26:疑惑と侮蔑
壁に背を打った衝撃に一瞬目を瞑り、僅かに呻きながらゆっくりと目を開ける。
エステルの前に立っていたのは、エステルと同年代の少女と、そして二回りほど年の離れた一組の男女。年齢を見るに夫婦と娘だろうか。
男はエステルを眼光鋭く睨みつけ、対して夫人は不快を訴えるように扇子で顔の半分を覆い、そして娘もまた父親に似た鋭さでエステルを睨んでいる。
一目でただ事ではないと分かる空気だ。もっとも、今いる場所は会場の隅、それも彼等はエステルを会場から隠すよう背を向けているため、険悪な空気に他の者達は気付いていないようだが。
「な、なにか御用かしら……」
こちらの動揺を悟られまいと、冷静な声を取り繕って返す。
だがそれに対しては誰も答えず、男の眼光はより鋭くなり、女性達の嫌悪の色は濃くなるだけだ。
露骨な彼等の態度にエステルの中で疑問が湧く。
そもそも、彼等は誰なのか。
どうしてこれほど露骨な敵意を向けられなければならないのか。
だがそれを直接尋ねるのは憚られ、エステルは男の顔を窺うように見つめ……。
「あ、あの時の……」
と、小さく呟いた。
あれはまだアレンと出会う前だ。いや、正確に言うならば出会っている、名も知らぬ彼に助けられた時。
目の前の男は街の一角でライラに対して横暴な態度を取り怒号を飛ばしていた男だ。ライラが水たまりを跳ねさせたせいで靴とズボンの裾が汚れたと、洗えばすぐに落ちる汚れなのに怒鳴り散らしていた。
それを止めたエステルにさえ怒りを向け、手にしていた杖で殴ろうとしていたのだ。そこをアレンが止めてくれなければどうなっていたか。
確か、名前は……。
「ルゼール伯爵……」
ポツリと呟いたエステルの言葉に、ルゼールがようやく思い出したかと言いたげにふんと鼻を鳴らした。
「生意気な小娘だと思っていたが、まさか公爵家に入り込むとはな。お前が貴族だと? 馬鹿馬鹿しい」
「何を仰っているのか私には分かりません。お話はもう終わりでよろしいでしょうか?」
ルゼールの言葉からは態度同様に嫌悪が露骨に出ている。
それを気にするまいとエステルは心の中で己に言い聞かせ、さっさと開放してくれという意味で「急いでますので」と付け足した。
早くアレンの元へ戻らなければ。先程は『アレンが心配するから』と考えていたが、今は一刻も早く彼等から離れたいという焦りが湧く。
だがそんなエステルの心境など気に掛けるわけもなく、ルゼールはエステルを品定めするように見つめ「クラヴェル家も落ちたものだ」と鼻で笑った。
ピクリとエステルの眉が動く。
「あの公爵、姿は現さぬが出来た男だと噂で聞いていたが、伴侶が偽物だとも気付かないとはな。所詮は若造だ」
「仰っている事が分かりません。何を勘違いされてるのかは存じませんが、これ以上アレンとクラヴェル家の事を悪く仰らないで頂けますか」
「おぉ、怖い。いっぱしの貴族の真似がよく出来てるな。なるほど、これで公爵を騙したのか」
「これ以上、悪く、仰らないでください」
「なんだ貴族ごっこがバレて怒っているのか。品の無い。あの公爵も、素直にうちの娘を嫁にしていればこんな小娘に入り込まれなくて済んだものを」
忌々しい、とルゼールが吐き捨てる。そのうえ「社交界の品位を汚した」とまで言うのだ。
これにはエステルも文句を言おうとし……、なんとか堪えた。ここで言い争いをしてはいけない、そう自分を律する。
だが我慢出来たのも一瞬だけだ。続けるようにルゼールが言い放った言葉に、エステルはかっとなって顔を上げた。
「あの男も、公爵家をさっさと手放していれば良かったのに」
この言葉を許せるだろうか。
エステルの脳裏に、かつてアレンから聞いた話が蘇る。
幼くして両親を失い、公爵家を我がものにせんと伸ばされる手から必死で逃げた。そしてあの幽霊屋敷に引きこもり、外界との交流を絶った……と。
幼い少年がその決断をするのにどれほどの決意が必要だったろうか。一人で背負うには重すぎる公爵家を、それでも守り抜こうと必死だったのだ。
それを語る彼の口調は辛そうで聞いているエステルの胸まで痛みを覚えるほどだった。
それを「さっさと手放していれば」等と、許せるわけがない。
「アレンを、クラヴェル家を悪く言わないで」
「なんだと」
「これ以上あなた方と話しているとクラヴェル家の品位が下がるわ」
はっきりと言い捨てれば、ルゼールの顔に怒りの気配が色濃く浮かんだ。
だが怒っているのはエステルも同じだ。否、アレンとクラヴェル家への侮辱を聞いてエステルの方こそ怒りが募っている。パーティーの場でなければもっと強く詰め寄り、なんだったらギデオンをけしかけて追い払ってたところだ。
それでもなんとかぐっと堪え、棘を含んだ声色で「失礼します」と告げてルゼールの横を通り過ぎようとした。
その瞬間、「この小娘が」という怒りの声が耳に届くと同時にまたもグイと肩を掴まれた。
強引に掴んで引き留めようとする。痛みを覚えかねないほどの強さ。
その手を、無遠慮に女性の肩を掴む不躾な手を、公爵家を侮辱する薄汚い手を、エステルは「触らないで!」と怒鳴り付けると共に叩き落とした。
パシンッ!と響いたパーティーに似つかわしくない高い音に、さすがに周囲の者達も気付いたのかざわと声があがる。
エメット家の使いが慌てて駆け寄り、何かあったのかと尋ねてきた。
「この方に失礼なことを言われたの。せっかくの楽しいパーティーが台無しだわ」
気分を害したと伝える。もちろんエメット家の使いには一切非が無いので、彼を責めるような事はしない。口調も声色も穏やかに。
ここで怒りに任せて無関係な使いを責めたら、それこそライラに怒鳴り散らしていたルゼールと同じになってしまう。それは何としても避けなくては。
だからこそ声色は務めて冷静を繕い、優雅に微笑んで「騒がしくしてごめんなさいね」と謝った。
そんな中、「エステル!」と声が聞こえてきた。
アレンだ。彼が慌てた様子でこちらに駆け寄ってくる。
「エステル、何かあったのか? 大丈夫だったか?」
「アレン、大丈夫よ。そんなに心配しないで。ちょっとこちらの方々とお話をしていたの」
ちらとエステルがルゼールへと視線を向ければ、彼等は一瞬気まずそうな表情を浮かべた。さすがに散々こけにしていたアレンの登場となれば当然か。
それでも一言いってやろうと考えたのかルゼールが家族を代表するようにアレンを呼んだ。
「公爵、大変残念なお話ですが、公爵が大事にしているこの娘の素性が……」
「エステルの素性?」
「えぇ、ご存じ無いようですが、この娘は貴族ではありません。公爵家に取り入ろうと貴族の娘に成りすましているのです!」
ルゼールの声はやたらと大きく、アレンにというよりは、アレンを含めてこの場に居る者達に告げているかのようだ。
いや、むしろそれが目的だろう。現に周囲はこの話にぎょっとし、中にはエステルへ疑惑の視線を向け始める者も居る。
その視線の気分の悪い事と言ったらない。同じ偽物扱いでも、『偽物だとしても』と受け入れてくれているクラヴェル家の者達からの視線とは全く別物だ。改めて、彼等が自分を好意的に受け入れてくれているのだと自覚する。
「私は縁あって公爵家に届く前にこの娘の……、いえ、本来アレン様と婚約するはずの令嬢の肖像画を見ました! 髪や瞳の色こそ同じものの、似ても似つかぬ繊細な少女だったのです!」
堂々と、高らかに、まるで演説しているようにルゼールが話を続ける。
それを聞いて、エステルは小さく「奇跡のエステル」と呟いた。屋根裏部屋にしまわれたままの、自分ではあるが儚く繊細で自分らしからぬ肖像画を思い出す。ルゼールが見たという肖像画はきっとあれに違いない。
(思ったよりも額縁の中の私は旅をしてるみたいね。お父様に肖像画の回収を急かした方が良いかもしれないわ)
そう心の中で呟く。だが流石に今はその件を後回しにし、ルゼールの話を聞いて怪訝な態度を示す周囲の様子を窺った。
疑惑の目は、半分はルゼールに、そして半分はエステルに向けられている。
エステルが偽物というルゼールの話に証拠は無い。だが突然こんな事を言い出すのだから何かしらの理由があるのだろう。と、そんな疑いの表情だ。更には引きこもり公爵ことアレンの婚約者なのだからそこに好奇の視線も加わる。
「それはつまり、僕がオルコット家に……、エステルに騙されていると?」
「えぇ、そうです。アレン様は俗世とは離れて暮らしておりましたから、お気付きにならないのも仕方ないかと。アレン様ご自身は自覚が無いのかもしれませんが、公爵家の権威は大きく、それに取り入ろうとする者は多いのですよ」
ルゼールの言葉遣いや口調は丁寧だ。だがアレンを小ばかにするような色が隠しきれていない。暗に彼の事を『世間離れしている』と言いたいのだろう。そしてアレンが世間離れしていることを改めて周囲に伝えることで、己の訴えが正しいと告げたいのだ。
この失礼な物言いにエステルは食って掛かろうとしたが、それより先にアレンが小さく「そうかもしれないな」と言い捨てた。
アレンの声に同意の色は無いが、さりとて反論の色も無い。ただ聞き流すために同意の言葉を口先で紡いだと言いたげだ。表情にも怒りの色は無く、それどころか他の感情すらも感じられない。
次いで彼はエステルへと向き直ると、「行こう」と告げてきた。……反論もしないまま。
「アレン……?」
「これ以上ここで騒ぎ立てても何もならない。伯爵家には後ほど使いを出して説明しよう」
「でも、あんなに言われたのに」
「言いたい人には言わせておけばいい。行こう、エステル」
ほら、とアレンが促してくる。
その声にもやはり感情は無く、普段は穏やかに愛を込めて見つめてくれる瞳も、今はエステルを捉えてはいるものの何も宿っていない。
まるでクラヴェル家を訪れたばかりのアレンのようではないか。好意も嫌悪も示さず、義務的に、それでいて失礼には感じない程度に接してくる。
どうして、とエステルは小さく呟き、それでもアレンに促されるまま歩き出した。
だがその去り際に聞こえてきた、
「引き籠り公爵などと呼ばれて、挙げ句にどこの女とも知れぬ娘を家に引き入れるとは……。亡き公爵夫妻が知ったらどう思うか」
という鼻で笑うようなルゼールのこの言葉に、エステルはカッとなって振り返った。
アレンはこの言葉すらも聞き流そうとしているようだが、流石に今退いたりなど出来ない。退いて良いわけがない。
「どう思うか、ですって? アレンが立派になったと誇って、素敵なお嬢さんとの縁談を喜ぶに決まってるじゃない!」
エステルが断言すれば、言い返されるとは思っていなかったのかルゼールを始め彼の妻や娘までぎょっとした表情を浮かべた。
今のエステルにとってはその反応すらも不服だ。これ以上見ている気にもならない。
だからこそエステルはアレンの腕をぐいと引き、「行きましょう」と彼を急かして歩き出した。




