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薄暗い街灯がぼんやり照らす道路を、ヘッドライトがくり抜くように照らす。小休止を挟みつつ半日。ようやく大佐の館に辿り着く頃には夜もすっかり更けていた。トラックよりはマシとはいえ、さすがに体もガタガタだ。時々ひっそり治癒の力を使って凌いでいなければ途中でリタイアしていたと思う。館の車止めに停車した時にはほっとした。あんなに来たくなかったのに。
扉が開くと、なんとなく見覚えのある顔が出迎えてくれた。ここを離れて……まだ数ヶ月しか経ってないのか。なんだか遥か昔のことのようだ。
「中尉の従卒には客間を用意しましょう。貴方の部屋は覚えていますね?」
「はい」
「そちらを整えてありますので、自由に使ってください。貴方の帰りを皆も楽しみにしていました」
「ありがとうございます」
さっさと部屋に引き篭もろうとしたら、大佐に笑顔で足止めされた。さっそく何か仕事があるらしい。
「実は少々困っておりまして」
「はあ」
「私共も色々と試しているのですが、なかなか上手くいかず。貴方の助けを借りるのが最良と判断しました」
「はあ」
気の無い返事をしつつ、大佐の後について館の階段を上る。3階の廊下を進んだ先、私が使っていた部屋を通り過ぎた奥。たしか貴賓用の客間だった部屋の前で、彼は立ち止まった。
「どう説明したものか……。一度、その目で見ていただいた方が早いかと」
「ええと?」
何やら核心に触れない奥歯に物が挟まったような話し方に不安が募る。このドアの向こうに何がある?
「あの、私に何をしろと?」
「見て、確認していただきたいのです。先入観は無い方が良いと思いますので、詳細については後ほど」
そう言われて、はいそうですかとドアを開ける気にはなれない。じっと大佐を見上げると、彼は困ったように微笑んだ。
「物理的な危険は無いものと思います。特に神の加護を受けた貴方であればなおさら」
「この中に、何があるんですか?」
「それを確認していただきたいのです」
大佐のブルーの瞳は揺らぎもしない。空のように底の見えないそれから目を逸らし、大きく溜め息を吐く。
「中を見ればいいんですね?」
「ええ。貴方ならきっと理解できるかと」
覚悟を決めてドアノブに手を掛ける。大佐はゆっくりと距離を取った。何かを警戒しているというより、中にある何かに配慮したような動きだ。室内からは見えない位置に立つ彼を横目で見つつ、ゆっくりドアノブを回した。
ドアは音も無く開いた。中は真っ暗だ。廊下の心細い照明が、かろうじて室内の輪郭を浮かび上がらせる。優美な装飾を施された調度品がうっすら見えた。とりあえず、何か急に飛び掛かってくるようなものは無さそうだ。
一歩踏み込むと、ある種嗅ぎ慣れた異臭がした。汗と、排泄物の入り混じった臭い。獣じみた気配が部屋の右側に漂っている。そっと目を向けると、ベッドがあった。いやベッドというか、元は天蓋付きベッドであったであろう物体を中心に何やら布団の類やテーブルらしきものが積み上がってバリケードのようになっている。その向こうは完全な闇だ。臭いと気配は、その奥に強く澱んでいる。
「誰か、いるの?」
そっと呼び掛けると、ガサッと音がした。かなり大きな何かが、私の言葉に耳を澄ませている。緊張に強張る喉を一度唾を飲み込んで緩め、改めて呼び掛けてみる。
「ええと、聞こえますか?」
バリケードの向こうから頭が覗いた。目だけがギラギラ光っていて、顔はよく見えない。
「にほんご……?」
弱々しい声が耳に届いた。ガタガタッと何かが倒れ、人影が転げ落ちる。暗がりの中のそれは、私に向かって這うように進んできた。
──ああ。
少しずつ輪郭がはっきりしてくる。何とか立ち上がったそれは、開いた扉から差し込む光に照らされた私を見つめている。
──ああ、そういうこと。
ふらふら近付いてくるにつれて、彼女の様子も見えてきた。バサバサの髪。ブレザーの下に見えるワイシャツには染みができている。チェック柄のスカートにも何かが点々と付着している。紺色の靴下で絨毯を踏んで、彼女は半ば倒れるように私の腕に飛び込んできた。
「た、たす」
膝立ちになった彼女が、ぎゅうっと私の腕を掴む。その目にみるみる涙が盛り上がっていく。
「たすけて。たすけて、ください」
最初に手に入れた果実は、あまりにも大きかった。神の奇跡としか言いようのない、戦局を左右するほどの力。それを複数手に入れようとするのは、考えてみればごく当たり前のことだ。
大佐は軍人で、医者で、そして科学者だ。きっと彼は、何度も実験を繰り返したに違いない。変数を推定し、条件を変え、何度も、何度も。私という成果を生んだ召喚の儀式を、狂気の赴くままに。
彼女のブレザーの胸ポケットには、どこかの校章が縫い付けられている。唇が震えて声にならない彼女の頭を抱きしめると、ひいひいとくぐもった泣き声が薄暗い室内に響いた。私の中に渦巻く感情が何なのか、自分でも分からない。ぎゅっと目を閉じて、ただ腕に力を込める。
とにかく大佐は成功したんだ。2人目の召喚に。




