10:エステルとアレン
クラヴェル家の敷地は広い。
森に入ったら迷子になるからと遊ぶのは外壁の中だけだと言い聞かせ、その外壁も高いのでギデオンが外に出る事は無いだろう。それでも遊び回る子犬を探すのは一苦労だ。とりわけギデオンはやんちゃで、予想だにしない場所で見つかることも多々ある。
先日など、どこに行ったのかと探していたところライラが「生垣から子犬のお尻が生えています」と教えてくれたのだ。美しく整えられた生垣からちょこんと生えたお尻、名前を呼べば尻尾が大きく揺れる。
その光景の長閑さと言ったらなく、庭師も「これは新種ですね」と笑っていた。
「ギデオン、今日は良い子で見つかってちょうだい。そうしたら美味しいおやつをあげる」
歌うように話しながらエステルが庭園の中を歩く。
黒薔薇で覆われた庭園は一見すると鬱蒼とした雰囲気を纏っているが、実際に歩くと神秘的な趣を感じられる。
仮にここが本当に幽霊屋敷だとしても、この黒薔薇の庭園に出てくる幽霊はよほどの審美観の持ち主に違いない。己が幽霊であることを自覚し、そして幽霊である己が一番美しく見える場所としてここを選んだのだ。
そんな事を以前に食事の際にアレンに話したところ、彼は意外そうな表情を浮かべ「……そうか」と呟いていた。
そんな庭園を、今頃どこで遊んでいるのか分からない子犬を探して歩く。
美しい黒薔薇を眺めていると不思議と疲労は感じられない。どこを見ても美しく、そしてどこを歩いても気分は晴れやかなのだ。
そうして高い生垣を「ここに隠れてるの?」と声を掛けながらひょいと覗き込み……、
「……アレン」
と小さく婚約者の名を口にした。
アレンがいる。どこかに向かうというわけでもなく、庭園を眺めながらゆっくりと歩いている。
(散歩かしら。それなら一緒にお茶をしてくれても良いのに……)
僅かな不満を抱きながらアレンを見つめ、その足元に駆け寄っていく子犬に気付いた。ギデオンだ。
無邪気な子犬はアレンの足元まで駆け寄るとその周りをぐるぐると回り始め、かと思えば急にゴロンと横になった。
「ギデオン、お前も散歩かい?」
ギデオンに話しかけるアレンの声は優しい。
そのうえ彼はゆっくりとしゃがみこむと、引っ繰り返るギデオンのお腹を撫で始めた。クリームカラーの毛は太陽の光をたくさん吸い込んでいるのか、撫でるアレンが「暖かいな」と笑った。
お腹を撫でられたギデオンは嬉しそうに転がり、それを見てさらにアレンが笑みを強める。更に彼はひょいとギデオンを抱き上げると、質の良い上着に土汚れが着くのも構わず愛おしそうに抱きしめた。
濃紺の瞳は細められ、愛おしいと言いたげにギデオンを見つめている。
なんて優しい表情だろうか。
だけど……、
「その優しい顔を、たまには私にも向けてくれないかしら」
そうエステルが告げながら生垣の影からひょいと姿を表せば、アレンが驚いたように立ち上がり、彼の腕の中のギデオンがワフッと一度鳴き声をあげた。
「エステル……」
「ごきげんよう、アレン。ギデオンを捕まえてくれてありがとう。探していたの」
「そうか……。それは良かった」
先程までの穏やかな表情はどこへやら、途端にアレンは表情を曇らせてしまう。
そのうえギデオンをエステルに返そうとしてくる。きっとここで受け取ったら、彼は理由を着けて屋敷に戻ってしまうだろう。
そうはさせない、とエステルはギデオンを受け取らず、そして受け取らない意思を伝えるようにわざとらしく己の手を後ろに回した。
「エステル?」
「今はギデオンに嫉妬してるから抱っこはしないわ。アレン、貴方が抱っこしていて」
「それは構わないが……。嫉妬?」
「えぇ、そうよ」
アレンに尋ねられ、エステルは分かりやすくふんとそっぽを向いた。
次いで横目でアレンに抱きかかえられるギデオンを睨みつける。主人の気持ちも知らずにギデオンはご機嫌でアレンの腕の中にいるではないか。
思わずエステルがギデオンの両頬を手で包み、ぐりぐりと捏ね繰り回した。嫉妬からくる暴力だ。……もっとも、撫でまわされてギデオンは更にご機嫌になるだけだが。
「既に正妻がいるだけでもショックなのに!」
「正妻? 僕に? いったい何を言ってるんだ」
「しらばっくれないで。居るじゃない。艶のある黒毛の、ツンと澄ました正妻よ。いつも尻尾を優雅に揺らして正妻の余裕を見せつけてくるの」
「黒毛の、尻尾……。あぁ、レディのことか」
「せっかく見初められたのに既に黒毛の正妻が居て、そのうえクリームカラーの若い子に取られるなんて!」
酷いわ! と大袈裟に嘆き、ギデオンを撫でていた手で今度は目元を拭う。
気分はすっかり非道な公爵に騙され嫁いでしまった哀れな令嬢だ。
そんなエステルを、アレンはしばらく驚いたと言いたげな表情で見つめ……、
「きみは、突然なにを……。はは、なんて酷い話をするんだ」
と、堪えきれないと言いたげに笑いだした。
笑い続ける彼を、エステルがムゥと唇を尖らせて見上げる。
「酷い話はこっちの台詞よ。今だって、嫁いできた令嬢の目の前で、クリームカラーの若い子を抱きしめているんだもの」
「でもギデオンはオスじゃないのか?」
「なるほど、正妻がいたうえに、未来の旦那様は私じゃなくて若い男の子が良いのね」
これは辛いわ、とエステルが嘆き、再びギデオンの頬をもみくちゃにする。
ギデオンは嬉しそうでそれを見るアレンも楽しそうだ。唯一エステルのみ不満を訴えるように渋い顔をしていたが、それも長くは持たず、ふっと小さく笑みを零した。
「仕方ないから今日は許してあげる」
「そうか、良かったなギデオン」
「あら、あなたに言ってるのよ、アレン」
ぴしゃりとエステルが言い切れば、ギデオンを見つめていたアレンが「僕も?」と目を丸くさせた。
だが次の瞬間にはその目を柔らかく細め、穏やかに笑うと「それはすまなかった」と優しい声色で謝罪をしてきた。
「まさか、きみがそんな風に思っていたなんて……。僕とはあまり過ごしたくないだろうと思っていたんだ」
「過ごしたくない? そんなわけないじゃない。貴方とたくさん話をしたいし、貴方の事を知りたいし私の事も知ってほしい。一緒に居たい。散歩だってしたいし、デートもしたいわ。……なにより、私にだって優しく微笑んで話しかけてほしいの」
胸の内を素直に告げ、ギデオンを撫でまわしていた片手をアレンの頬へと伸ばす。
さすがにギデオン相手の時のように撫で回しはしないが、彼の右頬をむにと摘まんだ。アレンの目がまたも丸くなる。
「……エステル?」
「いつも私にだけはぎこちなく笑うの、気付いているんだからね」
「そうか……」
「今日はこれで許してあげる。でも今後も私を避けてぎこちなく笑うなら、『アレン・クラヴェルはオルコット家の令嬢に求婚したくせに、艶のある黒毛の美人を正妻にして、年若いやんちゃな男の子にも手を出した』って噂を流してやるわ」
「それは困るな。そんな噂を流されたら世間になんて言われるか。幽霊屋敷の引きこもり公爵の方がまだましだ」
エステルの脅しに、アレンが楽しそうに笑う。
その表情にぎこちなさは無く、彼の心からの笑みだと分かる。穏やかで、楽しそうで、そしてなんて優しいのだろうか。濃紺の髪と瞳は彼の落ち着いた雰囲気をより濃くし、微笑まれるとこちらの胸まで和らいでいく。
(素敵な笑み。やっぱりアレンは素敵な人だったわ)
これから彼と幸せになれる。
そうエステルは胸の内に暖かな気持ちを抱きつつ、「散歩をしましょう」と彼を誘って歩き出した。……もちろん、二人並んで。
◆◆◆
「見て、ドニ。アレン様があんなに嬉しそうに微笑んでる」
とは、エステルを探しに来たライラ。
傍らには執務中だったドニが居り、ライラに服の裾を掴まれつつ生垣に身を隠し、少しばかり距離を置いた先にいる主人を見つめている。
「そうですね、アレン様があんなに穏やかに人と話をするところは久しぶりに観ました」
「きっとエステル様とならアレン様も幸せになれるわ。あぁ、素敵な女性が来てくれてよかった……」
「ライラ、泣くにはまだ早すぎますよ」
大袈裟に感動するライラをドニが咎める。
それに対してライラはスンスンと洟を啜りながら「だって、見てよ」と主人達に視線をやった。
アレンとエステルが楽しそうに話しながら庭園を歩いている。
二人の姿のなんと美しく微笑ましいことか。
「たとえエステル様の出自が何であろうと、私は今アレン様の隣にいるエステル様こそがアレン様を幸せに出来ると思うわ!」
「そうかもしれないが……。だが直ぐに決断を下す必要は無いだろう」
しばらく様子を見よう、そう話すドニに、目元を拭っていたライラが「堅物」と小さく文句を言った。