18:私が私であることの証明
まずエステルが向かったのはアレンのもとである。
彼の誤解を解いて、そして自分達が何一つ問題のない相思相愛であることを教えてあげねば! と、そう考えたのだ。
そうして自室で仕事をしていたアレンに全てを話したのだが……、
「そうだな、きみはエステル・オルコットだ」
と、彼は優しく微笑むだけだ。
次いで立ち上がり、エステルの目の前までくるとそっと肩に触れてきた。
ゆっくりとソファに座る様に促してくる。それに従いポスンとソファに座れば彼も隣に腰を下ろした。
「ちょうど休憩を取ろうと思っていたんだ。一緒にお茶をしようとライラに探しに行かせていたんだが、まさかエステルの方から会いに来てくれるなんて」
「流れるように話題を変えてきたわね。アレン、話を変えないで。私はエステル・オルコットなの、屋根裏にしまわれている肖像画は私を描いたものよ」
「屋根裏……。あぁ、また二人で屋根裏で過ごしたいな。屋根裏なんて薄暗い物置だと思っていたが、きみと一緒だとどこも明るく暖かく思えるから不思議だ」
「アレン!」
もう!とエステルが痺れを切らしアレンを咎める。
それを受けて彼は困ったように眉尻を下げ、僅かに低い声で「エステル……」と呼んできた。
彼の手がエステルの手を掴む。優しく握り、そしてゆっくりと持ち上げると己の口元へと引き寄せ指先に自らの唇で触れた。目を伏せ愛おしむように手にキスをしてくる彼はまるで物語のワンシーンのように様になっており、エステルの胸が高鳴る。
「エステル、どうかそれ以上この話をしないでくれ。僕にとってきみが、いや、きみこそがエステル・オルコットなんだ」
優しかったアレンの声色は徐々に悲痛そうな色を含み始め、乞うようにエステルを見つめてくる。見ているこちらの胸まで痛くなる声と表情だ。
仮にこれが別の話題だったならエステルはすぐさま別の話題に切り替えていただろう。彼の気持ちが晴れて、そして楽しくて微笑んでくれるような、そんな話題だ。
だが今は退いてはいけない。
そう己に言い聞かせ、心を鬼にし、エステルは改めるようにアレンを呼んだ。
「駄目よ、アレン。ちゃんと聞いて、そして真実を知ってほしいの」
「真実……。きみがエステル・オルコットであること以外の事実なんてあるのか?」
「無いの、ビックリするほど他の事実は無いの。それが事実なの。でもアレンの言う事実はちょっと違うのよ。結局私はエステル・オルコットなんだけど、皆が言うような過程でのエステル・オルコットじゃないの。単純に私はエステル・オルコットで、そしてエステル・オルコットは私だけなの」
「……そうだな、きみだけがエステル・オルコットだ。さぁお茶にしよう、エステル」
そろそろライラが戻ってくる、そうアレンが告げると、それとほぼ同時に扉がノックされた。
ゆっくりと扉が開かれ、ティートロリーを押したライラが顔を覗かせる。彼女は「アレン様、エステル様はどこにも……」と言いかけ、ソファに座るエステルを観るや「あら」と目を丸くさせた。
アレンに命じられエステルを探していたというのに、そのエステルがアレンの部屋に居たのだ。まるで手品でも見せられたかのような表情の彼女にエステルとアレンが苦笑を浮かべて詫びた。
「では今から紅茶の準備を致しますね。厨房に行ったら、シェフがちょうどマフィンを焼いておりましたのでお持ちしました」
「マフィンもあるの? 嬉しい。ところでライラ」
「はい、なんでしょうかエステル様」
「みんなが言っている『本物のエステル』なんだけど、あれね、私のことなの」
「……っ!」
エステルの単刀直入な言葉にライラが息を呑む。それどころか分かりやすくビクリと肩を震わせ、裏返った声で「なんのことでしょう」と返してきた。これも正確にいうのならば「な、なな、なんのことで、しょうっ……」である。更には手にしているティーポットが小刻みに揺れている。
全身で動揺を表しつつも言葉では白を切ろうとするライラを見て、次いでエステルはアレンへと視線をやった。
「これを見てどう思う?」と視線で問えば、言わんとしている事を察したのか彼は気まずそうに他所を向いてしまった。
「ライラ、落ち着いて。貴女が必死に隠す必要は無いの。だって私こそがエステル・オルコットなんだもの」
「そ、そ、そうです。エステル様こそがエステル様で、私は『本物のエステル様』なんて存じ上げておりません……! あぁ、紅茶に入れるお砂糖を忘れてしまいました、取ってまいります!!」
慌てた様子でライラが部屋を出ていく。
砂糖を取りに行くと言っていたが、ティートロリーには陶器の砂糖入れがある。きっとこの場から逃げるための嘘だ。……ライラの場合、間違えて砂糖入れに塩を入れて持ってきてしまった可能性もあるが。
なんにせよライラは逃げていった。彼女が出ていった扉をエステルがじっと見つめれば、アレンがそっと肩に手を置いてきた。
「エステル、もうこの話はやめよう。誰もきみを疑ってなんかいない、だから話をする必要なんて無いんだ」
「……でもね、アレン」
話を、と言いかけたエステルを、アレンが優しく抱きしめてきた。
先日の苦しさすら覚えかねない抱擁とは違う。ゆっくりと優しく、まるで繊細な細工を施された芸術品に触れるように優しい抱擁。
「分かってくれ、エステル。事実を口にして君を失うくらいなら、僕は何も言わない。君を失いたくないんだ」
諭すように告げてくるアレンの言葉に、エステルは小さくアレンの名を呼び……、
(真実を知っても何も失わないわ、アレン。……まぁ、これといって何か得るわけでもないんだけど)
そう心の中で呟き、彼の背に腕を回した。
◆◆◆
優しく抱きしめてくるアレンを宥め、そして戻ってきたライラにお茶を用意してもらい休憩時間を楽しむ。
そうしてアレンが再び仕事に戻るタイミングで彼の執務室を後にした。
「仕方ないわ。アレンへの説明は後にしましょう。そもそも彼とは相思相愛なんだもの、事実を知るのが後になっても問題ないわ」
アレンの執務室を出て、自分に言い聞かせながら歩く。
『本物のエステル』については何一つ誤解を解くことは出来なかったが、彼が自分をどれだけ大事に思ってくれているかは伝わってきた。
これならば真実を知るのが後回しになっても何ら問題無いだろう。むしろ全てが解決した際には、今日のことを持ち出して彼を揶揄っても良いかもしれない。
そんな事を考えて屋敷の通路を歩き、ふと見覚えのある背中を見つけた。
皺ひとつない執事服を纏い颯爽と歩くその後ろ姿、あれはドニに違いない。どうやらギデオンのブラッシングは終わったようだ。
「ドニ、ちょっと良いかしら」
小走り目に追いかけて声を掛ければ、彼がこちらを振り返って恭しく一礼してきた。
「ハンカチは見つかりましたか?」
「えぇ、屋根裏にあったわ。それでさっきの話なんだけど、皆が何を隠しているか分かったわ」
「……さようでございますか」
一瞬、僅かだがドニが言葉を詰まらせた。だがすぐさま普段通りの落ち着いた受け答えをするあたりは流石だ。
全身で動揺し、裏返った声で白を切り、そして見え透いた嘘をついて逃げだしたライラとは大違いである。
「なんのことかは皆目見当もつきませんが、エステル様の悩みが晴れたのならようございました」
「悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなるくらい単純な話だったの。だって皆が隠している『本物のエステル』は私なんだもの」
「……なるほど」
エステルの話にドニが一言返す。どうやら納得してくれたようで数度頷いている。
彼が理解してくれたのなら話は早い。彼に説明をしてもらえば良いのだ。
失うことを恐れて話を聞くまいとしていたアレンも、きっとドニが話せば落ち着いて聞いてくれるはずだ。ライラや他の給仕達も同様。
解決の糸口を見つけ、良かった、とエステルが安堵の息を吐いた。……のだが、
「クラヴェル家はアレン様が治めております」
という彼の言葉に、ピクリと眉根を寄せた。
いったい今なぜそんな事を言うのか……と、ドニを凝視する。もっとも彼の言う言葉自体は理解出来るので「そうね」と肯定はしておいた。少しばかり怪訝な色合いを含んだ声になってしまったが。
「このクラヴェル家において、アレン様の決定こそ絶対です」
「確かにそうだわ」
「アレン様が白いと仰ればレディも白猫に、黒いと仰ればギデオンも黒犬になります」
ドニの発言に、エステルはパチンと一度目を瞬かせた。突拍子が無いにも程がある話だ。
レディは黒猫だしギデオンはクリームカラーで、誰が何と言おうとそれが覆るわけがない。今の時期ギデオンは換毛期で毛が延々と抜けているが、抜ける毛もクリームカラーなら新しく生えてくる毛もクリームカラーである。
だがそれでも、他でもないアレンが言えば事実になるということだ。
少なくともこの屋敷の中では彼が言い出したが最後、レディは白猫で、ギデオンは黒犬として扱われるようになるのだろう。
「アレン様の発言は我々にとって絶対です。あの方が仰ればレディは白猫に、ギデオンは黒犬になり、……そして」
「そして?」
「アレン様が仰れば、誰であろうとエステル様になります。本物もなにもない、アレン様がエステル様とお呼びする貴女様こそ、クラヴェル家にとってのエステル様です」
きっぱりとドニが告げてくる。
これにはエステルもくらりと眩暈を覚えた。額を押さえて呻けばドニが大丈夫かと案じてくるが、それに返す余裕はない。
「私はエステルなのよ……。誰が何と言おうと、いえ、誰も何も言わなくたってエステルなのよ……」
そうブツブツと呟き、エステルは覚束ない足取りでその場を後にした。