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※おことわり※
おおむね1910年代頃のヨーロッパ的な世界を舞台としていますが、細かな地理や歴史は異なります。現実と同じ地名や概念が出てきたとしても、そのまま現実に当てはまるとは限りません。また作中では時代背景を考慮し「看護師」ではなく「看護婦」の呼称を用いています。その他差別的な呼称が出てきた場合にも、時代背景を考慮したものとご了承ください。
要するに、この作品はフィクションです。現実の地名、団体名、人物等とは一切関係ありませんのでお楽しみいただければ幸いです。
どんより曇った空の下、腹に響く低音がかれこれ1時間は続いている。前線から20マイルは離れているのに、布張りのテントが並ぶ野戦補給廠にも砲兵の地道な仕事振りが伝わってくる。湿気を吸っているのにパサパサしている絶妙な黒パンを片手に、私は黴が生えたみたいな雲をぼんやり見上げていた。
「閣下ぁ〜、到着しました〜」
若干間延びして私を呼ぶ声がする。国防色の軍服に従軍看護婦を示す白と赤の腕章を付けたユーリアが、かつては教会だった野戦病院前で手を振っているのが見えた。ロクに手入れもしていないのに艶のある金髪が、曇天の下でもよく目立つ。酸っぱい黒パンを口に放り込むと、私は駆け出した。
扉の取っ払われた教会の前に、灰色のトラックが2台並んでいる。無蓋の荷台に並ぶものは、見なくても分かる。重症者独特の、血と排泄物の入り混じったような臭い。砲弾に吹き飛ばされた、哀れな兵士達だ。最前線の衛生兵が後送してもまだ生きているだろうと踏んだ彼等は、呻き声もなくただ横たわっている。
「閣下、傷病者は総員…」
「報告はいいです。まとめて対応します」
同乗していた衛生兵が敬礼するのを片手で止めて、私は背負っていた小銃を両手で杖のように構えた。チビの私では身長の3分の2はあろうかというそれを高く掲げると、両目を閉じて念じる。両目の間、頭の中心あたりに感じる熱を、両手を通じて外に送り出すイメージで。
銃口から鉛玉の代わりに光が溢れた。若干緑を含んだ蛍のような光点が次々と飛び出し、泥と血に塗れた男達に降り注ぐ。一つ、また一つと見えない蛍が降り立ち消える度に、浅く荒い息が整い、痛みに強張る体から力が抜けていく。最後の淡い光が消える頃には、トラックに満ちていた死神の気配は完全に消えていた。
「動けるようになった者は下車。そこの井戸で体を洗ったらこちらに並んでください。診察をします」
ユーリアがぱんぱんと手を叩くと、兵士達がぞろぞろ降りてきた。皆一様に信じられない、という顔をしている。自分が立ち上がり歩いているのも半信半疑な様子で、促されるままに広場の井戸で水浴びを始めた。最初は大人しかった彼等も、誰かが冷たい井戸水を頭からぶっかけたことで大騒ぎになり、水掛け祭の様相を呈していった。元気一杯の彼等を横目に、私は同乗してきた衛生兵と野戦病院の軍医に促され、傷病者名簿の記録にサインする。リストにずらりと並ぶ階級と名前。とりあえずは今日死なずに済んだ彼等のことが、今更ながら実感を伴って私のお腹に落ちてきた。
「閣下、お疲れっした」
横からスザナがぴょっこり顔を覗かせてきた。くりくりした黒目が特徴的な彼女は、東方植民地出身の看護婦だ。鼠色のワンピースに白のエプロンが、褐色の肌に似合っている。
「あとはだいじょぶっすよ。おやすみくだされ?」
「ありがとう。おやすみくださいます」
「聖女様」
若干カタコトの彼女を真似て遊んでいたら、横にほぼ全裸の大男が立っていた。全身ずぶ濡れの水も滴る彼が、私に目線を合わせるように跪く。
「ありがとうございます。この世界に奇跡は存在するのだと知りました」
「い、いえ。どういたし、まし、て」
筋骨隆々のパンツ一丁男に熱っぽく見つめられてしどろもどろになった私の前に、スザナがにっこり笑って入ってきた。
「兵隊サン、お触り禁止よ。聖女サマに手を出したら軍法会議よ」
「いえ、決して邪な考えは無く!心よりの感謝をお伝えいたしたく」
「お気持ちはありがたく。でも、これが私の職務ですので」
下手くそな笑顔を残して、足早にその場を離れる。比較的損傷の少ない民家のあてがわれた部屋に入り、キャンバス地のコットに腰掛けると、抱えていた小銃を下ろした。
「聖女、ねえ…」
確かに、そう呼ばれる存在になってみたいなーと思ったことはあった。小説やアニメで見る、男にチヤホヤされて崇められる女に憧れるような、浅い願望。でもさあ。
「これ、何か違くない?」
相変わらず響く砲声の下、聖女こと花宮小鳥は頭を抱えるのだった。