20:アレンと『本物のエステル』
屋根裏の作戦会議を終え、エステルは屋敷の大広間に向かうと壁に掛かっている時計を見上げた。
時刻は夕刻前。この時間アレンはどこに居るかと考えを巡らせ、屋敷の外へと出る。
彼は仕事終わりに庭園を散歩することが多い。レディと並んでゆっくりと日が暮れる景色を眺める時もあれば、足元ではしゃぎまわるギデオンを構ってやるときもある。そして時折はエステルと楽しく話しながら過ごすのだ。
今日も居るかしら、とエステルが庭園を覗けば、黒薔薇が咲き誇る庭園をゆっくりと歩くアレンの後ろ姿があった。
日は落ち始めあたりは既に薄暗い。空を見上げればポツリポツリと星が輝きだしており、きっとあっという間に夜の闇が覆い尽くすだろう。
そんな薄暗い庭園を歩くアレンのなんと様になっていることか。濃紺の髪を風に揺らし、同色の上着の裾を翻し、まるで夜の闇が広がるのを彼が先導しているかのようだ。
「素敵……」
エステルが思わず呟いた。
そうしてゆっくりと、彼が広げる夜の闇を崩さないようにそっと近付いていく。後ろから声を掛けたら驚くかしら、と、悪戯心が湧き上がり笑いそうになるのを何とか堪える。
だがエステルが声を掛けるより先にアレンがくるりと振り返った。一瞬驚いたように目を丸くさせ、次いで愛おしそうに目を細めて「エステル」と名前を呼んでくれる。
「どうしたんだ?」
「あのね、肖像画の事なんだけど……。早い、抱きしめるのが早すぎるわ、アレン」
用件を言い終わらぬ内に、それどころか『肖像画』の『しょ』のあたりでアレンに抱きしめられ、さすがにエステルが彼の腕の中で訴えた。なんて優れた反射神経だろうか。
だがアレンは腕を放す気はないようで、エステルを抱きしめたまま「きみを失いたくないんだ」と告げてくる。普段よりも少し不満そうな口調。なんだかこれでは子供が駄々をこねて抱き着いているみたいで、思わずエステルは小さく笑みを零し、諭すように彼の背中を軽く叩いた。
いったいどうして、これほど想ってくれるアレンの元を離れられるというのか。
頼まれたって離れられない。
「アレン、大丈夫よ。ちょっと話をしたいだけ」
「……エステル」
「そんな悲しそうに私を呼ばないで。貴方がどうして私に婚約の申し出をくれたのかを聞きたかったの」
教えて、とエステルが促す。
彼の腕の中からスルリと抜け、それでいて手を繋ぎながら。これなら庭園を散歩しながら話が出来る。
だがアレンは眉根を寄せたまま歩き出そうとしない。難しい顔だ。
「婚約の申し出……。なぜ今になってそんな事を?」
「少し気になったの。だってアレンは肖像画を見るまで私の事を知らなかったでしょう?」
アレンは博識で記憶力も優れており、その才知はさすが公爵家を一人で支えているだけある。
なので『オルコット家』という男爵家があること自体は知っていたかもしれない。もっとも知っていたとしても記憶の片隅に留めておく程度だ。同じ貴族とはいえあまりにも差がありすぎる。
オルコット家がどんな一族なのか、田舎村でどんな生活をしているのか……。そして一人娘のエステル・オルコットがどんな少女なのか。
肖像画を見るまでアレンは知らなかったはずだ。
「でも私に婚約を申し込んでくれたのよね。どこに惹かれたの? 決め手は何だった?」
「それは……」
「貴方からの手紙、私のこと全く書いてなかったじゃない。やれお付きは要らない、必要なものはこちらで用意する、極力少人数で……って、そんな事ばっかり」
普通であればどこに惹かれて婚約を申し込んだかを書くはずだ。いくらそこに愛の無い政略結婚だったとしても、一つや二つ、当り障りのない言葉を紡ぐはず。だがアレンからの手紙はエステルへの求婚をしておきながら、肝心のエステルについての言葉は書かれていなかった。
おかげでエステルは父と共に何度も手紙と封筒を確認してしまったのだ。思い返せば十回は確認したと思う。……いや、二十回ぐらい見直したか。
それをエステルが話せば、アレンが困ったように眉尻を下げた。
エステルが手を引けば歩きはするものの足取りは遅く、濃紺の瞳は困惑を露わに他所へと向かう。黒薔薇の庭園の中に逃げ道は無いかと探しているのだろうか。
だが退路は無いと悟ったのか深く息を吐くと「エステル、すまない」と謝罪の言葉を口にしてきた。
「アレン、別に私怒ってるわけじゃないの。私のどこに惹かれたのかを知りたかっただけよ。……それが分かれば」
それが分かれば、本物のエステル・オルコットだと証明できるかもしれない。
そうエステルが言い掛ける。
だがそれより先に、アレンはスルリと繋いでいた手を放すと「先に屋敷に戻るよ」と告げて踵を返して歩き出してしまった。
濃紺の上着の裾が翻る。先程まで足取り遅く歩いていたというのに、今は普段通り、むしろ普段以上に歩く速度が速い。
あっという間に彼の姿は屋敷へと消えてしまい、エステルは小さく溜息を吐いた。
◆◆◆
「エステルが、僕が『本物のエステル』をどう思っているかを聞き出そうとしてきたんだ」
そうアレンが告げたのは、庭園の散歩を無理やりに切り上げた直後。
罪悪感と焦燥感を抱いて屋敷の通路を歩いている途中、話しているドニとライラを見つけ、「相談がある」と二人を執務室へと招いた。
庭園でエステルに声を掛けられ、二人で過ごそうとし……そして彼女からの質問に答えられず逃げて来たのだ。それを説明すれば、ドニが眉根を寄せ、ライラは困ったように眉尻を下げた。
「他でもないエステルを前に、エステル・オルコットに婚約を申し込んだ理由など言えるわけがない。なのにどうして……」
エステルの前で『エステル・オルコットに婚約を申し込んだ理由』を説明するのは、つまり惚れた相手の目の前で他所の女の話をするということ。胸中複雑どころではなく、後ろめたさしかない。――そもそもが間違えており全く感じる必要のない後ろめたさなのだが、それはさておき――
なにより不思議なのは、話してくれと他でもないエステル本人が求めてくるのだ。それも「どうして惹かれたの? どこが良かったの?」と『エステル・オルコット』の魅力を語れと言って寄越す。
「どうしてエステルはそんなことを知りたがっているんだ……」
「エステル・オルコットを名乗るために必要な情報と思っているのでしょうか。もしかしたら、彼女はエステル・オルコットについてあまり詳しくないのかもしれませんね。我々に疑われていると気付き、うまく偽るために情報を集め出した……?」
「そんな事は必要ない。なのにどうして……」
アレンが深い溜息を吐き、肩を落としながら棚にある時計へと視線をやった。
そろそろ夕食の時間だ。エステルと二人で食事をし、今日あったことや明日の予定を話す楽しい時間。
だがもしもその場で話題を掘り返されたら……。そう思うとどうにも気分が沈む。
だが次いで聞こえてきた「なるほど」という声に反射的に顔を上げた。
声を発したのはライラだ。彼女は一人合点がいったと言いたげに頷いている。これにはアレンも不思議そうな表情に変え、「ライラ?」と彼女を呼んだ。ドニも同様、どうしたのかと彼女に視線をやっている。
そんな男二人の視線を受け、ライラはコホンと咳払いをすると胸を張った。「女心ですよ」という彼女の声色は随分と得意げだ。
「アレン様もドニも、女心を理解していませんね。エステル様はアレン様から求婚された『本物のエステル様』に嫉妬しているんです」
「嫉妬……。エステルが、エステル・オルコットにか?」
「はい。嫉妬し、そしてアレン様からエステル・オルコット様について聞くことにより、アレン様の理想に近付こうとしているんです」
そうに違いない、とライラが断言する。
対してアレンとドニは顔を見合わせた。「そうなのだろうか」「そうなのでしょうか」と声にこそ出さないが表情で尋ね合う。
だが今この場に居る者の中で女心を理解出来るのはライラだけだ。つまり彼女の言う事が正解なのだろうか……。
そこまで考え、アレンが「そういえば」と小さく呟いた。
思い出すのは、先程エステルと話した時のこと。
言及され、何も言えずに踵を返して逃げる直前。彼女は……、
『アレン、別に私怒ってるわけじゃないの。私のどこに惹かれたのかを知りたかっただけよ。……それが分かれば』
と言っていた。話の途中で切り上げてしまった申し訳なさが湧くが、それと同時に疑問が浮かぶ。
『それが分かれば』とエステルは何かを言いかけていた。あの言葉の後にくるのは……。
それが分かれば、エステル・オルコットに成りすますことができる。
それが分かれば、アレン・クラヴェルに求婚されたエステル・オルコットに近付ける。
「……そうか、エステルはそんな事を考えていたのか」
ポツリとアレンが呟いた。
エステルがなぜあんなことを言い出したのか理解し、そして理解すると共に安堵し、同時に話を無理に切り上げてしまった事への申し訳なさが浮かぶ。
エステル・オルコットの身代わりをしている彼女のことだ、本物の話題を出すのはきっと勇気がいっただろう。悩み、不安を抱き、それでも今後のことを考えて話を切り出したのだ。
それなのに自分は……とアレンが再び溜息を吐いた。
勇気を出して向かい合おうとしてくれたエステルに対して、自分は話をしたくないと逃げてしまった。
今だけではない、昔から向き合うことを恐れて逃げてばかりだ。
「エステルとはきちんと向き合わなければ……。なぜエステル・オルコットに婚約を申し込んだのか、全て話そう」
決意を瞳に宿して告げるアレンに、ライラとドニもまた真剣な表情で頷いた。




