05:黒を纏う青年
人だかりの中央に居たのは、怒りを露わに怒鳴りつける年老いた男と、深く頭を下げ続ける少女。男の背後には側仕えらしき者が数人控えており、主人の怒りが自分に向かってくれるなと言いたげに渋い表情で沈黙を保っている。
なにか不手際が有り、少女が主人から叱咤されている……と、こんな所だろうか。だがそれにしても男の怒声は聞くに耐えられるものではなく度が過ぎている。
周囲も哀れむように少女を見つめてはいるが、実際に助けに入る者はいない。
それほどに男が高位の身分なのだろうか。確かに身に纏っているものは一目で分かる程に豪華で、数人を従える姿はいかにもだ。
ただでさえ一介の市民が貴族に意見するというのは相応の覚悟が必要とされるのだから、それが激昂している中に口を挟むとなれば怯んでしまっても仕方ない。
そんな中、ならばとエステルは「ちょっと」と声を掛けて人集りの中央へと一歩進み出た。
田舎村の貧乏男爵家とはいえ自分は貴族。ならばここは自分が勇み出るべきだ。
もちろんバスケットの中の護衛に「行くわよ、ギデオン」と一声掛けるのも忘れない。有事の際にはぴょんと飛び出てきて守ってくれるだろう。
「何かあったのか知りませんが、そこまで怒鳴りつけること無いじゃないかしら」
「なんだと。小娘が知ったような口を利くな」
「こんなに萎縮して可愛そうに……。いったい何があったの?」
怒りを露わに睨みつけてくる男は軽く流し、エステルは少女に声を掛けた。
年は自分より一つか二つ下だろうか。ゆっくりと顔を上げれば綺麗に編み込まれた赤茶色の三つ編みが揺れる。
笑えばきっと可愛いだろうに、今はその面影もなく青ざめ眉尻を下げ、怯えの色が全面に出ている。なんと痛々しいことか。
「私、その……急いでいて、それで……。水たまりを跳ねさせて、ルゼール伯爵様のお召し物を汚してしまったんです」
「それで?」
「……それで、その……汚してしまって……」
「そうね、汚してしまったのね。それで何があったの?」
「……それで終わりです」
「それで終わり!?」
困惑しつつ少女が話す。それを聞き、エステルは信じられないと声をあげた。
つまりルゼール伯爵と呼ばれた男は服を汚されたから怒っているだけなのだ。
それも見たところ、汚れているのは靴とズボンの裾。それも直ぐに拭って落とせる程度の汚れだ。洗うより怒鳴る方が気力がいる。
ぎょっとしてエステルがルゼールを見れば、それもまた心外だと言いたげに睨みつけてきた。
随分と居丈高な態度で「小娘がしゃしゃり出て」と吐き捨てる。エステルのことを王都に住む庶民の娘とでも思っているのだろうか。トランクと子犬を入れたバスケットを手にしているのだ、無理もない。
「服の汚れぐらいで喚くなんて無駄な時間ではありませんか? ささっと拭えば落ちる汚れでしょう」
「なんだその態度は! この私を馬鹿にするのか!」
「馬鹿になんてしてません、ただ正論を言っただけ。それに貴族なら貴族らしく威厳ある行動を取るべきよ。こんなところで喚き立てるなんてみっともない」
「このっ……!」
エステルの言葉にルゼールが目を見開くと声をあげ、手にしていた杖を高く掲げた。
叩かれる、と察したエステルが咄嗟に目を瞑る。小さく聞こえた悲鳴は少女のものだろうか。バスケットの中で主人の危険を察してギデオンが吠える。
次の瞬間、ガッと鈍い殴打の音がエステルの耳に届いた。
……が、体のどこにも痛みや衝撃はない。
「……え?」
恐る恐る目を開けて様子を伺う。
次いでぎょっと目を見張ったのは、ルゼールが振り下ろした杖の先が目の前まで迫っていたからだ。あと少しでもずれていたらエステルは顔を叩かれていただろう。目に当たっていたら怪我どころではなかったかもしれない。
だがそれをすんでのところで免れたのは、エステルと杖の間に挟まれた手のおかげだ。背後から延ばされたその手が、ぶつかる寸前の杖を掴んでいる。
二度ほど瞬きをした後に助けられたことを理解し、エステルは慌てて背後を振り返った。
「だから人のいる場所に出るのは嫌だったんだ」
杖を掴んだまま、青年が抑揚の無い声色で誰にともなく呟く。
夜空のように深い濃紺色の髪に同色の瞳、全身を纏うのは黒い衣服。整った顔つきは見惚れるほどに麗しいが、反面、どこか陰鬱とした雰囲気を感じさせる。声にも覇気が無く、ルゼールを見据える瞳にすらも一切の感情を宿していない。
端正な顔つきも、しなやかな四肢も、均等がとれていて彫刻のよう。そして生気のなさもまるで彫刻のようだ。
「あ、貴方は……」
「ルゼール伯爵、申し訳ないがここまでにしてもらおうか。今日は大事な来客があり、これ以上うちのメイドを引き留められると予定が狂う」
淡々とした声色で青年が告げれば、ルゼールが僅かに躊躇った後に渋々と杖を下ろした。ばつが悪そうな表情をしているあたり、彼も暴力を振るおうとまでは考えていなかったのだろう。
自分が煽ってしまったせいだ、とエステルは内心で悔やんだ。双方に申し訳ないことをしてしまった。
そうして「こちらも暇ではない」と捨て台詞のように告げて去っていくルゼールを見届け、エステルは深く息を吐いた。今更ながらに緊張が押し寄せてきた。
次いで助けた少女と、その主人らしき青年へと視線を向ける。先程まで痛々しいほどに青ざめていた少女は青年に一連のことを説明し終えると、エステルへと向き直って深く頭をさげた。三つ編みが跳ねる。
「あ、あの……。助けてくださってありがとうございました!」
「いいの、むしろ事を荒立ててしまってごめんなさい。それに私も助けて貰ったし。ありがとう、貴方が助けてくれなかったら今頃どうなっていたか」
杖の当たりどころが悪ければ怪我だけではすまなかったはずだ。
だからこそ青年に感謝の言葉を告げるも、彼はふいと視線をそらし「かまわない」とだけ告げてきた。随分と素っ気ない態度だ。
だがチラとエステルへと向けると、上着の胸ポケットからハンカチを一枚取り出した。
「メイド仲間か。迷惑を掛けたな」
「メイド? 私が? いえ、私は……」
「もし伯爵が何か言ってきたら、主人にこれを渡せ。今回の件は巻き込まれただけだと言えばいい」
そう告げて青年がハンカチを差し出してくる。これもまた黒一色の服装に合わせたような黒色のハンカチだ。だがよく見れば一角の隅に家紋らしき刺繍がされている。
エステルをどこかの家のメイドと勘違いし、主人に怒られないようにと気遣ってくれたのだろう。そのうえ、訂正しようにもハンカチを押しつけるや踵を返して歩き出してしまった。……去り際にギデオンの頭をそっと撫でて。
少女があわあわと青年とエステルを交互に見やり、最後に深く一度頭を下げ、青年の後を追いかけていった。




