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ぐったり疲れてお昼ごはんを食べていると、自動車の排気音が聞こえてきた。この時代、自動車を自由に乗り回せる人物などそうそう居ない。嫌な予感は当たるもので、程なくしてこの館の主が颯爽と姿を現した。大佐、暇なのかな。参謀職クビになった?
「お疲れ様です、大佐」
「お元気そうで何よりです、コートリー大尉」
相変わらず清潔そのものの見た目の大佐と敬礼を交わす。お昼を一緒に食べていた乙女も見よう見まねの敬礼をしていた。そんな彼女にも敬礼を返すと、大佐は優しく微笑んだ。
「貴方にも神の奇跡がもたらされたと聞いております。その魂に祝福のあらんことを」
「ええと、はい」
乙女のことは大佐の耳にも届いていたようだ。まあ、軍病院であれだけ派手にやっていれば当然か。乙女の様子を窺うが、状況を理解できていなそうだ。
「昼食後で構いませんので、少々時間をいただきたい。……今後のことで」
「了解しました」
それだけ言うと大佐は去っていった。その後ろ姿を見送り、お昼の続きを口に運ぶ。今日も太いソーセージとキャベツのシンプルなおかずとパン。食後の温かいお茶付き。もはや食べ慣れた味だ。窓の外は穏やかに晴れていて、戦時中であることを忘れそうになる。
今後のこと、ね。さて、今度はどこに行くことになるのやら。
うだうだお茶を飲んでから書斎に入ると、テーブルには広域地図が広げられていた。帝国を中心に、三つの戦線が破線で示されている。四角がたくさん並んでいるのは部隊配置だ。それくらいはなんとなく分かるようになった。
「お待たせしました」
「どうぞこちらへ。……マリーアはどちらに?」
「彼女は部屋に戻ってもらっています。同席させた方が?」
「いえ、貴方だけで構いません。何か飲み物は?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
大佐に示されたソファに座り、テーブルに広がる地図を改めて眺める。西部戦線は共和国の北半分を押し除けるように延び、首都を示す大きな赤丸を飲み込んでいる。現在の状況を反映した最新版のようだ。軍機の地図をほいほい持ち出していいのか?いいのか。この人れっきとした参謀だった。
「共和国が停戦を受諾したと聞きましたが」
「ええ。貴方の尽力の賜物です。改めて感謝を」
「いえ、そんな」
「イーペルでの劇的な勝利とリールの電撃攻略で、共和国軍は大混乱に陥りました。神の使徒たる貴方の力が無ければ成し得なかった勝利と認識しています」
「はあ」
若干、いやかなりギラついた目の大佐に私が離れてからの戦況について説明を受けた。リール鉄道駅制圧後に到着した増援部隊は、リール市街に何の抵抗もなく進出。敵駐留部隊の武装解除と完全占領までたった二日だったそうだ。まああの守備隊では抵抗したところで瞬殺だったろう。
今まで後方と位置付けていたリールがあっという間に陥落したことで、共和国軍は戦略の全面的な見直しを迫られた。沿岸部の軍団は攻勢を受けて完全包囲され、主要な港湾は機能しない。救援を送ろうにもリールから首都までは鉄道と幹線道路で一本。他の内陸主要都市とも交通網で繋がっているため、安易に軍を動かせない状況になった。私も実際移動してみて分かったが、この世界は地図で見るほど広くない。この時代の整備されていない道路を大して早くもない車で走って、リールから国境を越えて大佐の館まで一日。たぶん移動距離は東京ー名古屋間よりも短いくらいだ。その距離感で考えると、リールを抑えればあとは首都まで一週間と言っていたのも大袈裟ではなかったのだと分かる。大佐の親族企業が次々納車しているトラックの輸送力も衝撃的だったようで、徒歩移動と鉄道輸送を基準に考えている共和国軍ではまるで対応できずに翻弄され続ける結果になった。こうして、一年にわたって膠着していた西部戦線は一月足らずで帝国軍の大勝利で終わることになった。
「貴方の世界について色々と伺ったことで、帝国軍の用兵は大幅に進化しました。今回自動車化した部隊を運用できたのも貴方のおかげです。これも神の思し召しと感謝しております」
「いえ、私は何も」
本当に私は何もしていない。確かに自動車が当たり前の世界について話しはしたが、それ以前から大佐はトラックの量産と軍への納入を進めていた。野戦補給廠と前線の間で自動車は普通に使われていたし、参謀本部ではより大規模な運用について検討を進めていたはずだ。私が何も言話なくても、近いうちに導入されていただろう。
「新型試作車両も順次投入していたのですが、こちらは残念ながら停戦までに効果的な運用ができたとは言えませんでした。今後に期待、といったところでしょうか」
「はあ」
今後、という単語に姿勢を正すと、大佐もすっと視線を地図に落とした。その端正な手が西部戦線を指差す。
「共和国との停戦が成立したことで、西部戦線に投入されていた各軍団は再編成のうえで他の戦線に投入されることとなります。第三軍については、今後南部戦線に向けて移動を開始する予定です」
すっと指の動いた先、帝国国境を越えて隣国を挟んださらにその向こうに破線が伸びていて、山と川が入り組んでいる間にぽつぽつ四角い部隊記号が並んでいる。今度は南か。寒い冬ならまあアリかな、と、頭のどこかで呑気に考えている私がいた。