11:迷いトカゲと加速する勘違い
庭園でのやりとり以降、アレンは積極的にエステルと過ごす時間を作ってくれるようになった。
朝は一番に挨拶をし、昼食後に二人でお茶をする。その後はアレンはクラヴェル家当主としての執務に、エステルは公爵夫人になるための勉強にと励むが、その最中に互いの姿を見つけると手を振り微笑み合う。
夕食後も二人で過ごし、三ヵ月が経つ頃には寝る前に二人で夜の庭園を散歩し、エステルの部屋の前まで送り届けてもらうのが日課となっていた。
そんな二人を、誰もがみな心から祝福していた。
なんてお似合いなんだろう、見ているとこちらまで幸せになる、そう口々に話す。
……そして同時に口にするのが、「たとえエステル様が偽物でも」という言葉だ。
その日、エステルは屋敷を散歩していた。
どこもかしこも綺麗に手入れをされており、歩いているだけで気分が晴れやかになる。黒と濃紺色をベースにした屋敷内の装飾も見事なもので、華美過ぎず厳かさを漂わせ、そして濃い色からくる重みや圧迫感を与えないよう絶妙な配置をされている。見事としか言いようのないセンスだ。
そんな屋敷内を歩いていると、一室から高い声が聞こえてきた。
女性の悲鳴だ。いったい何事かと覗き込めば、一人のメイドが部屋の隅に身を寄せている。
まるで幽霊にでも遭遇したかのような怯えようだが、彼女の前には幽霊はおろか人の姿もない。だが一点をじっと見つめ、恐ろしくて動けないと言いたげだ。
「どうしたの?」
メイドを刺激しないよう声を潜めて話しかけ、部屋の中へと入る。
だがそれに待ったが掛かった。怯えていたメイドが震える声でエステルを止めてくる。なんて悲痛な声だろうか。
もしかしたら本当に幽霊がいて、自分には見えていないだけなのかもしれない……と、そんな事すら考えてしまうほどだ。もしそうならば幽霊を素通りして入ってこようとする自分はさぞや滑稽だろう。
「エステル様、お逃げください。トカゲが……!」
「トカゲ?」
「はい……。窓のところに……」
震えながらメイドの一人が窓を指さす。
そこには確かに一匹のトカゲ。綺麗に磨かれた窓に張り付くとまるでトカゲが宙に浮いているかのようではないか。
あら本当、とエステルが呟いた。森に囲まれた屋敷ゆえに庭で見かけることはよくあるが、屋内で見るのは初めてかもしれない。
「きっと迷い込んできたのね。でもここは危険よ、冷酷な猫に、暴れまわる恐ろしい犬もいるの。尻尾が何本あっても足りないわよ」
冗談交じりにトカゲに告げ、掃除道具のちりとりを借りて横にそっと沿わせて窓のふちをコンコンと指で叩いた。
窓の振動に驚いたのか、それともちりとりが救いの手に見えたのか、トカゲがソソソと窓を張い進んでちりとりに納まる。そのままゆっくりと窓を開け、身を乗り出し腕を伸ばしてちりとりを地面に近付ければ、理解しているかのようにトカゲもそっと地面に降りていった。
すぐさま走り出して草陰に入り込む姿はまるで九死に一生を得たと言いたげだ。ここで振り向いてお辞儀でもしてくれれば面白いのに、そんな光景を想像してしまう。
「エステル様、ありがとうございます! トカゲだけはどうも苦手で……。助けがくるのを待っていたんです!」
メイドが駆け寄ってきて感謝してくる。
抱き着くどころか拝みだしそうな勢いを見るに、よほど苦手だったのだろう。もしかしたら彼女にとっては幽霊よりもトカゲの方が怖いのかもしれない。
だがエステルからしてみればただのトカゲだ。毒も無ければ凶暴性も無い種類で、恐れるほどのものでもない。
「そんなに感謝しなくて平気よ。ただの小さいトカゲじゃない」
「それでも私には恐ろしくて……! エステル様は凄いですね、落ち着いて対処されて感動いたしました」
「故郷でもよく見かけたもの。それに、生き物がいるのは自然が豊かな証だわ」
故郷の村には娯楽は少なかったが、そのぶん自然に溢れ、生き物もたくさん居た。
トカゲが窓に張り付くなど田舎村で生まれ育ったエステルにとっては見慣れた光景でしかなかったが、故郷を離れた今、どれだけ自然豊かだったかを実感する。
それを思い出しながら話せば、メイドが小さく吐息を漏らし……、
「エステル様は、本当は自然に囲まれて育ったのですね……」
と、まるで溜息かのように小さく呟いた。
「本当は?」
「えっ……いえ、なんでもありません。さぁお掃除の続きをしなくちゃ! ちりとりは……、これは一度洗ってきますね」
慌てた様子で話題を変えてメイドがちりとりを手に部屋を出て行く。既にそこにトカゲの姿は無いが、嫌いなトカゲが触れたものを触るのは躊躇われるのだろう。
忙しい忙しいとわざとらしく口にしながら去っていくのは、エステルが追いかけて話を続けるのを防ぐためだ。なんて分かりやすいのか。
これにはエステルも言及するのは躊躇われ「掃除がんばって」とだけ告げて部屋を出た。心配そうなメイドを宥めるため、あえて別の方向へと歩いていく。
◆◆◆
「……巨大なトカゲを逃がしたらしい」
溜息交じりにアレンが小さく呟けば、ティーカップに紅茶を注いでいたドニが「トカゲですか?」と尋ねて返した。
場所は執務室。既に時刻は遅く、日課であるエステルとの時間を過ごした後。彼女を自室に送り届け、ふとやり残した仕事を思い出し、それらを片付けて一息吐いた時である。
紅茶の手配をしつつも怪訝そうに見つめてくるドニに、アレンは再び溜息を吐き、ゆっくりと話し出した。
日中の件については元々ライラから報告を受けていた。部屋に入り込んだトカゲにメイドが悲鳴をあげたところ、通りがかったエステルが窓から逃がしてやった……と。
貴族の令嬢が野生の生物を恐れず、それどころか率先して近付いて逃がすなど俄かには信じがたい話である。普通ならば令嬢が悲鳴をあげてメイドが逃がすもの。これでは真逆ではないか。――もっとも、真逆のことをしたからといって件のメイドを咎める気はアレンにはない。誰しも苦手なものはある――
「ライラが嘘を吐いているとは思えない。だがやはり信じられなくて散歩の最中にエステルに確認したんだ。……そうしたら、彼女はあっさりと『えぇ、逃がしたわ』と言っていた」
屈託なく笑い、それどころか足元を歩いているレディに対して「恐ろしい猫に見つかる前にね」とウィンクまでする始末。
「トカゲについても、ライラが聞いた話では大きく恐ろしいものだったという。だがエステルは小さく無害なトカゲだったと話すんだ」
件のメイドもエステルも同じトカゲを見ている。だというのに二人の言い分には差があった。
片や大きく恐ろしく、片や小さく無害。真逆とさえ言える話である。
だが件のメイドが大袈裟に話してしまうのも無理はない。苦手なものというのは実際よりも強大かつ恐ろしく見えるものなのだ。
もっともアレンもドニもその事実には気付かず、真剣な表情でもしやと顔を見合わせた。
「エステル様の故郷ではトカゲのサイズも違うのでしょうか」
「その可能性は高い。こちらでは巨大で恐ろしいトカゲでも、エステルの故郷では恐れるに値しないものなんだろう。つまりそれを遥かに超えるトカゲが居たということだ」
「それは……随分と大自然ですね」
ドニの眉間に皺が寄る。
爬虫類が苦手というわけではないし、屋敷内に入り込めば追い出す程度のことはできる。だがそれが通常のサイズよりも大きく恐ろしいとなると、さすがに渋い表情を浮かべてしまう。
更にそれをエステルは『小さい』と言い切るのだから、きっと彼女の故郷ではこちらの想像をはるかに超えた巨大なトカゲがいたのだろう。もはやトカゲと言えるのか怪しいところだ。
対してアレンは嫌悪の色こそ見せないものの、物思いに耽るように他所へと視線を向けた。
「大自然に囲まれ、生き物と共に育ったんだろうな……」
そんな生活と比べたら、この屋敷で『エステル・オルコット』として生きることはさぞや窮屈に感じるだろう。
森の中にある屋敷とはいえ、彼女にとってはこの森さえも狭く感じるものかもしれない。少なくとも彼女が巨大と思うトカゲは居ないはずだ。
「エステルが自由に生活できるよう計らってくれ。もし自然が恋しくなったなら、森の中に小屋を建てよう」
少しでも彼女が息苦しさを感じないように。
そうアレンが話せば、ドニが恭しく頭を下げた。