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旅の始まりと不死の魔物

3年前、15歳だったアルジスは、不死の魔物によって叔父を目の前で殺された。父王の腹違いの弟、ジョナスに命を救われたのだった。大陸五大騎士になったジョナスにアルジスは可愛がられていた。剣を教わり、父よりも親交が熱かった。


兄のように慕っていた叔父を失ったアルジスは、不死の魔物について調べた。そこで繋がったのが聖女の祈りの歌だった。父王に頼み込み、やっとの思いで掴んだ聖女の隠された歴史を知り、この世にはもう聖女が存在しないことを知った。


王太子としての仕事をこなしていく中、隣国、カルヴァン家の祈祷主の噂を耳にした。美しい歌声に大陸各国の要人が、国を超えてまで聴きたいと言われる祈りの歌。アルジスはわずかな希望を抱き、隣国までやってきたのだった。


そこで掴んだ機会を逃すまいと、少し卑怯ではあったが、ルーを手に入れようと画策したのだった。




ルーは使用人の女性に全身を洗われ、綺麗な紺色のドレスを着せてもらっていた。アルジスの前で魔力を暴発し、話が中断された時、使用人の女性が声をかけてきたのだ。アルジスから一刻も早く離れられるのなら、と思い挨拶もせず逃げるように部屋を出たのだ。


綺麗にしてもらい、嬉しいはずのルーの顔は悲観に満ちていた。使用人はルーに好きな色を選ばせたり、髪を褒めたりして機嫌を取ろうとしていた。けれど、ルーは俯くばかり。目を隠すために伸ばした前髪も、綺麗に整えられてしまった。


(いくら綺麗に着飾っても、腹の足しにはならない。それにこれから私はどうなるんだろう…聖女だとして、姉たちの今後はどうなるの?私のせいで……)


はぁ、とため息をついて叔母との幸せだった生活を思い出す。ミリアはいつも寝る前には、髪を櫛で優しく解かしてくれて、眠る時はそばで温もりをくれた。時々ルーがミリアの髪を解かし、なんでもない話をしては笑って聞いてくれた。


じわ、と目が熱くなり、ルーは急いで感情を抑え首を左右に振るった。


(もう泣かない…ここには叔母さまも師匠たちもいないのだから…)


身支度の済んだルーは、女性の使用人に付いていく。言われるがまま案内された部屋に入り、恐る恐る顔を上げると、そこには金髪の男性と女性、その間に姉のセルビアが長椅子に座っていた。対面にはアルジスと眼鏡の男が座り、その長椅子の後ろに軍服の男が立っていた。姉が立ち上がり、ルーの側に駆け寄って一人用の椅子に座るように促した。


長机を中心に、右にアルジス一行、左にカルヴァン家、真ん中にルーが座る。


(かえりたい……)


「ルー、私の隣にいるのが私たちの両親よ。ほら、父上、母上」


セルビアは両親をルーに紹介する。両親と言われても、初めて会う他人でしかないルーにとって思うことは何もなかった。ルーにとってはミリアが親なのだ。


紹介された両親は、ただ俯いて時間が過ぎるのを耐えているようだった。ルーを見ることもしない。


「今日がカルヴァン家の親族として会えるのは最後だろう」


冷酷な声でそう言ったのは、アルジスだった。つまらなそうに肘をついて頬杖を付き、無関心を顔に表していた。


「最後?妹は巡礼を終えればお返しくださるはずでは?」


セルビアが眉を寄せてアルジスに聞く。


「カルヴァン卿、彼女に伝えていないのか?」


びくっと震える目尻の垂れた父は、俯いたまま拳を握って表情を強張らせた。


「わっ、わがカルヴァン家は古くから掟を守ってまいりました。それは私も妻も、国を思ってのこと。決して殿下の仰るような思惑などはなく…」


「御託はいい。ルーは我がスケイルが貰い受ける。表には婚約という形をとる。貴殿らは制約を守ればいいだけのことだ」


(…こんやく?せいやく?)


「そんな!あんまりではないですか!ルーはやっと家族に会えたというのに…そんな…私はまだ妹と離れたくありません!」


華奢な体を震わせながら、涙ながらに訴えるセルビア。ルーはセルビアの言葉に少し嬉しく思った。


しかし、アルジスはそんなルーの小さな機微を壊す悪態をつく。


「はっ、笑わせるな。力のない自分を守るために妹をそばに置きたいのだろう?」


「違いま——」


「見え透いた自己欺瞞は見るに耐えん」


アルジスの目は、残忍で無慈悲だった。赤黒く睨むその瞳は、その場の空気をさらに凍らせる。セルビアはもちろん、彼の従者でさえ、アルジスの放つ殺気に怯え、ぴくりとも動かない。しかし、ルーは怒りに震えた。


アルジスの人を馬鹿にした言葉、態度、嘲笑、悪意、全てに嫌悪した。ジョナスに似た顔だったからか、余計に不満を感じたのだった。


「私の家族を侮辱しないでください」


ルーは意を決した面持ちで、アルジスをじっと見据えて言った。その言葉にアルジスはルーへと視線をゆっくりと移す。


「過度な慈悲は聖女だからか?それともただの愚鈍か?」


「愚鈍はあなたではないですか?」


「…なに?」


アルジスの殺気が増し、その場の人間は得体の知れない力で拘束されたようだった。だが、ルーは決して目を逸らすことはない。


ルーは抑えていた感情が溢れ、後先考えず、半ば意地になっていた。


「王太子殿下がそのお立場を乱用し、我がカルヴァン家を脅すのでしたら、私は自害いたします」


ルーの言葉に皆が驚き、一斉にルーへの視線が集まる。その言葉は両親も驚かせたようで、驚愕の表情をルーに向けた。


「お前が死んだところで残された家族の運命は変わらん」


「いいえ、あなたさまが王族のお立場で聖女を死に追いやった事実があれば私は満足です」


「ならば別の聖女を探すまでだ」


「はたして輪廻へ還るのでしょうか?」


———聖女が誕生したのは千年以上前だった。同じく各国に聖女の力を持つ女性は存在していた。だが、なぜか彼女たちは聖女と呼ばれなかったのだ。彼女らはカルヴァン家と同じく、墓を守り、教会で祈りを歌う祈祷主の役目を任されていた。それが魂を輪廻に導く儀式だ。ここまでは恩師マルモットから受け継いだ本に書かれていた。


ではどうして長い間、新たな聖女は誕生しなかったのか。ルーの推測はこうだ。


<聖女の魂が輪廻へと還れない原因が地上にあったのではないか———>



ルーの言葉にアルジスの顔が一瞬、歪む。ただの墓守でしかない少女が知るはずもない言葉を使い、怯える様子もなく王太子に歯向かう。本来であれば怒りを買い、聖教会や王家から罰が下されてもおかしくない。


だが確かにその少女は聖女の可能性を秘めている。


彼は自分をまっすぐ見据える貧相な少女に興味を持った。


アルジスは、スっと腰をあげ、ルーの前まで移動すると、手を差し伸べた。その行動が理解できなかったルーは後ろにのけぞって困惑する。彼の手は、膝にあるルーの手を無理やり掴むと、強引に引っ張った。勢いでルーの軽い体はアルジスにぶつかる、と同時に腰に手を回され動きを封じられる。


「なっ!なんですか!」


アルジスの顔がルーの耳元に当たり、低い声で小さく囁く。その声がルーの全身に寒気を走らせた。


「家族の命がおしければ、それ以上この場で話すな。余計なことを知れば」

(……恐!いや!帰りたい!!)


「歴史から消されるのはお前だけじゃない」


「——っ!?」


彼はルーの耳元から離れ、深紅の瞳で彼女の瞳を見つめる。先ほどの嘲るような表情はなく、初めて見せる真面目な顔だった。記憶の中のジョナスと重なり、ルーは目を丸くして固まった。


腰に回されたアルジスの手は、ぐるんと彼女を回転させ、腰にあった手が彼女の軽い身体を持ち上げる。


ほんの一瞬の出来事だった。


何が起きたのか分からず、混乱したルーは悲鳴をあげた。


「ひゃっ!」


彼はルーを片手で抱きかかえると、セルビアたちの方へ体を向けた。動揺した両親と姉は揃って口に手を当てておろおろとしている。


「この娘は私が守ると誓おう。だが、貴様らは我がスケイル国の制約下にあることを努努忘れるな」


アルジスはその場から切り上げるように言い放ち、ルーの両足を拘束した腕にぐっと力を入れて部屋の外へと歩き出した。その少し後ろには、従者たちが無表情で付いて歩く。


あまりにも予測不可能なアルジスの行動に、ルーの思考は停止していた。はっ、と我に帰ったルーは、慌ててアルジスの拘束を解こうと暴れた。


「は、離してください!!降ろして!!」


「暴れるな」


「い、嫌です!!離して!!」


ルーは両手でアルジスの胸を押し、両足をジタバタして暴れる。対して、彼は全く動じることなく廊下を歩く。ルーから見える彼の横顔は、無表情で感情が読み取れない。

(なんて力なの!?)


「どうしようとお前は俺の婚約者だ」


「!?」

(俺の!?)


「お前の両親は我が身可愛さに娘を差し出したんだ」


「あなたがそうさせたんです!両親を悪く言わないでください!!」


「俺が提示したのは2つの選択肢だ。カルヴァン家の愚行を秘匿とする代償にお前との婚約を認めるか、聖女として公に教皇に差し出すか、だ」


(教皇!?)


教皇とは、教会を束ねる聖教会最高指導者だ。このオーヴィル国、国王よりも権力を持ち、大陸全土にある教会の中で最も敬意を集めているその人。ルーは教皇の素晴らしい功績を褒め称えた分厚い教本を読んだことがあり、現在の教皇については一応、学んでいた。


一方、恩師マルモットから聞いた、教皇について全く別の知識も同時にあったため、ルーは教皇について考えることを放棄していた。


「カルヴァン家と婚約なんて……他国から批判をうけるのでは?」


「お前はいつの時代の話をしている?」


「?」


「教会の娘はその辺の貴族令嬢とそう変わらん」


「……」


「今はな」

(今は?)



聖女の血を繋いでいたカルヴァン家は、貴族の中でも特別な立場であった。オーヴィル国、王家から信頼され、国内の教会の中でも特別だった。血を繋ぐために選ばれる婿は、国王に認められないと婚姻を結ぶことができない、という歴史があったからだ。


そのことは叔母のミリアも知らない昔のこと。当然ミリアの知らないことは、ルーも教わらなかった。


だがルーには恩師から受け継いだ大賢者の本があった。それは魔法に関してだけでなく、あらゆる知識が詰められた『特別な魔法の本』だ。魔法や歴史、技術、植物、人種、医学、生活の知恵など分類はさまざまだった。


しかし、その本はマルモットが生前に作成したため、欠点として挙げられるのは古い知識ということ。


とはいえ、ルーは実際にその目で見たわけではない過去の出来事を鵜呑みにするほど従順な性格ではなかった。


彼女はアルジスが愚行と罵った両親や姉のしてきたことに何も思わなかった。たとえ姉がルーに見せた涙が嘘だったとしても、今のルーにとってはどうでもよかった。真実がどうあろうとも、姉の裕福な生活よりも、ルーには叔母と師匠たちとの生活の方がなによりもかけがえのない時間だったからだ。


今まで不満を抱かなかったのは、自分が誰よりも幸せだと感じて生きてきたルーだからだろう。


「どうしてそんなに急いでいるのですか?」


教皇の名を聞いて争う気が起きなくなったルーは、アルジスの横顔に向けて聞く。両親と姉が人質に取られたことで、今のルーには選択肢が少ないのだった。だから彼らの思惑に興味をもち、ルーを見ることなく、足早に本邸の出口を目指す彼に聞いた。


「一刻も惜しいからだ」


「なぜ?」


「……そのうち分かる」


「まるで誘拐みたいです」


「家族にいいように利用されていたお前は、何も思わないのか?」


「彼らがいて、私があるのです。利用されていたとは考えもしませんでした」


「洗脳だな。同じ娘でも姉は裕福な暮らしに対し、お前はまるで奴隷か罪人のようだ」


「裕福な暮らしがわたしの幸せと関係あるんですか?」


「聖女の幸せは国民の幸せとでも言うのか?」


「問いに問いで返さないでください」


「ならお前の幸せとはなんだ?」


「あなたには分かり得ません」


淡々と棘のある言葉を交わしながらもアルジスの歩調は足早で止まることなく、すでに本邸の前に停められた馬車に着いていた。アルジスは馬車にルーを軽々押し込むと、自ら乗り込み、貧相な少女の目を見て呟く。


「お前は愚かだ」


「……」

(この人とは仲良くできそうにない…)


馬車は動き出し、速度を上げて丘を下り始めた。ルーはアルジスからふい、と視線を外し、窓の外を見た。生まれて初めてこの地を去るルーの目に、教会が小さくなっていく。ルーは心の中で叔母と恩師たちが眠る墓所に別れを言った。


(いってきます)


馬車はオーヴィル国の王都から離れ、国境のある田舎の街まで半日も走りつづけた。その間、1回も止まることなく馬車の中は息が詰まりそうだった。というのも、彼が同乗していたからに違いない。


「お前は聖女について詳しいようだが、なぜだ?」


「カルヴァン家の墓守が知っていてはいけませんか?」

(またその質問……しつこいな)


「かつて聖女と呼ばれたものに子孫はいなかったからな」


「カルヴァン家は聖女の血を守ってきたのですよ?他の教会とは違うのです。聖女の血筋というのは有名なはずですが…他国の王太子様はご存知ないですか?」


「……ほう。では聖女の血を守ってきたカルヴァン家、墓守に聞こう。各国の教会では祈祷主は金髪と決まっている。お前の姉もそうだった。なぜだ?」


「……」

(知らない…だから何よ)


「なぜだかわからないようだな」


ルーが聖女について得た情報は、マルモットの言葉と、容姿について彼の本に描かれていたもののみ。そして家にあった歴史の本には<聖女が大陸各国の戦争の火種だった>ということだけだ。


彼はルーが答えられないことを見ると、ふん、と鼻を鳴らし、足元にあったカバンから書類を取り出し1枚ずつ目を通し始めた。ルーは苛立ちを抑えるように窓の外を見はじめた。だが不覚にも、眠ってしまったのだった。



「おい…起きろ」


「……うー…もう食べれません……姉上…」


「……」


ルーは寝ぼけながら目をこすり、半目のアルジスの顔が彼女の目を覗き込む。


「え?……ジョ…」

(ジョナス様じゃない!!)


一瞬ジョナスの名前をいいそうになり目を大きく開いた。


「馬車を降りる」


「……はい」


馬車を降り、周りを見渡すとどこかの路地裏だった。辺りはすっかり暗くなり、背の高い建物に囲まれた路地は、ルーに気味の悪さを感じさせる。


初めて外にでたルーは、ここがどこだかわからず、きょろきょろと全体を見渡していると、後ろから頭に布を被せられた。彼の大きな手はルーの頭に乗せられたままだ。


「お前は目立つからこれを頭から被ってろ」


「アルジス王太子殿下の方が目立つのでは?」


「アルと呼べ。決して身分を明かすな」


「……」


ルーは振り返り、半目でアルジスを睨むと、頭に乗せられた手を払い除けた。


「私は物じゃないです」


「いい心がけだ、ルー。お前は痩せこけた貧相なただの令嬢だ」


「……」

(失礼な人)


アルジスはルーに被せたローブと同じものを着用し、馬車の中から剣を取り出して腰に巻く。かちゃりと音を立ててローブの中に隠すと、ルーの腰に手を回して歩き出す。


促されるままに歩かされるルーは、欠伸を手で隠す。暗い路地裏は細く入り込んでおり、二人並んで歩くには少し狭い。

着いた先は地下への階段がある建物だった。ランプの光が頼りなく入り口を照らす小さな木の扉。階段を前にしてアルジスはルーに手を差し伸べる。


「?」

(何も持ってないけど…)


「…手を出せ」


困ったルーは両手を前に突き出した。アルジスは片方の手をそっと優しく握ると、先に階段を降り始める。ルーは今まで誰かにエスコートされた経験がないため、アルジスの行動が理解できず混乱して手を離そうとして動かなかった。


「歩けます。逃げませんから、触らないでください」


「……」


後ろでクックック、と笑い声が聞こえて振り返ると、アルジスの従者2人がお腹に手を当てて笑いを抑えていた。


「アル様があんなことするから……警戒しちゃってんじゃん……」


「そうですよ……完全に悪役じゃないですか……悪役顔……」


軍服の男がアルジスに指を刺しながら笑う。さらに追い打ちをかけるのは眼鏡の男。


「……ルー、階段が見えにくいから転けないように気をつけろ」


「……」

(勝手に愛称で呼ばないでよ……)


ルーは黙ったまま、先を歩くアルジスに付いていく。その後ろを従者が咳払いしながらも付く。


扉の中は古びた石造りの狭い部屋だった。誰もいないその部屋には錠のついた扉がまたあった。錠は錆びれていて蹴れば壊れそうな見た目に対し、扉は赤く縁取られ、金属で装飾がされてあった。


アルジスは魔空間収納の魔法を使い、中から銀の鍵を取り出した。錆びた鍵穴に差し込むと、扉自体がもわっと霧のように消えた。


(扉ではなく錠の方が魔道具なんだ……すごい……)


「先に入れ」


アルジスに言われた通り、ルーと彼の従者たちが先に入ると、アルジスを最後に扉はまた現れた。


中はさらに狭く、うねうねとした地下通路が続く。アルジスがまた先頭を行き、所々に置いてあるランプの灯りを頼りに細い地下へと進むと水の流れる音が聞こえ始めた。


(川?)


大きく曲がった先に、地下に流れる水路が現れた。歩ける道幅は一層狭くなり、ほぼ壁づたいに進む。徐々に水路が広くなり、そこに小舟が2つ縄で繋がれ、揺れていた。装飾などない、木でできた簡素な作りで、大人4、5人が乗れる小さな船。


(え……まさかこれに乗るの?)


アルジスは何も言わず、さっとルーを抱きかかえ、船に乗る。


「うあ!」


小舟は二人の重みで大きく揺らぐと、ルーは驚いて、抱えられたアルジスの腕をがっちり掴む。彼はゆっくりルーを降ろして座席の木の板に乗せる。その横にアルジスが座り、残りの従者たちが繋いでいた縄を手に乗り込む。ルーは揺れる感覚に緊張しつつも、内心少しだけワクワクとしていた。だが表には出さない。


「なかなかな乗りごごちですね……」


眼鏡を拭きながら対面に座る男。彼はルーにニコリと微笑みかけると、改めて挨拶を始めた。


「ここまで来ればもう誰にも聞かれませんね、ルーミリア様、先程の殿下の振る舞い、殿下に変わってお詫びします」


「ッチ…」


アルジスはわかりやすく舌打ちをする。それを気にも留めず彼の挨拶は続く。


「では、改めまして、私はジーク・イルゴードと申します。アルジス殿下の補佐をしておりますが、幼なじみで親友でもあります」


「……はい」


ルーは何を返せばいいのかわからず、ただ返事をするだけだった。ジークの目をみて、話を聞いていると、彼の淡々と話す声に被せて新たな高い声が近づいてくるのにルーは嫌な予感がした。


「もう一人の従者は護衛のクレイです。ルーミリア様は殿下の婚約者さまですので、どうぞ、私のことはジークとお呼びください。それから———……」


『アーーーールぼっちゃまじゃないですかぁぁ!!ご無沙汰しております!!私ですよぉ〜船渡しのジェフリーですぅ!!』


「アルジス様のことはぜひ、アル、と愛称でお呼びくださいませ。なぜならこれから向かうのは———……」


『いやぁぁぁ〜大変ご立派になられてぇ〜!相変わらずお美しい!!ですが少しお父君に似て強面になられましたねぇ……だめですよぉ眉間に皺なんか寄せてわぁ…いやぁ〜、彷徨ってみるもんですねぇ〜最後にお会いした時なんかまだ10歳でいらっしゃったのに…おや?お隣にいらっしゃる女性は…はっ!!まさかアルぼっちゃま!未来のお嫁さんですか!?いやぁ〜これまたべっぴんさんだ!』


ジークとの間をクネクネとしながら大声で喋りまくる透けた男。軍服とは違う黒の制服を着た明るい茶髪の御人。彼はルーに気づくと顔の前でにっこりとする。ルーはこの状況を打破すべく、無表情でゆっくり視線を膝に落とす。


「———ですから我々もルーミリア様のことはルー様、と呼ばせてくださいね」


「……」


『おやぁ?……おやおやおや?』



「ルー様?どうかなさいましたか?」


「い、いえ、何も……」


『こりゃ船酔いなんじゃないですかぁ?そういえばアルぼっちゃまも最初ははしゃいでいたのに帰りはぐったりされてましたよねぇ〜何せ小さな船ですからよく揺れるんですよねぇ……アルぼっちゃま、見てないで!ほらっ!背中をさすってあげるとか!お水を飲ませてあげるとかしないとっ!……って聞こえるはずもないですよねぇ……』


ジェフリーはルーの前でわかりやすく落ち込む。ルーは死者に悟られないように視線に気をつけ黙り込んだ。


「ルー、酔ったのか?」


『おぉぉぉぉ!!さすがですアルぼっちゃまっ!!うんうん、通じたのですねぇ〜ジェフリーの声が聞こえずとも!!素晴らしい!!』


「……問題ありません……お気になさらず……」


『あらあらぁ、まだ姫様のお心は開かれていないご様子ですねぇ〜…まっ!お優しいアルぼっちゃまのことです、きっと仲睦まじくなられますよ!私はアルぼっちゃまの味方です!!』


話し声が混雑し、ルーは耳を塞ぎたくなった。けれど、そんなことをしてしまえば死者に気付かれアルジスたちに不審に思われるだろう。そう考えて必死に耐える。


「ルー様は船が初めてでしたね、気持ち悪いのでしたら下を向くよりも遠くを見た方がいいですよ」


「……はい」


『そうですよぉ、遠くです遠く!水路の先……って言っても暗くて見えませんよね?ははっ!』


陽気なジェフリーは死者であるにもかかわらず、ルーたちに元気よく話しかけてくる。ルーは尚も膝を見ていると、アルジスが無理やりルーの顔を持ち上げた。


「!?」


『あぁ〜!!ぼっちゃま!レイディに対してなんてことを!!いけませんよぉ〜女性には優しく丁寧に接しないとぉ〜!』


ルーの顎はアルジスの大きな手でむぎゅっと掴まれた状態で維持された。彼女の目には、口をとんがらせたジェフリーの変な顔が間近に映る。つい笑いそうになりルーはアルジスの手を払い除け、両手で顔を隠した。


「ルーミリア様!?大丈夫ですか?」


「大丈夫です!ちょっと家族を思い出して……」



『ははぁ〜ん、さてはオーヴィルのご令嬢ですねぇ…水路を抜けて国境を超え…スケイルに嫁ぎに……そうですかぁ…ですが安心してください、お嬢様!アルぼっちゃまはお優しい方なのですよぉ!一介の船渡しなんかのお話をちゃぁ〜んと聞いてくださるような、お優しい方です。あれはぼっちゃまが8歳の頃です。ぼっちゃまはよくこの水路に来ては私の話を聞いてくれたもんです。息子の話しや郊外での話し……亡き妻との思い出話や、病気の弟の……やや、湿っぽいですなぁ〜地下だけに!!ははっ!!』


彼は聞こえるはずのないルーにアルジスを擁護しようと喋りまくる。だが、その思いはアルジス本人によって壊される。


「つまらんことを思い出すな。家族はもう死んだと思え」


「……」


『……ぼっちゃま……なんてことを……親身になって私の息子を探してくれたぼっちゃまが……亡き妻の墓に花を毎年送ってくれたぼっちゃまが……そんなぁ……』


アルジスはジェフリーの止めを刺すように悪態を吐く。


「安心しろ、死ねば国に帰してやる」


「……」

(それ以上刺激しないで!)


『なっ!!いけません!!ぼっちゃま!!いつからそのように冷酷になられたのです!?まるでお父君そっくりではないですか!!あんなにジョナス様を慕ってお優しかったアルぼっちゃまが……そんな……』


ジェフリーは酷く泣き始めた。生きたアルジスたちよりも大声で話すので、ルーの耳はほとんど死者の声に持っていかれた。なかなか泣き止まない大人の男の高い泣き声は、耳がおかしくなりそうだった。どうすれば彼が泣き止むのか、とっさに考えたルーは、横のアルジスに無言で抱きついた。


(仲良しアピール!!)


小舟がぐわんと揺れ、アルジスはルーを引き剥がすと、ひょい、と持ち上げてなぜか片膝に乗せた。ルーはアルジスの胸に顔を押し付けて時間が過ぎるのを待つ。


「あと一時で船は降りる」


「……」

(よかった……怪しまれてない……)


『…うあぁ〜……あや!?早とちりしてしまいました?アルぼっちゃまもお人が悪いですよぉ!お嬢様にわざと酷いことをおっしゃったんですね?もぉ〜妬けちゃいますよぉ〜…さすがアルぼっちゃま!!なにか深い事情があったのですね〜それを励まそうと…それでこそ男です!!……それにしてもお嬢様は随分お痩せになられてますねぇ…』


ルーの耳には死者ジェフリーのおしゃべり声が途切れることなく聞こえていた。次第に彼の高い声に耳が慣れ、アルジスの体温と小舟の揺れが相まって、ルーは うとうととし始めた。だがちょうどその頃、船は目的地に到着した。


アルジスはルーを片腕に抱き抱えたまま船を降りると、魔空間から白の花束を取り出した。その花束を先ほどまで乗っていた小舟にそっと置くと、何事もなかったかのように歩き始めた。



それまで陽気に話していたジェフリーは、その花束を見て表情が変わった。


『アルぼっちゃま……お気をつけていってらっしゃいませ』


高かった声音が一変し、低い声音で優しく静かに言うと深く頭を下げ、船からアルジスたちを見送った。


(そんなことするんだ……)


ルーたちはまた同じような細い地下通路に入る。来た時と同じような木の扉を通り、外へ出た。外は地下通路よりも真っ暗で、灯りが一つもない。それよりもまず感じたことがあった。


(焦げ臭い?……酸っぱい匂い?……)


アルジスは抱きかかえたルーに小声で囁く。まるで何かを警戒しているかのようだった。


「声は出すな、いいな」


ルーはこくり、とうなづいて返事をする。そして灯りも付けずに歩き始めた。真っ暗な中、建物らしき壁があり、その壁に沿うように歩く。


匂いは徐々に薄れていき、ルーは後ろをじっと見ていた。目が暗闇に慣れ、遠くの暗がりの中に動く影が見えた。


雲の合間から月の光が差し込み、一瞬だけ捉えた物体は、千切れかけた足を引きづり歩く人間の形をした不気味な何か。全身は赤黒く、不自然に歩いていた。


(!?)


ルーは今見たものが信じられず、恐怖した。


『不死の魔物』と聞いていただけで、人の形をしているとは思ってもなかったからだ。大賢者の本にも『死体を動かす魔物』としか書かれていなかったため、衝撃を受けたのだった。


(あれは人じゃない……人ならあんな体じゃ歩けないもの……あれがアンデッド!?)


小さな建物が等間隔に立っているのが、月の光でそれらと一緒に見えた。ルーたちはその木造の建物の合間を縫い、どこかに向かっていた。再び月は厚い雲に隠れ、辺りは真っ暗になる。息を殺し、気配を消しながら歩くアルジスたちは、アンデッドの生態をよく知っているかのように進む。


辺りに霧がうっすらと出始め、視界が一層悪くなると、ルーは小さな物音にさえ敏感に反応する。彼女の恐怖心は増していき、小さな体は無意識に強張る。アルジスにピッタリとしがみつき、彼の肩越しに目だけを必死に動かしていた。


ズサッ……ズズ……グチャ……


前方の建物の方から間近に音がした。ルーはその音の方に向き、アルジスの首に抱きついた。アルジスは両腕で彼女を守るように包み込むと、その場で姿勢を低くする。


ルーたちに緊張感が走り、呼吸の音でさえも抑えた。不気味な肉体から湿り気を含んだ足音を出す人影は、ルーたちの前を、右から左へとゆっくり進んでいく。


(ち…近い……早くどっか行って!!)


時間にして1、2分の出来事だった。だがルーにとっては味わったことのない苦痛で、時間が止まったように感じた。


気づかれることなく通り過ぎた人影は、尚も音を立てて動き、離れたことがわかると冷や汗と共に重い息を吐いた。


ズズ……


(!?)


通り過ぎたはずの右側から先ほどよりも間近に音がして、ルーはハッと息を呑む。


霧の中、必死に息を殺す。


アルジスは腰の剣に手を。


音の主は迷わずこちらに近づいてくる。


「……アルジス様」


「……はぁ、お前か…」


現れたのはローブを被った人物。フードを取り、顔を見せたのは女性だった。顔はよく見えないが、どうやら人間のようだ。


アルジスも酷く緊張していたようで、剣から手を離し、額の汗を拭いながら力を抜いた。


人だとわかったルーは、一気に緊張が解け、アルジスに全身を預けた。そんなルーの背中をぽんぽん、と優しく宥めるアルジス。


(こんな状況だったなら初めから素直に教えてよ……)




ルーたちを脅かしたローブの女性が案内してくれたおかげか、合流してからはアンデッドを一度も見ることなくスムーズに進んだ。霧の中、彼女は迷うことなく進み、石作りの建物の壁に架けられた梯子を登るように言う。


「窓から中にお入りください。中は安全です」


アルジスはルーを地面に下ろすと、ルーのスカートの部分に視線をやる。その視線の意味がわかったルーは、スカートの裾を捲し上げ、結んだ。これでどうだ、と言わんばかりにアルジスを見上げると、はぁ、と彼はため息をつく。


(だめ?)


「……最初に登れ」


「………」


ルーは言われた通り、梯子を登り、その先の閉まった窓を見る。だが開け方が分からなかった。下から登ってくるアルジスに焦りを感じ、押したり引いたりして様々な手法を試す。


だがびくともしない。それに気づいたアルジスがルーの足元から無理に登ってくる。彼は片手でルーの腰に手を回し、もう片方の手で窓を手前に引き、上に持ち上げてスライドさせると、簡単に窓を開けた。


(引いて上に上げるのか!)


アルジスはチッと舌打ちするとルーを睨む。


(はいはい、上りますよ)


ルーは窓の中に入ると、スカートを直して大きく息を吐く。カチャ、と後ろから音がして振り返るとアルジスたちが続いて入ってくるのを見る。


部屋の中は外よりも真っ暗で何も見えない。その上、最後に入ってきたローブの女性は、窓のカーテンをしっかり閉めた。暗がりでも外の方がいくらか明るい窓の外。そのわずかな灯りも遮られ、室内は完全な闇に変わった。


漆黒の闇の中、ルーの背中に当たる何か。


「っひ」


ルーは小さく声を漏らす。そして部屋に小さな灯りが灯された。闇夜に慣れてしまっていたせいか、その灯りが眩しく、咄嗟にルーは目を細める。


背中にいたのは、やっぱりアルジスだった。


「抱きかかえようか?」


「……結構です」


久しぶりにみた彼の顔は、ルーを挑発するように口元がニヤリとしていた。


「殿下、3階とはいえ、お気をつけください。建物内は侵入されていませんが、いつ入ってくるやもしれません」


「わかった。食事をとりながら報告を聞こう」


「はっ、ただいま」


ローブの女性は、小さな灯りを部屋の中央の机に置いて部屋から出ていった。


天井は高く、広い空間のはずなのに窓を閉め切っているせいか、妙な圧迫感があった。ジークはソファに深く座り、クレイは窓側の机の上に片足を上げて座り、アルジスはもう一方のソファを独り占めするように足を伸ばして横に座る。残された座る場所は隅にあるベッドしかなかった。ルーはベッドに腰掛け、ポスッと後ろに倒れこんだ。


皆、それぞれ疲労困憊のようで、ローブの女性が戻ってくるまで誰一人声を出すことはなかった。ルーも眠るでもなく、目を閉じて時間が過ぎていくのを待った。



食事を持って戻ってきたローブの女性は、ピアと名乗った。彼女はこの小さな街を守っている門兵。3年前に現れた不死の魔物は、この街付近の平原に現れた。それから年々不死の魔物の数が増え、この街にも現れるようになった、とルーにも分かりやすく報告をした。


最初は魔物だけだったが、次第に墓地から埋葬したはずの人が夜な夜な現れ襲ってくるようになった。夜だけの出現だったため、住民に夜の外出を禁じた程度だった。しかし、不死の魔物の数が増え、霧が発生するようになった。天気は曇りが続き、ついには分厚い雲が街を覆って日の光も、月の光も遮るようになった。


ここ一週間は彼らに街を乗っ取られ、恐怖した街の住人のほとんどが家を捨て、街を逃げ出した。だが逃げ場を失った住民の全てが、今も街の教会に身を寄せて避難し、助けあいながらも恐怖に怯えている、とピアは嘆いた。


アンデッドたちが現れる前の街の人口は300人程。街を出ていった人数はわからず、教会に残った人数は50名ほど。食料はほとんどないに等しく、ピアのように動ける者が街の中を巡回して食料を集めている。


アルジスに用意された食事がクッキーや水だったことは、置かれた状況の多くを物語っていた。ルーは文句を言えるわけもなく、出されたクッキーを食べると、湿気ていて美味しいとは言えなかった。


「王都から何か返答は?」


「……いいえ、全く」


俯き話すピアの顔は痩せこけ、茶色い髪は一つに束ねられているものの、ボサボサだった。彼らの話を静かに聞いて、ルーの胸は締め付けられるような痛みを覚えた。ここまでアルジスたちに守られながら連れてこられた自分に何ができるのか、と彼女は不安に思う。


(本当に私の歌でアンデッドは消えるの?……魂を体から引き剥がすことができるの?……やってみないとわからないし……もしできなかったら?……)



「不死の魔物は……朝日を受けると消えてしまうと聞きました…」


ルーは角のベッドから離れた彼らに話しかける。それにピアが応えてくれた。


「はい、ですが現在、昼も太陽の光は雲に覆われてしまい…朝なのか夜なのかわからなくなっています」


「では昼であっても不死の魔物は動き回っているのですか?」


「おっしゃるとおりです」


「……お手洗いに行きたいのですが」


ピアはハッとしてルーの側まできて「ご案内します」とだけ言うと、手を引いて部屋の外へと連れていく。


暗闇の中、ピアはルーの手をしっかり掴み案内する。トイレに入ると、小さな蝋燭に何かの器具を使って火を灯してくれた。


「入り口で待機してますので、お声がけください」


「はい、ありがとうございます」


トイレを済ませ、もう一つの用事を思い出したように実行する。ルーは恩師マルモットから受け継いだ本を取り出し、もう一度『アンデッド』について読み直した。


『アンデッド』


すでに命を失われたにもかかわらず活動する魔物。死者の魂が輪廻へ還れず、死体に残った魔力に反応して集まり、死体を動かす魔物。魂が集まり、その魂の数によって力も比例し多ければ多いほど強くなる。聖魔法による攻撃以外無効。


「はぁ……」

(マルモット先生……なんで聖魔法について書いてないの?これじゃわかんないよ)


すでに大賢者の本を最後まで読んでいたルーは、「聖魔法」という知らない単語に頭を抱えただけだった。ただ受動的に本の内容を頭に入れてきたルーにとって、書かれた言葉に疑問を持つたび、死者である彼らに質問して、理解を深めていたのだ。


その質問の相手とは二度と会うことはできない。とはいえ、アルジスや彼の従者に聞く訳にはいかない。


(聞くことは恥じゃない……けど私が聖女の容姿を知っているだけで不審に思われたのよ?……相手は王族……下手をすればカルヴァン家が危うくなるかも……墓地は守りたい……けど彼らの共通の認識は私にはわからない……でもどうすれば……)


ルーはあまり長く滞在していればピアに心配をかけてしまう、と思いトイレから出る。入り口で待っていたピアと合流し、おとなしく部屋に戻った。



部屋にはアルジス以外誰もいなかった。ピアもルーを部屋に案内すると、何かを悟ったかのように部屋から離れていった。


「では、明日の朝の時間に」


「ご苦労」


残されたルーはアルジスの座る対面の長椅子に腰掛け、俯いた。疑問に思うことが沸々と湧き上がるルーの頭の中は、竜巻のように思考がぐるぐると回っていた。


(どうしてこの人は隠された水路を使ってまで国境を越えたの?…誰かに知られると不都合なことだったから……両親に突きつけた脅迫に教皇の名を出したのは……両親も教皇に私を……聖女を渡したくないとしたら……なぜ?……なぜ婚約者として連れてきたの?……素直に聞いたって答えてくれそうにないし……)


「どうした?」


アルジスは、くつろいだ姿勢で書類に目を通したまま、俯いて考え込んでいるルーに声をかける。彼の目は書類から離れることなく、紙をめくる音を響かせる。


「考えていました……両親のいたあの場で、アルジス様は私を守るとおっしゃいました。では何から守るのでしょう…」


ページをめくる手が止まるアルジス。だがそのままの姿勢で言葉を返す。


「悪意ある手からだ。歴史をみればお前でもわかるだろう。聖女は戦争の引き金でしかない」


「それはあなたも同じこと。王家が他国に知られまいとするのは聖女の力を手に入れようと」


「それは違う」


アルジスは書類を机にぴしゃ、と置き、座り直してルーをまっすぐ見つめる。彼のまっすぐな瞳にルーも顔を上げる。


「……では、何が違うのですか?」


「俺は不死の魔物から…人々を救いたいだけだ」


「それならどうして教皇様から隠すようなことをなさるのですか?」


「知れ渡った歴史など、ただの紙切れに過ぎない」


アルジスは腕を組み、ルーから目を逸らした。


(また根拠を答えない……なら)


「では聖女は争いの種という歴史も、また紙切れに過ぎないのでは?」


「はぁ……」


アルジスは今まで吐いたため息の中で最も深い息を吐いた。ルーはその不誠実な態度に苛立ちを抑えるのに必死だった。


(ため息をつきたいのは私の方だわ)


彼は首を左右にコキコキと動かすと、立ち上がってルーの目の前に跪いた。そしてルーをまっすぐ見上げて穏やかに、諭すような声で話し始めた。


「ルーミリア……これまでお前に対して失礼な態度をとったことは謝る。だがそうせざるを得ない理由があった。お前が俺に隠していることがあるように、俺もお前に言えないことがある。わかってくれなくてもいい、だが今は俺に協力してくれないか」


眉を寄せ、懇願するアルジスの顔は、ルーにジョナスを思わせた。他の師匠たちと比べて年月は短く、3年間ジョナスと共に過ごし、会話し、彼を慕った記憶がルーの頭をよぎった。


アルジスから逃げることもできたルーは、どうして素直に付いてきたのか、自分でもわからずにいた。もちろん、カルヴァン家の墓地を守りたいという思いがあったからもあった。それなら行方を眩まし、逃げ隠れてもよかった。ルーを知る者のいない外の世界へ逃避行するのも悪くない。だが、しなかった。


なぜ、家族を脅し、悪意に満ちた言葉で嘲る彼が大嫌いなはずなのに、繋がりを断ち切り、逃げ出すことをしなかったのか。


そんな簡単な理由が今、ルーはわかった。


(ジョナス様に関係してるからだ)


「私、あなたが嫌い」


「ふん、俺も聖女は嫌いだ」


嫌いだと言い合ってはいるものの、お互いに緊張感が薄れ、和解したような雰囲気に変わった。お互いに気を許したわけではないが、関係に少しの変化があった。


最初は小言のように会話し始めた二人だったが、お互いに譲歩する姿勢を見せた。


まず、ルーはアルジスに対して丁寧な言葉をやめた。単純に敬う気がなかっただけだが、アルジスも咎めることはしなかった。そしてアルジスもまた、嘲るような物言いはしなくなった。ルーの家族に対しても同様に馬鹿にする物言いをやめたのだった。


言える内容と言えない内容に気をつけながら話す会話は、まるでチェスのコマを進めるようでルーは楽しんだ。


「じゃぁ、単純にカルヴァン家の娘に一目惚れして連れて帰ったってことに?」


「あぁ、少しでもお前が聖女であることは隠したかった」


「この街が大変なことになってるのに、聖教会は何もしないの?」


「……言ったところで……どうにもできんだろう」


「国王は何をしているの?国民が非常事態だってのに…」


「聖女はいない。だがお前が聖女だと知られるわけにはいかない」


「……情報が少なすぎるわ。私がアルに隠してることなんて小さなことよ」


「だが、お前は少なくともカルヴァン家一族が知り得ないことを知っていたわけだ」


「輪廻のことなら祈りの歌で知ってるもの」


「いいや、お前は輪廻に還らないことを知っていたんだ」


「……」


「その上、聖女の特徴を知った上で隠していた。家族はは知らないようだったが?」


アルジスの言葉に言い返せず、黙りこくるだけで負けた気がしたルー。言い争うことなくあくまで穏やかに言葉を交わす。ルーは悔しいと思いながらも、彼の方が一枚上手であることがわかった。そこで彼女は敵意のなくなった彼に交渉を持ちかけた。


「条件があるわ」


「なんだ?」


「……私がする行動に関して、見なかったことにして」


「いいだろう」


即答するアルジスに不安を感じ、前のめりになるルー。


「不問よ、他言しちゃダメ」


「ああ」


「誰にも秘密よ?」


「わかった」


「本当にわかってるの?」


「あぁ、他にバレなきゃいいんだろう?」


「……」

(わかってないな)


ルーはアルジスを呆れ気味にじっと半目で睨むと、魔空間に収納していたハンカチを机の上に広げ、その上に木苺を山盛りにして出した。


ルーのその行動を見たアルジスは、ゆっくりと表情を固くした。


「誰から……いや、不問だったな」


「そう。聞かないで。見なかったことにして」


アルジスが驚いたのは当然だった。魔空間収納という魔法は、生まれながらに習得できるような魔法ではなかったからだ。アルジスでさえ、幼い頃、厳しい魔法の稽古を受けて習得した魔法だった。


魔法の使えないカルヴァン家の、しかも第二子が一人で簡単に習得できるものじゃないことをアルジスは理解していた。


二人はそれ以上お互いに探り合う会話をやめ、二人でキイチゴを食べた。


そしてアルジスはソファで、ルーはベッドで眠った。

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