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彼女の涙が少しだけ落ち着いたのを見計らって体を離す。がっしり私の腕を掴んで離さない彼女は、真っ赤な目で私を見上げた。小刻みに震える彼女に、精一杯優しく聞こえるように声をかける。
「あなた、名前は?」
「い、家永、乙女、です」
「家永乙女さんね。高校生?」
「はい。高校、1年です」
「そう。私は花宮小鳥。よろしくね」
「は、い」
震えて途切れ途切れに答える彼女の髪を整えるように頭を撫でていく。全身の毛を逆立てた猫のような緊張が、少しだけ緩んだ。
「ごはんは?お腹は空いてない?」
「だ、だいじょうぶ、です。食べ、食べ、ました」
「そっか。眠れてる?」
「はい、え、えと」
「うん。一度、ゆっくり休もう。ね?」
「あ、あの」
「大丈夫。そばにいる。いなくなったりしないから」
「はい。は、い」
静かに泣く彼女の体を支え、ドアのところまで歩いた。首だけ出して、廊下で待っていた大佐をぎっと睨み付ける。
「部屋の準備を。それとお風呂と着替え。食事と飲み物も。急いでください」
「全て手配済みです。場所は分かりますね?」
「ええ。もちろん」
もう一回睨むと、大佐は静かに去っていった。全て手配済みって、私が戻ってくるから用意してただけだよね?何を偉そうに。そう思ってから、自分がちょっと引くくらい怒っていることに今更気付いた。そうか、これは怒りか。この子をこんな目に合わせた大佐に対する。
廊下に出ると、家永さんは眩しそうに目を眇めた。ずっとあの暗い部屋に篭っていたんだろうか。足元の覚束ない彼女の腰に手を回し、ゆっくり浴室に向かう。歴史あるこの館は、各客室に水回りなんて無い。最近になってから改装したんだろうが、各階の端にお風呂やトイレなんかはまとめて配置されている。豪華な合宿所というかそんな感じだ。
広々とした浴室は、大佐の言う通り準備万端整えられていた。絨毯の敷かれた脱衣スペースには湯上がりに使うローブが置いてあって、衝立の向こうにはタイル張りのシャワースペース。適温のお湯が大きな盥に向けて注がれている。湯船を置くという概念は無いようで、基本的には体を洗うための場所だ。私は前の時には盥をお風呂代わりに使っていたが、子供用プールくらいの深さしかないので物足りなかった。
「一度体洗って、さっぱりしようか。私は外で待ってるから」
そう伝えて外に出ようとしたら、私の腕を握る家永さんの力が強くなった。目を潤ませて頭を横に振っている。
「うーんと、どこにも行かないから。ね?」
そう言っても必死な顔で見つめ返してくるので、仕方なくお風呂場に残ることにした。高校生のお風呂を覗いているようで落ち着かない。服を脱いだ彼女が衝立の向こうに消えると少しほっとしたが、すぐに困った感じで頭を出してきた。
「あの、どうしたらいいですか?」
どうしたらって何が?
「シャワーは分かるんですけど。他が、よく分からないです」
あーうん。確かに日本のお風呂とは違うよね。シャンプーとコンディショナーとボディソープが置いてあるわけでもないし。そういえば私も最初は戸惑った。石鹸が何故か粉だし、瓶に入っているのがマジでオイルだし。ヘアオイルとかじゃなくて油。なんか上手いこと使ってツヤを出したり香り付けしたりする用らしい。
衝立越しに説明してみたがうまく伝わらず、結局私がお風呂を手伝うことになった。シャワーもバルブが4つ付いてるしね……。どれをどういじったら何が変わるかとか分からないか。私も火傷しそうになりながら覚えた。
盥の中にちょこんと座る彼女に、桶でお湯をかけていく。髪を梳こうとしたら指が絡んで通らなかった。何かべっとりしてるし、何日このままだった?
「ここに来て何日経つか分かる?」
「えっと、分からない、です。けっこう経つ、と思います」
オイルを髪に擦り込みながらぽつぽつ話を聞いた。家永さんが召喚されたのは、私と同じ地下室。唐突に何の脈絡もなくあの場に放り出されたのは同じ。だが、そこからが違ったらしい。
まず、言葉が通じなかった。私の時には当然のように大佐と会話できたが、彼女には大佐の言葉が分からず、大佐にも彼女の言葉は通じていないようだった。突然薄暗い地下室に自分がいると思ったら、聞いたことのない言葉を話す、見るからにヤバい格好の大男が目の前にいるのだ。慌てて距離を取ろうと後ろに下がると、今度はオカルトグッズの山。人骨を使った何かとかミイラ化した何かとかが、ぶつかった拍子に床に散乱した。すうっと意識が遠のいて、気が付いたらあの部屋にいたそうだ。
テーマパークのお姫様の部屋みたいな所で目を覚まし、窓の外を見ればお城の庭園みたいなものが広がっている。夢でも見ないような光景の中、部屋を訪れる人とは会話が通じない。敵意は無いようだが何を考えているのか分からない人しかいない、終わらない悪夢みたいな世界。電波の入らないスマホの充電はあっという間に無くなった。部屋にあるものを掻き集めて壁を作って、何とか自分の領域を確保して。運ばれてくる食事も何が入っているか分からなくて怖かったけど、お腹が空いて耐えられずに食べて。カーテンを閉め切っていたら、いったいどれだけの時間が経ったのかも分からなくなった。
もう、とっくに死んでるんじゃないか。
そんな風に思って、何もする気になれずに呆然としていた時に、私が現れたそうだ。
「ほんとにビックリしました。光の中に、キラキラした綺麗な女の人がいて。女神様が迎えに来てくれたんだーって、思いましたもん」
「そっかー……」
相当精神を病んでしまったらしい家永さんの髪を石鹸で洗った後に、またオイルでトリートメントしていく。話が通じる相手ができて元気になってきたようで、彼女はよく喋った。
「あの、花宮さん?は、どうしてここにいるんですか?」
「うーん、私も同じかな。気付いたらここにいた」
本当にどうしてここにいるんだろうね?そこは完全に思考放棄していた。泡立てた石鹸で背中を洗っていく。
「あの、…………帰れる、んですか?」
「うーん……。分からない。ごめんね」
不安そうに私を振り返る家永さんには悪いが、本当に分からない。ここまでの数ヶ月、元の世界に帰る気配すら感じなかった。今この状態の彼女には辛いかもだけど、下手に誤魔化しても仕方ないと思う。家永さんの赤く腫れた目が、じいっと私を見つめる。
「……帰りたくない、んですか?」
「…………どうかな」
背中をお湯で流し、石鹸をつけたタオルを家永さんに手渡す。髪を絞りながらタオルで巻き上げていく私の中で、心臓がどくどく脈打っている。
帰りたくない。
はっきり口にされて自覚した。半分観光みたいなもんとか変わったワーキングホリデーとか、自分に色々言い訳してきたけど。
私は、元の世界に帰りたくないんだ。