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ソライ、とぶ

作者: 山三独瑞

ソライ、とぶ



 チューリヒから特急列車ICインターシティーに乗ると、スイス東部の山岳州グラウビュンデンの州都クーアには一時間十五分で到着する。

すでにアルプスの山が近くに迫ってきているが、そこからさらにバスで四〇分ほど西方へ山道を走る。

目的地のラークスという村に近づくと、すぐ目の前に切り立った岩山が威圧的に屹立している。

ラークスはウィンタースポーツが盛んだが、近年になり通年利用できるスポーツリゾートとして開発されたところなので、二、三ある山小屋風のホテルが建っていなければ風景とは相反して山岳観光地とは思えないかもしれない。

むしろ、雑誌に載るようなモダン建築の貸別荘が立ち並んでいて高級保養地といった観がある。

この物語の主人公家族が休暇にここを選んだのは、施設の中心部に子どもが楽しめる多様な充実した屋外スポーツ施設があるのと、大小さまざまなハイキングコースがあって、大人も子どももスポーツを楽しむことができるからだった。

その中の一つに、Senda dil Dragunと呼ばれる1.5キロメートルにおよぶ木製遊歩道がある。

山の斜面に作られた散策路ではなく、大きなモミの木の梢の高さに架けられた橋がくねくねと森の中に延びているのである。

ちなみにセンダ・ディル・ドラグンとはスイスの四国語の一つレト・ローマン語で、ドラゴンの路という意味だ。

この龍の路は一番高いところで地上三〇メートル、そのため高度感もありちょっとした冒険気分を味わえるし、眺めも抜群だ。

視界が枝に遮られたとしても緑に包まれて歩くのは爽快だ。

いまは秋だが、冬になったら木々も雪を被り、一面白銀の世界の中に村々の暮らしが遠望できて、まったく違った風景、いっそうの山岳気分が味わえるにちがいない。

途中には木製遊具やゲームがあったり、地形や村々、森の鳥や動植物などについて学べるステーションなどもある。

こうした自然学習への配慮があって、親子ともども楽しめるよう工夫してある。

さて、リゾート地のラークスについてはこの辺で切りあげて、そろそろこの物語の主人公に話を移そう。

主人公の男の子の名前はソライ。

スイス人にしては珍しい名前なので大人たちは、お父さんお母さんはどこの国の人と訊いてくる。

ソライはいつも次のように言うことにしている。

「お父さんもお母さんもスイス人だよ。だけど僕の名前は日本語さ」

そのとおりなのだ。

ソライのお母さんは日本人の父とスイス人の母との間に生まれ、高校卒業まで日本で育った。

両親の離婚後母とスイスに移住し、十数年後スイス人とジンバブエ人とのあいだに生まれた夫と結婚してソライとソライの兄を生んだ。

ソライのお母さんは子どもと話すときはかならず日本語で話す。

子どもが全部理解しようがしていまいがおかまいなしといったふうだが、子どもたちはふたりともだいたいはちゃんと理解している。

お母さんは一年に一度は日本に行くし、家族全員で行くことも多い。

日本でソライたちがお爺ちゃんと話すときは日本語で話すようお母さんからきつく言われるが、お爺ちゃんがドイツ語で答えてくれるときもある。

そんなときはお爺ちゃんが叱られる。

お母さんは国籍はスイスだけれど、自分は日本人だと思っているようだ。

だから子どもたちにも日本のことを知ってもらいたい、少しは自分を日本人と考えてもらいたい、と思っているらしい。

そんな考えがありお母さんはお父さんと相談のうえ、二人の子どもたちの名前をお爺ちゃんとつけた。

それでソライには昊惟という漢字の名前があるのだ。

ソライは体を動かすことが大好きだ。

屋外では他の子どもたちが歩いていても、たいていは走っている。

将来はプロのサッカー選手になると真剣に考えている。

そんなソライの目にラークスに来て最初に飛びこんできたのは、やはりセンダ・ディル・ドラグン、例の龍の路だった。

何しろ大きなモミの木の樹頭ちかくに、太くて長い丸太の柱に支えられた木造の小径が空中を深い森の中へと吸いこまれるように延びているのだ。

こんな路は見たことがなかった。

それにその路の起点となっている塔がSF的だった。

コンクリートの円筒の芯に螺旋階段と螺旋滑り台が巻きついている。

その階段には幾段ものドーナツ状の踊り場がすえつけられているので、遠目から見るとその円盤が塔を輪切りにしているように見える。

さらにその円盤の外側にはこれまた木製の八本の長い支柱が、外側に湾曲しながら空へと突き出している。

ソライは龍の路の入口のこの塔を地上から見上げたとき、いままで経験したことのない大きな冒険が始まりそうな気がしてワクワクしてきた。

塔の入口へと続く道の途中で立ちどまってしばらくてっぺんを眺めていると、最上段の踊り場の縁に小さい人影が現れた。

出てきた子どもは安全ベルトをつけていて、上から垂れ下がっているロープにぶら下がった格好で、そろそろとジャンプ台のように空中に飛び出ている板の先まで進み出た。

静止していると思った次の瞬間、その子は一歩前に足を踏み出した。

体は垂直に落下したが、塔の半分ぐらいのところからスピードが落ちて木片のクッションが敷き詰められている地面に緩やかに着地した。

それを見たソライ兄弟は自分たちもやりたいとお母さんの方にいっせいに顔を向けた。

お母さんがなにか言うと同時に二人は走り出し、塔の螺旋階段を駆け足で登りだした。

二人とも途中一度も足を止めることもなく、一気に最上階まで駆け上がった。

そこからはラークスの村が見下ろせるが、ソライの目を捕らえたのはその眺望ではなく、踊り場にジャンプ台にふさわしいいろいろな装備や器具、装置があることだった。

すべてが冒険のための道具に見えた。

それらすべてを囲むように周囲には柵がめぐらされていて、一箇所だけに扉があった。

そこがさっき見た垂直ジャンプのための出口だ。

扉の上には梁が外に突き出ていて、その先に取り付けられているワイヤードラムからロープが一本ぶら下がっていた。

さっき跳んだ男の子はこのロープにぶら下がっていたのだとソライにはすぐにわかった。

そこにいる従業員のおじさんが扉の開閉、器具や装置の点検、そしてなによりも挑戦者たちの安全の確認をしてあれやこれや指示を出しているからだ。

すでにお兄ちゃんはおじさんと一緒に安全ベルトを装着しおわり、ヘルメットもしっかりとかぶっていつでも跳び降りる準備ができていた。

ソライは二番目だ。

従業員のおじさんはワイヤードラムからぶら下がっているカラビナのついたロープを長い棒でたぐり寄せ、お兄ちゃんの胸のあたりにある金具に装着すると扉を開けた。

お兄ちゃんがジャンプ台にひとりで出ていった。

その後ろで扉が閉まった。

ひとりでジャンプ台の縁に立つお兄ちゃんを、ソライは後ろから固唾をのんで見ていた。

おじさんが「いつでもいいよ」という声をかけると、すぐにお兄ちゃんの姿は視界から消えた。

ワイヤードラムがカラカラカラと鳴ったかと思うとブーンというモーター音が聞こえ、ワイヤーの降りる速度が緩やかになり、まもなくして止まった。

そしてしばらくのあいだ、垂れ下がったワイヤーはいくらか左右に揺れていたが、きっとお兄ちゃんがロープをはずしたのだろう、ドラムが回転し始めワイヤーが巻き上げられた。

つぎはぼくの番だ、そう思うとソライは武者震いがしてきた。

おじさんが安全ベルトとヘルメットの装着具合を確認してくれ、「さあ、これで準備万全だよ。いつでも行けるぞ」と声をかけてくれた。

ソライが首を縦に振るとワイヤードラムから垂れ下がっているロープがフックのついた棒で引き寄せられ、ソライの金具に取りつけられた。

扉が開かれ、ソライはそろそろとジャンプ台に出た。

いままであった頑丈な柵はそこにはもうなく、目の前には数歩先からただストンと虚空が広がっていた。

半歩前に出てみるともっとよく下の様子が見えたが、それでいっそう立っている場所が宙に浮いているかのように感じ、足元の台もいまにも崩れ落ちそうに思えた。

おじさんが大声でなにか言っている。

声ははっきりと聞こえるし言っていることも理解できるけれど、自分にかけられた声のように思えなかった。

膝が笑うような奇妙な感覚を覚えた。

急に背筋が寒くなり、冷や汗が出てきた。

跳ぶというより落ちるという感覚が襲ってきて、ソライはそろそろと後ずさりをし柵の内側にもどった。

不甲斐なく、情けない気持ちだった。

自分からやりたいと言っておきながら怖気づいてしまった。

従業員はこの子が「やめる」と言いだすだろうと思った。

しかしそうはならずもういちど挑戦しようとしていることに驚き、恥ずかしくてやめられないのかなと子どもの心の内を想像した。

そして「いいかい、下を見ないで前を見るんだ」と言って励ました。

いちど閉じられた柵の扉がふたたび開いてソライがまた地上三〇メートルのジャンプ台に姿を見せた。

同じ階でソライを後ろから見ている人も、地上のギャラリーから見上げている両親や見物人も、果たしてこの子は跳べるだろうかとハラハラしながらその瞬間を待っていた。

しかし前と同じ位置で動きは止まり、前回よりもはやくソライはジリジリと後ずさりしていった。

誰もがもうソライは跳べないだろうと思った。

実際しばらくのあいだジャンプ台には人の姿は現れなかった。

しかしそばでソライに声をかけていた従業員だけは、「どうもこれで終わりではないぞ」と思い始めていた。

目の前に立ちすくんでいる子が「もうやめる」と言い出さないのだ。

恐怖にふるえているのかもしれないと思い、少し間をおいて「大丈夫かい、やめるかい」とその子の顔をのぞきこむと、その目にはもう怯えはなく、いままで以上に決然とした目つきで一点を凝視していた。

「もう一回やってみる」とジャンプ台の方に向かって返事が放たれた。

名前をたずねたおじさんは「いいぞソライ、その調子だ、いいか、真っ直ぐ前だけを見て静かに足を踏み出すんだ。ここは龍の路の入口だ。龍が高いところから舞い降りるんだ」と言って扉を開けた。

ソライは龍を見たことがあった。

家族とお爺ちゃんと皆で日本で旅行をしたとき、どこかのお寺に龍がいた。

お寺巡りなどつまらないと思っているが、すごい龍に出会えたらうれしい。

ソライはジャンプ台の前に出た。

前にはモミの木のてっぺんがあった、空があった、雲があった、風が頬を撫でた。

ソライは跳んだ。

気づいたときにはもう地面に着いていた。

脚がガクガクして立っていられず、木くずを敷きつめた地面にしゃがみこんでしまった。

上の方からは「ワオ、ブラヴォ、ソライ」というおじさんの声が響いた。

下のギャラリーからも励ましの声と拍手が聞こえていた。

ワイヤーロープを解くのに手を焼いていたら、お兄ちゃんが駆け寄ってきていっしょにカラビナをはずしてくれた。

ソライは満足顔で、すべてを見ていた両親と多くの人のいるギャラリーに恥ずかしそうに走っていった。



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