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恩愛絶壁

1.

眼下に広がるは雲海。高く聳え立つ三清山の雲嶺に親子が套路を練っていた。


中年の父親が木剣を振るって攻めの型を打つと、少年が守りの型でいなす。次に攻守が変わり、少年が打つと父親が受けた。

攻守転々、これを十六手繰り返しようやく父親が木剣を置く。

組交わした十六手を反復るように伝え、父親は山を下って行った。残された少年は言い付け通りに、木剣を振るって型を磨いた。


この親子は、父を景成徳、子を景小龍といい、かつて『武君七侠』の黄虎威に助けられた二人である。


運命的な出会いから早三年の月日が経ち、十二歳に成長した景小龍は父から剣を習い、武芸者の道を歩いていた。


毒手の猛毒を受け、生死の境をさまよった景小龍だが、黄虎威に授けられた「千年白人参」と「仙獣丹」の二つの霊宝と、伝えられた内功の修練により、毒を消し去ってすくすくと育った。


背はまだ伸び盛りが訪れず、三年前から二寸伸びた程度で小柄だ。しかし、内功の修練を欠かさず行ってきた為、年に寄らず江湖でも一流とは言わないが、並以上の内功を秘めている。これには二つの霊宝の効力も大きく、人生の至宝を得たに等しい。お陰でこの三年間、病気一つせずに至って健康である。


元来より、純真な性格で景小龍だが、黄虎威との出会いによりその性格が磨かれ、彼のように生きたいと真っ直な心根に成長した。


(後三年、弟子入りするときにはお父さんの剣法できっと驚かせてやるんだ。黄虎威さんは立派に成長したと喜んでくれるかな)


と、修行にも前向きである。


だが、不幸なことに武術の素質は与えられなかったようである。実はこれは父親譲りであり、景成徳もかつては高名な師匠に師事していたのだが、武の素質がなく、教わったのは基礎の十六手だけである。


名を「枝梢十六式」。父が二十を超えてから苦心の末に習得した剣であり、年若い景小龍にはまだ難しい。独特な歩法で、風に揺れる枝のようにある時は激しく、ある時は緩やかな変化で隙をつく剛柔取り入れた剣である。


景小龍は、この歩法と剣が一体となった動きが体得できず、剛の手に身が流れるよう動き、柔の手に力強く踏み込むなどと、動きがちぐはぐだ。


父の型を思い出し、なぞるように繰り出してみるのだが、やはり足がもたついて転んでしまう。おかげで身体中に青タンや擦り傷を作り、痛々しい。景成徳も、これには心を砕いているのだが、我が子がひたむきに努力している姿を知っているから、敢えて優しく接するを我慢して、見ぬふりをしている。


その為、景小龍の修行は套路を演じる時以外は一人黙々と反復するだけである。純真な性格を相まってか、一度始めると熱中し夜遅くなるまで延々と繰り返す。


景小龍はその日も、他の事など気にもとめずに木剣を振り続けていた。


2.

三清山の頂きを下った中腹、青々と茂る木々の中にひっそりと小屋が立っていた。


主は一組の父子だけで、内外どちらも質素で素朴、体を休めるには十分だが心地の善い生活は出来ない作りだ。


主はやはり景成徳と小龍の親子で、早くに母親を亡くし、放浪の身であることから拘りがないのだ。


それでも、この小屋には長いこと暮らしている。毒を受けた景小龍の静養の為に身を置いた土地であり、既に三年住んでいることになるのだ。


長く住んでいることもあり、最近ではこの土地に愛着が湧いてきているようで、裏の林に穴を掘って墓をこさえている。息子には『もしもこの地で命を落とすことがあったら、お前一人で埋葬してくれ』などと言った日は景小龍は頭を捻っていた。まだ若く、父と二人で生きてきた為、生死の分には疎くピンときていないのだ。


「そろそろ日が沈むな。小龍はまだ剣を振っているだろうか」

火を起こしながら景成徳が呟いた。ひたむきに修練に励んでくれるのは嬉しいが、心配なのが親心である。


普段は料理支度を済ませて、わが子の帰りを待つ景成徳だが、今日は進歩を確認するためにも迎えに行ってやろうかと考えた。


起こしたばかりの火を消し去ろうと、竈に顔を近づけた。そこで、景成徳の顔が強ばった。目を走らせて室内を確認する。剣は手元にない。


目を走らせるが否や、背後から掌打が繰り出された。身構えていた景成徳は、くるっと身体を翻して躱した。


(危ない、火に照らされた影に気づかなかったら今の一撃でやられていたかもしれない)


内心冷や汗をかきながら、襲ってきた敵を見て、はっとした。まだ十代の小僧……否、それは見た目だけであり、実際は四十を超えた怪人、『吸血童子』の張漢永である。


「貴様、何故ここに」


「何、あの宝を返して欲しくてね」


張漢永は怪しく笑った。


「あれは貴様の宝などではないし、ここには無い。だが、貴様の命は置いていってもらうぞ」


言うがいなや、地面を蹴って飛び上がり、一息で迫って拳を振り抜いた。張漢永は、足元にあった卓を蹴りあげて景成徳の拳を遮ると、懐から匕首を取りだして、地を蹴った。


景成徳は卓を蹴って身を躍らせたが、そこに匕首を突き立てた張漢永が襲いかかった。あわや危うし、咄嗟に身を二回転、三回転し袖を切りつけられながらも躱した。


景成徳は着地ざまに椅子に手をかけ、足が知に着いた瞬間に投げ捨て、目くらましにし剣へ手を伸ばした。張漢永が飛んでくる椅子を手で払った頃には、剣を抜いて吶喊した。


「枝梢十六式」剛の型のうち一手目、力強く踏み込んで袈裟を放った。単純な一撃であるが、威力は絶大、刃を受けることは敵わないと張漢永は後ろに飛んだ。これを読んでいた景成徳は振り下ろした剣の重みに身を任せて体を振り切り、勢いよく上半身を捻って再び袈裟を放った。


張漢永は後ろに退こうにも、背には壁。引くに引けず刃を匕首で受ける。途端、鈍い痛みが腕に走って痺れ、張漢永は匕首を落とした。


初歩の剣法とはいえ、景成徳の師匠は高名な武芸家、威力は推して知るべしである。実の所、この二人は張漢永の方が腕前が上であるのだが、それ故に慢心があり、剣法の威力に押され劣勢に立ったのだ。反面、己の才を深く知っている景成徳に油断はない。隙を作ることなく、情けをかけるつもりもなく、剣を振り下ろして張漢永を殺めるつもりである。


だが、天の悪戯か。家の外から足音が聞こえてきた。


「父上、何かあったの?」


紛れもない景小龍の声である。修練を終え、山を下ってきたが、この頃には何時も家から焚き火が上がっているというのに、今日は見えない。純真な景小龍は、心のままに声を上げて父親に呼びかけてしまった。


景成徳はつい息子に気を取られてしまい、ずる賢い張漢永はこれを見逃さなかった。


体を縮めてするりと景成徳の脇を通り抜けると、戸口から飛び出して門前を駆けた。悪生谷で身につけた軽功が役に立った。

突如洗われた怪人に呆気に取られた景小龍は、抵抗もなく張漢永に捕まってしまった。


「離せ、何をするんだ」


と慌てふためく景小龍だが、足を捕まれ天地のひっくり返して吊し上げらており、抵抗は虚しい。


追いついて門前に駆けてきた景成徳は色を失って固まってしまう。


「父上、助けて。悪者に捕まってしまいました」


景成徳とてそれが本意だが、不用意に動くことが出来ずに我が子を見つめるばかりだ。


「悪者なんかじゃないよ、君の父上の友達さ」


「嘘つき、本当なら僕を離せ」


「暴れるんじゃないよ。君が暴れたら父上が困るよ」


「うるさい離せ、離せよ」


じたばたする景小龍に、張漢永は辟易し肩井穴を突いて黙らせた。敵の手の中でぐったりと動かなくなった我が子を見て、景成徳の顔色は真っ赤に染まったが、手出しは出来ない。


「あの宝はないと言っただろ」


「信用出来ないね」


「本当だ、天地神明に誓って私はあの宝を持っていないし、場所さえも知らない。だから子供を離してくれ」


張漢永は考えた。景成徳は切羽詰まっており、嘘をつく余裕はないだろう。子供が人質に取られているのだ、あまり前だ。しかし、宝を持っておらず、その在り処も知らないとは考えづらい。


(あの方の信頼を一番かっていたのは景成徳だ。少なくとも何か手掛かりを持っているはずだ)


そう合点すると、景小龍を握る指に力を込めじりじりと後ずさった。景成徳は我が子を攫われてなるものかと、距離を開かれないように詰め寄った。景成徳と張漢永は互いに睨み合ったまま目を離さず、じっと汗ばむ緊張が走る。


景成徳ははっと気づいた。


「待て、その先は崖だ。そのまま後ずされば命はないぞ」


張漢永がじりじりと後退して進む先は断崖絶壁。気づかずに後ろから落ちれば助かる見込みはなく、張漢永はともかく我が子の命をむざむざ見捨てる訳にはいけないと、焦って叫んだ。

しかし、張漢永はニタリと顔を歪めるのみで答えない。これに景成徳は色をなくし、地を蹴って飛んだが、


「それ以上近寄るな」


と、張漢永の一喝で途端に身を落として固くした。


「何のつもりだ。私の子を抱いて諸共に自決するつもりか」


「馬鹿を言うな。この『吸血童子』が辺境の地で死してなるものか」


「ならばその先に行くな。私の子を離して、立ち去るがいい。決して追いかけたりしない」


「分かった、分かった。あいわかった。お前の言う通りにしよう」


景成徳の必死の説得が通じたのか、張漢永は何度も頷いて答えた。


「恩に着る。我が子が無事であれば、お前を今後一切咎めまい」


景成徳は感激しき天に感謝していた。結局の所、この子あってのこの親である。人の悪意を読めぬ、正直者なのだ。


張漢永は、景成徳の願う通りに景小龍の体を上に放り投げて離した。。支えがなくなり、その体は重力に引かれ落下する。向かう先は絶壁の底、五十間も下にある地面だ。


張漢永の裏切りに呆気を取られた景成徳だが、それでも行動は早かった。疾風のように駆けて、落下していく我が子の体に右手を伸ばした。


景小龍の体はみるみる絶壁の先へと落ちていく。間に合えと慟哭し右手を伸ばす景成徳、果たして奇跡的に指先が景小龍の服の袖を掴んだ。袖が破れないように指を這わせてしっかりと握る。


ほっと一息をつきたい景成徳だがそうもいかぬ。我が子を地上に引き上げてやらねばと踏ん張って力を込めた。しかし、途端に右肩に激痛が走った。


「忘れるなよこの儂を」


張漢永は下卑な笑みを浮かべていた。景成徳の右肩に匕首を突き立てて。


「痛いか。痛いだろう。だが耐えねば愛しい我が子を離してしまうぞ」


呵呵大笑し、突き立てた匕首をぐりぐりと動かした。景成徳を稲妻のような痛みが襲う。痛みに悲鳴を上げる景成徳だが、耐える他になく直ぐに歯を食いしばった。


肩井穴を突かれ、全身が麻痺している景小龍だが、必死の父の形相を双眸で捉え胸を裂かれる思いだ。


「安心しろ小龍、必ず助ける」


「感動するな、父子の愛情には。いつまで耐えられるか見ものだ」


下卑な笑いを高くし、より一層強く匕首を押し込む。それでも歯を噛み締めて耐える景成徳の口から、血が滲み出て滴った。


「もしあの宝の場所を話すなら助けてやるぞ」


景成徳の限界が近いことを悟って、張漢永は切り出した。


「私は知らぬ。もし知っていてもお前になど話すものか」


「ならば愛しい我が子と死するのみだぞ。なに知らぬなら手がかりでもよい。お前たちをすくってやるぞ」


「黙れ外道。例え私が死んでもあの宝について貴様に漏らすまい。例え私が死んでも愛しい我が子を傷つけさせまい。死してもなお、我が道を違えることはない」


張漢永は腹ただしく思い、匕首を突き立てたまま景成徳の後ろ頭を蹴りあげた。


「話せ、話すがいい。お前とその子の命を救ってやろうというのに分からぬか」


声を上げて何度も蹴りつける。景成徳は沈黙で答えるのみである。


景成徳の口から滴る血が景小龍の顔を打った。激情に駆られた景小龍は叫んだ。肩井穴を突かれている為、声を上げられるはずがないのだが、張漢永は景小龍の内功の深さを読み取れなかった為、点穴が浅く効果は薄かったのだ。


「父上、僕を離して下さい。そんな悪者に負けないで。大丈夫です、僕は例えここで死んでも天に昇って幸せになります。だから父上、早く僕の手を離してください」


真心のままの言葉である。父の愛情深きを知っている景小龍は、その愛に報いたいと必死に叫んだ。


(僕の命一つで父上が生きながらえれば、これ以上の親孝行は無い)


「いい子だ。随分泣かせるじゃないか。どうした、手を離さいのか」


張漢永は点穴されているはずなのに叫び出した景小龍に驚嘆しつつ、それでも悪辣な気質に甘んじて景成徳を痛めつけた。

「ええい黙れ。この景成徳、悪には屈しない。また我が子を見殺しになどしない」


景成徳はきっぱりと言い切った。例え我が子になんと言われようともその手を離すつもりは無い。


「泣ける親子愛だ。ならこれならどうだ」


張漢永はわざとらしく涙を零して、指先を無防備な景成徳に放った。向かう先は肩井穴。点穴されれば、景小龍同様に体の自由を奪われてしまう。


まさに絶対絶命、しかし景成徳に躱す術もなく易々と点穴を受けてしまった。途端に体中の力が抜けていく。


(しまった。しかしこの手だけは……離してなるものか……)


満身の気を巡らせてこれに対抗する。しかし、経穴が閉じて脱力は無情にも広がっていく。


最後の気力を振り絞って、どうにか我が子を引き上げようと腕を振るった。だが、力及ばず、地上に引き戻すことは出来ない。とうとう、景成徳の右腕からは景小龍の重さが離れていった。


(小龍、小龍、小龍……)


地上に落下していく我が子の姿を捉え、その名も呼ぶことも出来ない。


「可哀想な子だ。父親がもの分からずやだったばかりに、若い命を散らせることになった。直ぐに父を送ってその魂を供養してやろう。どうか、あの世で仲良く暮らしてくれ」


情け心か児戯か、張漢永は一思いに景成徳も殺してやるつもりだった。


しかし、景成徳は痺れているはずの体を乗り出して我が子の後を追った。重たい体はみるみると遠さがって行った。


「くくくっく、哀れな親子よな」


冷笑を零して、張漢永は立ち去った。


3.

絶壁から身を躍らせて落下していく黒点が二つ。景成徳と景小龍の父子。


もはや絶対絶命、何方も助かる見込みは無い。


だが、景成徳は諦めていなかった。我が子の命を。自身の命など捨てて良い。景小龍を助けられればそれでよいのだと。


みるみると景成徳の体が景小龍に迫り、そして然とその体を抱き上げた。体は痺れているはずなのに、我が子を離すまいと抱く力は強い。


(父上、死する時は同じと、そこまで僕を思っていてくれたのですね。父上と同じであれば冥土の道も恐れまい)


景小龍は父が命を投げ打ったことに感動した。あの世でも父子共にあることに期待した。


けれども、景成徳は子を抱き込むとその体を包み込んだ。


景小龍が意味を悟る前に、二人の体は地面に叩きつけられた。景小龍は自らの死を悟った。悔いがないとは言えない。それでも、父が命を投げ打ったことの感動が勝った。


(父上ありがとうございました。来世でも貴方の元に子として産まれたい)


景小龍は死を知らない。それは人類にとって普遍的なことで、誰もが死を迎える瞬間を知ることは無い。


だから、景小龍はただ呆然としていた。体には痛みが走り、今この瞬間もじわじわと痛む。けれど、意識は澄んでいてとても死に向かっているようには思えない。恐る恐る体を起こしてみると、やはり体に異常は感じられない。


「父上、僕達は助かったのですか」


声に出して問いかける。答えは無い。


「父上どこですか」


答えは無い。


「父上お答えください」


その場に立ち上がって、ようやく気づいた。


景成徳の体は五間程先に転がっている。急いで駆け寄ると、目を閉じて眠っていた。


背中から流れ出しており、既に致命的な量が出ているが、出血の量に関わらず息絶えていた。


「父上目を開けてください。僕達は助かったのです。一緒にあの悪者を倒しに行きましょう。二人ならきっと勝てます」


その体を揺さぶるが反応は無い。ただ冷たい木偶の様に眠っていた。


「父上……目を開けてください。僕一人ではどうしようもありません」


景小龍は死を知らない。自分の死も、愛する人の死も。


景小龍は答えることなき骸に縋って、問いかけ続けた。


日は巡り、落ちて昇り、そしてまた落ちた。とうに流れ出た血は乾ききって、遺体は少しづつ腐り始めている。


景小龍は父の遺体の傍を離れることなく、しゃがみ込んでいた。


(父上、どうしてお目覚めにならないのですか)


心に思うことはそればかり。


如何に聡いとは言えない景小龍だが、それでも一昼夜を通して頭では父が死んだことを理解していた。けれども、心は真逆のことを思うばかりで、泥土のように混ざり合う思考はまとまりがつかない。


ふと気づくと、雨が降っていた。ぽつぽつと弱いものだが、体温を奪われる。無論、景成徳の遺体も野ざらしにあって雨に打たれている。


(このままでは父上が凍えてしまう)


そう考えると、遺体を抱き上げて木の下に潜り込んだ。


(父上の体、氷のように冷たい。大病を患っているのだろうか。だから目を覚まさないのだろう)


抱き上げた体の冷たきを知ると、景小龍は内功を巡らせた。三清山の酷寒の夜に、父が自分の体を抱き上げで、内功を巡らし暖をとってくれた事を覚えていたのだ。


けれども、これがよくなかった。内功の修練の真意は平静の心であり、気を巡らスト器も同じである。怒りや悲しみに憎しみ、それと喜びであっても動の心では気を上手く扱えない。この時の景小龍の心は様々な感情が入り交じり、とても平静であるなどとは言うには及ばない。


巡らせるはずの気が荒れ狂い、景小龍の体を傷つけた。


丹田から焼けるような痛みが走り、五臓六腑を傷つけた。このような事は初めてであり、慌てる景小龍はますます気を乱す。

非常に危うい状態であり、既に景小龍自身には気を沈める力は無い。このままでは自身で体に傷をつけて死んでしまう。


(体が熱い。熱くて仕方がない。一体どうしたんだ。父上、お助けください)


遺体に目をやって懇願した。だが、やはり死んだものが起き上がって助けることはなく。


代わりに、その様子を林の中から見てとった男がさっと影になって飛びだし、景小龍の背中に手を当てると気を当てて、荒れ狂う気を相殺、ゆっくりと沈めていった。


命を失う既のところで救われる景小龍は、すかさず叩頭して、


「どなたか存じ上げませんが、命を救って頂いたこと誠に恩に着ます。どうか僕の身に叶うことであれば、何でもお申し付けください」


と礼を述べた。


男からは返答がなく、しばらく沈黙が続いた。


不思議に思った景小龍が頭を上げると、目の前に壮年の男野顔があった。


つい驚いて、あっと声を上げ固まった。壮年の男は足が悪いのか、右手に持った杖で体を支え、膝立ちの姿勢で腰を曲げて目線を合わせていた。


「このようなところで何をしている」


男がようやく口を開いた。


「悪者に襲われて、崖から落ちたのです。父上が酷い怪我を負って目を覚ましません」


男は遺体を一瞥すると、溜息をついて言った。


「既に死んでいる。手の施しようがない」


「いいえ、眠っているだけです」


「もう死んで一日は経っただろう。早く埋葬してやれ。野ざらしのままでは、父親の魂も報われまい」


「眠っているだけ、眠っているだけなのです」


景小龍は聞き分けがなく、何度もそう繰り返した。


男は呆れ果て、身にまとっていた外套を脱いで投げて渡した。


「父をしっかりと眠らせてやれ」


そう言い残すと、杖と膝を使って去って行った。


一人残されてもぶつぶつと続けていた景小龍だが、胃がきりきりと痛むのに空腹に気づいた。もう一日以上何も口にしていない。


気づくと小雨は上がっており、食べ物を探しに木の下から出た。


「父上何か食べるものを持ってきますね」


父との放浪の旅を続けてきた景小龍は、山菜や茸を見分ける術を弁えており、山を数刻と歩くうちに両手で抱えるほどの食料を手に入れた。


直ぐに踵を返して、父の元へ足を走らせた。その途中、


「待たれよ」


と怒声が聞こえてきた。びくっとその場に立ち止まるが、周りに人影が見えず、自分に向けられた言葉でないことに気づいた。


父の元に一刻も早く帰りたい景小龍だが、もしやあの悪者ではないかと考え、声がした方に足を向けた。


「あの外道を追ってきてみれば、このような大物と巡り会えるとは。お前の悪運も今宵までだ。あの世でその手で殺めてきたもの達に懺悔するがよい」


林の中、開けた場所に三人と一人が退治していた。


「どこの門弟か知らぬが、三人がかりでこの私を退治するというか」


「よもや卑怯だというまいな」


「ふん、逆だ。貴様ら如き有象無象が何人集まろうとこの『紫金仙狐』を殺められるものか」


「……抜かしおる。我らが峨眉派、武林の正道なれば、江湖に仇なす悪鬼を誅してくれよう。吐いた唾は飲み込めぬと知るがいい」


『紫金仙狐』と名乗る男、先程景小龍を助けた壮年の男に相違ないが、この男こそ『獄門七科人』の一人、肖子墨である。


対する三人は肖子墨に罵られ、怒髪天をついて怒り狂い、一斉に躍りかかり、たちまち闘いを始めた。



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