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禍根焼谷(上)

1.

時は流れ、季節は移ろいゆく。


初夏の薫りする江南の新緑は、次第に黄色く変わっていった。

この日は中旬の名月。些か紅葉足りないが、酒を飲み交わすに良き晩である。


「ここに一献あれば文句なき良き夜なんだがなあ」


ぼやいたのは槍を持った鏢局の兵。飾り立てた旗には青々とした松の刺繍が施されている。蘇州に名を馳せている『青松鏢局』に違いない。


門前には二人、中の庭には十人と油断なき人数が集まっているが、果たして彼が守りに就いているのは質素な邸である。だがしかし、これ何かの間違いかと門に目をやると『円師邸』と掲げられている。ならば間違いなし、江南に轟く江南剣侠の邸宅に間違いないのだから。


大侠と名を馳せているのに、蘇州の町外れに建っている邸宅は質素な作りで、母屋と離れ合わせて四つ五つの部屋しかなく、庭も広くない。


無知なるものはこれに首を傾げるだろうが、『江南剣侠』円水蛍の人となりを知るものなれば当然のことだ。曰く「堯舜は璧を山に抵ち、珠を谷に投ず」聖天子の堯舜はどんな宝よりも良民に喜んだという例えであるが、ここでいう良民とは即ち江南の民や武林の正道の者達である。


ある時、江南随一の商家李氏の頼みで盗まれた金貨二千両を、円水蛍は苦心の末に見つけ出し持ち主に返した。気を良くした李氏ははんぶんの一千両を謝礼に渡したが、円水蛍はそれで例を見ない大宴を開いた。来るものは拒まず、武林の名手から蘇州の町に住む明日も知れぬ乞食までも招いた。一夜にして振舞った酒の量はどんな酒豪でも十年かけて届かぬものであり、蘇州のみならず鎮江や杭州の町一帯の酒屋は店を閉めたという。


円水蛍は金銀財宝とは一時のものにしか過ぎず、本当の財とは真の知己であると心得ていたのだ。


さて、斯様に徳高き円水蛍の邸に鏢局の兵が集うなどやはり尋常のことでは無い。邸には円水蛍本人は居らず、信のおける従僕が控えるのみである。


この大事にあって、しかし鏢局の兵は緊張の欠片もない。名高き『江南剣侠』の邸に忍び込む賊などいるはずないとたかをくくっているのである。加えて、太湖にある別邸が襲われたことを円水蛍が伏せているところも大きいだろう。


門番は早く暇をもらえないかと欠伸をして天を見やる。先程まで晴れていた空だが、生憎今は暗雲がかかりせっかくの名月も形無しだ。


「ちくしょう、ついてないぜ。いいお月様だったってのに」

肩を落として正面を向くと、道の先に笠を着た人一人目に入った。笠も衣服もボロボロで乞食の身なりであるが、足取りは確かで、真っ直ぐこちらへ向かっているように見える。


訝しげに見やったが、直ぐに所詮は乞食だろうと気にもとめなかった。


しかし、よくよく近づいてくると、腰に剣を携えていることが見えた。しまった、命知らずの凶徒か、と内心焦って叫んだ。


「そこの乞食、我らは蘇州一の鏢局『青松鏢局』。我らが守りし門は江南一の英雄好漢、円水蛍殿の門戸であるぞ。用が無ければ踵を返して立ち去るがいい」


言うが早く、門番二人は手にした槍を構えた。と、同時に瞠目した。槍の穂先がないでは無いか。何故ならば、五間もあった距離を笠を着たものが一足飛びに斬り込むと、白刃一閃。槍の穂先を切って落として、門番二人が気づく頃には剣が一人の喉元を穿いていた。


驚くべき早業であるが、流石の百戦錬磨の『青松鏢局』。直ぐに槍を棒術の要領で振り回して打って出た。


「曲者。曲者が出たぞ」


と叫んで仲間を呼ぶことも忘れない。


棒を右に左へも振り回すが、笠の男は身をかがめ、身体を捩り全て躱して掠りもしない。所詮、門番が磨いてきたのは槍術であって棒術では無い。付け焼き刃の技では、敵わないと悟ると払いの一手から一変、突きの一手を繰り出した。


この技は冴えており、笠の端を捉えると、揺らして落とした。顕になった笠の下の顔は、果たして鬼面で覆われており素顔は分からない。


「おのれ、妖魔の類であったか」


大喝するとますます突きの技は冴える。これに鬼面のものは同じように突きで応えた。猛然と放たれた突きは一分も違わず切っ先を撃ち合い、剣が勝った。


棒は縦に割れ、そのままの勢いで剣が門番の胸を穿いた。


鬼面のものは血振るいすると、剣を収めずそっと音を立てずに門に登った。


驚嘆すべき腕を持っているこの者だが、警戒しているのである。表であれだけの騒ぎを起こしたのに、門の内側からは人の気配がない。よもや鏢局の兵が門番の二人だけということはあるまい。ならば何故、門を開き加勢に来ないのかと疑ったのだ。


果たして庭を覗き見ると息を飲んだ。庭にいた鏢局達は一人残らず地に倒れ動かないではないか。


鬼面のものも異様な光景に瞠目していたが、縁側の方から声が響いた。


「おや、どうしたのです。今宵の月はもう隠れてしまいましたが、星はまだよく見えます。こちらに来て一緒に見ませんか」


落ち着いた男の声である。見やると、縁側に書生風の出で立ちをした優男が座っていた。


「安心してください。皆さん壇中穴を突かれて眠っています。罠などありません」


事も何気に言うが、門番に気づかれぬ事無く十人の点穴を突いた腕前は驚嘆に値する。それもそのはず、この優男は『武君七侠』が一人『鉄筆書生』の司天佑なのだから。


鬼面のものはこれを知らず、何者かと訝しげに構えるのみ。司天佑は微笑みを絶やさず、遂に鬼面のものが飛び上がって剣を抜いた。


庭に飛び降りると、また飛んで五間進み、縁側に座る司天佑に襲いかかった。司天佑は判官筆を取り出すと、一払い。よくよく内功のこもった鉄筆は剣を受けても微動だにせず、逆に鬼面のものの手が痺れた。


司天佑は座ったまま、鉄筆をくるりと返して肘の曲池穴に突きを見舞った。これ危うしと鬼面のものが飛びずさると、漸く立ち上がって、


「一筆奉ろう」


と、踏み込んだ。


司天佑は右に左に、または縦にと縦横無尽に筆を振るった。書を描くようか流麗な動作で空に書き綴るは李白の将進酒より「人生得意須尽歓」の七字。それぞれのとめはねはらいは人体の経穴に沿っており、まともに受ければ忽ち手足を奪われ、戦闘不能になる。


鬼面のものは書の心得を持つようで、これを読み取ると字を読んで体を反らす。精緻な鉄筆の動きを通り抜けて、剣を払う。

だが、剣を払った先でどうにも鉄筆に遮られてしまう。空いて脳ではこちらの数段も上だと焦り始め、剣は乱れていく。なれば、優位に立つのは司天佑が必定、鬼面のものはどんどん追い込まれ、ついには右手の曲池穴を突かれてしまう。途端に右手が痺れ、剣を落としかけるが、慌てて左手で持ち直して後ずさる。


「貴方の目には私は自分の数段も上にいる達人に見えていることでしょう。しかし、それはまやかしです。私の腕は貴方に劣ります。本来、こうして打ち合えば五十数える頃に私が負けるでしょう」


司天佑が何を言っているのか、鬼面のものは理解できなかった。現に、優位に立っているのは司天佑であり、追い込まれているのは己である。腕前の開きは天と地の差程あるのではないか。


「理解できないという顔ですね。ならば種明かしをしましょう。貴方の剣は円水蛍大侠と同じものだ。しかし、貴方はかの大侠ほど技を極めておらず、まだ覚え始めだ。もし貴方がその剣を大成させたならば、まさに天下無双の剣客になり得ようが、未熟なうちは私にすら劣る」


鬼面のものは自らの剣法を見破られたことに驚くが、怒りが込み上げてきて手を振るわせた。相手に型を知られている。ならば、先手を打たれるのが必定であり、敵うはずもない。


だがこの屈辱、晴らさずにいられるものかと再び剣を振るった。型通りの剣法である。


無論、尽くが鉄筆に阻まれ、袖に触れることすら叶わない。それでも手数を増やし、攻勢をつづける。だが、利き手を使えず修練も足りぬ技とあっては破綻が見えてくる。その隙を突いて、まともや曲池穴に筆が伸びた。


あわや危うしと見せかけ、鬼面のものはこの時を待っていた。敵に手を読まれるのならば、読ませておけばよい。機先を制されるのならば、譲れば良い。こちらはただ待つだけだ。相手が誘いに乗るその一手だけを。


鬼面のものの誘いに乗った鉄筆は、するりと抜けた左手を捉えきれず空を突いた。すり抜けた刃は司天佑の胸元に向かって突き出される。


取ったと確信した鬼面のものだが、化かし合いは司天佑が上だった。


突き出した刃は、左手が痺れて地に落ちた。よく見ると肘には一寸ばかりの針が刺さっていた。曲池穴の位置である。


「貴様この腕、音に聞こえし『鉄筆書生』に相違なかろう。しかし、まさか斯様な暗器になど頼るなどとは」


鬼面のものはついに口を開いた。仮面の下から漏れたくぐもった声である。


「はい、私が『鉄筆書生』司天佑に相違ありません。しかし、私は常々思うのです。『鉄筆書生』などというあだ名は私には相応しくないと」


「これほどの腕を持っていてもか。筆を使わせれば右に出るものなどそういまい」


「過分のお言葉、身にあまります。しかし、私が言いたいのは筆の腕のことではありません。たかだか筆の扱いに優れている程度で『武君七侠』を名乗れるほど門戸は開かれていない。と申し上げているのです」


この言に鬼面のものは、はっとした。その通りである。一流の剣の使い手が、よもや剣のみであるはずがない。むしろ、そういう使い手に限って精妙な拳法を共に扱うのだ。ならば『鉄筆書生』とて鉄筆だけが頼りとは限るまい。


ことここに至っては、腕が痺れて剣を奮うことも叶わない。天命ここに尽きたりと諦念が湧いてくる。


だが、司天佑は驚くまいか肘を再び突いて解穴した。


「最初、星見に誘った通り私は貴方を殺めるつもりはありません。一つ問いたいだけなのです」


鬼面のものは静かに耳を傾けた。


「貴方の名前は」


静寂の間があって鬼面のものは答えた。


「名乗る名などない」


この答えに司天佑は落胆する素振りも見せず、むしろ想定通りと言わんばかりに微笑した。


「では、貴方のことはこう呼びましょう。天龍驤と」


2.

その日、黄虎威は足取り軽く上機嫌で歩いていた。


約束の四ヶ月のうち、二ヶ月過ぎた頃、黄虎威の真心よりの説得が功をそうしてとうとう義兄弟達は皆、首を縦に振った。


それから一ヶ月は喜び勇んで江湖の渡って祝いの品を探し歩いた。苦心の末、ある霊宝に目をつけ、遂に手に入れて今はその帰り道である。


心弾ませ、足は早まるばかりである。すると、そこで誰かの怒声が聞こえてきた。


足を止めて耳を澄ますと、戦っている音が聞こえてくる。何事だと慌てて音のなる方へ。どうやら林の中から聞こえるようで、草木を掻き分けて道に出ると、果たしてそこで戦う二人。


一人は、中年の男で、一人は男より一回り年下の息を飲むような美人である。しばらく事の動静を見るために目をやっていると、男は多少武芸の心得がある程度で、美女は中々の腕を持っている。


男は剣を振るって戦うが、美女は素手で軽くいなして微笑を絶やさない。敵わないのは明らかである。


男の方へ助太刀してやり、逃がすのは容易いが、事の善悪も知らぬうちに手出しはできない。


手をこまねいていると気づく。男の背後の木に寄りかかるように、十にも満たない男の子が顔を青ざめてもたれかかっているではないか。


これは只事では無いと飛び出す。


男の剣が女に払われ、掌打を打ち出された時だった。さっと飛んで間に入ると、内功を込めた掌打で打ってでた。内功は明らかに黄虎威が上で、女は吹き飛ばされて後退した。


女は身を翻して着したものも、黄虎威を睨むだけで動かない。突然割って入ってきた強敵に戦々恐々の様子だ。


「助太刀感謝致します」


傍らの男が拱手して礼を言った。


「委細も分からず割って入って申し訳ない。見たところ、そちらの少年が傷を負っているご様子。某があの女を抑えるゆえ、どうか連れて逃げてください」


「それはなりませぬ。奴は名の知れた毒手で、我が子は毒を受けています。並の医者の手では治せませぬ。どうにか奴から解毒剤を奪わなければ」


「仕った。解毒剤を奪って進ぜよう」


事情を呑み込むと、拳を構えて女に飛びかかった。


ところが、女は黄虎威を強敵と見てとると逃げの一手である。


既に黄虎威に背を向けて、走り出している。これ逃がすまいかと、追いかけるが、女も必死である。


懐に手をやると、瓶を取りだし、中に入っている手のひらより大きな蜘蛛を取り出してけしかけてきた。


まさに毒手が持つ毒虫とあれば、猛毒も必定。驚いて身を引くと、その隙をついてぐんぐんと離され、とうとう姿を見失ってしまった。


毒虫に注意しつつ、しばらく探し回ったが遂に見つけられず、踵を返した。


不安げに帰ってきた黄虎威の表情を読み取って、男は嘆息した。我が子を助ける手段はないと。


「ああ、お前が生まれて九年。この景成徳、どれほど愛情を注いだことか。こんなにも早い別れとなるとは。お前を救ってやれない不甲斐ない父を恨んでくれ。次に生まれる時には、立派な父の元で、元気に育つといい」


男の頬を涙が伝った。


「待たれよ、確かに解毒剤を手に入れてくることは叶わなかった。しかし、その子を救う手だてはある」


差し伸べられた救いの手に、男は感激して黄虎威に叩頭し、願い出た。


「お願いいたします。もし、お救い下さるのであれば、父子ともにきっと貴方を心より尊敬し仕えます。どうか、この子をお助け下さい」


地面に頭を擦り付ける男を制して、子供に近寄ると話しかけた。


整った顔立ちとは言えないが、太眉と逞しい顔つきだ。

「坊主、名をなんという」


少年は顔が青ざめて、生気がないが何とか声を絞り出した。


「僕は景小龍といいます」


「そうか、良い子だな。いいか、よく聞いてくれ。お前の父親は立派な男だ。毒を消して元気になったら父の元で励みなさい。六年経って父のように立派な男になったら、九華山の黄虎威を訪ねるのだ。その時はお前を弟子にとって技を教えてやろう」


黄虎威は弟子をとっていない。しかし、後六年も経てば四十に差し掛かり、弟子をとるのに丁度いい頃合になる。父親の愛情に動かされたのと、たまたま救う手だてがあることに奇縁を感じて、弟子にすることを決めたのだ。


男は、助太刀に入ったものが名高き『武君七侠』の黄虎威だと知ると驚嘆し、さらに我が子を弟子にとると言うので感涙した。


「はい、きっと貴方の言う通りにします」


「忘れるでないぞ」


と念を推すと、懐から二つの薬を取りだした。一つは「千年白人参」、一つは「仙獣丹」である。


男に差し出すと、


「まずはこの人参をすり潰して与えなさい。それから十四日間は、この子の内力が高まって、毒が回らないように抑え込むでしょう。続いて七日後にこの仙獣丹を与えてください。その頃には毒が一箇所に集まっているため、この薬で消し飛ばしてしまうのです。それからは毒がぶり返さぬよう、しっかりと内功の鍛錬を積ませて体を鍛えさせてください」


そう言うと、内功の修練の方法を伝えた。


「何から何まで、このご恩、どうにかお返しさせてください」


「この子が立派に育って、私の弟子として名を挙げてくれればそれに優ることはありません。これは念の為、お渡しします。もしも、十四日経ってもこの子の丹田が黒く変色していなかったらもう一度与えて十四日待ってください」


と、手にした霊宝のうち「千年白人参」二つと「仙獣丹」の全てを与えてしまった。


「それでは、用がありますので。再びまみえる日を楽しみにしております」


と告げると、黄虎威は颯爽と去っていった。


その後ろ背が見えなくなっても、男は叩頭し続けた。


3.

再び季節は巡る。赤々とした紅葉が広がり谷は明光風靡に仕上がった。


いよいよ約束の四ヶ月が過ぎ去ったのだ。


悪生谷の住民は、『獄門七科人』を除いて全員が身を隠し人肌寂しい峡谷は更に寒々と変わった。


『獄門七科人』は谷の中を右往左往し、歓待の準備を進めた。

程梅喜かわ料理の腕をふるい、男主は飾り付けに勤しむ。肖子墨は筆をもって書を描いた。『武君七侠』の殆どとは初顔合わせだが、その名は聞くに及んでいる。少しでも関心を引いてもらえるように思いつく限りの準備をした。


(しかし、応弟はどこに)


一ヶ月ほど前に、祝いの品を探しに行ってくると言い残し谷を出た。それから音沙汰ない。


しばらく考えた後、元々人好きの悪い性格であるため、祝いの品だけを贈って参列しない腹積もりでは無いだろうかと思い至る。で、あれば今日中に祝いの品が届くだろうと踏んで、それきり気にしないことにした。


日は高く登り、中天に在る。書を送って約束した刻限は酉の刻であり、まだ時間がある。


そう思っていても、やはり時が流れるのは早いもの。肖子墨達が漸く人心地ついたと思う頃にはもう約束の刻限まで半刻足らずだった。


(しまった、もう近くまで来ているはず。遣いをやって御出迎えですしなければ)


肖子墨がそうは考えるものも、己を含め義兄弟達はみな手が空いていない。悩みはしたものも、手を空けて飾り付けが疎かになってはいけない。


そこで、一応彼らとは面識のある張漢永を呼び出した。訳を話すと、張漢永は二つ返事で応えて谷を飛び出して行った。


これ幸いと作業に没頭した。


こうして残る半刻も忽ち過ぎ去った。日は傾いて酉の刻になった。


しかし、谷を訪れるものはなく静かな時が経つ。


谷に入ってからも道が険しく、屋敷までは時間がかかっているだけだろうと気長に待つが、一刻ほど過ぎたところで俄に心が騒ぎ始めた。


(おかしいぞ、時間を読み間違ったか)


と首を傾げでいると、外からどたどたと大きな足音が響いてきた。


なんの凶事かと肖子墨が戸口へ向かうとわっと張漢永が飛びいってきた。足には矢が刺さり、出血しているため白い肌が一層白くなっている。


「どうしたのだ漢永」


肖子墨が慌てることなく問いかけると、


「肖筆頭、奴らはやっぱり我々を謀っていました。出迎えに行くと、いきなり弓を放たれご覧の有様です」


そう叫んで答えると勢いよく泣き出しては、恨み言を続けた。


張漢永の語ったことに得心行かず、肖子墨が


「奴らとは『武君七侠』の方々か。間違いは無いのか」


とやや声を荒らげて聞いた。


「そうです、間違いありません。やつらは初めからこうするつもりだったのです。痛い、矢に射られた足が痛くて痛くて堪りませぬ。どうか御屋敷の中にあげて手当をしてください」


叩頭して泣き叫ぶ張漢永が忍びなく、屋敷にあげてやると程梅喜に手当てを命じた。


屋敷の奥へと消えていく二人を確かめると、肖子墨は程江夏を連れたって谷の外へ向かった。


何かの誤解であると、心から願っていた。


しかし、屋敷の外に出てみると直ぐに異常を察知した。谷の下方より火の手が上がって迫ってくるではないか。


肖子墨は肝を潰しながら駆け出し、あっという間に燃え盛る木々の下まで来ると、袖を振るって火を消し飛ばした。


だが火の手はあちこちから上がっており、留まることを知らない。全てを消火して回るのは不可能だが、少しでも時間を稼いでその内に義兄弟達や住民を逃さねば、と心に決めると程江夏に目配せをして再び舞い上がった。


だが、肖子墨が飛び上がった瞬間、脇から黒い影が二つ飛び出すと一つはこぶし、もう一つは棒で打ってかかった。


咄嗟に空中で身を捩って躱すと、着地と同時に後ろに跳ねて距離をとる。


相手は二人、一人は見覚えがある。四か月前に目にした『武君七侠』の一人『狼歩衝拳』の辺鵠。もう一人は棒を構えた乙女であり、噂に聞こえし『超女鶴棒』の黄夜鈴に違いない。


「何故このような手向かいを」


真っ白になった頭で漸く言葉を捻り出すと、二人は肖子墨をキッと睨みつけるだけで答えない。その眼差しからはあくまで事を構える腹積もりなのが見て取れた。


さしもの肖子墨とはいえ、二対一は分が悪い。程江夏に助っ人を乞おうと声上げる。応えた程江夏が懐から笛を出して飛ぶと、割って入る大男が一人。『金剛力王』黄虎威だ。


「黄大侠、何故です。何故このような仕打ちを」


肖子墨が声の限り叫ぶが、黄虎威は背を向けたまま応じず、義兄弟二人を諌めた。


「よいか、こやつらは所詮は悪人。どんなに誠心誠意の言葉を振舞っても、結局は我らを罠にはめるための甘言に過ぎぬ。騙されるでないぞ」


「はい、大兄の言う通りに」


口を揃えた辺鵠と黄夜涼が肖子墨に襲いかかる。ここに至っては手を交えずにいられない。だが、本来の得物である赤銅杖は手元にない。


右から迫る辺鵠の拳を服の袖を振るっていなし、左から打ち出された黄夜鈴の棒を鼻先を掠めつつ躱す。


二人とも同じ年頃で比べたら飛び抜けた使い手であるが、実践の経験は少ない。肖子墨は師父の元を離れても修行を欠かさず、江湖を渡り歩いて様々な使い手と手を交えてきたため、その点は優位に立つ。


防戦に出て、相手の破綻を待つことにし、辺鵠の拳をいなし、黄夜鈴の棒を避ける。たちまち五十手を数え、二人で攻めかかっているのに関わらず、肖子墨に一太刀も入れられないことに焦り、技の冴えは鈍っていく。


これを見逃さなかった肖子墨は、袖に一段と強い内功を込めると、勢いよくその場で回って二人を離すと、近場の木に向かって飛び、二尺ばかりの枝を折って手にした。硬さも重さも心もたないが、本領である杖術を発揮するには申し分ない。


「若いの、怪我をしたくなければ気をつけられよ」


枝を振るって攻勢に出る。


肖子墨の杖術の冴えは、江湖に名高き強力無比なもの。本来であれば、気を引き締めて向かうべきなのだが、若い二人は木の枝を持ち出した肖子墨に譲られていると勘違いし、ますます怒気強く、元々の技の冴えの六割程度に落ちた。


杖術を振るわれれば、技を十全に振るえても今の二人には勝ち目は無い。だというのに、怒りで我を失っていれば尚更勝ち目などない。幸いにして肖子墨が手にしたのは、木の枝であり身に受けても大事にはならない。それも相まって肖子墨は容赦なく枝を振るった。


十手数える頃には黄夜鈴は棒で受けきれずに手が痺れ始め、辺鵠は胴を打たれ軽い内傷を受けた。


(まさか木の枝一つでここまで追い詰められるとは)


対敵の技量の深さに恐れを抱き始め、俄に腰が引け始める辺鵠、しかし黄夜鈴は全く引けずさらに苛烈に攻めかかる。

黄夜鈴は歳の頃十五、六ほどで辺鵠より若く、武功も及ばない。それでも『武君七侠』の内、六席を賜っているのは、血の通った兄の黄虎威の存在が大きい。


自身よりも歳若く、武功も及ばず、更には玉のような乙女である。だというのに席次は自分より上とあっては、臍を曲げてもおかしくないのだが、辺鵠には全くその素振りは無い。何故なら、辺鵠は黄夜鈴に一重の純真を抱いているからだ。


ならば黄夜鈴が戦う限り、引けに引けぬ。気合一声、強く踏み込んで打ち掛かる。


肖子墨は対敵の腰が引け始めたのを見て取って勢いづいていたのだが、持ち直し一気好転に攻めかかってきて驚くまいことか。杖術のうち「塞」の技を使って守勢に出た。


次は待てども待てども破綻はなく、とうとう攻めあぐねる。肝を冷やしながら、枝を振るって拳をいなし、棒を払っていたが、とうとう胴に辺鵠の拳が入った。歳見かけに寄らず内功のこもった強力な一撃に思わず二、三歩後ずさり痛みを堪えて枝をはらって追撃を受けた。


今の一撃に辺鵠の勢はまして、攻めの手は冴え渡る。肖子墨これまでの手に必殺の手を繰り出していない。何かの間違いで手を交えいるに過ぎず、もし殺めてしまったら申し訳が立たぬと思っていたからだ。


だが、窮地に至ってはその様な手心は加えられない。とうとう、「栓」の一手を繰り出した。


向かう先は、辺鵠の経穴。経穴であればどこでもよい。辺鵠は相手の手が読み切れず、拳で払ったが枝はくるりと回って潜り込むと、曲池穴に向かった。辺鵠に至っては理解していないが、これ危機一髪。しかし、それを悟って否か、黄夜鈴が躍り出て、辺鵠を突き飛ばしてその技を受けた。


途端に肖子墨の深い内功が経穴に蓋をして、行き場のない黄夜鈴の内力が荒れ狂って体を傷つけた。


深い内傷を受けた黄夜鈴は血反吐を吐いて倒れた。幸い、黄夜鈴の内功は未熟であり、即死には至らなかった。これがもし辺鵠や黄虎威であったら即死だっただろう。


「六姉、大丈夫か六姉」


辺鵠が叫んで力ない黄夜鈴の体を抱き上げるが、意識がない。怒髪天をついて怒り狂うが、幸い息があることを見てとると、肖子墨を一睨みして、背を向け軽功を駆使して逃げだした。

黄夜鈴を抱えているため、辺鵠程の腕があってもあまり速くない。肖子墨であれば難なく追いつけるのだが、敢えて追うこともせず、身を翻して屋敷に向かった。


4.

黄虎威は駆けていた。程江夏の背を追っているのである。軽功の腕は黄虎威の方が上であるが、地の利は程江夏にあり付かず離れずの距離をとっている。


黄虎威は暗器や罠を警戒して、じっと目を離さず欠片も油断していないが、特に仕掛けられる事無く悪生谷から離れた広い林に出た。


火の手は見えず、黒い煙だけ見える。三里ほど離れているだろう。そこで程江夏が止まると、


「ご足労願いました」


と一礼、黄虎威は拳を構えて応えた。


程江夏は体が細く、肉付きがよくない。とても武芸の心得があるように見えず、手にした得物は笛と珍奇なものである。だが、無論のこと程江夏が手にした笛は尋常なものでは無い。


程江夏は右手で笛を持つと、口許にあて左手で端に手をつけて仕込み剣を抜き放った。右には金属製の打笛、左には仕込み剣、この二つが武器である。


「一曲、奏でると致しましょう」


程江夏が仕掛けた。


右手の笛で黄虎威の左肩を狙って叩きつける。これを黄虎威は左指で挟んで受ける。どちらも内功が込められており、ぶつかり合い一風巻き起こす。


続いてその姿勢のまま、左手の剣を滑らせて、左手肘へ突きを放った。これは右膝を走らせて打ち付け軌道を変えた。


二手とも見事に受けられた程江夏は、笛をくるりと回転させて指から逃れると、後ろに後ずさって口に笛を当てた。


息をふっと吹き、明媚な笛の音がこだます。無論、ただの笛の音ではなく内功が込められているため、聞き入るものの耳から体を駆け回って内傷を負わせる恐るべき技だ。


察した黄虎威は丹田に気を集中すると、長息の共に体中に気を巡らせて防いだ。


程江夏は笛を吹いたまま剣を走らせる。これを受ける黄虎威は笛の音に内功で対抗しながら、剣を捌かなくてはならない。

これぞ「剣舞魔笛」の技であり、 数多いる江湖の強者を屠ってきた『狂想魔笛』の真骨頂である。


程江夏が悪生谷を離れたのは、この技に仲間を巻き込まないためである。幸いなのは、もしもまみえたあの場でこの技を使ったら、肖子墨はともかく辺鵠と黄夜鈴は耐えられなかっただろう。


黄虎威は密かに舌を巻いた。斯様な使い手であるとは夢にも思わなかったのである。


笛の音にのって程江夏の剣が迫る。静かな曲調に似合わぬ豪放な剣緻であり、大振りだ。普段であれば、難なくいなせるが今は内功を巡らすのに気を取られているため、後ずさって躱す。

続いて放たれた技は、振り下ろした剣の重さに体を任せて、くるりと宙を一回転すると、姿勢を変えて腕を伸ばしてまともや大振り。これは左に避けて躱した。そのままの勢いに二十手ほど交わしたが、黄虎威は何とか剣を捌けている。


(これは僥倖、相手とて笛に内力を込めるのに気を取られ、精緻な剣は使えないのだ)


この黄虎威の考えは正しく、「剣舞魔笛」の弱点であった。並の使い手であれば、内功を込めるだけでもその場を動くことが出来ず、精緻な剣技がなくとも容易く屠ってこられた。


しかし、黄虎威の内功は天下に二人ともいない鍛え上げれたものであり、程江夏では到底及ばない。その為、内功を巡らしても多少は余裕があり、剣を捌くことができるのだ。


弱点を看破し、さらに二十手数えると、剣筋を読んで楽々と躱すと攻勢に出た。


程江夏は驚嘆した。今まで、この魔性の技を前に攻勢に出られた者などいなかったのだ。その為、剣一つで技を受けることが出来ない。そもそも、この技は剣はともかく、笛の音に内功を乗せて響かせるために、笛の音に乗って正確に立ち回る必要があり、一度足並み乱れれば破れたも同然なのだ。


まさにこの危機に至っては、程江夏は剣の技を捨て、笛の音に神経を傾けた。静かな曲調であった笛の音は高く鳴り響き、黄虎威の体を振るわせた。


黄虎威は敢えて気の流れをおざなりにした。最低限、臓腑を守れればいい。捨て身の攻勢に出たのだ。流れ込んでくる内功が燃えるように熱く、沸騰するような血の熱を耐えて、黄虎威は拳を振るった。


程江夏はとうとう、演奏をやめて迫り来る拳を笛と剣で受けた。


ぶつかり合う内功がまた空気を震わせて、程江夏が飛びずさった。今の一手に至っては黄虎威に軍配が上がる。しかし、負った内傷は甘くない。せりあがってくる血を抑えきれずに、口から滴り落ちた。


それでも程江夏は微塵たりとも油断出来ない。手負いとはいえ、内功は黄虎威が上であり、打ち合えば負ける。絶技を破られ、追い詰められているのは正に程江夏なのである。


黄虎威は好機を逃すまいと、再び仕掛けようとした。


すると、


「黄二兄、黄二兄」


と自分を呼ぶ辺鵠の声が聞こえてきた。


ついつい手を止めて、


「ここにいるぞ、辺七弟」


と叫んで答えた。


その声を聞いて、辺鵠はあっという間に駆けてくる。見れば黄夜鈴を抱いているでは無いか。直ぐに内傷を負っていることを見てとると、顔面蒼白である。実の妹の大事に闘志は消えうせて、内功での治療を試みた。


その隙を程江夏に突かれるなど微塵も考えていない。果たして、程江夏はその場を静かに離れて、影も形も消え去っていた。


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