第28話~恋のピント合わせ~
黎進高校・新聞部の部室は、旧館の一番奥にある小さな部屋だ。
夏になれば蒸し風呂、冬は氷室。誰も寄りつかない場所だったけど、福山しおりにとっては、ちょっとだけ居心地のいい秘密基地だった。
今日も、しおりは脚を机に乗せて、ヘッドホンを片耳だけにかけながら、去年の部誌をめくっていた。
いつも通りの、暇で、退屈で、でもちょっとだけ心地いい放課後——になるはずだった。
「し、失礼します……あの、新聞部って、ここで合ってますか?」
控えめな声が、部屋の扉から漏れてきた。
顔を上げると、そこには眼鏡をかけた女の子。
おとなしい雰囲気だが、身体のラインは健康的だ。
胸にはまだ真新しい一年生の名札が光っている。
「お、来た来た! 新入部員、っちゅうやつじゃろ? ええよ入って入って!」
しおりが手をひらひらと振ると、女の子はおずおずと部屋に入ってきた。
肩からはカメラが提げられていて、制服の袖にはレンズ拭きの布が覗いている。
「わっ……カメラ好きなんじゃ。ええセンスしとるじゃん」
「え、あ、はい……その、写真が好きで……。記事とか、書いたことはなくて……」
「ふふっ、気にせんでええよ。ウチなんて最初、文字打つのもめっちゃミスっとったけえ。写真部より、ウチらの方が自由よ?」
女の子は小さく笑って、それからぺこりと頭を下げた。
「一年の、篠原ひかりです。よろしくお願いします」
——その時、しおりはまだ知らなかった。
この子が、ちょっとした「恋」と「奇跡」を連れてきてくれるってことを。
新聞部の活動は、いつも通りゆるく始まった。
放課後に集まり、校内をぶらりと回って、気になったことを取材する。
時には何も起きずに、そのままおしゃべりして終わる日もある。
しおりはそんな雰囲気が好きだったし、新しく入ったひかりも、特に文句を言うでもなく毎日顔を出していた。
新聞部の活動は、いつも通りゆるく始まった。
放課後に集まり、校内をぶらりと回って、気になったことを取材する。
時には何も起きずに、そのままおしゃべりして終わる日もある。
しおりはそんな雰囲気が好きだったし、新しく入ったひかりも、特に文句を言うでもなく毎日顔を出していた。
数日が過ぎたある日——
ひかりが撮った写真を、部誌用に選ぶ作業をしていたときのこと。
(ん? これ、山口じゃん)
パソコンの画面に映った一枚の写真に目が留まった。
それは昇降口で、靴を履き替えている山口の横顔だった。
不意に、画面からふわっと柔らかい空気が立ちのぼった気がした。
光の具合、ピントの合い方、彼の何気ない仕草を捉えた一瞬——
そこに、カメラ越しの「まなざし」が宿っているように見えた。
「この写真ひかりちゃんが撮ったん?」
「えっと…その…偶然、撮れちゃって……」
「へぇ〜〜? にしちゃあ、めっちゃ構図きれいやん? 背景ぼかして、逆光でちょっとキラキラ入れて……って、え、ガチで狙っとるじゃろ?」
「ち、違いますっ……!」
ひかりの耳が真っ赤になった。
その反応に、しおりはにやりと笑う。
「うわ〜〜バレバレじゃん! ねぇ、好きなん?この人のこと。」
「そ、そんなこと……ない、です……!」
「ふーん……」
しおりは机に肘をついて、ひかりの顔をじっと見た。
その視線に、ひかりは目を逸らして、小さな声でつぶやく。
「……すごく優しい人、だなって。いつも誰にでも丁寧で、笑ってて……なんか、写真に撮りたくなっちゃって」
その言葉に、しおりはしばらく黙っていた。
やがて、口元だけで小さく笑いながら言った。
「ひかりちゃん、ウチが背中押してあげよっか?」
「えっ……?」
「好きなんじゃろ? 伝えんと、ずっと“シャッター押せんまま”で終わるかもしれんよ?」
ひかりは、口を結んで、俯いた。
だけど、ほんの少しだけ、肩が震えていた。
それが、照れ笑いだったか、覚悟の始まりだったか。
その時のしおりには、まだわからなかった。
文化祭を数日後に控えた放課後。
新聞部の部室は、少しだけざわついていた。
「……ってわけで、展示の写真はこの台紙に貼ろうと思ってんじゃけど」
しおりが手に持った厚紙を、ひかりの机にぽんと置く。
文化祭では「黎進高校・写真と日常の瞬き展」と題して、生徒の撮った写真を壁一面に展示することになっていた。
「ひかりちゃん、あの昇降口の写真、使ってもええ?」
「……え?」
「あれ、めっちゃええ構図しとるよ。人の心が写っとる」
ひかりは少し戸惑った表情を浮かべた。
「でも……それって、個人的な気持ちが出ちゃってて……展示に使うのは、なんか恥ずかしいです」
「ええじゃん、別に。展示って“綺麗な写真”を見せる場やのうて、“伝わる写真”を見せる場じゃろ?」
しおりのその言葉に、ひかりは言葉を詰まらせる。
しおりはにかんだように笑って、椅子をくるりと回した。
「なあ、ひかりちゃん」
「……はい」
「“伝わる”って、ほんまはちょっと怖いことなんよ」
「……」
「でも、自分の気持ちを“伝えよう”って思った瞬間、写真はただの記録から、誰かの心を動かすもんになるんよ」
ひかりは、手元の写真に視線を落とした。
「……好きなんですよね、やっぱり。気づいたら、カメラ向けてて」
「うん、それでええんよ。ウチはそれ、応援したいって思う」
しおりは、何かを言いかけて、ふっと視線を窓の外に向けた。
「ウチもな、昔……そんなんあった気ぃするわ。自分が何撮りたいんか、誰見たいんか、わからんくらいの時期。でも、あとから“あの瞬間、撮っとってよかった”って思えるんよな」
「……先輩って、写真部だったんですか?」
「いや、ウチは新聞部専門。でも、写真ってな、撮った人の心の奥底まで、まるで透けて見えるように映し出してしまうんよ。自分でも気づいてない“好き”とか“気になる”が、バレバレになるけえね」
そう言って、しおりは笑った。
ひかりも、少しだけ口元をほころばせる。
この日、ひかりは展示に“その写真”を出すことを決めた。
そして、文化祭の日が近づくほどに、胸の奥がちくちくと疼き始めるのを感じていた。
文化祭当日。
黎進高校の廊下は、人混みと笑い声でにぎわっていた。
新聞部の展示も、思っていた以上に人が足を止めていた。
壁一面に貼られた“日常の一瞬”たち。
クラスメイトの笑顔、雨上がりのグラウンド、校舎の影に差す夕日——
その中に、ひかりの撮ったあの写真も、さりげなく混じっていた。
昇降口で、靴を履き替える“山口”の横顔。
逆光の中で光を浴びるその姿は、どこか神聖なものにさえ見えた。
「お、しおりちゃん、やっぱ展示ええ感じやん。ちゃんと全部チェックしてくれた?」
「うん。あとは本人の“見せたい気持ち”が強かったら、それでええんよ」
と、しおりが言ったその時。
「……あ」
展示の前に、*山口*の姿が現れた。
制服の袖を軽くまくって、ゆっくりと写真を見て回っている。
ひかりは一歩後ろで、緊張した面持ちで立っていた。
山口の目が、例の写真の前で止まる。
——数秒の沈黙。
そして、山口はその写真に、ふっと微笑んだ。
ほんの少しだけ首をかしげて、何かを思い出すような目をした。
その様子に、ひかりの顔がぱっと赤くなる。
「……見られた……」
「うん、見られたな」
「どうしよう……」
「うん、めっちゃドキドキするやつ」
しおりは笑いながら、ひかりの背中をそっと押した。
「でも、ようやったね。ちゃんと“見せる”って、勇気いったやろ」
ひかりは小さくうなずいて、目に涙を浮かべていた。
それは恥ずかしさでも、後悔でもなく、なにかが“届いた”気がしたから。
その時。
「——へえ。青春しとるやん、しおり」
背後から、聞き慣れた声が飛んできた。
「……あ、玖郎」
しおりが振り返ると、そこには帰宅部の探偵・帰野玖郎が立っていた。
腕を組んで、展示を一瞥しながら、ニヤリと笑っている。
「ほう…。“片想い”ってのは、最強のエネルギー源だ。誰かを好きになると、写真も、文章も、世界も、ちょっとだけ綺麗になる」
「何、唐突に詩人ぶっとん?」
「いや、探偵だからな。人の“動機”には敏感だ」
玖郎は軽くウインクして、展示の隅を見つめた。
「それにしても、ええ写真だな。……ちょっと嫉妬するくらい」
「え?」
しおりが聞き返す頃には、玖郎はもう人混みに紛れていなくなっていた。
まるで、最初から全部を知ってたかのように。
「……あいつ、何考えとんやろ」
「帰野先輩って、ちょっと不思議な人ですね」
「うん。たまにズルいくらい、わかってるっぽいよな」
ひかりは玖郎の背中を見送りながら、そっとつぶやいた。
「でも……ありがとうって、言いたいです。しおり先輩にも、あの人にも」
しおりはひかりの頭をぽんと撫でた。
「そんなん言われたら、ウチ、泣いてまうやん」
笑いながらも、しおりの目はほんの少し潤んでいた。
文化祭が終わって数日。
新聞部の活動は、またいつもの静かな放課後に戻っていた。
校舎の窓から、オレンジ色の光が差し込んでいる。
その中で、しおりとひかりは、部室で並んで座っていた。
「……あの写真、やっぱり展示してよかったです」
ひかりがぽつりと呟く。
顔は少し照れくさそうだけど、その目はまっすぐだった。
「そうじゃな。あの写真……たしかに、恋の匂いしとったけぇね」
しおりが笑いながら、机の上のカメラを指でつつく。
「でもウチ、まだちょっとピントずれとるかもしれん」
「え?」
「ウチ自身の気持ちとか、夢とか、なにが好きなんか……
まだ、はっきり写っとらん感じするんよ」
ひかりはしばらく考えて、笑った。
「じゃあ、一緒に練習しませんか? ピント合わせ」
「ん? どういうこと?」
「これからも、いろんな写真撮って……
たくさんの“好き”を見つけていけば、そのうち上手く合ってくる気がします」
「なるほど。……ええこと言うじゃん、ひかりちゃん」
──翌日
部室の隅っこで、必死に写真のトリミングに没頭していた。
「うぅ……この人、ちょっとボケてる……でも、背景のボケ感も悪くないかも……」
画面に映っているのは、すこし伏し目がちで、横顔の美しい先輩。
──山口ではない。
山口の「すぐ後ろ」に写っていた、サッカー部のイケメンの藤倉先輩だった。
──一方しおりの「恋愛探偵」モードはますます加速する。
——後日。
「ひかりちゃん、ちょっと話あるんじゃけど♪」
放課後の新聞部。
しおりはひかりを呼び出し、静かに語りかけた。
また山口も後で新聞部に来るように呼び出している。
「隠さんでもええよ。山口のこと好きなんじゃろ?うち、協力するけぇ。告白……してみたら?」
ひかりは、ぽかんとしたまま黙っていたが、やがて真っ赤になって首をぶんぶん横に振った。
「えっ!?ちがっ……ちがいますっ!あの、私、山口さんじゃなくて……!」
そう言ってスマホを差し出す。
画面に映っていたのは——
山口の奥で本を読んでいた、モデルのように整った顔立ちの先輩の写真。
「えっ……誰これ」
「藤倉先輩、サッカー部の先輩で……あの人が、ずっと憧れなんです……」
「…………」
——静寂。
「うちの推理、全部空振りじゃん!」
しおりが机に突っ伏したその瞬間、山口が新聞部に入ってきた。
そして、何の気なしにしおりの方へと歩み寄る。
「あの…呼び出されたんで来たんですけど…」
しおりの顔が、赤く染まる。
しおりはこっそり拳を握った。
「紛らわしいんじゃ!」
しおりは山口をどついた。
「え、なんで俺殴られてるんすか」
しおりは目を細めて、ひかりの頭をくしゃっと撫でた。
「恋も、夢も、人生も……ピントが合うまで、ちょっとだけブレてもええんよね」
その言葉に、ふたりは目を合わせて笑った。
夕焼けの中、レンズ越しに見えた世界は、
きっと、少しずつクリアになっていく。
——─恋のピント合わせは、まだ始まったばかり
(次回は推理もの。のはず)




