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「あの、そんな話は聞いていませんが」
「まあ、だろうな」
「私はどうしたら?」
「好きにしろ」
「何もしたくありません」
全軍の指揮だの何だの、そんな面倒臭いことはしたくない。大佐は全権委任という表現をしていたが、文字通りの意味で全権を行使できるということか。返品できないだろうか、これ。
「黒鷲騎士というのはそんなにとんでもないものだったんですね」
「黒鷲騎士と黒鷲官は違うぞ。黒鷲騎士は皇帝陛下の騎士というだけで、そこまでの権限は無い」
「はあ」
「……誰も説明していないのか……」
遠い目をしたホイアー中佐が詳しく教えてくれた。黒鷲騎士はかつての皇帝直属騎士団の称号で、現代では武力的な意味での騎士ではなく、名誉称号として扱われている。帝室と元王族、海外の王室に贈られることがほとんどだが、稀に特に帝国に貢献する働きをした者も黒鷲騎士となることがある。黒鷲騎士であることを強調した場合、その人を無下に扱うのは皇帝に対する不敬と捉えられて何らかの処罰を受ける可能性が出てくる。特に帝国貴族に対しては黒鷲騎士の称号はよく効くそうだ。
対して黒鷲官は帝室典範に定められた官職で、皇帝大権を行使できる皇帝代理身分のこと。皇帝にできることなら何でもできる。今回の戦争ではブチ切れた皇帝に罷免された将軍が何人もいるが、黒鷲官である私にも同じことができるらしい。命令書一つで軍団を動かせるし、外国大使を呼び付けて条約を締結することも、皇帝の権限で死刑を命じることもできる。
「……私がそんな身分でいいんでしょうか?」
「まあ、そうだな。俺もどうかと思うぞ」
ホイアー中佐が同意してくれた。デューリング少佐がすっかり冷めたコーヒーを飲み干し、私に心配そうな目を向けてくる。
「さっきのように黒鷲官の証を見えるように出せば、それはその場に皇帝陛下が隣席しているのと同じ意味となる。態度が気に入らないと射殺されても、帝国軍人である俺達には何も言えん」
「それは……失礼しました?」
「軽々しく扱って良いものではない、と心しておけ。できれば何か入れ物を用意しろ。うかつに目に触れないように、な」
「はい」
腰からぶらつかせておいてはいけない、というのは理解できた。うっかりチラ見えしてしまうと大事になりそうだし、落としたりしたら取り返しがつかない。とりあえず雑嚢か何かに入れておくか。
「あー……。何の為に呼んだんだったか……」
ホイアー中佐が天井を見つめる。情報将校でもさすがに黒鷲官は情報過多すぎたようだ。思考の整理が追い付いていない。
「ええと、私のせいで南部戦線に来たとか何とか言われていたような?」
「ああ、そうだ。そうだったな。聖女様が皇帝陛下を癒してくださったおかげで、意思決定がとにかく早くなってな。参謀本部は大わらわで戦略の見直しをしている真っ最中だ。南部戦線についても早急に解決するよう厳命されている」
「はい」
「それでまあ、色々言ってやろうと思っていたんだが……もうどうでもよくなったな、うむ」
「はあ」
そんな投げやりになってもらっても困る。私も早急に解決すべき南部戦線の先遣隊の一員なのだ。大佐に言われるままここまで来てしまったが、情報が不足していると色々とまずいことになるのは今で実感できた。
「どうでもよくなったなら、私から質問してもよろしいですか?」
「黒鷲官から命令されたら拒否権は無い」
「そういうのはいいですから」
「好きしろ。答えられる話なら答える」
中佐は私と目線も合わせずに、手にしたペンで机をコツコツ叩いている。飄々とした受け答えをしているが、頭の中では何かしら高速で考えているっぽい感じだ。
「ええと、まず先ほどの会議についてですが。あれは私の処分を決めるためのものだったのでは?」
「まあそうだな。今となってはどうでもいい話だが」
「結局、私はどういう処分になるのでしょうか」
「皇帝代理が軍記違反を認めその場で処断しただけの話だ。何の問題も無い。むしろあの場にいた兵士全員を抗命で逮捕しなきゃならんな」
「迎えに来た憲兵隊はどう見てもそういう雰囲気ではありませんでしたが」
「まあその辺りは大佐の仕業だ。あんな様子でも政治は心得たものだな」
「そこを詳しく聞きたいんですが」
相変わらず心の半分がどこかに行ったままの中佐の説明によると、まず司令部には件の少尉からの通報が入った。他所者の大尉が起こしたトラブルに司令部は色めき立ち、舐められてはならぬと憲兵を差し向けて逮捕する流れになった。そうやって張り切って軍法会議の準備をしていたところに、大佐がふらりと現れてこう言ったそうだ。
「彼女は、皇帝陛下より特命を受けた黒鷲騎士ですが?」
そんなバカな、という思いと、帝国有数の名家出身で大佐という階級の人物がそんな嘘を吐くはずが無いという思いが交錯する中、いつから準備していたのか大佐が資料を取り出した。そこには南部戦線を年内に解決せよという皇帝命令と、聖女の奇跡についての長いポエムが付いていたそうだ。
「その頃には俺達も会議室に居たんだが、南部戦線の連中はもう何も考えられなくなっていたな」
「そうでしょうね」
皇帝からの命令書と常識ではあり得ない聖女云々を同時に渡されたら思考がぶっ壊れる。狙ってやっているとしか思えない。そういえばこの世界に来た頃、病院での会議でも皆が疲れ果てるのを見計らって私の前線派遣を捩じ込んでいたっけ。よく考えてみるとパソコンもコピー機も存在しないこの時代、資料を人数分用意しているだけでもおかしな話なのだ。いったいいつの間に……列車の中でもずーっと何か書類仕事をしていたな……。大佐の館を出た時から、もしかするとその前からこうなることを見越して準備していたってこと?怖。
「差し向けた憲兵隊を呼び戻すには遅すぎるし、貴様の到着は刻々と迫るしで大混乱の中、大佐は神についての講釈をし始めるしでな。あんな会議は軍に入って以来初めてだった」
「それは、はい」
「せっかくだから俺達も先遣隊として司令官直属扱いにしてもらう言質を取っておいた。今まで第三軍の別組織扱いでやりにくかったんでな。これで堂々と南部戦線の連中に命令できる」
「そうですか」
転んでもタダでは起きないなこの人。あのイーペル戦線を生き抜いてきただけのことはある。
「貴様が到着してからは見ての通りだ。副司令官閣下は今も大佐の掌で転がされてすっかり角が取れている頃だろうな」
「そういえば司令官閣下はどちらに?ここが司令部なんですよね?」
「奴は後方で遊んでるぞ。公国首都のホテルを臨時司令部ってことにしてな」
もういちいち驚かないけど。南部戦線、どうなってるの?




