12:嵐の前夜
今夜も月明かりのもと、夜の庭園を二人で過ごしていた。
他愛もない会話をし、時にはお互い言葉を止めて庭を眺める。黒薔薇が月明かりを受けてなんて綺麗なのだろうか。沈黙は全く苦にならない。
そんな二人の間を、ザワと生温い風が通り過ぎていった。一際強い風に黒薔薇達がまるで動物のように揺れる。
「明日の夜は嵐になるらしい」
「嵐?」
「あぁ、ドニから報告があった。だがどうせ一晩程度だ」
気にする程ではないよ、とアレンが言い切る。
明日の夕方頃から天候が悪くなるらしいが、嵐は一晩で通り過ぎる程度の規模。長引いても明日の昼にはただの雨になっているという。庭師は警戒しているらしいが、屋敷の者達はさして気にしていない。せいぜい嵐が去った後に庭園の掃除をどうするかを話し合っているぐらいだ。
だがその話に、エステルは「嵐!」と驚き声をあげた。アレンが目を丸くさせる。
「窓にはちゃんと板を打ち付けたの? 屋敷の明かりが消えちゃったら夜は真っ暗だわ!」
「大袈裟だな。屋敷は見た目こそ古いが造りはしっかしりしている。エステルが気にするほどの事じゃないよ」
「一晩なら備蓄は良いとして、非常時のランタンは!? ちゃんと用意しているの?」
これは大事だとエステルが慌てふためく。
対してアレンはこの気迫に気圧され、求められるままに屋敷内の備蓄や備品を話しだした。
元よりドニから報告されていたものだ。アレン自身これで十分だと思っている。例年と変わらぬ備えであり、これで問題が起こった事は一度としてない。明かりだって同様、どんな暴風雨でも屋敷の明かりが全て落ちた事は今まで一度も無かった。
だというのにエステルは真剣な顔付で話を聞き、そして「全然足りないわ!」と悲鳴じみた声をあげた。
「どうしてそんなにのんびり構えていられるの!」
「落ち着いてくれ、エステル。ただの嵐だ」
「だって嵐よ! アレン、貴方は嵐の恐ろしさを知らないのよ。嵐が来て、窓が割れるんじゃないかってくらいに揺れて。そして……」
嵐の日の事を思い出し、エステルがふるりと震えあがる。
その迫力にすっかりとアレンも当てられ、ゴクリと生唾を飲むと「そして……?」と先を促した。
「そして、屋根が端から剥がれていくのよ……」
「屋根が……!?」
「聞こえてくる音が『メキメキ』ならまだ平気なの、でも『ビシッビシッ』っていいだしたらそろそろ限界ね。いつくるかしらと天井を見上げていると、一際大きな『メシャッ!』って豪快な音が響いて、風の音が今までより鮮明に聞こえてくるの。その瞬間に家族皆で『一枚いったわね』と剥がれた屋根に想いを馳せるの」
あの瞬間の哀愁漂う空気と言ったらない。そうエステルが真顔で語ればアレンの眉間に皺が寄った。
だが嵐の恐怖はそれだけではない。恐る恐る外の様子を窺ったら隣家の扉が敷地内に落ちていたり――翌朝大慌てで隣家に行ったが無事だった――、生き物が避難してきたのか屋根裏でずっと不思議な鳴き声が聞こえてきたり――結局あれが何の生き物だったのかはいまだに分からない――。
あの田舎村ではたった一晩でも嵐は脅威だった。嵐の予報が入ると、老若男女問わず全員が知恵と力を合わせて出来うる限りの対策を取ったのだ。
「それほど嵐は怖いのよ、なのにほんのちょっとの備蓄と備品で大丈夫なんて甘いわ。甘すぎる。お昼に食べたプティングより甘々よ」
「……そうか分かった。それなら明日の朝、ライラを連れて必要なものを買い揃えてきてくれないか?」
頼む、とアレンに告げられ、エステルは深く頷いて返した。
使命感が胸に沸く。任せて! と己の胸を強く叩けば、アレンが楽しそうに笑い……、この表情も甘く考えている証だと咎められると考えたのか慌てて表情を真剣なものに戻した。
◆◆◆
「……どうやら随分と質素な生活をしていたようだ」
そうアレンが呟いたのは、エステルを部屋まで送り届け自室に戻った後。
ソファに腰掛け彼女との会話を思い出し深く溜息を吐けば、紅茶の手配をしていたドニが不思議そうに「質素な生活とは?」と尋ねてきた。
「エステルだ。嵐がきたら屋根が剥がれるような家に住んでいたらしい」
「や、屋根が……!?」
アレンからの話に、ドニが息を呑む。
ドニは貴族ではない。だが公爵家に仕えるだけの教養はあり、それを受けられるとなれば一般市民の中でも上位に入る。貴族ではないが相応の出と言えるだろう。
もちろん実家の家屋はしっかりとしたもので、嵐が来ても屋根は剥がれない。
「それは……。小屋ではなく家屋の話ですか?」
「あぁ、家族皆で住む家屋のようだ。それに隣家の扉が飛んだり、野生生物が屋根裏に入り込んだりしたらしい」
「田舎どころか未開の地の話では……」
アレンもドニも、オルコット家は田舎村の男爵家だということは把握していた。
だがそのオルコット家の令嬢の身代わりとしてきたエステルは、どうやら田舎どころの話ではない過疎地の出らしい。
可哀想に、とアレンが小さく呟いた。
(あの活発で太陽のように明るい少女は、嵐のたびに小屋のような家で家族と身を寄せ合って震えていたのか……)
その光景を想像すればなんとも言えない気持ちになる。
それでもエステルは明るさを失わずにいるのだ。鬱蒼として幽霊屋敷にお似合いだと思っていた黒薔薇の庭園も、彼女が立つだけで眩く美しい光景に思える。
つい先程まで共に過ごしていた少女の姿を思い出し、アレンが小さく吐息を漏らした。溜息とは違う、胸の内の感情を吐露するような吐息だ。
「明日、エステルはライラを連れて朝から街に向かう。きっと大量のランタンや備蓄を買ってくると思うから、戻ってきたら屋敷に運び入れるのを手伝ってやってくれ」
「かしこまりました」
アレンの指示にドニが頭を下げる。
だがその表情は随分と浮かないもので、気付いたアレンが「どうした」と発言を促した。
「……失礼を承知で申し上げますが、このままオルコット家の思惑通りというのはやはり」
腑に落ちないと言いたげにドニが話す。
それに対してアレンは「良いんだ」と言葉を被せることで彼の話を止めた。
「彼女の素性が何であろうと、僕にとっては今この屋敷で共に暮らしているエステルこそが本物のエステルだ」
けして圧を掛ける口調ではないが、それでも自分の考えは確固たるものだと訴えるはっきりとした言葉。
長い付き合いのドニがそれを察しないわけがなく、深く息を吐くと「さようですか」と静かに返した。
そんな夜が明け、更に時刻が過ぎて夜……、
「ほらご覧なさい!!」
と、真っ暗になったクラヴェル家の屋敷の中、エステルの勝利宣言が高らかに響いた。