19:奮闘と玉砕と疑問
屋根裏で奇跡のエステルと再会した数日後、エステルは再び屋根裏に居た。
今回はハンカチではなくクッションを置き、肖像画の前に座る。今日も奇跡のエステルは繊細で儚げだ。
「……己が己であることを証明するって、こんなに難しいのね」
盛大な溜息を吐き、用意しておいた紅茶を一口飲んだ。
哲学めいた言葉だ。自己の証明、深いテーマである。ここに学者が居ればふむと考え込み、そして医者が居ればエステルの心の悩みを聞き出そうとするだろう。
もっとも、エステルの言う『己が己であることの証明』とは、哲学的なニュアンスも無ければ精神的な悩みでもない。
そのまま文字通り『エステルがエステル・オルコットであることの証明』だ。言い換えれば『エステルがエステル・オルコットの偽物ではないことの証明』でもある。
これがなかなかどうして難しく、あの日以降なにかと奮闘しているものの悉く玉砕し、こうやって奇跡のエステルに愚痴りにきていた。
「アレンは全く話を聞こうとしないの。それどころか話そうとすると抱きしめて、私を失いたくないからそれ以上はやめてくれって言ってくるのよ。ずるいわ、抱きしめられてあんな声で願われたら応じるしか無いじゃない。アレンが私を大事に思ってくれているように、私だって彼を大事に思ってるんだもの。悲しい顔なんてしてほしくないわ」
話をさせまいとする時のアレンの表情は切なげで、見ているこちらの胸まで痛みを覚える。
堪らずエステルも彼の背に腕を回し、彼を癒すように抱きしめて返すのだ。時には背を優しく擦り、時には彼の胸元に擦り寄る事もある。頬を撫でて慰めた時など彼はまるで猫のように心地よさそうに目を細め、そして頬を撫でるエステルの手をそっと掴むと指先にキスをしてくれた。
そんな彼に絆され、話を終いにし、結果『本物のエステル』についての誤解はいまだ解けずにいる。
まったく、とエステルが不満を露わに溜息を吐いた。……一応、不満である。惚気ている気はない。
仮に話を聞いている人物が喋れたのなら「惚気はそこまで」とでも言っただろう。だが生憎と聞いているのは綺麗なエステル、つまり肖像画、優しく儚く微笑むだけである。
「ドニは何を言っても『アレン様の決定こそ絶対です』としか言わないし、ライラに至っては話をする前から警戒するようになっちゃったの」
今朝方、エステルが部屋から出て屋敷の通路を歩いていると、少し離れた先の曲がり角からライラが顔を覗かせていた。
いつもなら「おはようございます、エステル様」と微笑んで近付いてくるのに、どういうわけか顔だけ出して動こうとしない。それも泣きそうな表情だ。
見兼ねたエステルが「もう『本物のエステル』の話はしないから」と宥めてようやく、彼女は晴れやかな表情に変わり「おはようございます!エステル様!」と嬉しそうに近付いてきたのだ。
他にも、と玉砕の数々を振り返る。
せめて一人ぐらいはと望みを掛けてメイドや庭師にと話を持っていったが、クラヴェル家で働いている者達みんなが同じ状況なのだ。話をしようにも、ある者は白々しく誤魔化して去っていき、ある者は「エステル様こそエステル様です」と返してくる。
主人であるアレンの言葉に従い屋敷に仕える者達の言動が一貫している。そう言えば聞こえは良いが、エステルからしてみれば堪ったものではない。
「あぁもう、どうやって説明すれば良いのかしら。ねぇ奇跡のエステル、どう思う?」
何か良い策はない? とエステルが尋ねる。……奇跡のエステルこと肖像画の自分に。
当然だが彼女からの返事はない。もちろん「そもそも貴女のせいでもあるのよ」と責めたところで謝罪も無い。
自棄になって「あーあ、もう!」と声をあげ、ごろんとその場に横になった。貴族の令嬢、それも未来の公爵夫人が不貞寝とははしたないが、それほどまでに参っているのだ。
もっとも、この姿もまた貴族の令嬢らしからぬもので、誰かに見られたら「やはりエステル様は……」と勘違いに拍車を掛けそうなものだが。
「……でも『偽物のエステル・オルコット』としてだけど、みんな私の事を好きでいてくれているのよね」
クラヴェル家の者達はエステルの話を聞こうとはしてくれない。
だがそれは嫌悪から来るものではない。むしろエステルを好いて大事に思っているからこそ、彼等は聞こうとしないのだ。
有難い話ではないか。
だがそれゆえに話が難航しているとも言える。
アレンを始め、クラヴェル家の者達はみんなエステルを大事に思ってくれている。
もちろんそれは今ここにいるエステルの事だ。この屋敷内においては『エステル・オルコットを名乗る偽物』である。
そして彼等はエステルを大事に思うからこそ、『今いるエステルが偽物で、本物のエステル・オルコットは別に居る』という在りもしない事実を直視するまいとしているのだ。それを認めて真実を暴いてしまえば今いるエステルを失うと考えている。
更に厄介なのは、彼等はみなエステルが「私こそが本物のエステルよ」といくら主張したとしても、それを『偽物が疑われまいとしている』と考えてしまうのだ。
ゆえに誰もが騙されたふりをして「えぇそうですね」と同意する。……同意してくれる。
「お父様とお母様に来て証明してもらう? それともアレンを村に連れていった方が早いかしら。……でもどっちも『皆で口裏を合わせている』と思われそうね」
説得以外にも方法があるかもしれない。そう考え、エステルがあれこれと考え案をあげる。
時折は奇跡のエステルに対して「どうかしら」と意見を求めるが相変わらず彼女からの返事はない。……返事があったら、エステルは悲鳴をあげて屋根裏から逃げるだろうけれど。
「オルコット家とクラヴェル家に共通の知人が居れば話は早いんだけど……」
誰かいるかしらと考えを巡らせるも生憎と誰の顔も思い浮かばない。
なにせオルコット家は田舎村の男爵家。村での生活が心地良く尚且つ貧しいため外に出ることは殆ど無く、ゆえに社交界に身を置くような貴族に知り合いは殆どいない。せいぜい片手の人数だ。その片手の人数もさすがにオルコット家ほど貧しいとは言わないが、社交界では下の下かよくて下の中程度。
上の上どころか特上であるクラヴェル家との繋がりなどあるわけがない。引き合わせてエステルを証明して貰ったとしても、きっとアレンは「オルコット家に頼まれたんだな」とでも考えて終わりだろう。
どうしたものか……と考え、ふとエステルは奇跡のエステルに視線を向けた。
儚く繊細、まさに深窓の令嬢。
エステルだって、地下室に閉じ込められ、食事はパンの欠片と薄いスープだけを与えられ、なおかつ萎びた花を見つめる生活を三日続ければこんな儚さを出せるだろう。だが現状その予定はない。
仮に儚さを再現しようと地下室に閉じ籠ったとしても、きっとアレンは「エステルとなら地下室も悪くない」と同行するだろう。
そしてたっぷりの食事とお菓子をライラとドニが運び入れるに違いない。あとギデオンとレディも来るだろうし、楽しく賑やかで萎びた花も再び咲き誇りそうだ。
(奇跡のエステルが奇跡すぎるのが問題なのよね。……そういえば、アレンはどうして奇跡のエステルに婚約を申し込んだのかしら)
そもそもアレンはこの肖像画を見てオルコット家に求婚してきた。
だが手紙にはエステルを褒める言葉は一つも無く、肝心の肖像画も屋根裏にしまいっぱなしだ。
どこに惹かれて求婚してきたのだろう?
肖像画とは違うエステルが来て――実際は同じエステルなのだが――肖像画の方のエステルを惜しんだりはしなかったのだろうか?
「まずはアレンが『本物のエステル』をどう思ってるかを知るのが先ね」
それが分かれば肖像画の誤解も解けるかもしれない。
そう考え、エステルは奇跡のエステルに別れの挨拶を告げ、屋根裏を後にした。
※19話が二重に投稿されていたので訂正しました。
コメントありがとうございました!