盗賊少年
1.
結局のところ、景小龍は放浪する定であった。遺言に従って黄一聡という人物を探すことになったが、果たして手がかりは無いに等しい。尋ねて回るしかないだろうが、いざ会う時には一人でなければならない。景小龍でなくても全くの難題である。
さらに言えば、景小龍の目的は黄一聡を探すだけでは無い。父の仇、景小龍は名前も知らないが、『吸血童子』張漢永を復讐を果たすこともある。
その為に肖子墨に弟子入りしたのだが、遺言について話すべきか頭を痛めている。師弟の関係上、不義理は許されず、また肖子墨を信用していない訳では無い。まだ短い間柄だが、その武功を前に深く尊敬の念を抱いている。しかし、黄一聡という人物を知らない以上、迂闊に聞いて面倒を起こしてらかなわない。それが、見ず知らずの赤の他人であればまだよいが、肖子墨との関係に禍根ができたらどうしようもない。
肖子墨は景小龍が何か隠し事をしていることに気づいていた。しかし、敢えてそれを追求するつもりはない。付き合いはまだ短いが、景小龍の人品が正しいことを確信していた為、隠し事をに悪意がないと考えたのだ。
二人はまず、山を降りて景徳鎮に向かうことにした。追い払った峨眉派の三人が、仲間を引連れて戻ってくるかもしれないからだ。もっと近くに町があるが、同様の理由で避けることにした。
話がまとまったのは景小龍が肖子墨に弟子入りして、一刻ほど経ってからだ。深夜に差し掛かる頃で、景小龍は睡魔に襲われてうっとりしている。内功を凝らした勝負したため、疲労が蓄積しており、未熟者の景小龍には耐え難い。できる限り早くここを離れるべきだと、景小龍とて分かっているが、思考は霧散するばかりだ。
(行けない。ここで眠ってしまったら朝まで目を覚まさないだろう。師父は直ぐにここを発つつもりなのだ。師弟になったばかりなのに師命に背いては申し訳がたたない)
肖子墨はうとうとと小舟を漕ぐ景小龍を見てとると、
「出発は朝にすればいい。お眠りなさい」
と優しく声をかけた。
「しかし……直ぐに発たねば」
「なに、奴らの本拠地である峨眉山とここは余りにも遠くに離れている。直ぐに援軍も送れぬから急がなくてよい。それに峨眉派の門弟が何人束になって来ようと、所詮は烏合の集まりでしかない」
きっぱりと言い切った肖子墨だが、その深い武功の一端を知っている景小龍は、心から信じて眠りについた。
こうして夜が明け、旅立ちの朝がやってきた。景小龍は長く住んだこのぼろ屋を離れるのは後ろ髪を引かれる思いだが、固く誓った仇討ちを果たすため、後顧の念を断って外に出た。
元々荷になるようなものが無いため、最低限の食料だけを背負っている。先に外に出て待っていた肖子墨も、同じようなもので軽い足取りで歩き始めた。
その日中に景徳鎮に着くつもりだ。山がちな土地を進むため、常人であれば厳しい。肖子墨は軽功の達人でその程度ものともしないが、景小龍には厳しい。
肖子墨は敢えて速度を落とし、軽功の技を教えながら歩いた。肖子墨が修めた軽功は「龍勢脚」といって、江湖に類を見ない奇術である。熟練した技であれば、木の葉でさえ地面のように蹴って進み、自在に天を舞う。無論、修得は難しく、肖子墨が実演しながら要訣を教えるのだが、景小龍には理解できない。
並以上の内功と優れた人品に惹かれて弟子にした肖子墨だが、ようやく我が弟子の痴呆に気づいて肩を落とした。だが、いかな君子とて悪癖の一つや二つはあるものだと、自分に言い聞かせて根気よく教えることにした。幸い、景小龍は純粋な質だから、肖子墨の言うことにいちいち大袈裟に頷いて復唱し、上手くいかなくてもめげずに励むので、随分と気を良くしていった。
さて、武芸に励む道中を一日続け、夜になると景徳鎮まで十里ほどになった。景小龍は多少は軽功の基礎が出来たため、これぐらいの距離であれば深夜には町に着くだろう。
しかし、肖子墨は二里ほど行ったところで見つけた廟の前で足を止めた。
「今宵はここで体を休めよう」
「師父、僕はまだ走れます。町まで行って体を休めてはどうでしょうか」
「お前一人ならそれも悪くない。しかし、私は少々顔を知られていてな。それにこのように目立つ風体をしているから、余計な騒ぎを招かないとは限らない。今日はここで休んで、明日の朝になったらお前一人で町へ行って必要なものを買ってきなさい」
「分かりました」
景小龍が頷くと、二人で寂れた廟の中に入る。外から見ると、寂れていて人が寄り付かなそうなものだが、中は存外悪くなく、少々埃っぽいが天井も壁もしっかりしていて、雨風が強くても問題なさそうだ。
景小龍は硬い床に身を投げ出して人心地着く。すると、どっと体が重くなって疲れを感じ始めた。武芸の心得があるとはいえ、まだ歳若い景小龍はまだ半端な体力しか持ち合わせていない。本来であれば、師父の肖子墨に衣食を用意するべきだが、体がいうことをきかない。
その様子を見て取った肖子墨は、怒る素振りもなく、包みから野うさぎを出した。道端で捕まえていたのだ。同じ包みから干し草や火打石を出すと、手際よく火をつけて、野うさぎをつぶすと火にかける。香ばしい匂いがたってくると、足をもいで一つを景小龍に与え、もう一つにかぶりついた。
腹も空いていた景小龍は、お礼を言うのも忘れて喜びかぶりついた。あっという間に食べ終えると、それから師父にお礼を述べた。肖子墨は気をよくして、胴体をまるごと景小龍に渡した。
「師父こんなには頂けません。どうか、ご自分の腹に収めてください」
と恐縮して胴体を返すのだが、
「子が食のことで余計な気を回さなくてよい。育ち盛りがこの爺より食べずにどうする」
と柔和な笑みで再び渡されるのだから、もう一度礼を述べて腹に収めた。
腹を満たすと、いよいよ眠気が襲ってきた。廟の床は硬いが、野宿に比べれば何倍もマシであり、眠るのには困りそうない。
景小龍は、眠る前に座禅を組んで気を巡らした。内功の鍛錬である。未熟者も熟練者も、内功の鍛錬は一日一進であり、日々の積み重ねがものを言う。
気息を整え、丹田に気を集めては巡らす。か細い糸を編んで広げていくように内功を磨く。
その様子を横で見ていた肖子墨は首を傾げた。
(小龍の内功は、年によらず中々のものだが怠らず鍛錬をした結果か。見るに、少林寺の内功の枝頭が見えるが、どこで教わったものなのか)
本来であれば、師父の前で他の人間に習った鍛錬法なぞするべきでは無いのだが、父以外の人間とほとんど関わらず生きてきた景小龍には、そのような礼節はなく、また肖子墨は元より気にする素振りもない。
しかし、全く興味が無いというわけではなく、むしろ興味惹かれていた。景小龍の鍛錬法に少林寺心法が見え隠れしているのだが、拳法がまるきり出来ぬのが不思議でならないのだ。少林寺といえば、武林の泰斗として讃えられ、千年の研鑽をもってしてその武功の深さは計りをしれない。少林寺心法に連なる内功を授かっているなら、同様に拳法も授かっていてもおかしくない。なのだが、景小龍にはその素振りはなく、そもそも出家人には見えぬのだから、何故内功を、どうして授かったのか、興味が湧いてくる。
「その心法はどこで習ったのだ」
景小龍が鍛錬を終えるのを見計らって、単刀直入に問いかけた。
(しまった、師父の前で他人に習った鍛錬法なんてやったから気を悪くしてしまったんだ)
と、今頃になって気づいた景小龍だが、肖子墨の顔には怒気の色が見て取れない。
そこで、包み隠さず正直に答えた。
今から三年ほど前に、父と放浪していた時分、ある毒手の手にかかり、生死の境をさ迷っていたが、ある英雄好漢に助けられたと。
「……その英雄好漢の名をなんという」
手練に違いない毒手を一掌で退けた掌力を讃え、見ず知らずの自分に貴重な霊薬を授けてくれた慈悲を涙ながらに話すと、肖子墨は低い声でそう問いかけた。
「あの方は黄虎威と名乗りました」
答えた途端、肖子墨は怒気を発して手を振るい、石の床を砕いた。
これに驚いた景小龍は顔を青くして、
(しまった、黄虎威大俠の弟子入りを誓ったはずなのに、肖先輩の弟子になったとあれば信義に欠ける行いに違いない。きっと、その事でお怒りになったのだ)
と慌て始めたが、肖子墨は、
「黄虎威……黄虎威……」
恨めしそうにその名を繰り返すばかりである。
景小龍は知る由もないが、肖子墨と黄虎威は不倶戴天の敵同士。仇を取り合っても、誼を結ぶことなどありえない。とりわけ、肖子墨は黄虎威とその名を連ねる『武君七俠』、またそれに関するもの達は全て鏖殺する誓いを立てている。
誓いに従うならば、景小龍は殺さねばならない。肖子墨は本物の子のように愛情を注いでいた弟子が黄虎威達によって奪われたのだ。将来怨敵の弟子となる人間を殺めれば幾らかは清算がとれよう。天が肖子墨を哀れんでつかって寄越した好機にすら思える。
だが、肖子墨は手をこまねいていた。結局の所、肖子墨は目の前の少年を気に入っており、愛情すらも抱いている。殺すべきだがころきたくない、相反する気持ちが肖子墨の心を二分した。
景小龍は恐る恐る師父の顔を見るが、真っ赤に染った顔に眉皺が浮かんでおり、苦悩が窺える。果たして何に悩んでいるのか、悪い事をしたのは自分であり、どのような叱りを受けても仕方ないと腹を括るが一向にその時は訪れない。
しばらく沈黙が続くと、
「早く休め」
肖子墨はそう呟くと、背を向けて横になり眠ってしまった。
怒られなかったことが不思議でならないが、まさか起こすわけにはいかず、景小龍も横になり、気づくと眠っていた。
肖子墨は横になったが眠れるはずがなかった。寝息を立てることなく、怒りに震える体を鎮めようと深呼吸していた。
内功の達人は普段から平静を保つ。乱れた心では内功を駆使することが出来ず、乱れた内力は自身を傷つけるからだ。その為、肖子墨は心を鎮める術に長けていた。
それが景小龍にとっての幸いだ。もしも、肖子墨が怒りを鎮められなかったら、忽ち頭蓋を砕かれて死していただろう。
肖子墨は透き通った心で熟慮し始めた。
(この子が黄虎威と縁があるのは確かだ。何かを隠している様子だったが、黄虎威との関係を隠していたとも否定できない。だが、短慮を起こして殺めてしまうには勿体ない。日が昇ったら問い詰めるとしよう)
さて日が差して、真っ暗だった廟の中にも薄ら明るくなってきた。景小龍が目を覚ますと、肖子墨は既に起きていた。手にはまだ血抜きしたばかりのうさぎがおり、景小龍が寝ている間に捕ってきたようだ。
肖子墨は慣れた動作で捌いていたが、景小龍が眠気まなこを擦っているのを見て優しく微笑んだ。寝入り前の激昂が嘘のようだ。準備させて申し訳ありませんと謝る景小龍だが、気にしなくていいとうさぎを火にかけて朝餉をこさえた。
昨晩のようにうさぎを分けて二人で食べる。起きたばかりで空腹だったため、せっつく景小龍を横目で捉えていた肖子墨だが、足を丸ごと平らげるのを見ると問いかけた。
「行く宛てがあると答えたが、行く先は九華山か」
「いえ、違います。……実は父の遺言にある人を探す出すようにありました。しかし、手がかりは名前だけで行く宛ては無いに等しいのです」
景小龍は迷いながらも答えた。無論、黄一聡の名を出すかどうかである。だが、景小龍の迷いを見てとった肖子墨は、
(やはり、この子は黄虎威に弟子入りするつもりなのだろう。運良く人品優れた若子に巡り会えたというのに、仇に縁あるものとは。私はこの子を殺さなければならない。……しかし、私がこの子を気に入って弟子にとったのも事実。一息に殺せるものか……)
と葛藤する。結局のところ、肖子墨という人間は愛情深い性格なのだ。
「食べたら町に行ってきなさい。その探し人もついでに探すといいだろう」
肖子墨はしばらくの沈黙の後、そう伝えると路銀を手渡した。
「日が沈む頃には帰ってきなさい。教えた技を使えば苦労しないはずだ。それと、もし峨眉派の門弟や野党の類に会ったら迷わず逃げなさい。敵わない敵と戦ってはいけない」
「はい、師父の言う通りにします」
肖子墨に送り出されて、景小龍が景徳鎮に向かった。山がちだった立地は平地に変わっており、足取りは早い。習ったばかりの軽功を駆使するが、熟したはずもなく肖子墨のそれと比べれば天と地の差がある。
それでも、歩みは常人を遥かに凌いでおり、瞬くままに五里ほど進んだ。景徳鎮までは目と鼻の先である。
景小龍は一旦足を止めた。確かに「龍勢脚」の技は優れていて、一息に常人の何倍も歩を進められるが、技の習熟の浅い景小龍は運用するだけで酷く気力を消費してしまう。既に玉のような汗をかいており、気息は乱れきっている有様だ。
景徳鎮までは目と鼻の先というが、これでは着いた途端に倒れてしまうと、根を上げて立ち止まった。昨日の疲れも悪さをしている。まだ歳若い景小龍にとっては仕方ないことだ。
見れば都合よく木陰がある。正に天の助けと駆け寄って体をすっぽりと影に埋めた。新緑が風に揺らす。ざわざわと音を立てて通る薫風は、火照った景小龍の肌をそっと撫でて心地がいい。ついつい眠気に揺られて、うとうとと舟をこぐ。
だが、その心地よい一時は長続きしなかった。
「待ちやがれこのこそ泥」
風に乗って怒声がやってきた。目を開けて辿ってみると、十間以上も先に三人の人が見えた。
二人は出家人みたいで、一人は痩せていて、もう片方は大柄なでこぼこな組み合わせだ。残る一人は、僧に追われているみたいで、ぼろを纏っていて容貌はよく見えない。
大方、僧二人が物乞いに物を盗られて追いかけているのだろう。
肖子墨が側にいれば関わり合いはやめろと引き止める所だろうが、生憎純粋な景小龍一人で、悪徳を働いた物乞いを逃がしてなるものかと飛び出してしまった。
三人はぐんぐんと迫ってくる。逃げている物乞いは軽功の心得があるようには見えず、対して追いかける僧は心得があるようで、差をじりじりと詰めていく。
このままでは逃げきれぬと冷や汗をかいている物乞いだが、目線を走らせた先には道に立って塞ぐ景小龍がいた。ここにいたっては諦めるところだが、物乞いはボロ頭巾の中で怪しく笑った。
「兄貴、助けに来てくれたんだね。ありがとう、あんな生臭坊主やっつけてくれよ」
喜色を帯びた高い声が響いた。助っ人が現れたかと景小龍は辺りを見渡したが、追って追われての三人と、自分以外には人が見当たらない。
首を傾げる景小龍の知らぬ間に、物乞いは目の前まで迫るといきなり手を握って、
「こいつをお願い。兄貴、頼むよ」
と何かを握らせると肩を叩いて景小龍の後ろに抜けた。
一瞬の出来事であったが、景小龍の双眸が捉えたボロ頭巾の下の顔は、自分と変わりない少年のものだった。もちろん、知らぬ顔である。
よもや、父の知人なのかと頭を悩ませる景小龍。そんなわけがなく、物乞いの少年の奸計なのだが、景小龍はそのことに気づかない。
「追いついたぞ。お前、あの小僧の仲間だな。容赦はせぬぞ」
景小龍が悩んでいるうちに、僧は目の前まで来ると、拳を繰り出した。
これにびっくりした景小龍は、咄嗟に腕を上げて拳を受けると、
「いえ、知りません。人違いです」
即座に答えるが、僧は信じない。
「ならば手の中のものを見せてみろ」
「勿論です。あの盗っ人に無理やり渡されたものですから、お返しします」
手を開いて僧に突き出す。
「なんだこれは。お前、私たちを馬鹿にしているのか。これは泥ではないか、お前はこれが私たちのものだと言うのか」
痩せっぽちの僧が怒声を上げた。景小龍が握らされていたのは、汚い泥であり、無論僧の持ち物では無い。
「誤解です。そんなつもりはありません」
「ならばどういうつもりだ。答えてみろ」
年端もいかないどころか、武芸の心得もないこそ泥に大切な物を盗まれ、何里も走らされた僧は怒りきっており、また、目の前の少年にも馬鹿にされたと勘違いしては気を収めようがなかった。
痩せっぽちの僧は容赦なく、景小龍の顔目掛けて掌打を繰り出した。実の所、この二人は少林寺の門弟であり、出家して二十年あまり、言わずもがな武功は景小龍より上で、まともに食らっては大怪我をしてしまう。
景小龍は先程掌打を受けた手が痺れていることに気づき、その威力を察すると受ける訳にはいかないと、軽功を駆使して躱し始めた。
まだ習熟しきっていない半端な技であるが、元が絶大的な武芸であることと、天下に類を見ない奇特な技であるがために少林寺僧は戸惑って、十手軽々と避けた。
これに焦った痩せっぽちの少林寺僧の技は鈍り、ますます景小龍を捉えられない。見かねた大柄な少林寺僧が脇から手を出した。
こうなっては景小龍は捌ききれない。元より、少林寺僧二人の武功は景小龍を上回っており、逃げの一手でようやく一人を捌いているのだから、二人に増えたらどうしようもない。
二人は互いの意図を汲み、痩せっぽちが下半身を、大柄が上半身をそれぞれ攻めた。二方向から迫る拳を避けようと、景小龍は大きく後ろに飛んだ。
続いて少林寺僧は着地の隙を狙って突き出したが、景小龍は着地する瞬間に素早く地面を蹴って後ろに飛ぶと、二人から十分な距離を取った。それから上に飛んでくるりと空中で一回転し、背を向けて走り始めた。「龍勢脚」の技の一つ、「飛龍転回」である。
完璧な術とは言えないが、相手が技を奇妙がって引け越しだったため、鮮やかに決まった。景小龍は疲れなど何処にか、全速力で走り景徳鎮に向かった。
景徳鎮には言ったことないが、見通しの良い平野よりも隠れる場所があるはずだ。撒くためにはともかく町に入らねばならない。
少林寺僧も意図を察して逃すまいと走る。どちらも景小龍より、頭二つ分も三つ分も大きく、足も長い。普通に走れば景小龍より速いのだが、二人は遠くから物乞いの少年を追っかけてきてるので走るのは辛い。
景小龍は思いのほか苦労することなく二人を引き離し、町の中へと飛び込んだ。
知らぬ町であり、勿論土地勘などない。景小龍はともかく人混みに向かって走る。その後ろ背を遠くから見ていた少林寺僧は、人波に押されて直ぐに立ち止まると踏んだが、するすると人波を抜けて消えていく。短い悲鳴と怒号を上げて、無理矢理人を押して追いかけるが、顰蹙を買って押し返されてしまい上手く進めない。
とうとう景小龍を完全に見失ってしまった。
逃げ回る景小龍はその事を知らず、必死になって人波を走り抜け、路地を幾つも曲がって町を駆けた。気がついた時には日の当たらない薄ぐらい路地に立っており、乱れた気息に肩で息をして座っていた。
しばらく息を整えながら様子を窺い、追手の気配がないことにようやく安堵した。
だが、何やら面倒事に巻き込まれ、不用心に町を歩くのは拙く、さらに自分の居所も分からない。ともかく、大通りに戻って、様子を見ながら食材や黄一聡の手がかりを集めたいが、容易では無いだろう。
肩を下げて途方に暮れる。すると、
「流石だね兄貴。惚れ惚れしたよ」
と声を投げかけられた。
連れて顔を上げ、辺りを見回すと左の通り奥から少年が歩いてきた。無論、景小龍を巻き込んだ物乞いである。
見れば、身につけている衣服はぼろぼで着ていないと変わらないほどだが、目立ちは整っており、外を取り繕えば高貴な身分の子に見えるだろう。
恨めしく視線を送る景小龍ににっこりと柔和な笑みを浮かべて近づいてくると、正面に座って、
「兄貴なんて名前なんだい」
「……景小龍」
「じゃあ景の兄貴だね」
人懐っこい笑みを浮かべて話しかけてきた少年に絆されて、正直に答えてしまう。
「君の名前は教えてくれないのかい」
「うん、おいらは名無しさ。教えたくても教えられないんだ」
「名無し?君のお父さんとお母さんは名前をくれなかったのかい」
「そいつは知らないよ。なんせ、父ちゃん母ちゃんの名前も顔も知らないんだ。おいらの名前も知らないのも道理だろう」
自身の発言に、浅慮を恥じた景小龍だが、名無しの少年は笑みを浮かべたままで、機嫌を悪くしたようでは無い。
「なあなあ、景の兄貴。おいらに名前をおくれよ。そして本当に義兄弟になろう」
「名前だって?僕には学がない。そんな大役任されてもしょうがないよ」
「学がないなんて関係ないさ。学があろうがなかろうが、お天道様の気分次第で小石に躓いて死ぬし、天寿を全うして布団の上で死ぬこともある。みんな同じだよ」
「とは言っても、思いつかないよ。こうしよう。僕の師父はとても賢いお方で、きっといい名前をつけてくださる。これから二人で師父の下に行って、助言をこうことにしう」
我ながら名案だと景小龍は思った。しかし、
「嫌だい。おいらは景の兄貴を気に入ってるから、名前をつけて欲しいんだ。知らねえやつに名前を貰ったって嬉しくないよ」
と顔を背けて鼻息を荒くした。
景小龍は困り顔で口を噤むが、その様子を見た名無しの少年は、
「いいや、名前なんて今度でいい。その代わり、義兄弟になろうよ。こっちは簡単だろう」
と切り出した。景小龍の目を真っ直ぐ見つめ、ゆずるつもりは無さそうだ。どうしてここまでこの少年が自分のことを気に入ってくれたのか見当もつかないが、頼み事の一つを断っているため、抗いがたくついつい頷いてしまう。
「やった異論は無いね。景の兄貴は正直な人だから、一度頷いたからには反故にしたりしないね」
「そうだよ、君の言う通り義兄弟になろう」
二人は空を見上げて、太陽の方を向くと叩頭して口上を述べた。
「我ら二人、生まれた時は違えど、生涯互いを尊敬し、思いやり、あらゆる幸福も苦難も共にし、死する時は同じ時を願う」
声を揃えて述べた後、ゆっくりと顔を上げてまた向かい合った。
「これでおいら達は義兄弟さ。これからどんな面倒事も、おいら一人じゃなく、兄貴にも降りかかる。おいらが困っている時は兄貴が助けてくれなちゃいけない」
名無しの少年はけらけらと笑いながら言った。
「兄貴、頼みがあるんだ」