第26話~ダイエット、タルト~
黎進高校、春。
風がほんのりと甘い匂いを運ぶ午後の教室で、福山しおりはそっと息を吐いた。
しおりは今、孤独な闘いを終えたところだった。
──スカートのホックが、締まったのだ。
ついに。ようやく。何度、朝の制服タイムにため息をついたことだろう。どれだけスカートの前で手を止め、うなだれたことか。
けれど今朝は違った。
カチッという小さな音とともに、スカートのホックはしっかりと噛み合った。
「……うち、やればできるじゃん」
ぽつりと、呟いてから鏡に映る自分を見つめる。
まだ、ほんのちょっときつい。でも、確実に、前とは違っていた。
そんな彼女がいま、ホックをそっと外しているのかというと──
「いや……別に、無理して閉めとく必要もないし……。うち、前からこうじゃったし……」
ぼそりと呟きながら、しおりはわざとらしく髪をかき上げた。
その仕草には、どこか照れくささと、少しの意地がにじんでいた。
──お昼休み。
帰宅部の活動(と称して教室でだらだら過ごすだけ)を始めようと、玖郎がふらりと現れた。
椅子に座るなり、手のひらを枕にして机に突っ伏す。
「ふぃ〜……今日の数学、完全に心を閉ざしてた」
「それ、毎回じゃろ」
「つまり一貫性があるということだ」
「どんな誇らしさよ」
そんな他愛ないやりとりをしながらも、玖郎の視線がふと、しおりの腰のあたりで止まった。
「あれ……今日、ホック閉まってないんだ」
しおりは一瞬で心臓が跳ね上がるのを感じた。
「っ……え、なんで見るんよ!セクハラじゃろそれ!」
「いや、なんか違和感があっただけで……ていうか、怒るとこそこ?」
しおりは机に突っ伏す玖郎の後頭部に消しゴムを投げる。
カスンと当たって、玖郎が小さく呻く。
「うちはずっとこうなんよ。別に最近始めたわけちゃうし」
「ふうん……でも、前はもっときつそうだったような」
「気のせいじゃ!」
ぷいと横を向いて、しおりは頬を膨らませた。
玖郎はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、机に突っ伏したまま、笑っていた。
──放課後。
しおりは新聞部の部室で、原稿用紙に向かっていた。
今日の小さな出来事──ホックが締まったこと。でも、締めなかったこと。
自分でもよくわからないこの気持ち。
「見た目を変えたいってだけじゃなくて……」
呟いて、ペン先が止まる。
(……ほんとは、誰かにに気づいてほしかったんじゃろうな、うち)
ほんの少し、嬉しかった。
気づかれて、からかわれて。
それを「なんで見とるんよ!」なんて怒れる関係が、なんだか心地よかった。
ふと、筆が進み出す。
『ダイエットは、自分改革──』
小さなタイトルを書いて、しおりは満足げに頷いた。
これはまだまだ途中経過。でも、その途中を誰かに見てほしい、そう思えるようになったことが、たぶん一番の変化だった。
──翌朝。
しおりは鏡の前で、再びスカートを履く。
ホックは、今日も締まる。
「……ふふ」
そっと閉めてから、ゆっくりと指を伸ばして、それを外す。
「やっぱ、開けとこ。クセじゃけえ」
自分にそう言い聞かせながらも、どこか楽しげだった。
坂道の途中で玖郎に声をかけられると、しおりは振り返る。
「おはよ、しおり」
「……おはよ。今日はなんも見んでよ」
「はいはい、整備士は無許可で点検しませんから」
「なんなん、整備士って……」
二人の歩幅が自然にそろっていく。
春の光のなか、しおりのスカートは軽やかに揺れていた。
そして、ホックは──今日も、彼女の意志で外されたまま。
それはちょっとした秘密。
でも、きっと玖郎には、うっすらバレている。
(まあ、別にええけど……)
しおりはそう思いながら、隠し笑いのようにそっと髪を耳にかけた。
風が彼女の横顔をなでていく。
新しい季節と、新しい自分。
自分の意志で、そのすべてが、少しずつ、ほどけていくように──。
──放課後、帰り道。
コンビニの棚の前で、またしおりは立ち止まる。
いつものように野菜サラダを手に取る。
けど、隣のスイーツ棚にある「季節限定いちごタルト」がやけにキラキラして見えた。
(……これ、今食べてもいいよね? ちょっとくらい……)
そこに現れたのは、玖郎だった。
「お前、タルトに何か事件性でも見つけたのか?」
「ないわぁ!」
玖郎は何も言わず、しおりの手からサラダとタルトの両方を受け取って、レジに向かった。
「ちょ、ちょっと!?買うん!?」
──そして店の外。
玖郎はタルトを手に渡し、静かに言った。
「たまにはいい。無理して続けるより、長くやることが大事だ」
「…………そんなん、優しく言われたら……」
思わず涙ぐむしおり。
「おい、泣くな。甘いのはそっちだけにしておけ」
「……タルトじゃけえな…」
──そんなところに、山口がひょっこり現れる。
「しおりさん、なんでそこまで頑張ってるんですか?」
「うち……今のままの自分、ちょっと好きになれかったけぇな……」
山口はしばらく黙ってから、そっと言う。
「僕は、しおりさんが頑張ってる姿の方がずっと好きですよ」
しおりの動きが止まる。顔をそむけて、そっとつぶやく。
(……それ、もっと早く言ってくれたら、もうちょっと楽だったかもなぁ……)
(次回はきっと推理回)




