ここで死なないといけない」


「俺をどうしたいんだ?殺したのか?生かしたのか?」


 いい加減混乱してきた。この言葉は、さっきから要領を得ない。自身の中で完結してしまっている。何かを打ち明ける訳でも、独白を求める訳でもない。


 ただ―――空気を振るわせて、何かに言い聞かせているようだった。


「お前こそ、どうしたいんだ?死にたかったのか?生きたいのか?消えたいのか?」


「‥‥わからない」


「命が惜しいか?」


「—――自分の最後は、自分で決めたい。俺は、いつも勝手に決められたきた」


 今までの生活は、全て他人に決められて来た。


 生まれも、育ちも、死に場所も―――ならば最後は自分で決めたい。


「ここで死にたいくない。生きたい」


「私とお前の目的が一致していた」


 ほくそ笑むような、息が聞こえた。


「ならば契約だ。特別な死に方をお前には用意してやる」


 姿はただの機械だ。表情なんかない、なのにコンソールが――――笑ったときに覗かせる八重歯のように輝いたのが見えた。そして手招きする爪のようにも。


「覚悟しろ、お前は誰にも出来ない死に方ができる。自分だけの死を見つけ出せ」


「何を払えばいい?」


「お前の命だ。だが、それではこちらが取り過ぎだ、喜べ―――お前には私の一部をくれてやる。その身には耐えがたい神々すら忌避した悪辣が造り出した―――の力を宿してみせろ」


 機械の身体が唸りを上げ始める。


「私の一部を引き継いで自分の物にしてみせろ。さすれば、お前の命はお前だけの物だ。死ぬも生きるも好きにしろ。どこでも死ぬも自分で決めてみろ」


 部屋中のタイルが震え出した。


 地震なんかじゃない、この部屋の空間自体が振動しているとわかる。


 世界からはじき出される。許されない空間にいた代償を、この身を追放する事で支払わせようとしている。内臓も骨も眼球も、全てが何かに塗り潰されるのを感じた。


「何が起こるんだ?」


「言った筈だ。お前には特別な死に方をくれてやると、私の契約は絶対だ。お前をこれからこちらの人間では決して届かない場所に送る。そこで好きに死んでみろ」


「‥‥どこに行くんだ?」


「それは行ってみてから考えろ。こんなに楽しい契約は久々だ。だが、簡単には死ぬなよ、お前の魂を受け入れるには、私を以ってしても手間がかかる。どうか、私の準備が整ってから、死んでくれ。—――最後だ、こちらに未練はないか?」


「ある訳がない。俺の居場所は、元々ここにはない」


 これが最後の問いかけだったのだろう。


 だけど―――生ける屍として生を受けた自分に、一体どれだけの価値があっただろうか。与えられた役目などそもそもが既に過ぎ去っていたのだから。


 ならば、終わりの先を見つめるしかない。再誕を望むしかなかった。


「いい返事だ。ならば契約だ、お前の魂は私の物、私の力を貸し与えたお前に、安寧などあり得ない―――どうか壮絶に無慈悲に苦しんでみせろ。お前の死はお前の物だ」





「戦争は終わってるのか?」


「武力的な流れは終わった事になってるけど、実際は小競り合いがよく起こってるの。まぁ、でも、この辺は安全かな?帝都近辺だからね」


「‥‥兵士はいるみたいだな」


「あんまり見ちゃダメ、堂々としてて」


 蒸気を吐き出して走るトラックに乗りがなら、叱られてしまった。確かに弱気になり過ぎていたかもしれない。


「すごいよな」


「何が?」


「これを前まで一人でやってたんだろう?」


 注文された物と、ほとんど押し売りに近い方法で買わせるつもりの酒類でごった返していた荷台には、もう何も残っていなかった。


 知らなかったが、蒸留所では殺菌用のアルコールすら作っているらしい。あの小屋は研究所でもあったようだ。


「て言っても、これだけ大規模に始められたのは、君が来たからだよ」


 伸ばしたオレンジの髪が顔に靡いていた。漂ってくる甘い香りに惹かれて、瞼を閉じた瞬間、鼻で笑うような声が聞こえてくる。これも蒸留所のお陰らしく、いい香りの香水も作っていた。


「どう?君の好みに合わせて、髪も伸ばしたんだよ?」


「なんで知ってるの?」


「あれで誤魔化してるつもり?お風呂から出たばっかりの時とか、いっつも私の事見てるじゃん」


「‥いいから、前見ろ」


「はーい」


 ニヤつきながら見てくる。会った時はもっとお淑やかだったというのに。


「帰ったら、どうする?倉庫の整理か?」


「うんん、明日はお休みだから好きにしてていいよ。それとも私と帝都を歩く?」


「いいなぁ、それ」


 何度目かの帝都だが、これまではほとんど同じような場所しか走っていなかったから、どこを歩いても新鮮だろうと期待していた。


 窓の外を流れる、石造りの街には目をいつも惹かれていた。


「へぇー、積極的じゃん。お父さんに叱られるかもよ?」


「寧ろ喜んでくれるだろうよ。前なんか、娘とどうか仲良くって言ってたし」


「そんな事言ってたの?」


「あの子も、お前の事はよく思ってるから、これから同じ部屋でもって」


「予定変更!!今すぐ帰る!!」


「今日は帝都の大学らしいから、しばらくは帰ってこないって。工場の方は職人さん達に任せるってさ」


「娘の私に言わないって、どういう事!?」


 揺れる車の中で怒るアビゲイルを宥めて、どうにか前輪を真っ直ぐに戻す。


「もう、なんでそんな大事な事、私に言わないのかな?」


「そう怒らないでくれ、あの人だって心配なんだ」


「‥‥なにが?」


「奥さんが亡くなって、職人の中にばかりいるアビゲイルが心配しているんだ。戦争で同年代の子達は―――帰ってきてないみたいだし。‥前にも色々あった訳だから」


「‥そうかもね」


 戦争で人口が減っているこの国では、若い人間は尚のこと貴重だ。


 なれば、若い子を捕まえて欲しがる人間に売り払う輩が生まれるのも、自然な事だった。


「君の所も、もう戦争が終わってるんだよね?良かったの?こっちに来て」


「‥‥いいも何も無い。俺は、もう役目を終えたから居場所も無かった。お陰でこっちでは自由に生きれて、楽しいよ」


「私がいるからじゃないの?」


「それもあるかな」


「‥‥何?今日は本当に積極的—――」


「折角の二人きりなんだ、もう少し、アビゲイルとの時間を楽しみたい。ダメか?」


「いいに決まってんじゃん‥!何話したい!?」


 お互い素直に慣れて楽しくなってきた。こんな人生があったとは。


「今度から俺が運転するよ」


「いいの?じゃあ、頼もうかな?」


 戦争中は一部の特権階級の人間のみが乗り回していたらしいが、それももう過去のものだった。それなりの地位と資産を持つ者ならば、コレクションとして集められる程に。


「車ばっかりだな。もう馬はいないのか?」


「舗装されてない道は、まだまだ馬が現役かな。行く事は、もうほとんど無いけど、いつかもっと平和になったら、一緒に行こう。」


「馬も乗れる?」


「当たり前じゃん。もしかして、乗れない?」


「‥‥一度も乗った事ない」


「なんか、不思議だけど、これからはそういう人の方が増えるのかもね。帝都とかの都会には、もう馬はほとんど見ない訳だから」


 流石だと思った。


 元いた世界の過去にも、そういう事が起こったらしい。馬に乗れない子供達と。


 アビゲイルの産まれた家は裕福だ。だから、未来に向けての知識はしっかりと学校で勉強しているから、自分のような人間を拒絶しない。


 それもまたあり得ると、考えてくれる。


「学校はいつから始まるんだ?」


「う〜ん、分かんないかな?だって、そもそも子供がいないからね。ウチみたいに子供が二人もいる、しかも一人は男の子なんて、そうそう無いよ。皆んな、戦場に行っちゃって、未だに誰も帰ってこないんだから」


 そもそも数少ない子供達を戦争に送って、さらに出生率を下げる。


 これも過去に自分の世界が通ってきた歴史だった。


「そっちも学校あったんでしょう?」


「あったけど、俺は数日しか行ってない。色々あって、こっちに来たから」


 帝都の外周を囲むように建設されているこの街の風景は、やはり異常だ。


 車は中世風の馬車を改造したような見た目なのに、環境に配慮した完全な水蒸気を放っている。お陰で排気ガスの匂いなんか一切しない。


 ガス灯かと思いきや、これも電気。寧ろ、こっちの方が煌々と明かりが灯っていたので、大通りは夜道でも問題ないと断言できる程だった。


 なのに街並みは石造りのレンガ造り。道もアスファルトではなく石畳みと粘土を固めたような質感。ステンレスはまだまだ、使われておらず、銅メッキが大半。


「帝都の城下は珍しい?」


「‥‥綺麗な街だな」


「私もいつか、こっちに永住したいって思ってるの」


「ここから家までそんなかからないだろう?」


「でも、帝都だよ帝都!私、絶対都会じゃないと嫌。学校が再開されれば、またこっちに戻って来れるのに!!」


 アビゲイルが住んでる町だって充分都会だ。正直、あの自治統括省があるアビゲイルの町こそが、この国のトップだと思っていた。


「君だってそうでしょう?‥‥私と住むなら、都会だよね?」


「アビゲイルがいるなら、どこでも行くよ。だけど、」


「だけど?」


「今はもう少し、車の中がいい。もうちょっとだけ、友達以上の関係を楽しみたい。アビゲイルは、もっと先がいいか?」


「‥‥うん、もうちょっとだけ、このままがいい‥」


 良かった。オレンジの髪の中にある白い顔が真っ赤になった。


 これは喜んでる証だった。


「‥ねぇ」


「うん?」


「‥どこにも行かない?」


 死ぬ為にここに来た。アビゲイルと出会えるだなんて、露にも思わなかった。


 それに自分はあの存在と契約をしてしまった。この魂は、いずれ、あの力の元へと連れて行かれる――――そう確信できる。だから、


「死ぬまで一緒だ。約束する」


「‥うん」


 死んだら、自分は消える。それは自然の摂理だ。それ以降は、誰にもわからない。





「やっぱ、見られてるな」


「そりゃそうでしょうね」


 車から降りて帝都の商街地区を歩いていると、何をするでもないのに人々の目を集めてしまっていた。けれど言って声を掛けられるでも、ましてや写真を取られるでもなかった。


「そんなに、珍しいのか‥‥」


「若い男なんて皆んな未だに砦勤務だからね。降って湧いた君が珍しいのは当然かな?」


 缶詰や瓶詰め、そして香辛料に芳香は帝都でないと手に入らない物がある。


 驚いたのは、この世界にもブリキの缶詰があった事だ。やはり戦争中ということもあり遠征の為、発明されたらしい。


 ステンレスは浸透されていないのに、缶詰はブリキ。銅じゃない。


 街並みを再度見ればわかる。技術の更新と、活用が噛み合ってないと。新しい技術が溢れる程には生まれているのに、それを使いこなせていないのが現状だった。


「群青石だったか?」


「そう、群青石。あれの効率的な使い方が発見されてから、ここまで帝都が発展したの。まぁ、技術の恩恵を受け切れてない土地もあるけどね」


 言いながら、路地裏を覗き込む。


 人こそいないが、ここだけ3世紀は昔の道のようでろくに舗装されていない。ここだけスラムの様相を呈している。


「もっと平和になって、国のお金を内政に使えば帝都はもっと清潔になるのにね」


「‥‥そうかもな」


 ここは帝都。帝国だ。


 帝国の維持費は近隣諸国から徴収する金で賄われている。


 最終的な戦勝国の一つである帝国の市民として、アビゲイルはその事について、『ごく自然の流れ』だと考えていた。戦争に負けて、賠償金を帝国に渡し、それが帝都の維持費になる。あまりにも重い国単位の税金だった。


「どうしたの?」


 振り返って、顔を覗き込んでくる。


「いや、なんでもない」


「そう?」


 オレンジの髪が涼やかに揺れる。この首を傾げる癖は、何度見ても可愛らしい。


「ほら、行こう。そろそろ昼だ」


「あ、うん!急がないと!」


 今日のランチは、学校が開放されていた時によく行っていた店で取ろう、との事だった。


 かなりの人気店らしく、いつも満員で何度意気消沈したかわからないぐらいらしい。アビゲイルがここまで言うんだ、きっと相当の味なのだろう。


 よって時間を思い出した途端に紺のボトムスを振って、アビゲイルは走り出す。


「ほら!急いで!!絶っ対、気に入るから!!」


 との事なので、共に帝都の通りを走り、必死で背中を追いかける。


「着いた!ここ―――」


「どうした‥!」


 急に背中が止まってしまった。


「‥‥そっか、そうだよね。ここのオーナー、まだ若かったしね。まだ砦だよね」


 アビゲイルが立っている店の扉には、休業の看板が下がっていた。


「‥‥今度、来よう」


「うん‥‥」


 もう戦争は終わった。


 だけど戦争という出来事を、歴史という棚に入れるには、まだこの世界には時間が足りない。きっとまだまだ続いている。造り出してしまった『戦火』を養う為に。


「‥奥さん、元気かな?」


「夫婦でやってたのか?」


「それと、従業員を雇ってね。‥行こ」


 顔を下に向けてまま、元来た道を戻って行く。


「‥‥ちょっと、遅くなるけど、家で食べよう」


「なら、俺が作るよ。帰ったら、シャワーを浴びてていいから」


「‥そうする」


 最近のアビゲイルはいつも元気だった。


 つい最近まで戦争が行われていた事など無いように。でも、この店の扉が閉ざされていると知って、改めて戦争の二字が頭に浮かんだようだった。


 働き手は今や女性がほとんど、単純に50%、ならば店も半分が閉店している。これ以上ない程に、簡単な計算だ。


「帰ったらさ!」


「俺は、どこにも行かないから」


 それでも尚、気丈に振る舞おうとするアビゲイルを引き寄せて、背中に腕を伸ばす。


「きっとすぐ元通りだ。すぐに学校だって再開される。それまで、俺がいるから」


「‥約束だからね」


「約束だ」





「‥‥悪かったって」


「どうして言ってくれなかったの!?皆んなに見られてたじゃん!!」


「でも、そっちが中々離れなかったんだろう?」


「早く言ってよ!!そうすれば私だって、すぐに離れたのに!!」


 アビゲイルと店の前で抱き合っているのを、学友に見られてしまった。


「ていうか、笑われるとか、そういう事はしなかったな」


「当然でしょう‥。だって、皆んな、男の子と、そういう事した事ないんだし‥」


 想像を超えてアビゲイルはお嬢様だった。


 アビゲイルとの抱擁姿を見た瞬間、1人の女の子が失神でもするように倒れて、2人の女の子達に抱えられるぐらいだった。


 免疫が無いとか、そういうレベルでは無いようだ。


「男子生徒ぐらいいただろう?」


「いるには、いたけど‥その、話した事が‥」


 実家や俺の前ではあんなに積極的なのに、学校ではお淑やかで奥手らしい。つい想像してしまう――――見てみたいと願ってしまう、学校でのアビゲイルを。


「学校は楽しいか?」


「お父さんに頼んで、一緒に行かない?」


「そこまでの面倒は頼めない。俺は居候なんだから」


「そんな事無い!!‥‥君の数字に強い所とか、それに町のゴロツキよりも強い所とか、お陰でこんなに自由に売り買いができてるんだよ」


「戦争が終わったら、輸送とか運送の会社が始まるんだろう。戦争が完全に終わったら、俺は役目は無くなる」


 俺の頭や腕は、戦争に行った若い職人や労働者が帰って来るまでの代替え品にすぎない。


 死ぬまで側にいるなんか言ったが、いつか俺は、それを懇願するようになる。


 アビゲイルに取り入って、このまま居候を――――。


「そんな事無い‥‥お父さんだって」


「あの人は優しい。感謝してる。だけど、」


「哀れんだ訳なんかじゃない!私も、お父さんも!!」


「‥叫ぶなよ。手元が狂う」


「ごめんなさい‥」


「‥‥俺は、こうなんだ」


 ハンドルが冷たく感じる。


 そしてレバー越しのアビゲイルがどこまでも遠くに感じる。


 家の近くをふらついていたらしい俺の面倒を、2人は見てくれた。食事も寝床も、服さえ与えてくれた。そして役目をくれた。感謝してもしきれない。


「‥‥側にいてくれるんでしょう?」


「アビゲイルはどうだ?」


「どういう意味?」


「俺の側にいてくれるか?」


「当たり前に、決まってるじゃん。」


「ずっとか?」


「‥‥ずっと」


「ありがとう」


「‥帰ったらさ!!お昼が終わったら!」


 オレンジの髪を振って、運転席の笑顔を向けてくれる。そして黒いコートの中から見える、白いシャツを内側から持ち上げ揺れる物が見える。ダメだ、アビゲイルを好きになった理由はこの笑顔なのに、どうしてもこの胸に目が行ってしまう。


「見てた?」


「‥‥見てない」


 挑発的に八重歯を見せてくるアビゲイルを、バックミラー越しに確認した後、頭の中に直接語り掛けてくる『声』を振り払って帝都外周部分の街を車で走り続けた。






「ねぇ、ドキドキした?」


「したよ、した」


「うんうん♪」


 濡らした髪から漂う、花とアビゲイル自身の香りに包まれて呆然としていたら、それを言い当てられてしまった。白い肌が赤く染まり、血と興奮を感じさせる艶姿には言葉を失っていた。同時に隠して持っていた物を突き出され、再度言葉を失う。


「正直な君には、これをプレゼント〜」


「手袋?」


 昼食の最中に、アビゲイルが革の黒い手袋を渡してきた。


 いいデザインだ。無駄な装飾を落としているのに、革と革の継ぎ目が渋い、その上、手首部分のカットが斜めでスタイリッシュ。


 端的に言って、自分の好みであった。


「いいのか?」


「君に為に用意したんだよ。感謝してね。ほら、食べよう」


 ベーコンと野菜、そして塩と胡椒、それらをバゲットで挟む。


 自分が元いた世界でも、昼の定番と言えるサンドだが、このご時世に香辛料や肉を食べれるのは、やはり限られた人間だろう。


 今更ながら、アビゲイルの家の大きさを知った気分になる。この貴重な食材をサンドという形で食べられることにも。


「ねぇねぇ」


「ん?どうした?」


「ありがとね」


「どうした、急に」


 何かあったのか思い。サンドを木の皿の上に戻す。


「私の力、嫌わないでくれて。皆んなにも言わなでくれるし」


「嫌ってなんかない。アビゲイルと内緒話ができて、楽しいぐらいなのに」


「ありがとう‥。うん、やっぱり結婚するなら君かな?」


「なぁ、見合いとか」


「あはははっ!今は来てない来てない!あ〜でも、早くしないとそういう話、また来ちゃうかもね!」


 片目だけを閉じて言ってくる。この姿だけで、アビゲイルとの婚約を望む者達が後を立たなかったのがわかる気がする。美しい少女像だけではない、艶やかな肢体をくねらせる姿には、食欲に近い劣等を感じさせた。


「まだ15なのに、こっちはそんなに結婚が早いのか?」


「政略結婚とか、家と家との関係を作る為ならもっと早いよ。私は絶対に断るけどね。あ、今私とのことを考えた?」


「‥許してくれよ」


「うん、許す。それと、夜に私で―――」


「それは見るなって言っただろう!!」


「だって君をどうするれば落とせるかって考えた時、1番の参考になるんだもん♪」


 ろくに人間扱いされてこなかった自分でも、15の夜の夢だけはプライベートな空間であり、何人たりとも見られたくなかった。


 けれど、年相応なアビゲイルに至っては、そういった聖域に踏み込む事を楽しむ悪い癖を持ってしまっていた。まるで本物の悪魔であった。


「私とあんなしたいんだ〜、とか。こういう服が好きなんだ、とかね。その手袋をそうだよ――――あーもう、怒らないでって。君の望み通り、今日は一緒に寝ても」


「言ったな。寝てくれるんだな?」


「‥‥それは、君がお父さんの前で告白してから!!」


 心が見えるのに、こういう所は純情だ。知識として知っていても、歳相応の精神の方が優先されている。


 そんな純粋無垢な悪魔アビゲイルは誤魔化すように、サンドにかぶりつく。だが、この姿がまた愛らしい。小動物的な可愛さがある。


「あ、また可愛いって思った」


 そしてこの笑顔だ。何をされても、この輝きには勝てない。


「なんかさ。初めて会った気がしないんだよね」


「俺も、昔から知って気になってる。幼馴染っていうのか?」


「幼馴染—――いいかも。幼馴染で結婚って、その‥‥どう?」


「いいと思うぞ。俺も、結婚するならアビゲイルしかいない」


 不思議だった。


 アビゲイルと出会ったのはここ数ヶ月なのに、何故か昔から知ってた気分になってくる。


 そしてこの力も最初こそ驚いたが、今は慣れ親しんだ2人だけの秘密の関係という特別感すら浮かんでくる。常に一緒にいるという安心感をも覚えてくる。


「なんて言うか、君の髪とか目って真っ黒じゃん。最初は少し驚いたけど、その安心感があったっていうのかな?」


「安心感?」


「うん、違和感がなかった。なんでだろう、ずっと昔に会った事あったかな?」


「‥‥無いと思うぞ」


「そうかな?」


 アビゲイルは首を傾げながらサンドを口に運ぶ。


 よく考えなくても、この屋敷にサンドとは一見すると相応しくないのかもしれない。


 窓から映る敷地には蒸留所という名の工場が2つ。そんな巨大な工場を超える大きな屋敷の中で食事を取っている。相応しくないのは俺自身でもあるだろう。


「家政婦さん達はいつ頃戻るんだ?」


「やっぱり戦争が終結して数ヶ月、もっと言えば一年はかかるかも。皆んな自分の家族が大切だし、もしもの時もあるからね‥‥」


「‥家族。そうだよな」


「うん、戦争に勝ったけど、戦死者は沢山出たから。これから家族の埋葬とか始める人達も少なくないと思うよ。寧ろ、これからの方が‥」


 サンドを咀嚼する音だけが聞こえてきた。


「‥よかったのかな。これで」


「国からの命令だろう。俺の国でもアルコールとか薬品とか、最初は治療目的の施設も最終的に爆薬の製造工場にされたから」


「そっか、普通なのかもね‥‥」


 蒸留所という、細かな計算ができる人材の宝庫たるアビゲイルの家も例に漏れず、戦争の手助けを命令されていた。


 それにアルコールという爆薬に繋がる知識や技術を持った人間に対して―――国が爆薬や兵器の製造を命令するのは不思議ではない。元いた世界でもあった事だった。


「なんていうのかな。お酒とか香水とか、それに殺菌用のアルコールとか、そういう暮らしの為の」


「アビゲイルの時代になったら、そうすればいい」


 真っ直ぐに見据えてくる。


 きっと心も読んでいる。だけど疾しい事なんかないから、正面から見返せる。


「俺も手伝うから」


「‥できるかな?」


「戦争は終わる。俺の国でもそうだった」


「‥良かった。君がそう言うなら、信じられる」


 戦争が終わった世界、それは戦争中よりも――――混沌とした世界だ。


 自分はそんな世界の後処理をしていたからよくわかる。


 戦争を始めたい者、戦争を続けたい者、戦争を終わらせたい者。この3種類にも多くの種属があり、更に細分化される。そしてその垣根は意外と低い物であった。


 あの上司は戦争を起こさせたくない者だった。


 だけど、決して戦争を憎んでいるような高潔な人種ではなかった。


「戦争が終わっても、時代は続く。アビゲイルはそんな時代を無視してくれ」


「どういう意味?」


「一度起こった戦争は、消えない。100年経っても」


 戦争を起こさせたくない人間が多かったあの世界では、戦争という言葉に拒否反応を持った人間達も少なくなかった。


 だけど、人間は争いを起こさないと何も始まらないという愚かな文化を持ってしまっている。よってやはり戦争肯定派もいた。


 そんな二つの人間達から金を渡されて、都合の悪い人間の処理を秘密裏に頼む卑怯者も多くいた。


「アビゲイルには時代とか歴史を無視して欲しい。だけど、それらを忘れないでくれ。それだけだから」


「‥よくわからないかな?」


「それでいい」


 向こうでの知識である『料理』に、舌鼓を打ってくれるアビゲイルと一緒にサンドを頬張り続ける。試しにと作り上げてみた料理に、彼女はとても喜んでくれる。


 この塩気と胡椒の香り、これが毎日誰もが楽しめる時代になって欲しい。


 自分の世界では出来なかったのだから。





「お嬢とはどうだ?」


「いつも世話に成りっぱなし、いつも通りです。これ、お願いします」


「おう、任せとけ」


 最年長の職人に、頼まれた品々の書かれた名簿を渡す。


「‥‥。戦争が終わったお陰だな、大分昔の注文に戻ってきた。最近は命令だ、自粛とか言って酒の注文が少なかったからな」


「人が戻ってきたんでしょうか?」


「いいや、迎える為だ」


 長い人生を過ごしてきたからこそ言える、重みのある言葉だった。


「せっかく帰ってきたのに、家の中が寂しかったら嫌だろう?」


「‥‥はい」


「そう重い顔をするな。ワシは平気だ。こうなる運命だったんだ」


 綺麗に髭を剃った笑顔で肩を叩かれる。年相応とは到底思えない、分厚い手には長い年月を過ごした者だけが宿せる『暖かみ』があった。


「ワシは誰も恨んでなんかいない。社長が急に連れてきたお前の事を、恨む訳ないだろう。それどころか最近塞ぎ込んでたお嬢の面倒を見てくれてるお前には、感謝してるぐらいだ。—――孫が3人になって、ワシは嬉しい限りだ」


「‥ありがとうございます」


「うん、謝る必要なんかない。ワシは感謝される方が好きなんだ」


 深いシワが刻まれた顔が、眩しいぐらいに輝いている。


「お嬢とはいつも通りだったな?」


「はい。心配事が‥‥?」


「ああ。どうか、あの子に側にいてやってくれ。心からの笑顔など、戦争が始まって以来、久々に見たんだ。もっとあの子を笑顔にさせてくれ。‥‥お嬢はワシの孫の為に泣いてくれたんだ。あんなに心優しい子はそうそういない。頼むぞ」


「—――はい!」


 全力の返事を返した時、もう一度肩を叩いて工場に戻って行った。





 夕方になり、シャワーを浴びる事にした。


 蛇口を捻れば温かい水が出てくる。自分の世界でしかあり得ないと思っていたが、それらの技術も群青石の登場のお陰で成り立っている。


 水道管やガス管、そして電気。正直言ってここまでのインフラ整備や技術がある帝国が、戦争で負けるとは到底思えない。


 帝国に挑んだ他所の国々について詳しくは知らないが、負ける事は決まっていた気がする。


「‥温かい」


「そうでしょう♪」


 頭の中に声が響ている。当然の出来事にはなかなか慣れない驚きがあったが、別に構わなかった。寧ろアビゲイルと話したかったのだから。


「悪魔の力か」


 シャワーの音のお陰で、声が掻き消させる。


「‥うん。やっぱり、嫌?」


「嫌な訳ないだろう。俺の心を読んでんだから、わかるだろう?」


 シャワーを止めて、風呂場の椅子に座る。


 前髪から滴る水滴には、見えない筈のアビゲイルの顔が映る気がした。


「だけど、やっぱり君から直接聞きたかった。変かな?」


「可愛いなぁ」


「もう!ありがとう、大好き♪」


「俺も」


 自然と笑顔が溢れる。


 足元の桶の中の自分の顔が、向こうとは別人のように見える。


「悪魔の力って、誰でも持つかもしれないのか?」


「う〜ん、よくわかんないの。急に目覚める人もいれば、赤ん坊の時から持ってる人もいるって。私は前者ね」


「持ってると、まずいんだよな」


「‥‥そうかもね。でも、それは力で悪いことしてる人だけだから。私みたいに死ぬまで秘密にしてる人もいると思うよ」


「‥バレたら、戦場に行くって―――」


「うん。前も言った通り、事実だよ。まぁ、でも!戦争自体はもう終わってるから、私が連れて行かれるって事は無いよ!!」


 空元気ではない声に、一抹の安堵感を覚える。事実として多くの戦死者を出してる帝国に、今更兵士を抱える程の力は残っていないと踏んでいた。


 そんな物の為に資材を送り込むのなら、国を建て成す方に力を注ぐ頃だと。


「良かった‥」


「心配し過ぎ。それに私みたいな低い力じゃ、ろくに相手にもさせないって。どんな力?って聞かれてはい終わり、こんな感じ」


 心を読めて、頭に直接話しかけられる。決して低いとは言えない力だ。


「あ、言ってなかったけど、ここまで話せる相手って、限られてるの」


「そうなのか?」


 初めて聞いた。


「私と関係の良い人って言うのかな?」


「好きな人?」


「あ‥うん。‥そんな感じ」


 ちょっとだけだが、やり返せたようだ。


「じゃあ、誰彼構わずって事はできないのか」


「うん、それに君は常に私に対して壁を持ってないけど、大半の人は壁を持ってるの。だから、ここまで正確に話せるのは君ぐらい」


 アビゲイルの言う所の壁とは一体なんなのか、自分にはわからないが拒絶感とでも言うべき心の壁なのだろうと納得した。パーソナルスペースとは誰しもが持っていて、誰しもが不快に感じる範囲の空間である。


 言葉や匂いにも限度がある以上、心にも似た物があっても不思議ではない。


「アビゲイルと俺は特別ってことか。恋人みたいだな」


「‥もう切るね!」


 会話を一方的に切られてしまった。散々こちらの夜の事などは直接言ってくるのに、こちらからの攻撃には弱い。慣れない反撃に、いつも逃げの一手であった。


「そういう所も好きだけどな」


 届いていようが、届いていまいが関係ない。本心からそう思っている。


 どうか、この心がアビゲイルに届きますようにと。






「言いたい事があります!」


「なんだ?」


「なんか最近、私への想いが溢れ過ぎじゃない?」


「そっちもだろう」


 アビゲイルはシャワーから出た俺を、ソファー替わりにしていた。


 皆無となっているパーソナルスペースを良い事に、足置きを使って天井を寛いでいるアビゲイルの耳を触ってみる。鳥肌と同時に甘い声を出した彼女に、心臓が波打ったのがわかる―――きっと、この感情すらアビゲイルは気付ている。


「‥っ!悪戯は私の係りなの!君は私の悪戯に悶えてればいいの!」


 身体を振り向かせて、腰に女の子の座り方をしてくる。


 なんてわがままな。


 こんなに綺麗で好きと言ってくれる人がいるんだ、俺だって少しは悪戯したい。


「こんなくっついても私が期待した反応しないし!!」


「どんな反応期待してたんだ?」


「もっと純真な感じ!!」


 友達以上恋人未満な関係の事だろうか。


 確かに、もう少し初々しい感情を楽しむべきだったと考えを改める。


 でも、何故だろうか。アビゲイルと幼馴染であり恋人だと思ってしまった所為だろうか、今はもう、ただアビゲイルと一緒にいられれば。


「へぇー、そんなに夢の中に出て欲しいんだ?」


「‥‥いいのか?」


「いいよ、好きなだけ吸ってあげるから。明日には顔を見れないぐらいにしてあげるから」


「悪魔め‥‥」


「悪魔だから。あは♪」


 ようやく自分のペースを掴めたのか、満足気に頷いて元の姿勢に戻ってくれた。


「別いいよ。現実でも私でそういう気分になっても」


「まだダメだ」


「どうして?」


「責任を取れないから」


 こちらの世界の結婚できる年齢は知らないが、きっと特別決まってはいない。


 アビゲイルが言っていた政略結婚も、そういう決まりが無いからこそできる方法。だけど、それができるという事はいつ子供ができても両家で責任が取れるという事でもある。


「‥‥私はさ。こんなに人を好きになった事、ないからさ。どうやって、その‥」


「同じだな」


 手を取って、アビゲイルの腹部に置く。


「俺もだ。心を読めるんだから、俺がどこから来たか、いい加減わかってきただろう」


「‥うんん」


「‥いいのか?」


「本当に見られたくない記憶とか、感情とかは見ないことにしてるの」


「‥ありがと」


 アビゲイルの使っている足置きに、自分も足を置いて完全にアビゲイルを上に乗せる。そして、抱きしめる。


「本当に感謝してる。俺みたいな素性もわからない奴を拾って、面倒もみてくれて」


「‥それこそ、こっちの台詞。何も知らない私を、あなたは身を挺して守ってくれた‥。人売りの怖さを、私は知らなかったの‥」


 目が覚めた時、この屋敷のベットに寝かされていた。おぼろげに覚えているのは、連れ去られそうになっている子がいた。


 それだけだった。


 どうやってここに来たとか、どうしてアビゲイルを守ったのかは知らない、覚えていない。


「‥なぁ、」


「何?」


「本当に俺が守ったのか?」


「当然じゃん‥。だって、君は刺されても私を庇ってくれたんだよ‥。‥‥怖いぐらい血が流れても、私の手を引いてくれたから‥」


 アビゲイルの身体が震え始めた。


「悪い、血が苦手だったな‥」


 震えて、冷たくなって来た身体を抱きかかえて起き上がる。


「‥ちょっとだけ、寒いね」


「薪が減ったな。立てるか?」


「うん‥」


 1人で立ち上がった方が早く済む。


 そんなことはわかっているが、今アビゲイルを1人にする訳にはいかない。


 2人で抱き合いながら、暖炉に近づき薪束を投入する。そして火かき棒で薪束の形を整える。テントの形をイメージする。


「‥私、あのまま、連れて行かれたら」


 聞きたく無い。だから、口を口で塞ぐ。


「‥またしちゃったね」


「もう、他人じゃない。—――好きだ」


「‥好きです」





「眩しい‥」


 急に朝日が瞼を焼いた。


「ほら!もう朝だよ!」


「‥‥何か着ろ」


「着てるじゃん」


 確かに着ているが、あまりにも薄過ぎるレース。ほとんど見えている。


「‥ああ、結局裸で寝たのか」


 ベットから起き上がって、自分の状況を思い出した。


「今日は休みだっけ?」


「そう。どうする?」


「どうって?」


「帝都でも行く?ずっと家じゃつまらなくない?」


 家、この屋敷を家と呼ぶか。間違ってはいないが―――。


「いいかもな。帝都の案内を頼む。それと、あの人にも挨拶にしに行く」


 立ち上がって、昨日脱ぎ散らかした服を着ていく。


「‥お父さんに?」


「アビゲイルとの関係を話さないと。それと、学校についても」


「うれしい‥‥私と一緒に引き継いでくれるの?」


「それを許すかどうかは、アビゲイルのお父さん次第だけど」


 軽く言うが、あの人はアビゲイルの生涯の幸せを願っている。俺との関係は気付いているが、それでもここまでの関係になるとは思っていないだろう。


 婚前交渉など、その場で殺されても仕方ない。でも受け入れないといけない。


「それに大学に行くには学歴が必要だから。学校か、どこかの教育機関に入学しないと」


「君ならどこでもいけるよ!歴史とかは私が教えてあげるから!一緒の学校で一緒に住も!どこか部屋を借りてさ!」


「それについても、調べないとな」


 肌着や衣服に袖を通して、鏡を見る。


「外に出てるから、終わったら呼んでくれ」


「うん!あとでね!」


 軽くボタンを止めながら扉の外へと足を延ばそうとした時だった――――レースの前を抑えながら、アビゲイルは泣いてくれていた。


 外に出るつもりだったのに、アビゲイルに近づいて、抱きしめてしまった。


「あったかいね…」


 細い身体だ。でも昨日、この細くて柔らかい身体を求めて、受け入れてもらった。俺の初めてをアビゲイルが、アビゲイルの初めての俺が受け取った。


「今さ、私」


「怖い?」


「うんん。幸せなの‥‥」


 薄着で肌をさらしているアビゲイルに身体を押してつけられてしまい。朝食は取れなかった。

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