第22話~雨、傘、しおり~
雲は、灰色の絵の具で空一面を塗りつぶしたように低く、重たく垂れ込めていた。
校舎を出た瞬間、世界が雨の気配に包まれる。
音より先に、湿った空気がそれを知らせてくる。
そして、予想通り──いや、予知に近い確信として。
福山しおりが、数歩前で立ち止まった。
振り返ることなく、空を見上げ、ぽつりと。
「……傘、忘れたわ」
その言葉に、俺は無言で鞄から傘を取り出す。
骨の軋む音とともに開いて、差し掛けようとしたそのとき──
彼女は、どこか素直じゃない目をして俺を見た。
怒っているわけでも、困っているわけでもない。
でも、“ありがとう”とは、きっと言わないつもりの目。
──ここで、ひとつの推理。
これは「借りたいけど、借りるとは言いたくない」の構図。
「よろしければ、どうぞ福山くん」
声は静かに。仕草はあくまで自然に。
“わざとらしさ”のない紳士的対応というやつだ。
彼女はちらりと僕を見て、小さく息をついた。
「……あんたは?」
「俺は濡れて帰るさ。風邪のひとつもひいて、ロマンのひとつも書きたくなる気分だからね」
「そんなんで風邪ひいても、ロマンもクソもないじゃろ」
「いや、あるさ。きみに傘を貸したという、ささやかな英雄譚がね。君に風邪でもひかれたら、ご自慢のミニスカが拝めなくなるのも残念だしね」
しおりは、そこでようやく目を細めた。
「気持ちわる。はいはい。ありがと、迷探偵」
怒っても笑ってもいない──けれど、どこか柔らかい顔だった。
そして、無言で傘を受け取り、ぱっと開いた。
──が、その傘は、すぐに僕の頭上に。
「……いや、なぜ君が僕に差してるんだい?」
「わかるようで、わからんのが謎いうもんじゃろ」
「……それ、推理物に使っちゃいけないセリフだよ」
「ええけぇ、黙って歩きんさい。迷探偵」
ふたり分には、少し狭い傘だった。
けれど、肩を寄せれば歩けない距離じゃない。
しおりの髪に落ちたひと粒の雨が、傘の内側に落ちてはねた。
それは、偶然にも──ちょうど僕の手の甲に落ちた。
振り返るのも、言葉にするのも、たぶん違う。
だから、俺はただ前を向いて歩く。
ひとりでは濡れるこの雨の中を。
彼女は一歩、俺に近づいた。
ほんの少しだけ、肩が触れる距離。
お互いにわずかに身体を傾けて、傘の下に収まる。
彼女の髪から落ちた水滴が、また俺の手の甲に跳ねた。
その一粒が、なぜか異様にあたたかく感じられる。
(ばか…もっとこっちこんと濡れるじゃろ…)
言おうか迷った言葉が、喉の奥にとどまったまま溶けていく。
「ありがと」も、「ごめん」も、「なんでそんな優しいん?」も、たぶんお互いに心の中では巡っているのだろう。
だけどこの距離では、言葉なんていらない。
──この雨の下では、推理よりも。
きっと、沈黙のほうが雄弁だから。
この雨も、それでも今日は、少しあたたかい。
──そんなときだった。
「……あっ、玖郎さん! しおりさんも!」
声の主は、玄関から駆けてきた山口だった。
彼はビニール傘を差し、こちらに小走りで近づいてくる。
手には、もうひとつ折り畳み傘。
「これ、しおりさんの傘じゃないですか? 職員室に忘れてありましたよ」
「あ、うちの……」
しおりは小さく目を見開いて、それから少しだけ困ったように笑った。
「すまんね、山口くん……」
「いえ、全然! でも、もう玖郎さんに借りちゃいましたね?」
山口は冗談めかして言ったが、その視線はほんの少し鋭い。
観察者の目。探偵のそれとはまた違う、けれど確かに“見ている”目。
俺は、あえて何も言わずに傘を受け取った。
しおりもまた、少し早足で僕の隣から離れて、ひとり分の距離を取った。
けれど──それはもう、ずぶ濡れになるほどの距離ではなかった。
「……玖郎さん、優しいですね」
山口は、ぽつりと言った。
まるで、気づかれないふりをしながら、しっかりと気づいているような口調で。
僕は空を仰ぐ。
雨はまだやまない。
でも、胸の奥で何かが少しだけ、晴れ間を見せたような気がした。
「それで、山口は傘あるん?」
「あっ、傘……ないです」
「……あーあ。知らんし。濡れて帰りぃや」
「えっ、しおりさんひどくないですか!? 入れてくださいよぉ〜!」
「ほら見ぃ、声でかい。うちらの空気が崩れるやんか」
「えっ? 空気……?」
「ええけぇ、黙って帰りいやぁ。山口助手」
そう言いながらもしおりは、ちょっとだけ笑っていた。
声はそっけなくても、ちゃんと山口の傘の位置に合わせて歩調を緩めていた。
傘がふたつに増えても、ふたりとひとり。
でも──その境界線は、やわらかく滲んでいた。
雨はまだ続いている。
けれど、今日の帰り道は、この雨は、たぶん、もっと、少しだけ、やさしい。
(次回は推理編。たぶん)




