第23話~図書館と猫と~
放課後の図書室は、校舎の片隅にひっそりと息を潜めていた。
チャイムが鳴り終えても、教室のざわめきはまだ消えきらない。だが、ここだけは別世界のように静寂が支配していた。
福山しおりは、窓際の席にいた。
制服の上から羽織った緩めのカーディガン。足元には少しルール違反なルーズソックス。机の上には途中で開かれたままの小説本。しかし、彼女の視線は活字の上ではなく、窓の外へと向いていた。
そっと机の陰から取り出したビニール袋。その中には、小皿と小分けされたキャットフードが入っている。
彼女は無言のまま、それを窓辺に置いた。まるで日常の一部であるかのように、手慣れた動作だった。
「……今日は、来んかもしれんね」
ぽつりと漏れた声は、誰に向けたものでもなかった。
けれど、その様子を図書室の入り口から見つめるふたつの影があった。
「玖郎さん……今の、見ました?」
「うん。なかなか、味のある“謎”だね」
立っていたのは、帰野玖郎と山口。ひとりは帰宅部の“迷”探偵、もうひとりはその“常識担当”の助手。
玖郎は腕を組みながら、しおりの背中をじっと見つめていた。
「誰が餌やってるのか……?」
「“誰が”じゃなく、“なぜ”だよ」
窓の下。そこには、ちょこんと座る小柄な黒猫の姿があった。
「しおりさん、ずっとあの猫に?」
山口の問いに、玖郎は小さく頷く。
「三日目だ。毎日、決まった時間に」
「……やっぱり観察してたんですね」
「まあ、放課後は暇だしね」
玖郎は軽く笑ってみせたが、目は真剣だった。
「問題は、“どうして”なんだ。動物が好きならそれまで。でも、なんとなく……それだけじゃない気がする」
「動機の推理……」
「いや。“気持ち”の推理、かな」
そのとき、しおりが窓の外を見たまま、小さく笑った。
「……うちのこと、バレとるな」
背を向けたまま、しおりがぽつりとつぶやいた。
「玖郎と山口、じゃろ。足音でわかるんよ」
山口が「えっ」と目を見開き、玖郎は肩をすくめて苦笑した。
「しまった、ステルス性ゼロだったか」
「そもそも、図書室でコソコソするほうが怪しいわ」
しおりはため息をついて、猫のいる窓の外に手を振った。
猫は反応もせず、じっと丸くなったままだった。
「名前、あるのか?」
「ただの野良猫じゃけぇ。うちは“トト”って呼びよる」
「トト、ね……ジ○リっぽい」
「なんよそれ」
しおりがわずかに頬をふくらませ、ふたりの方をちらりと見た。
その表情に、先ほどまでの静けさとは異なる色が差す。
玖郎は、その変化を見逃さなかった。
ふとした瞬間にのぞいた、強がりの奥にある寂しさ。
「……それ、“嘘”だね?」
「は?」
不意に玖郎が口にした言葉に、しおりの目が見開かれる。
「“ただ猫の世話をしてるだけ”──そういう顔してる。でも違う。“誰か”を思い出そうとしてる顔だ」
しおりは、言葉を返さなかった。
ただ、窓の外をじっと見つめていた。
風が吹き、カーテンがかすかに揺れる。
しおりは、ぽつりと口を開いた。
「……昔、飼っとった猫に、よう似とるんよ。うちが中学生のとき、冬に拾うた猫。家の前で、震えとって……」
しおりの視線が、足元に落ちる。
「でも、ある日、いなくなった。うちが……学校で発表会の準備で帰るの遅れて。二日ぶりに帰ったら、もうおらんかった」
「探した?」
「探したよ。必死に。でも、見つからんかった」
しおりはふっと笑った。その笑みには、自嘲と悔しさがにじんでいた。
「だから、トトを見たとき、思うた。“あんたが、あの子の生まれ変わりなんじゃないん”て」
「……そっか」
玖郎は、それだけを言った。
責めるでも、慰めるでもなく。ただ、隣に立つ。
山口は言葉を探していたが、見つけられず、ただ黙っていた。
しばらくの静寂の中、トトが大きくあくびをした。
それを見つめながら、しおりが口を開く。
「……うち、本当はね」
声が、少し震えていた。
「最後まで、あの子を大事にできんかった。世話を任せて、遊びに行ったり、帰るん後回しにしたり。……“寒くないかな”って、一度でも思えとったらって……」
目元に、涙がにじむ。
「じゃけぇ今、トトにご飯をやるのは──あのときの“取り戻し”なんよ」
玖郎がそっと、静かな声で言った。
「……その“嘘”は、優しい嘘だ」
「なにようんのよ……」
「“ただの野良猫”って言った。その時点で“嘘”だった。誰にも悟られないように、強がってた。でも、俺にはわかった」
「……なんで」
「君は、誰かに叱ってほしかったんだ。自分で許せないから、誰かに責めてもらいたかった。違うかい?」
しおりは返事をしない。唇を噛んで、袖で目をこする。
「じゃあ……叱ってやるよ」
玖郎の声は、どこまでもやさしかった。
「しおりは、本当に……ずっと背負って、償って、反省して──“いい子のフリ”が、上手すぎるんだよ」
「……フリなんかじゃ、ない……けぇ」
しおりがうずくまり、肩を震わせる。
その肩に、そっと上着がかけられた。
山口だった。
「……風、冷たいですから。あと、猫にもあんまり優しくしすぎないでください。……こっちが、寂しくなります」
その言葉に、しおりはくすっと笑った。
「なんなんそれ。いっちょ前に言うなや」
「ミニスカで足冷やさないでくださいよ。風邪ひかれたら困ります。……僕、楽しみにしてるんですから」
「楽しみって、なんなん……」
しおりは小さく笑い、玖郎もそれに続いた。
窓の外で、トトがこちらを見上げる。
まるで「大丈夫」と言うように。
それからも、しおりは図書室に通い続けた。
トトと遊び、ご飯を与える毎日。最初は照れくさそうだった彼女の表情も、いつしか自然なものに変わっていた。
その姿には、本物のやさしさが宿っていた。
玖郎と山口は、それを静かに見守るだけだった。
しおりがもう、自分を許し始めたと、ふたりは知っていたから。
ある日、ご飯をあげ終えたしおりに、静かな声がかけられた。
「しおり」
振り返ると、そこに玖郎がいた。
「なに?」
「……もう、強がらなくていいよ。僕も、山口も、君をちゃんと見てるから」
しおりは何も言わなかった。ただ、そっと目を伏せる。
「君のやさしさは、もう誰にも奪えない。……だから、自分を許して。少しずつでいい」
その言葉を聞いて、しおりは小さくうなずいた。
「いちいち……かっこつけんでええよ…」
しおりの声は、驚くほど穏やかで、柔らかだった。
その日、彼女は帰る前に、トトを優しく抱き上げた。
「これからも、よろしくね。……ちゃんと、そばにおるけぇ」
その声に「嘘」はなかった。
そして、その声に、トトが喉を鳴らした気がした。
春の風が、校舎の窓からふわりと吹き込んできた。
図書室の隅、いつもの窓辺に、今日もしおりはいた。
けれど以前と違って、彼女の表情には、どこか晴れやかなものがあった。
「ほら、トト。今日はちょっと贅沢なやつ持ってきたけぇね」
袋から出したのは、パウチタイプの高級キャットフード。
トトは小さく「にゃ」と鳴いて、しおりの方を見上げる。
「……あんたの分だけじゃないよ。自分の気持ちも、ちょっとだけ、大事にしてみよう思うてね」
そう言って、しおりは自分用のおにぎりを取り出した。
いつもは猫にだけ向けていた優しさを、少しずつ、自分にも向けられるようになってきたのかもしれない。
「今日も来てるの?」
後ろから、玖郎の声がした。振り返ると、山口の姿もある。
「おう。なんか知らんけど、毎日“見守り隊”が来るようになったけぇ」
「だって、見てるだけで癒されるんですよ。ね、玖郎さん」
「うん。あと、観察対象に変化があると、やっぱり記録しないとね」
「あんたらはうちの足でも見守りに来よるんか…それに記録ってなんなん……」
しおりは呆れながらも、どこか嬉しそうだった。
玖郎がふと、窓の外を見やった。
新芽のついた桜の枝が、空に向かって伸びている。
その枝の下、トトがのびをして、春の匂いを吸い込んでいた。
玖郎が静かに言った。
「……また、春が来るんだな」
しおりは頷いた。
「うちも、ちゃんと来たよ。春、迎えられたけぇ」
「そうですね」
玖郎と山口は、言葉を足さずに並んで立った。
それぞれの想いを胸に、ただ静かに、その風景を見つめていた。
──と、ふいに山口がぽつりとつぶやいた。
「ところで、トトってオスなんですか? メスなんですか?」
「メス」
「え、そうなんですか。よく分かりますね」
「そりゃそうじゃろ。うちに似て、ぶち美人さんじゃけぇ!」
山口は一瞬ぽかんとし、それから笑った。
玖郎も、少しだけ口元を緩めていた。
かつて失ってしまったもの。
これから失うであろうもの。
届かなかった後悔。
癒えることのない痛み。
それでも──誰かの手と、優しさと、そして猫のぬくもりが、
ゆっくりと、過去を溶かしていく。
だから彼女は、今日もここにいる。
図書室と、猫と──少しだけ前を向けた、彼女の心と共に。
(そろそろ事件の匂いがするかもしれない)




