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鉄扇人屠

1.

「兄貴、頼みがあるんだ」


下心ありそうな名無しに対し、景小龍はその心を見抜けず、ぼんやりと面倒でなければいいなと思った。


「勿論だ。僕達は義兄弟になったのだから、どんな頼みだって聞いてやるさ」


「じゃあ兄貴、よく聞いてくれよ。これから盗みに入るから手伝って欲しい」


景小龍の目を見すえたまま、そう言った。この言を聞いて景小龍の顔はみるみる青くなっていった。


(しまった。この少年は少林寺僧から何かを盗んだ盗人だった。そんな義に悖る輩と義兄弟になってしまうなんて僕はなんて大馬鹿者なんだ)


「それは出来ないよ」


「なんでだい。義兄弟なのに」


「いいかい、僕達はお天道様に誓って義兄弟になった。お天道様はそんな僕達をしっかり見ていてくれている。だから、決して義に悖る行いでお天道様に背いちゃいけないんだ」


景小龍はきっぱりと言いきった。盗みに加担することは無いと。


それに名無しを更正して、盗みは二度とさせないと誓った。例え間違いを犯しても、それを正して清らかには生きていけば、きっと天は許してくれるはずだと考えた。


だというのに、


「なんで意地悪言うんだ。そうか、兄貴は僕のことが嫌いなんだ。きっと義兄弟になるなんて僕をからかってるんだ」


と名無しがおいおい泣き始めたのを見て、どうすればよいのか分からずに慌てふためいた。


景小龍は幼い時から父と二人きりで過ごしてきた。他者との関わりがなく、接し方が分からない。人の悪意を知らず、嘘や丸め込めたり駆け引きを知らない。ただ正直な少年なのだ。


だから、目の前の少年にどうしてやればいいのか困惑していた。彼の願いを叶えてやりたい、だが義に反することはできない。


「ねえ、どうしても盗みじゃなければいけないのかい。何が欲しいのか言ってごらん。多少の路銀はあるから買ってやるよ」


懐から革袋を出すと、小さく振って銅貨を鳴らした。肖子墨から授かった旅の路銀、その全てである。


名無しはしばらく革袋をじっとみつめていたが、


「ふん、お金なんかで手に入るもんか」


とそっぽを向いてしまった。


「じゃあ一体なんなんだい」


「教えたら手伝ってくれる?」


「それは約束できないよ」


「じゃあ答えるもんかい」


名無しが頬を赤く染めてぷぐっと膨らませ、景小龍は深くため息をついた。


「分かったよ。手伝っていい。だけど、一つ聞かせてくれ。貧しい人や善良な人から盗むなら僕は例え弟でも容赦しないよ」


この答えに名無しは花が咲いたように笑ってみせ、


「それなら大丈夫さ。相手はここいらで一番の悪者だからね」


「そいつは一体?」


「『鉄扇人屠』雲東弦、僕の仇だよ」


名無しは煌々と目を滾らせて答えた。


仔細を訪ねてよいのか景小龍が思い悩んでるうちに、名無しはつづけた。


「僕の父さんと母さんはあいつに殺されて、財産の全てが奪われた。それに僕はあいつの奴隷としてこき使われているんだ。盗みをしたのだってそのせいさ」


名無しの声はか細くなっていき、最後は泣き始めた。


「逃げればいいと思った?逃げられないんだ。僕はあいつに毒を飲まされていて、一月毎に解毒薬を飲まないと、腹から腐り落ちて死んでしまうんだ」


「なんて酷いことを……。だけど、何を盗むんだい?お父さんとお母さんの財産を全て奪い返すつもりかかい?」


景小龍は名無しのことを信じきっていた。彼の身の上話を聞いて、同情を覚えているのだ。義弟を守るために悪党と戦ってやるぞと義憤に駆られていた。


「もちろん解毒薬さ。僕が一月に貰える解毒薬はほんの少しで、毒を消しきれない。だから一月毎に飲む必要があるんだ。だけど、あいつから解毒薬を丸々奪えば、僕は自由の身さ」


「そういうことなら拒みはしないさ。これは決して義に反しない行いだ。よし、二人で作戦を立てようじゃないか」


「兄貴……、そう言ってくれると思っていたよ。やっぱり僕には兄貴しかいない。僕達は二人揃って一人なんだ」


天を仰いで感涙する名無しに連れて、景小龍の頬も熱くなってきた。


「勿論だ。僕達は二人で一人、君が毒に倒れるのなら僕も同じ毒で死ぬつもりだよ」


「兄貴を死なせてなるものか。絶対に奪ってやる」


「その意気だ」


景小龍は熱い気持ちのまま、名無しと話し合って作戦を考えた。


『鉄扇人屠』こと雲東弦は手強い。景小龍はその名を知らなかったが、江湖で名を知られているのは確かだ。鉄扇のみならず、暗器の腕に秀でており、正攻法で正面から攻めては勝ち目は無い。武功で比べば、景小龍の頭何個分も差がある。


それに、雲東弦は非常に用心深く容赦ない性格だ。景小龍が子供だからといって、逆らったら油断ぜす容赦なく殺しにかかるだろう。


つまるところ、盗みに入っても、雲東弦に会敵すればそこで詰み。どうにか見えることなく盗みださなければいけない。


景小龍はまだいい。未熟とはいえ、軽功の技がある。正面から敵わなくても夜闇に乗じれば逃げおおせることもできるだろう。しかし、名無しにはその技は無い。言葉を選ばずに言えば、足でまといだ。


そこで作戦は自ずと景小龍が単身で忍び込むことに決まった。名無しは可能な限り雲東弦やその部下の気を引くことが役割だ。


「しかし、解毒薬の在処は分かっているのかい?」


景小龍は当たり前の疑問を問いかけた。


「うん、あいつの屋敷の奥にある部屋に違いないよ。用心深いあいつが一日中部下を置いているんだから違いないよ」


「用心深いなら常に手元に置いているんじゃないか?」


「とんでもない悪党でも寝たり湯浴みするんだよ。隙がない訳じゃないし、盗まれない確証は無いよ。その点、大勢の部下で代わる代わる見張らせていれば、隙は無いからね」


なるほどと得心いった景小龍が頷くと、名無しは続けた。


「悪党ってもんはどういう訳か酒を好む。酒樽の一つあれば宴会を開いてどんちゃん騒ぎさ。そこで兄貴、ちょいと工面してれないかね。僕が酒を振舞ってあいつらの気を引くから、兄貴はその隙に奥の部屋に忍び込んでくれればいい。見張りが二、三人ばっかしいると思うけど、酒呑みはいくら気を張ってても誘惑に勝てはしないさ。一杯ぐらいは呑ませて見せるから、あとは頼むよ」


「分かった。酒代はこの路銀からだそう」


景小龍は躊躇いなく路銀を渡した。食料を買うために渡されたものである。肖子墨に怒られるかもしれないが、人助けのためであり、山の暮らしが長い景小龍ならば道端で山菜や動物を獲ることに苦労しないから問題ないと考えたのだ。


名無しは路銀をうやうやしく受け取ると、酒を買ってくると駆け出した。


決行は今夜。


新月の夜、闇がいっそう濃くなる暗夜である。


2.

旅人は月と友とする。一つの土地に留まらないのだから、時を知らせてくれる月だけが友なのだ。月の見える夜は酒を飲みかわし、見えぬ夜には孤独に眠りにつく。


今宵は月の見えぬ夜。行き交う旅人達は早々に眠りにつき、閑散とした宿場も眠りについていった。


されど、街外れの屋敷は賑わっていた。この街の者は決して近寄らぬ雲東弦の根城だ。


今晩は機嫌が良いのか、酒を呷る声と下品な笑い声が響き渡っている。近くに住む人達は迷惑に感じながらも、文句を言いに行く度胸は無い。


静かな街にはただ、悪党の笑い声だけがのさばっていた。


一際大きな声を上げているのは雲東弦その人。酷いダミ声で耳につく。まるで虎のいびき声だ。


すでに酔っていて、部下たちに次々と酒を注がせ、休むことなくごくごくと飲み続けている。


無類の酒好きのこの男は、大きな体とつるつるにハゲ上がった頭が印象的だ。しかし、豪放磊落な見た目とは違い、暗器を好みとしていて体中に鉄扇やら袖箭を仕込んでいる。用心深さも兼ね備えており、酒に溺れているように見えて、実は少しも冷静さを損なっておらず、刺客が襲いかかろうと、すぐ様に鉄扇で応じて見せるだろう。


「よくやったぞ馬鹿ガキ。使えないやつだと思っていたが、こんなに酒を持ってくるとは。今日は特別に座ってていいぞ」


雲東弦は上機嫌に言った。


「はい、ありがとうございます。一人馬鹿な奴を騙せたもんで。あっしもまさかあんな嘘で騙せるとは思ってもみなかったんですがね」


地面に頭を擦り付けて答えたのは名無し。会心の笑みを浮かべて、雲東弦の言葉に喜色を表していた。


「お前のような小坊主に騙されるとはとんだマヌケでは無いか。一体どんな嘘をついたんだ」


「それは、借金を返さなければ殺されると言ったのです。義理人情なんぞに命をかける連中は、情に訴えれば容易く騙せるものです」


「呆れたやつもいたもんだ。お前もその阿呆も。そんなに簡単に騙せたのなら、金だけはなく身ぐるみを剥げばよかろうに。悪党にとって遠慮は義に反することだぞ」


「そいつはちげぇありません。お恥ずかしい。今からにでも身ぐるみ剥いで、北方にでも売り飛ばしてきましょうかね」


名無しは呵呵大笑して立ち上がると、部屋から出て行こうとした。


雲東弦は冗談だと捉えていたようだが、名無しが立ち上がったの見て本気なのかと驚いた。しかし、止めはしない。


(本当にそこまでの阿呆がいるなら是非見てみたいものだ)


さて、当の景小龍は暗い路地裏から屋敷の塀を睨んでいた。屋敷に着いたものも、二人の門番が休むことなく働いており、手をこまねいているのだ。


屋敷の中からは賑やかな声が聞こえてくるが、下っ端の門番は不満そうな顔をしていても持ち場を離れるわけにはいかず、じっと只ずんでいる。


景小龍は軽功の技を授けられた。それに、豊かな内功がある。しかし、外功に関してはからっきしで、剣があればまだマシだが、拳の技は無い。


如何に下っ端と言えど、大の大人二人では手の出しようがない。もし倒せても、中から異変を察知した仲間が出てきたら目も当てられない。


取れる選択肢は一つ、どうにか塀をよじ登って侵入するしかないが、高さは景小龍の体三つ分はあろかという巨大なもので、これも難しい。


縄を用意してくれば登ることが出来ようが、その間に宴会が終わってしまったら一巻の終わりだ。


そうとなれば悩んでいる時間も惜しい。軽功に任せて強行突破しようかと考え、路地から身を出した。


その時、門番に向かって一つの巨体が疾駆した。月明かりがないせいで正体を一瞬掴みあぐねたが、鳴り響く蹄の音で馬であることが知れた。馬は、何かに急き立てられているようで、門番を超えて門に突っ込むとそこで暴れ回った。


門番は悲鳴を上げながら馬を制そうと手を出すが、言うことを聞いてくれそうにない。


無論、この馬は名無しが差し向けたものだ。よく目を凝らせば、馬のケツに鋭い針が刺さっていることが分かるだろう。


門番は馬を制することが出来ず、後ろ背を見せて逃げ出した。千載一遇の好機、逃すではなく景小龍はさっと走り抜けて門を超えた。


門を越えたら母屋に行って、とにかく北に行けと教えられている。特に意匠もない猫の額程の庭を抜けると直ぐに母屋だ。


入口横の柱を登って屋根に行くと、なるべく音を立てないように慎重に歩き、北へ行った。窓から外を覗くものがいればすぐに見つかっていただろうが、幸い新月。月見酒を好むものも今宵は仲間たちと飲みかわし、空には興味を向けない。


何度か滑り落ちそうになったが、とうとう屋敷の最北端にたどり着いた。そこにあったのは離れで、庭園を挟んで高い塀を背にしている。音をたてぬようにそっと庭に降りると、窓に近寄って中の様子を見た。


果たして見張りらしき二人組は重なり合って眠りについていた。名無しの酒を飲んだに違いない。


名無しの手際の良さに感嘆しつつ、離れに入ると一つの部屋が見えた。解毒薬はこの中にあるに違いない。しかし、鍵がかけられている。駄目元で押してみたが、扉は厚く壊せそうにない。鍵を見つけてくる他ない。


ここまで来て肝心など所を見誤ったかと、落胆して視線を落とす。すると、酔いつぶれている見張りの腰に鍵束がかかっているではないか。


雲東弦は用心深い性格と聞いていたが、果たして不用心ではないか。大抵のものはそう疑うのだろうが、景小龍は迷わず手を伸ばした。三つ、四つほどの鍵が掛けられているが、一番最初に手にしたものを当てると、するりと錠に吸い込まれていった。手応えを感じて回すと、いとも簡単に扉は開いてしまった。


喜び勇んで入ってみると、真っ暗な部屋の中の奥に棚が並んでいるのが見えた。そこに解毒薬があるに違いない。


景小龍は走って一直線に棚に向かった。未だに侵入したのがバレた気配はないが、見つかってしまう危険性もある。早いところ解毒薬を手に入れて離れたいと、急き立てる気持ちがあった。


だが、棚まであと数尺という所で、床が消失して浮遊感を味わった。景小龍がそれを疑問に思うより早く、落下して地面に叩きつけられた。鈍い痛みに驚いて悲鳴をあげる。


その声で、酔いつぶれていた見張りははたと目を覚まし、異常を察して走り去って行った。


それを気配で察した景小龍は、漸く罠だと察した。おのれが落ちたのは落とし穴で、見上げるほど深い。軽功の技を使っても登ることはできないだろう。


雲東弦は用心深いと聞いていたのに、油断してしまったために窮地に陥ってしまった。……もっとも、景小龍は油断していなくても罠に嵌っていただろうが。


景小龍はここで捕まる訳にはいかないと、必死に足掻いた。飛んだり、掴んでみたり、上によじ登ろうと必死だ。しかし、落とし穴の底は広くなく満足に助走もつけられず、高く飛べない。また壁もつるつると滑り登れない。


暫く足掻いていたが、抜け出すことは叶わず、そして数人の足音が聞こえてきた。


「どこかの阿呆が罠に嵌ったそうだ。今日は全く気分がいい。酒の肴に飽きぬいい夜だ」


酷いダミ声だ。無論、その主は『鉄扇人屠』雲東弦。他の足音はその腹心の部下達だ。


雲東弦は見張りを連れて落とし穴のところまで来ると、中を覗いて、


「くくくっ、どこぞの間抜けな乞食が迷い込んで来たかと思ってみれば、とんだ怪盗ではないか。俺の目をもってしても、このように貧弱そうなガキが盗みに入ってくるなんて見抜けないだろうよ」


侮蔑の声に、周りからはくすくすと嘲笑が響いた。


「おい聞こえるか間抜け。お前はそこから一生出ることは叶わん。これから数日間、お前はそこで飢えに苦しみ、非業の最後を迎える事になる。短い人生で悔いばかりかもしれないが、恨むならこの俺の屋敷に盗みに入った己を恨め」


そう告げると、雲東弦はくるりと背を向けて離れていった。悪党の言に腹を立てた景小龍が言い返そうとしたが、間に合わない。


「くくくっく、まあ俺は優しい。一人で死なせるのは些か可哀想なのでな……」


雲東弦の声が再び響いてくると、二つ悲鳴が続いた。それから、穴の上から二人の男が落ちてきた。酔いつぶれていた見張り二人である。


「そいつらもついでに処分してやることにしよう。どうせすぐに死ぬのだ、仲良くしてろよ」


「そ、そんなお頭助けてください。あっしらは何も悪いことはしてません」


と見張り達は命乞いしたが、返答はなく雲東弦達の足音は遠く離れていった。


3.

(上手くいった……上手くいった!)


名無しは一人、小躍する胸の内を何とか押さえ込んでいた。


目線の先には一人屋敷を歩く雲東弦。向かう先は庭にある物置だ。中は様々な不要物が入り交じっており、整理つけられておらず、とても人が足を踏み入れる場所では無い。しかし、知っているものならば、不要物の山の中に宝が混じっていることに気づくだろう。


全て、名無しの策略であった。景小龍が捕まることも含めて。


雲東弦がかなり用心深いことを嫌という程知っている名無しは、果たしてこれみよがしに見張りを立てている離れが本当に財宝の在処なのか疑っていた。彼はその気になれば離れに忍び込むことは出来た。だが、罠の恐れがある限りは自分で忍び込む訳には行かない。その為に用意したのが景小龍である。


(兄貴、あんたは本当に義弟思いのいい義兄だよ。身を張って助けてくれるんだから)


名無しの読み通り、景小龍が向かった先は罠であった。名無しは景小龍が屋敷に忍び込めるように手引きしたあとは、広間に戻って雲東弦のことをじっくりと観察していた。


「よくよく考えたらあの阿呆の居所なんて知らねぇでした。金もないんで何処ぞで野宿でもしているのでしょう。お可哀想なこって」


などと呆けて見たら、酒で気が良くなっていた雲東弦は鼻で笑うばかりでこれといって怪しむ素振りがなかった。


しばらく見ていると、ついぞ景小龍が罠に嵌って、見張りが雲東弦を呼びに来た。しかし、己の宝が暴かれようとしたのに、雲東弦は全く慌てる素振りを見せなかった。これで確信いった名無しは、そっと後をつけて一部始終を知ると、踵を返して離れていく雲東弦をまた追った。


そうして辿り着いたのが本当の財宝の在処である。


企みが万事上手くいって名無しは得意気である。場所さえ分かればあとは何時でも盗み出せる


この名無しは確かに景小龍を騙していたが、雲東弦に毒を飲まされ、無理やり働かされているのは真である。


あと少しで自由が手に入る。名無しはついつい笑を零した。結局のところ、この名無しは景小龍よりいくらも頭が回るが同じ年の頃。溢れ出る感情を抑えきれなかった。


そして、それが致命的であった。


「誰だ」


雲東弦のダミ声が響くと同時に、懐にある銀針が光ると、名無し目掛けて走った。


夜闇で目が聞かないのに、微かな気配で的確に狙いをつけて放たれた銀針。対して、名無しは武芸の心得がなく、また格別に夜目が効くわけではない。


躱わせるわけがあるまいか。銀針はズブりと名無しの右肩に刺さると、たちまち鋭い痛みを走らせ、続いてじんわりと鈍い痛みが襲い始めた。無論、毒である。


しまった、と名無しは顔面蒼白、しかし既に遅い。右肩は麻痺し始めており、すぐに体の自由を奪われるだろう。


「ふん、このクソガキが」


侮蔑の言葉を投げたのは雲東弦。名無しが銀針を刺され驚いている間に、いつの間にやら目の前まで来ていた。


「大人しく従っているようで、腹に一物抱えているのは見え見えだったが、さてはあの阿呆もお前の差し金か」


雲東弦はすぐに事態を察した。


「既にその身で知っていようが、その針には毒が塗ってある。お前は助からない」


名無しは冷酷な言葉に頭を強く殴られたような衝撃を受けた。膝が震えて体を支えられない。唇を青くして倒れ込んだ。


「お前が欲しかったのはこれだろう」


雲東弦は不要物の山から小瓶を一つ持ってくると、倒れた名無しの前に置いた。


「『傾国毒姫』の特注品だ。この世に毒を消しされる医者は一人ともいまい。だから、お前は何としてでも解毒薬を盗む必要があったわけだが……」


名無しを指さし、雲東弦は嘲笑する。


「解毒するために新たな毒を貰うとは、全く欲しがりなやつではないか。そんなに欲しいならいくらでもくれてやるぞ」


懐から取り出したのは、形が同じだが、様々な毒の塗れた銀針の数々。それぞれ強力な毒に違いなく、一度針のむしろとなれば助かる見込みはないだろう。


「や、やめてください。あっしが間違えてました。どうか命だけはお助けください。もう逆らったりしません。何でもします、だから命だけは」


大粒の涙を流して懇願する名無しだが、『鉄扇人屠』雲東弦が聞き入れるはずはない。


手にした針をわざとゆっくり名無しに向けた。指を弾けば、飛んだ針が一瞬で突き刺さる。


今しがた名無しを突き刺した針に塗ってあったのは麻痺毒。体の自由を奪うが、死に至らしめるものでは無い。しかし、今向けている針に塗られているのは劇毒で、体内に入れば強烈な痛みと共に命を奪うものだ。


雲東弦の指先一つ、僅かに動くだけで名無しの命は無い。


正しく絶対絶命であり、助かる見込みなどない。


名無しは酷く絶望していた。そして、人生で初めて人を騙したことを後悔した。


無論、景小龍に後ろめたく思ったのではなく、彼を騙して解毒薬を手に入れようとした結果を悔いているのだ。


(くそ、あの阿呆を利用するなら徹底的に利用するべきだったのだ。自ら動くなど危険に違いないのだから……)


と己の愚かさを悔いるばかりだ。


「さて、俺は命乞いを長々と聞く趣味はない。さっさと死んでもらおうか」


雲東弦がいよいよ針を弾こうとした。


その瞬間、


「待て、僕の義弟になんて事してくれるんだ!」


雄叫びを上げて、景小龍が現れた。

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