待望の聖女
暖かい日差しが眩しく、ルーは目を細めながら起きた。天井が高く、贅沢な装飾の施された部屋で、ふかふかのベッドの上にいることが分かった。
「え……」
(どこ?)
起き上がり、部屋の窓から外を見る。
(墓所が下にある…ここは丘の上の本邸?それとも夢?)
チリン、という鐘の音が鳴り、窓とは反対側の扉が開けられた。
「話すのは初めてね……ルーミリア」
入ってきたのは、大きな瞳の姉のセルビア。艶やかで透き通るような美しい金髪、ルーよりも濃い青の瞳。白のドレスローブに身を包んだ、遠くから見ても輝いていた姉が、すぐ目の前まで歩み寄ってきた。微笑んだ顔は叔母上を思い出させる優しい笑顔だ。
「姉…うえ…」
セルビアは、ルーのくすんだ灰色の傷んだ髪を撫で、痩せ細った頬の輪郭に沿って手を滑らせると、眉を寄せて唇を歪め……ふるふると涙をこぼし始めた。ルーの薄い青の瞳を見つめ、汚れた服に目を移すと、堰をきったように泣き始めた。
「ごめんなさい……ごめん…ひっ…なさい…」
「ど、どうして姉上が謝るのです?私こそ、大変ご迷惑をおかけしました…」
セルビアは第一子として、父と母、使用人に囲まれて手厚く、愛情深く、育てられた。貴族令嬢と同じような、裕福な生活を送ってきたのだった。唯一、貴族令嬢と違うことは祈祷主としてのお役目を果たすこと。
生活の中心は、祈りの言葉を歌に乗せ、周りの評価を頼りに美しくあることに勤めること。歌うことが好きな彼女は、美しい歌声で多くの人たちを喜ばせたのだった。母は彼女を誇りに思い、父は彼女を自慢した。そんな幸せな日々を送っていたのだ。
墓守がいるとされる建物は、セルビアが歌う教会の屋上からも見えた。今まで何度か動く灰色の髪を遠目に見たことがあったが、墓所という場所に対して気に留めることはなかった。
けれど先日、祈りの歌を歌ったとき、墓所のある森から頭に響く歌声が聞こえてきた。
頭に響くような歌声が、確かにその墓所から聞こえたのだ。
歌を中断させてはいけない、との掟を守るため、低音の歌に引っ張られないように必死に歌いきった。
墓所は光に包まれ、今まで見たことのない金の輝きが空へと昇っていった。気づけば頬に雫が流れ、セルビアは自分でも気づかずに、泣いていたことに驚いた。
母にしつこく尋ね、ようやく話してくれた、妹の存在。墓所を守るのは、墓守の一族、としか知らされていなかった為、第二子のお役目について知る。
「ごめん……、ごめんなさい……ルーミリア…」
「姉上、どうされたのですか?ま、まさかアルジス王子殿下ふぁ…」
セルビアは泣きじゃくりながら、ぎゅっとルーを抱きしめた。ルーは誰かに抱きしめられた感覚など、とうに忘れていたためか、顔を真っ赤に染めて恥ずかしがった。
言葉を交わすことなく、小刻みに震える姉の強い抱擁は続く。
しばらく後、落ち着いた姉はルーを解放してくれた。抱擁の後は目が合わせられないルーは、どこか落ち着かない面持ちでちらちらと姉をみる。
「母上も父上も、呼んだのだけど……娘に酷い仕打ちをしたといって合わせる顔が無いとおっしゃっていたわ…もっと早くに…」
贖罪のように、申し訳なさそうに話す姉。美しい、とただルーは思った。
「酷い仕打ち?姉上、私はお役目を果たしているだけです。それに……私は幸せですよ」
にこっと微笑み、姉を見上げる。その顔に姉の涙が落ちてくる。
「あ、あぁあねうえ!どうか涙を止めてくださいっ!…そそ、それよりも倒れてしまって状況がわからないのです、ご存知ないですか?」
「う……そうだったわね、ごめんなさい……お腹が空いているのではない?すぐ持ってきてもらいましょう、あなたともっと話したいわ」
セルビアが使用人たちを呼ぶと、ベッドしかない広い部屋に、長椅子とテーブルが運び込まれた。その大きなローテーブルには隙間がないほどに置かれた食事とジュース、お茶、水が所狭しと置かれた。
(いったい誰がこんなに食べるのだろう……)
「さあ!ルーミリア!好きなだけ食べなさい!!あなたはもっと栄養を取らないと…ビルマのサンドイッチは格別美味しいんだから!!安心して、ルーが食べてる間に昨日のことを話すから、あなたは食べながら聞いてちょうだい!」
(!?)
「あ、姉上?これ…全部私が?」
「そうよ!ほら喋ってないで口を動かしなさい!」
とびきりの美人がとびきりの笑顔で命令するとこんなにも強制力があるのだな、とルーは思った。そして言われた通りにサンドイッチを手にもぐもぐと食べ始めた。
「昨日、夕刻に教会にいらっしゃったアルジス王太子殿下が、ぜひルーに合わせて欲しいっておっしゃったの。父上も母上も第二子のルーのことは秘密にしていたから、私を呼んで、引き合わせたのよ……ルー、喉を詰まらせないようにお水も飲みなさいね…それから———」
姉は妹の存在をつい最近知ったことと、歌ったのは妹で間違いないことをアルジスに伝えたそうだ。ちなみにアルジス王子殿下、ではなく王太子殿下だ、と教えてくれた。彼に対する印象はルーと同じで『恐ろしい人』であった。
ルーの元へ向かってから半刻もしないうちに、アルジスが気絶したルーを抱きかかえて本邸に来たそうだ。そしてそのアルジスは現在、遠方からくる接待客用の屋敷に数日前から泊まっている、とセルビアは早口で伝える。
(つまり、まだあの人たちがいるのか……)
アルジスたちがまだ近くに滞在中だと知り、ルーがあからさまに嫌な顔をした。けれど、セルビアは諌めることはしなかった。セルビアたちも不満に思うところがあるのだろう、とルーは勘繰った。
それからお腹がいっぱいになったルーは、叔母と過ごした日々を端的に伝えると、またセルビアが泣きそうになったのでルーは急いで話を変えた。
「そ、それで姉上の祈りに乗せて、私も叔母さまから聞いた歌を歌ったのです。目を閉じていたので光ったとか……知らなくて……姉上の歌声は、いつも墓所で聞いていました。美しい声を聞くのは私の楽しみの一つです」
セルビアは微笑みながら深いため息を吐いた。しばらく沈黙が続き、突然、部屋の扉から声がした。
「セルビア様」
(今度は誰…)
「アルジス王太子殿下がお越しです」
「!?……お通しください」
姉が驚きつつ、返事をする。すると扉が大きく開かれた。姉は立ち上がり、頭を垂れてドレスをふわりと持ち上げる。
ルーは座ったまま姉を見ていると、小声で『私の真似してっ、挨拶よ!』というので、ぎこちなくだが立ち上がって挨拶をする。
「おはようございます、アルジス王太子殿下、昨夜は妹を助けてくださり、感謝申し上げます」
「挨拶はいい、ルーミリア、姉と話は済んだだろう、答えてもらおう」
昨日と同じ緊張感漂う空気がルーたちを襲う。ピリピリとした静かすぎる空気は、ルーの言葉を待っての仕打ちだ。
「…さ、昨夜はお見苦しいところを…」
「お前は俺の言っていることが理解できないほどに愚かなのか?」
(…おろか?)
『愚かなことは恥ではないのじゃよ』
ルーの頭が勝手に思い出したのは、マルモット先生の言葉。
『愚かなことを嘲り、馬鹿にすることが愚かなんじゃ、ルーも決して自分を過信するでないぞ』
ルーが魔法と魔術の違いをキースに聞いたときの言葉だった。キースは当たり前のことを知らないんだな、と笑ったのだった。だが悪気があったわけではない事は、ルーも十分わかっていたので、ルーは何も思わなかった。あけすけにものを言うのは、正直者のキース師匠の性格なのだ。
『わからないことがあるほど人は偉くなれるんじゃ、聞くことは恥ではない』
恩師の言葉を思い出すと、胸が熱くなり、不思議と勇気が出てきたルーは、顔を上げてアルジスを見つめ、目を逸らさずに堂々と言った。
「お言葉ですが…愚かしいとお思いでしたら質問の意図をお聞かせくださいませ。カルヴァン家が魔法を使えないことはご存知のはずです。それは祈りの代償だということも。それでも、もし魔法が使えるとしたらなんなのでしょう?」
「答える必要がない」
「でしたら私も答える意味がないのです。私の答えに何をお求めになってらっしゃるのですか?」
「一夜でよく口が回るようになったな、お前の答えを待ってやっていると言うのに」
「ではせめて答えやすい配慮をなさるべきです!いくら王家といえど、我々は王家を支えてきた存在です。何をそんなに焦ってらっしゃるのかもわかりませんが、私は墓守であり、魔法が使えません」
死者を弔い、英雄たちに祈りを捧げてきたカルヴァン家の墓守に対して、王家が簡単に罪に問うことはできない。それは、かつての聖女の末裔として王家が崇めていた存在が、このカルヴァン家だからだ。
だが、歴史は権力者に都合のいいように隠され、いつしか観光地と言われるまでに格を落としたと言うことも、ルーはアスールから聞いていた。
アルジスは目を細め、ルーへ向けていた視線をセルビアに移す。
「二人にしてくれ」
(二人?)
「……承知いたしました」
セルビアは戸惑いながらも、ルーを今一度抱きしめ、耳元で『無茶しないで』と告げると部屋から使用人を連れて出ていった。
(いや……置いてかないで……)
ルーは先ほど食べたものを戻しそうでいた。
どか、と長椅子に深く座るアルジスは、足を組み、腕も組み、ルーに座るよう顎で促してきた。感情を表に出さぬように努め、ルーも深く腰を掛ける。
(なんて偉そうな態度……いや、お偉いのか…)
「これから話すことは機密事項だ。お前に覚悟があろうがなかろうが、ことは急を要する」
「えっ、ちょっと待ってください!機密事項って」
アルジスはルーの言葉を遮るように無視して話し続ける。
「3年前、ある国に魔物の大群が押し寄せた。困った討伐隊は王国騎士に要請した。だがそれはただの魔物ではなかった」
「それを聞かされる私に何を——」
「動く屍だ。いくら切ろうが、燃やそうが射抜こうが倒せなかった。そしてその国の大陸五大騎士でさえ殺された」
「………」
(3年前……ジョナス様だ)
「戦いは長引き、朝まで続いた。朝日を受けて不死の魔物は消え、街には無惨に殺された大勢の死体が転がっていた」
アルジスはルーを睨み続けていた。だがその瞳に恐ろしさは消えていき、深い悲しみを漂わせていた。 はぁ、と息を吐いてアルジスは続ける。
「死者の魂を元に生まれた魔物らしい」
「……」
ルーはジョナスの死について、詳しく聞いたわけではなかった。彼は自分のことをあまり話さなかったし、自分から話さない彼に対して、深く追求する気にはならず、ルーはただ推測するしかなかった。
大陸五大騎士のジョナスは王族だった。
『天秤が狂っておる…ルーミリア……頼む』
マルモット先生から託された言葉の意味をルーは理解していた。それは大賢者が記した本に書いてあったからだ。
『アンデッド』
この世は輪廻の輪が存在し、肉体が滅びると天へと魂が還る。そして輪廻を周り、魂は新たな生命へと生まれ変わる。
大賢者の知恵を授かったルーは、不死の魔物の原因を理解していた。それ以外にも多くを学んできた。だからこそ、彼女は自身を隠すことが多くなった。
導きの歌がなければ、死んだものの魂は天へと還れない。
地上に残る魂たちは行き場をなくして、宿る体を探して彷徨う。
天秤が崩れれば、不死の魔物は増え続け、新たな命は生まれない。
(それならこれまでのカルヴァン家の行いは無意味だとでも言うの?姉たちと同じように歌う祈祷主たちの意味は?聖女と知られればまた戦争が起きるの?)
妙な焦りと不安に襲われ、ルーは黙って考え込む。
「どうした?」
「い、いえ……別に。…それで…アルジス王太子殿下が何をおっしゃりたいのかわかりません」
はぁ、と深くため息をつくアルジスは、明らかにめんどうくさそうに話す。
「そなたには大陸全土を周り、姉君の代わりに祈祷を行なってほしい」
「………」
「我が王家には秘密裏に聖女の記録を伝承してきた。私も王家の一人として、千年前の聖女について学んだ。そなたは聖女の生まれ変わりだ」
(いったい何を根拠に……そんな証拠もない不明瞭なことをいうの?)
ルーは驚き、黙ったまま。『そなた』と呼ばれ、ジョナスと話しているかのようで一瞬混乱して言葉が出なかった。
アルジスはルーを見下すように頬杖をつき、場違いな笑みを微かに浮かべる。美しい顔が笑うとこんなにも不気味で恐ろしく、同時に魅惑を感じたルーは、目が離せないでいた。
「銀色の髪、水色の瞳、頭に響く歌声、膨大な魔力」
「……」
(!?)
ルーの髪は汚れていた。けれどそれはわざと細かい泥で汚していたのだ。瞳は前髪で見えないようにし、魔法は誰にも知られないように森の奥でのみ使っていた。
ルーはどう言い逃れしようかと模索していると、アルジスが足を組み直してルーを見透かしたように睨む。
「昨夜、家を調べさせてもらった。櫛に残った髪の毛は2種類。一つは叔母ミリアの金髪、もう一つは汚れて灰色に見えたが…洗えば綺麗な銀色だった」
「……」
「瞳は倒れた時に見させてもらった」
「………」
(!?)
「お前は千年前の聖女を知っているのか?……だから故意に隠しているのか?」
「……」
(まずい……)
「だが、奇妙なことだ。千年以上も昔だ。容姿を知るものなどいない。なぜなら聖女に関する情報は全て消されてきたからだ」
「……」
(消されて?)
「お前は一体どうやって知り得た?」
アルジスの鋭い視線がルーに刺さる。
(…どうにか話を変えなきゃ!)
「……アルジス王太子殿下は……その不死の魔物を、私なら倒せるとお思いですか?」
「戦いの経験のない者がすぐに戦力になるとは思っていない。だがお前ならどうにかできるはずだ」
(ジョナスさまを失って、敵を打つために聖女を探しにきたのだろうか)
「私が聖女の生まれ変わりであれば……ですが」
「我がスケイルの王族の限られた者以外、聖女の特徴を知るものはいない」
「……」
(彼に話してもいいんだろうか……でも……)
「今も不死の魔物の報告は続いている。お前の望みはできる限り叶えよう、その代わりお前は私の指示に従ってもらう」
「お受けしなければどうなさいますか?」
ふっ と冷ややかに微笑みながら、アルジスは用意していたであろう策を淡々と言い放つ。
「カルヴァン家は祈祷の力のない者に歌わせ、国を謀っていたのだ。聖女である妹を隠し、私利私欲に権力を濫用した」
「そんな!!」
「次期、不死の魔物はこの国でも現れるだろう。民は怒り、カルヴァン家は批判を集め、聖女を救おうと国々が動くことだろう」
「公表して民を利用するおつもりですか?……彼らを守るお立場の王族がしていいことではありません!」
くっく、と笑うアルジスは、ルーを嘲り笑う。
「お前は本当に愚かだな。お前の姉は妹が墓守なのを随分前から知っていたぞ?」
(え?)
「お前をここに運んだ時、誰一人としてお前を触ろうとしなかった」
(なにを言ってるの?)
「あまつさえこの部屋の家具を退かしたくらいだ」
(やめて…)
「今頃姉は汚れを落とすためにドレスを着替えているんじゃないか?」
「やめて…」
「風呂にでも入って匂いを落としてるかもな」
「やめて!!」
目の前のグラスが割れ、窓ガラスは音を立ててヒビが入る。ルーの髪は銀色に鈍く光り、前髪の隙間から見える瞳を虹色に輝かせていた。感情が爆発し、無意識に魔力が暴発したのだった。
「殿下!!」
入り口の扉が勢いよく開けられ、眼鏡の男と軍服の男が入ってきた。
「問題ない、彼女が聖女だと今確認できた」
(…今?…それじゃ……)
「騙したの?」
ルーは目の前の悪意に満ちた顔で笑うアルジスを睨み、乱暴に言い放つ。
「お前が答えないからだ。いつまでもお前と遊んでいる時間はない」
(最低……)
ルーは立ち上がって拳を強く握り、目の前の太々しい態度のアルジスを睨む。
「心配するな、お前の家族にも話してある」
「…なにを」
「お前が待望の聖女だということをだ」