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薄明二侠

 薄明の空、落とす影は闇に熔け抜き身の刃は白き閃光を放つ。

 灰を踏みしめて行くは修羅の果て、一重の愛が転じた災禍である。

 解けぬ因業は仇敵の血潮で贖うより他はなく、避けえぬ死合舞台へ誘う。

 視線相対す。もはや言はなく、ただ殺し合う。


 夕闇が照らす谷に相剋する武芸者が二人。互いの技を認め合い真の好敵手と求め合い、そして殺し合う運命にあった。


 一人は長剣を持ち、揮う剣技は流麗。波を立てずに流るる木の葉を斬るその神技は『流葉剣法』と讃えられる。


 即ち、『流葉剣侠』天龍驤(てんりゅうじょう)。江湖に名を挙げたばかりの奇才であり、年頃や容貌などまだ噂に過ぎないが、透き通った肌色と通った鼻筋を持つ白玉の美丈夫と謳われ、女人であると囁かれることもある。今はその容貌を横割れの鬼面にて鼻より上を隠し、赫々たる鬼眼にて憎悪を滾らせていた。


 長剣を滑らせるように放って出した手は「白尾通脚」の一手であり、柔を持って変幻自在、対敵の間隙を縫って進む技である。


 それに応えたのは剛の技。「金剛指」、内功を込めた指で刃をいなしてしまう神技である。無論、この技は類稀な内功を以して為せる技であり、使い手は江湖において他と居ない。


 即ち、『金剛力王』黄虎威(こうこい)。四十に差し掛かった壮年の大男で、元来持ち合わせた怪力のみならず、鍛え上げた内力は天下無二。


 無精髭に塗れながらも、玉のように丸い両の眼はどこか愛くるしい顔立ちをしており、見たものを和ませるのである。


 心にあるのは必殺の意。見えたるは大敵であると憤慨のままに技を放つ。


 数える手はとうに数百を超え、技を受ける側も出す側も枯れつつある精根を必死で奮い立たせて戦っている。


 影は霧散し、闇夜が広がっていく。未だに決着はつかない。

 しかし一人の英雄好漢の死でしか、この場は収まらないのだ。

 天龍驤の剣法は燕のように軽やかに、黄虎威の拳法は鷲の如く獰猛に。柔と剛が色なす螺旋は永遠を想わせる。


 されど、時は無情にして落ちたる夕日は刻限を告げる。

 交わる手は寸劇の猶予をもって、静寂の戯場は慟哭によって終幕に向かう。


 理解していた。

 互いに分かっていた。

 残す手はただ一つ。

 この交わりが結末だと。


1.

『西に武君七侠(ぶくんしちきょう)あれば、東に悪生谷(あくせいごく)あり』


 薫風駆け抜ける頃の江南、青葉茂る鎮江の酒楼に身を隠した商人が噂話をしていた。


「なんでも、悪生谷生まれの赤子は生まれながらにして母の乳を噛みちぎり、生き血を啜って育つとか」


「育った稚児は血の味を母の味と、谷に近寄った女人に飛びついて血を啜り、腹を満たすまで決して突き立てた歯を離さないそうだ」


「……俺はこの前、どうしても急ぎの用だったもんで恐れを忍んで近道にとあの谷の近くを通った。三里程手前に来ると、夜鳥だか何かの呻き声が聞こえてきた。肝っ玉冷やしたもんだが背に腹はかえらねえ。さっさと通り過ぎようと足を早めたら小僧が道を塞いできた」


 口々に噂話をしていた商人たちはそこでグッと息を呑んで耳を済ませた。


「それで、どうしたんだいあんた」


「小僧は道の真ん中で俯いて、ピタリとも動きやしねえ。何ぞ病にかかっているのか、それともただの気狂いか。頭を傾げて、小僧に近寄って肩を揺らしてみた」


 語るに連れ、商人の顔はどんどん青ざめていく。目を凝らしてみると、体を震わせて酷く怯えているのが見て取れる。


「………小僧は応えなかった。俺はそこで止めればいいものも、妙な気心に触れて小僧を何度も揺さぶった。すると……小僧は気だるげに顔を上げて俺をじっと見た。俺は、俺はその顔を見て……恐ろしくなって逃げ出したんだ。もう用のことなんてすっぽりと忘れ去り、お天道様が顔を出すまで半狂乱で走った」


 語る商人は顔を真っ青にして泣き始めた。出くわした恐ろしい何かに心底恐怖しているのである。


「おいおいお前さん、小僧の顔の何が恐ろしかったんだい?それを言ってくれなきゃ何も分からんじゃないか。いいか、一体全体、何がそんなに恐ろしかったんだ」


「………顔を上げたやつは酷く真っ白だった。だが、口の周りは真っ赤に染まっていた。口紅だとか、そんなんじゃねえ。あれは人間の血だ。……まだ乾いちゃいなかった。奴は人間の血を吸ったばかりで、きっとあの道の近くに血を吸われた無惨な死体があったはずだ。もし、あの時……俺が直ぐに逃げ出していなかったら……」


 暗澹たる語りに、耳をすませた商人たちは顔を真っ青にして震え上がった。さながら地獄の幽鬼たる所業、噂聞こえし悪生谷の住民は真に極悪である。


「なにしみったれてんだ。悪生谷の何ぞが恐ろしいってか。笑わせる」


 円になって語り合っていた商人たちの末席から呵呵大笑。商人たちが訝しげに目を見遣れば、赤袍に身を包んだ少年である。焼け茶の肌とよく響く声は快活な人柄だが、背は低く体は細い。何処かの屋敷の茶坊主だろうか。


「おい小僧、怖いもの知らずで世間も知らないお前は笑っていられるだろうが、悪生谷の十里も手前に行けばそうはいられまい。顔を青ざめて西にすっ飛んでいくはずさ」


「西か。いいね、そいつはいい。そっちには悪生谷なんてちっぽけな峡谷を恐れない英雄好漢揃いだ。谷の住民、『獄門七科人』が来たって少しも恐れたりしない。一刻も有れば全て返り討ちさ」


 けらけらとまた笑う。その様子を見て、商人のうち一人が首を傾げた。


「西に誰がいるってんだい?天子様は悪生谷から見て北だと思うがね」


 この間抜けた問に、居合わせたものは目を丸くし、逆に問いかけた。


「お前さん、江湖に立ち入るのは初めてか。今まで人知れぬ山里で生きてきたのか」


 この言に、間抜けた商人は顔を真っ赤にしたが、己の無知を悟り、また商人の中では一番年若いことでどうにか怒りを静め、叩頭して教えを乞う。


「よく耳をすませてみろ。ほら、隣の卓だ」


 言われて耳を傾けると、隣の卓から喝采の声が響いてくる。

「あれぞ『超女打棒』の神技。玉のような乙女がさっと軽やかに棒を震えば、鶴唳を上げて風が唸る。盗賊共があっと驚いて身をよじろうとした時には強かに打ち付けられ、悲鳴を上げるより先に地に叩きつけられていた」


「待て待て、女人一人に対し、盗賊は四人。一人倒した所でそれからどうしたってんだい」


「いやいやお前さん。この乙女は一打で四人の盗賊を倒したのさ。その天晴れな腕前、正に『武君七侠』に相応しい。『越女打棒』とはその人に違いない」


 興奮して泡を飛ばし、捲し立てる商人。どうやら荷を運んでいる際に盗賊に遭い、あわや惨事のところ、通りがかりの女侠に助けられたらしい。


「聞いたかい、若商人の旦那。『越女打棒』黄夜鈴(こうようりん)先輩の威名を。悪生谷がなんだ、かの女侠とその師兄達がいれば恐るに足らずってもんだ」


 意気揚々と茶坊主が鼻を鳴らした。


 これには若商人が喜色を浮かべ、不安一色を晴らし、『武君七侠』に大いに心惹かれた。


「その『武君七侠』様方は一体、西のどちらにおいでで」

「かの聖地、九華山さ。あの御方達はそこで個々の武芸を磨き、やがて義兄弟になると江湖に降って侠の行いを始め、名を上げ二年、既に天下に『武君七侠』ありと威名を轟かせるまでになったのさ」


 訳知りの商人は得意げに語った。同席し耳を傾けていた商人たちもどこか自慢げである。


「さてさて、美味い酒にいい肴話を聞けたんだ。これ以上に長居してたらお天道様に叱られちまう。俺はここいらでお暇するよ」


 盃を置いて、茶坊主が立ち上がった。


「なんだい坊主、急ぎの身か?まだお天道様は真昼夜、日暮れまで飲めばもっといい話を聞けるだろうに」


「何、噂の悪生谷に足を運んでみようってね。安心してくれ、もし俺が西に走ればすぐさま極悪人共は咎を受けるまでさ」


 茶坊主の答えに目を丸くして、冗談かはたまた気狂いか判別しているうちに背は店の出口まで進んでいた。


「おっと、こいつはお代さ」


 去り際に振り向きもせずに、銅貨を弾いた。弾かれた銅貨は綺麗な弧を描き、卓上に音もなく着地した。


2.

 新緑繁茂、透き通った風に乗って馬が駆ける。行先は悪生谷、悪鬼共住まう幽谷である。


 馬に跨がうのは茶坊主と心得違いされた赤袍の少年である。

 少年の名は辺鵠(へんごく)、馬は若々とした逞しい駿馬であり、そのようなものに跨がうは決して茶坊主などでは無いことを指していた。


 鎮江を出て、東に太湖の方面に三十里ほど向かえば目的地である。駿馬で駆ければなんてことない距離である。

 悪生谷に近づくつれ、道は荒れていき人の気配は失せていく。


 段々と落ちていく日は申の刻の頃を指してる。悪生谷に着く頃には夕刻だろう。


 幽鬼住まうと恐れられる悪生谷に向かっているというのに、辺鵠は飄々と笑みを浮かべ恐れを感じさせない。例え、江湖をさすらう武芸者でも、そのような場所に暗くなってから訪れるなど忌避するだろうが、この男は全く急く素振りも見せない。

 偶にすれ違う人は、真っ直ぐ東に進む辺鵠に気を回して回り道するように助言するのだが、


「君子の忠言、痛み入る」


 と馬上から拱手するだけで馬首を少しも傾けない。その姿を見て、気狂いかはたまた実は谷の住人かと、親切な者もそれ以上は言を噤んだ。


 景色は過ぎてゆき、とうとう山深く、影は朧気に揺れ始めた。


 既に悪生谷は目と鼻の先である。辺鵠はようやく底で馬を止めた。


 長城を思わせる岩壁を備えた谷は、薄らと漂う霧で朧気に、入口は深い木々に覆われ、なるほど悪生谷などと謗られるに相違ない不気味な容貌だ。


「君子、何用か。危うきに近寄らずでなかったのか」


 谷の入口から声が響いた。低く、くぐもった声であるがよく響く。


「君子とて好奇心には負けるものさ。取り分け、この世ならざる餓鬼畜生の集まりなんて面白おかしいもの、見ないと損だ」

「然り、いかな君子とて妙心にはかなうまい。ならば、その見物料が高くつくこと知るがいい」


 入口の木々が微かに揺れ、宙を駆けるように小僧が飛び出して来た。向かう先は辺鵠の胸元、手にした匕首を突き刺す腹積もりだ。


 辺鵠と小僧の間には五間程の距離があろうに、一足で飛び上がって迫るのを見るに、軽功の心得があるの見て取れる。


 それを知ってか否か、辺鵠は飄々と馬上で笑みを零したままである。


 小僧は動かない相手を多少腕に覚えがあるばかりに命知らずに走った愚者と断じ、この一手にて殺められると確信していた。


 刃が胸元を貫く刹那、さっと上体を倒して反らして躱すと、跨っていた両の足で馬体を蹴りあげると宙を舞った。


 呆気に取られた小僧であるが、身を翻す暇もなく、刺突の姿勢のまま、宙を舞った辺鵠から突き出された掌打を食らって吹き飛ばされた。


 まともに掌打を受け、三間の距離を舞った小僧だが、幸い内傷は軽く、辛うじて両の足で着地した。辺鵠はそのうちに馬体に戻っており、小僧を見下していた。


「貴様、何者だ」


 荒々しい問いかけに、辺鵠はフンと鼻を鳴らし、


「よもや『獄門七科人(ごくもんしちとがびと)』とはお前のことではあるまいな」


 と返した。


 小僧は逆上し、顔を真っ赤にして怒ったが、反面、辺鵠は余裕綽々、真っ赤な顔を指して笑い始めた。


「商人が噂していた小僧ってのはお前のことだと思うが、なんだよく見れば小僧なんかじゃないな。とっくに俺より十や二十歳を食ってやがる」


 小僧──否。この男、名は張漢永(ちょうかんえい)。齢は四十を過ぎているが、その容貌は十の頃にしか見えない。皮膚は硬く、皺もあるのだが目立たぬ程度であり、目を凝らさねば分からない。


 生まれながらにして女人の生き血を啜って生きてきた悪僧は、どういった訳か全く老け込まず、若々しく生きてきたのだ。


 武術の心得は多少あるが、『獄門七科人』と恐れられる達人では無い。その弟子の末席に当たる程度だ。それでも、江湖においては並の使い手では無く、『吸血童子』などと呼ばれ恐れられているのだが、辺鵠との間には歴然の差がある。


「さて先輩。ここは一手ご教授仕る」


 拱手する辺鵠だが、あくまでも馬上から見下ろしたままで、相手に礼を尽くすつもりは無い。


 怒髪天をついて唸り、張漢永は攻勢に出た。匕首を腰に下げると、肘を曲げて指先を尖らせ、『伏蛇転攻』の技を繰り出した。蛇のように曲がりくねって迫る指は、複雑な変化をしているようで、その実は相手の喉元を狙うのみの騙しの手である。


 達人といえど、柔らかな喉肉を掴まれては抵抗する間もなく殺されてしまう。恐るべき必殺の一手である。


 対する辺鵠はやはり、笑みを変えず迫る魔手を見やるばかりである。


(この技は恩師、殷公直々に賜ったもの。少々腕に覚えがあるようだが、貴様如き若輩にどうして破れようか。俺を怒らせたのが運のつき。とく死に果てるがいい)


 突き出した魔手がいよいよ辺鵠の喉元へ。取ったと再び確信する張漢永だが、喉元に届くより早く、目の前がぐるりと回転し、続けて右頬に衝撃を受けて地面に投げ出された。


「僭越ながら小弟子、辺鵠が申し上げる。そのような鈍間な手、身を守るよりも、先に打ってしまえば容易に対処できます。他の手をご教授願えませんか」


 張漢永は面を食らった。己の技が純粋に真っ向から破られたこと。それに、対敵が口にした名に。


 各地で悪逆の限りを尽くした極悪人共が集まり、俗世と関わりを断ち、気ままに生きているのがこの悪生谷である。だが、門戸を閉じていても音に聞こえてくる威名。


『武君七侠』の名は、悪生谷の住民でも知っており、全員では無いが名を聞き及んでいる者もいる。


 そのうち一人が『狼歩衝拳』辺鵠。類稀な軽功の技を持ち、赫々たる拳法の腕は武林きってである。


 思わぬ大敵に身震いする張漢永だが、引くことも出来ぬ。幸い、対敵は腕に自信があるためか油断もあるようだ。搦手を使ってどうにか隙をつけないかと逡巡し、再び拳を構えた。


 勢いよく地面を蹴ると、一足飛びに拳の間合いに辺鵠を捉え、掌打を繰り出す……振りをして、足を伸ばして馬へ向けて蹴りを放った。馬が驚いて暴れれば確実に隙をつけるとふんだのだ。


 だがしかし、それを読んでいたのか、辺鵠が雷鳴のように手を動かすと張漢永の足を掴んで引き寄せ、胴に掌打を食らわせた。


 今度の一撃には内力が込められており、臓腑を殴打する強烈な痛みにもんぞりかえって倒れる。


 最初の一撃に手心を加えられたことにまたもや怒り心頭であるが、もはや武術のみでは敵うまいと理解し、張漢永はその場に座り込んだ。


「殺せ。この世に生まれ四十と一つ。死に際に無用な足掻きなどせず、潔く果てこそ武の道よ」


 これには辺鵠も、相手が極悪人と分かっていながら感心した。それまでの相手を見下した行為に恥じ入ると、馬から飛び降りて叩頭した。


「小弟子辺鵠、冥土への道案内人慎んで拝する」


 潔く送ってやろうと、感心した辺鵠が頭を上げる。すると、張漢永は跡形もなく姿を消していた。


 一瞬、面を食らった辺鵠だが、次第に怒りが込み上げてくる。斯様な騙しの手、元が極悪人であっても尚許しておけない。


「何処に行った卑怯者。恐れを成して逃げたか。武の道を説いていながら死を恐れるか。お前の師は卑怯千万を授けるのみか」


 裂帛の気合いを込めた怒声を上げ、谷中に鳴らす。これで出てこぬのならば谷に踏み入って探し出すのみ。中に入れば、谷に潜む『獄門七科人』やその弟子たちとも手を混じえることになろうが、あの様な卑怯者の師弟達。恐れるに足りない。


 一刻ほど罵声を浴びせたが、張漢永が出てくる気配は無い。遂に、怒気のまま悪生谷へ踏み出した。


 木々を掻き分けて、中に入る。曲がりくねった登板の道が続いており、上方からは食べ物の匂いが漂ってくる。

 さて、これよりは罠がしかれられている危険性も十二分にある。流石の辺鵠もきっと気を引き締めるが、息を深く吸うと途端に駆け出した。


 どのような罠であろうとも、作動するより早く軽功を駆使して登りきってしまえばよいと考えたのである。兄弟内ではしばしば「猪児」などと揶揄われる辺鵠の気性が出たのだ。


 みるみる駆け上がっていくが、途端にとんぼがえりを打って身を翻した。着地と同時に、辺鵠が向かっていた先へ白刃一閃。


「粋な挨拶じゃないか」


 いつの間にやら現れたのは、剣を携えた男。顔に鬼面をはめており、見ることは叶わないが、これほどの腕の冴え、男と見て構わないだろう。


「先輩からのご挨拶、慎んでお受けした。今度はこちらから仕る」


 無言のまま答えない男に変わって意気軒昂に声を上げると、地面を蹴って高く飛び上がり、対敵目掛けて飛び蹴りを見舞った。


 男はその場から引かず、辺鵠の蹴りの軌道を読むと突きを放った。狙いは正確、このまま辺鵠が避けなければ胸元を貫かれるだろう。


 あわや危うしと、辺鵠は足を引いて剣先へ向けると、突きの勢いを利用して上方へ跳ね上がり、身を回して男の後ろ背から掌打を繰り出した。


 男は背後にも目があるのか、剣を背後に回すと掌打を面で受けて勢いを殺すと、内功を以て剣を振りきり、辺鵠を左の岩壁へ叩きつけた。


 強烈な勢いに乗って打ち付けられた辺鵠だが、内功を振り絞って衝撃を受け止めると、岩壁を蹴って着地した。


 その顔は依然、笑みを絶やさない。対敵を見下しているのではなく、思わぬ好敵手と出会えたことに歓喜しているのだ。


 若くして 独自の武芸を収め、『武君七侠』と讃えられる程に成った辺鵠にとって、斯様な好敵手は得がたいものだ。


 どれほどの武芸を収めようと、それを振るう相手がいなくてはつまらない。強敵との立ち会いの中にこそ、武芸の本質があるのだ。


 それが辺鵠の信条であり、戦いの中で命を賭すことを厭わないのだ。


「武君七侠が末席『狼歩衝拳』辺鵠、参る」


 裂帛の掛け声を上げ、駆け出した。迎え撃つ鬼面の男は、またもや素早い刺突を見舞った。辺鵠は袖を振って回転し、続けて三打の掌打を放った。


 一打、剣先を打って軌道を変え、二打、対敵の左手を打って剣を叩き落とし、三打、胴へ内功の篭った一撃を放った。


 強い衝撃を受けた鬼面の男だが、必死にその場に留まると剣指で辺鵠の喉に突きを放った。辺鵠は対敵がその場に踏みとどまるのは愚か、返す手で必殺の一手を繰り出したことに、慌てて飛び退いてこれを回避する。


 この隙に鬼面の男は剣を広い上げると、飛び退く辺鵠目掛けて踏み込んで切り払った。


 危うく上体を反らして躱す辺鵠だが、鼻先を冷たい鉄の刃が掠める。冷や汗をかきながらも心中血潮は熱く滾り、反らした上体をそのまま倒して、両手を地面につき、勢いよく蹴りあげると同時に手で押して飛び上がった。


 宙を回転するように舞い、音もなく着地すると構え直して再び攻勢に出た。


 鬼面の男とそれに応じて剣を揮う。互いに先の攻防で腕を認め合い、油断なく手を繰り出す。


 忽ち百手を超える技の応酬を繰り広げるが、勝負はつかない。獲物がある分、鬼面の男が有利に見えるが、辺鵠の軽功の冴えも侮れず、「狼歩功」を以て剣を左に右へと掻い潜っては技を繰り出す。


 夕日はとうに落ちて、辺りは闇に染る。薄明が谷に遮られ、一部の灯りすらない。それでも手を緩めることはなく、五感を頼りに立ち会うのみだ。


 僅かな布ズレの音や、空気を割く音も見逃さない。

 辺鵠が足払いを放てば、地を削る音に察して内力で受止めて、突きを放つ。放たれた突きが空気を割く音を拾っては、軌道を読んで躱して掌打を放つ。


 鬼面の男の剣術は精緻を極め、突きを主体とした独特のものであり、矢の如し白刃を一手でも見逃せば、忽ち急所を穿いて対敵を殺めるだろう。


 対する辺鵠の拳法は『狼歩衝拳』の名に違わず、千変万化の足さばきから機先を制し、打ち出す掌打は岩をも砕く剛腕ぶりである。


 尋常ならざる使い手同時による一手、また一手の応酬は、仕損じれば忽ち骸と成り果てる絶崖、双方見事と言うより他ない決闘である。


 さて、いよいよ月が昇ってきた。闇は晴れて、薄い月光が差し込んでくる。


 この見事な決闘をじっと見つめるものが一人。張漢永である。実の所、張漢永は辺鵠が罵声を浴びせていたその時に、すぐ近くの草むらに隠れていたのだ。怒りに任せて飛び出して行きたいのを、耳を押えて必死に耐えていのだ。


 やがて、辺鵠が悪生谷に入って行くのをしめしめと着いてきた。中に入れば、自分の師匠の『獄門七科人』が待ち受けている。如何にこの男が優れていようと、ただの一人では七人に敵うまいと悪心を抱いていたのだ。


 その願いが叶ってか、辺鵠は『獄門七科人』のうち一人と鉢合わせし、手を合わせるに至った。


 中々着かぬ決着にやきもきしながらも、遂に張漢永は自らの手で始末をつけること思い至った。


 辺鵠は対敵との果たし合いに全神経を傾けており、自分に気づいている素振りは無い。もし、気づいていても、対処のしようがない。


 下卑な笑みを浮かべて、張漢永は匕首を抜きはなった。狙うは背、過たず穿いて見せようと意気込んで、飛び出した。


 対敵の剣に全神経を傾けていた辺鵠だが、凶刃が身に迫って気づく。だが、その時にはもう一尺程まで迫っており躱せない。


(我が天明、凶刃によって絶たれるか。この憤慨忘れてなるものか。来世にはきっとこの仇を返してやる)


 死を前に心を憤慨一色に染める。仇の顔を魂に刻みこもうと張漢永の顔をじっと睨んだ。今度こそ辺鵠を殺められると確信していた張漢永の顔は、下卑な笑顔に染まっており、尚のこと辺鵠を憤慨させた。


(何が来世だ。今ここで、刺し違えてもこいつを殺してやる)


 そうと決めると、必殺の意志を込めて掌打を放てるように身を少し捻った。既に躱すことは出来ない距離だが、この体勢であれば身を貫かれても掌打一つ見舞うことはできるだろう。


 いよいよ刃は三寸程まで迫った。辺鵠は覚悟して殺意を滾らせた。


 その時、風が唸る音と共に、矢が飛んできた。飛来した矢は、匕首を穿いて粉々に砕き、岩壁へと深々と突き刺さった。


 辺鵠は咄嗟のことに呆気を取られたが、すぐ様張漢永に掌打を見舞った。吹き飛ぶ張漢永の体だが、呆気に取られたせいか込められた内功は浅く、辛うじて息はあるようだ。


 掌打を放つと、辺鵠は身を翻して鬼面の男から距離を置いて矢を見つめた。


 鬼面の男は今の出来事に興を削がれたのか、剣を仕舞って張漢永を睨んでいる。

 相手の敵意が削がれていることに気づいた辺鵠は、岩壁に近寄って矢を引き抜いてみる。深々と突き刺さっているため、抜くのには少々手こずった。


 そうして引き抜いた矢の鏃を見て、歓喜した。


 何処からか飛来し、鉄の匕首を砕き、岩壁に突き刺さったこの矢、なんと鏃は石である。弓の腕もさることながら、真に優れた強弓である。


 この様なことが出来る者は江湖広しと言えど、一人だけだと辺鵠は確信していた。


「二兄、黄虎威の兄貴だね」

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