38 『エクスキューズ=千里の心』
千里の憂鬱
(どうしよう?朝にラインを送ったのに、返信が来ないよ。昼にみたら既読は付いていたのに!昼間に一緒にランチを食べた千鶴ちゃんも健太郎君にメッセージ送ったらしくって、返信があったって喜んでいたのに!やっぱ、けんたろー君、美人がいいのかな?千鶴ちゃんに比べたら私なんてブサイクだし。こんなこと考えちゃう面倒くさい女だし。医学科の女性の結婚率は一〇%くらいらしいし。
私は結婚できないんだろうなぁ。…って、そうじゃないでしょ千里。どうして、ここで結婚なんて話が出てくるの。私はけんたろー君の家庭教師として応援する立場でしょ。それにけんたろー君は既読スルーをわざとするような子じゃないし。きっと、テスト直前に私のラインをみて返信する時間がなかっただけだよね。)
千里は、一人で悶々と頭を抱えていた。自身の医学部の勉強の復習や、これからの健太郎の勉強の準備をしているのだが、三〇分に一回は、来ているはずもないラインを見てしまう。それでも、健太郎に恋をしていないといいはる千里は、案外強情で見栄っ張りで、でも、やっぱり義理堅くて優しい女の子だった。
*
やったー。終わったー。
国語も含めた分量のテストは本来、二日かけて行われるものなのだが、模試は時間と経費節約のために一日で行われる。そのため、端的に言って疲れるのだ。本来、二日でやるものを一日でやろうとするのだから当然だ。朝九時半から、夜の十九時までかかるって異常だろ⁉
とりあえず、千里さんにラインで模試が終わったことを報告をしようとラインをあける。
すると、千里さんから追加でメッセージが来ていることに気づく。
千里:よかったら、今日、凛ちゃんと一緒にうちに来ない?せっかく、模試を受けたんだったら復習も大事だし、一緒に復習をしましょう。
健太郎:いいんですか?バイト外なのに、、、
流石に夜も十九時を回っているし、迷惑かと思った。それにこれ以上、千里さんに迷惑をかけるのは嫌だった。
だけど、天使は
千里:若者は遠慮するでないぞ。家庭教師のアフターサービスだよ。うちはきっちり、アフターサービスまで保証する親切な家庭教師設計なんぞよ。
なんて言ってくれるので甘えることにした。
健太郎:はい。楽しみにしています。
*
模試の終わる少し前、健太郎からの返信が来ないことに千里は悩んでいた。
一応、スタンプを送るくらいの時間は、模試の休憩の合間にあるのに一向にラインの返信が来ないからだ。
(うー。そろそろ模試、終わるな。返信くるかな?けんたろー君はテストどうだったかな?けんたろー君に会って聞きたいな。でも、流石に模試の報告聞くためだけに疲れている健太郎君を呼び出すのも可哀想だしなぁ。)
千里は悩んでいた。自分が聞きたいがために健太郎の手を煩わせるのは申し訳ない。かと言って、このままラインの返信が一生かえって来ないのではないか、という不安もあって、何かをせずには、いられなかった。
そこまで考えた時、千里に閃きが舞い降りる。思わず手を叩く。
(あ、そうだ。今日やったテストの復習を家でやるのはどうだろう?テストの復習はやらなきゃいけないし、早い方がいいよね。これならちゃんと健太郎君のためになるよね?だったら、凛ちゃんも呼んでテストの復習会をしよう。けんたろー君のことが好きであろう凛ちゃんにも悪くないし、けんたろー君のためにもなるしいいよね?)
そう小さく声に出して千里はラインのメッセージに追加のメッセージを送ったのだった。
*
結局、凛は来なかった。別に千里さんと二人きりになりたいがために凛のことを誘わなかったわけではない。凛のことは一応、誘ったのだけれど、今日は凛の父親の誕生日らしくこのまま誕生日プレゼントを買って帰るとのことだった。何でも、万年筆を買ったのだが、それがやっぱり、気に入らないということで別のプレゼントを買うそうだ。
ちなみに、日頃の教師役としてのお礼ということで、その万年筆は俺がもらった。大切に使おうと思う。普通のペンよりも機械チックで、重いペンだったから、多分高かったと思う。
図らずも、憧れの年上の女性の家に一人でお邪魔するシチュエーションになってしまった。
…凄くうれしいです。はい。
もちろん、千里さんに俺に対する恋心なんてものはないだろう。
あるなら、凛は誘わないで二人きりになろうとするはずだ。
それでも、給料も出ないのにテストの復習会をしてくれるとか俺に対する知り合いとしての好感度は高いんじゃね?これって、あと少し頑張れば千里さんとただならぬ関係ってやつになれるんじゃね?なんて期待に胸を膨らませそうになる。
いや、まて。千里さんほど人当たりのいい人ならもしや医学科の同級生とかと男女混合で勉強会とか飲み会とかしているのでは?あんなに美人な人がそういった催しに誘われないわけがないし。それと同じような感じで誘ってくれたのでは、と思った。
そこまで思考が至るとなんだか浮かれていた自分が馬鹿みたいだった。凛とのこともそうだけど最近は勘違いがひどすぎるので、自己評価を低くしていかないといけないなって思う。
そうは言っても、千里さんが俺たちのために勉強会を開いてくれようとしたのは事実なのだ。しっかりと集中しなければならない。
“よしっ。頑張るぞ。”
気合いを入れるため小さく呟く。
*
千里さんの家の前に着いた。千里さんの家は案外普通の家だった。千里さんはなんだかんだ上品な人だから、千里さんの家もそういった家を想像していた。
例えば、玄関が白い門になっていて大きめの木が庭にあるような家とかが、ピッタリだと思っていた。木の下で本を読んでいるとことか、容易に想像できる。本から顔を上げて、ニッコリ優しく微笑んでこちらを見てくれる姿とかいいよね?
妄想に浸っていると、
「いらっしゃい、健太郎君。凛ちゃんはどうしたの?」
黒色のどこにでもありそうな扉から、千里さんが出てきた。白のブラウスに水色のスカート、それでいて赤い花が鮮やかに描かれているエプロンを着た、どこかミスマッチな恰好をした千里さんが俺の前にいた。
「いらっしゃい。けんたろー君。って、あれ、凛ちゃんは?」
「凛は父親の誕生日らしくて今日は遠慮しておくって言ってました。」
「あ、そうなんだ。とりあえず、上がって。」
天使は、妄想の笑みよりも、更に極上の笑みをもって、ニッコリ笑いかけてくれる。
案内に従って、玄関に入る。左にはTOILETの文字がある扉があり、右の方には居間と仏壇があった。それを見て千里さんのおじいちゃんのことを思い出した。
思わず、声をかける。
「あの、仏壇にお参りさせてもらってもいいですか?」
「へ?ああ、おじいちゃんのことか。ありがと。うん。こっちからお願いしたいくらいだよ。私は夕食の準備があるからそれすましてくるね。あと、今日は遅くなるかもしれないって親御さんに連絡しといたからそこは心配しなくてもいいからね。」
そう言ってくれたので、俺はおじいちゃんの写真の前で手を合わせる。そして、心の中で千里さんのおじいちゃんに語りかける。
“孫の千里さんにはお世話になっております。千里さんは、俺、じゃなくて僕が言うのはなんですがとっても可愛くて優しい最高の教師です。そうなったのもあなたや、あなたの担当医師といった人と人が繋がってできたものです。この縁が千里さんにとっていいものであるように僕も頑張っていくので暖かく見守っていてください。よろしくお願いいたします。”
お参りした後は、珍しく心の中でシリアスモードになったのが、恥ずかしくなった。
なので、恥ずかしさを紛らすように、足早に仏壇のある和室から立ち去った。その時、ふと仏壇の前の写真を見ると、こちらに優しく微笑みかけてくれる千里さんと目元の似た優しいおじいさんがいた。
*
千里さんが作ってくれた煮込みハンバーグを二人で食べた後、千里さんの部屋で復習会をすることになった。凄く緊張している。
年上の美女ってどんな部屋なのかな?白いレースのカーテンにクマのぬいぐるみがあるところとかを想像する。ヤバい我ながら、妄想が、気持ち悪っ。
そこでふと今更になって、気づく。そう言えば家に誰もいなくないか?
「えっと、お家の人とかはいないんですか?」
「うーん。二人とも共働きで帰ってくるのは二一時とかかな。あとは、高二の妹がいるんだけど部活やっているし、部活終わりにファミレスとかよく行くから遅いんだよね。」
人差し指を顎に当て。上の方を向いて考えるようにしながら千里さんはこたえる。
「寂しくないんですか?」
思わず、聞いてしまう。
「なーに?寂しいって言ったら一緒に居てくれるの?」
千里さんが優しく微笑みかけてくれる。
「もちろん。そうですよ。」
千里さんが珍しく俺のことを、からかってきているのだろうことは分かっていたけれどそれでもそう言いたかった。寂しいって言葉に嘘はなさそうだったし。
「まあ、とりあえずは復習しよっか。」
でも、千里さんは俺の言葉をスルーして提案してきた。模試の終わりに配られた解答を出して、一緒に答え合わせをする。
「これは、ここが注意点でここの式に注意しなければならないんだよ。」
そう言って目の前の解答を指し示しながら千里さんが近づいてくる。
いつかの千鶴さんと同じラベンダーの匂いがしてくる。距離が近づいたために、慎ましいながらも、柔らかい、女性的な感触も肩にあらわれる。
なにがとは言わないが別の場所にやる気が集中しそうになってしまう。
いかん。いかん。千里さんは誰にでも優しいからこういう風に家庭教師の時間じゃなくても教えてくれているんだ。好きな人の信頼は裏切るな。
何とか集中を数式に戻そうとしてみる。
すると、
「って、聞いてないでしょ。けんたろー君。」
千里さんは唇をまげてちょっぴり怒っていた。
「ごめんなさい。なんか、千鶴さんと同じ匂いがすると思ってつい色々考えていました。」
必死になって言い訳を紡ぐ。
「ああ、なるほどね。これは千鶴ちゃんに誕プレでもらった香水だよ。」
千里視点
(ああ!集中していないと思ったら千鶴ちゃんと同じ匂いがしたからか⁉いつもなら集中しているもんね! けんたろー君って、千鶴ちゃんのこと悪く言っていたけどなんだかんだ仲いいんだよね。今日だって千鶴ちゃんよりも早く送った私のラインは既読スルーしてきたのに千鶴ちゃんには返信していたし!やっぱりけんたろー君、千鶴ちゃんみたいな綺麗な子が好きなんだろうなぁ。なんか、そう思うと怒れてきたかも⁉私だってこんなに頑張っているのに!そうだ。もっとけんたろー君に近付いて私が女の子って意識させてやる。最近、私のことからかってくるし、たまにはちゃんと年上の女性って意識させてやる。)
健太郎視点
なんだか、さっきから千里さんが近い気がする。たまに、スカートの薄い布が肘にあたったりもする。女性を守る大事な薄い布が、普段は使わない敏感な肘に当たるのはわりとドキドキする。
千里さんの胸とかに当たっているわけではないのだけれどなんか、こっちの方が色々な想像をかきたてられる。そして、耳もとで優しく後ろから話しかけられるのもドキドキする。近頃流行りのバイノーラル録音に似ている。
違うのはたまに千里さんの体温や、湿った吐息が敏感な耳のところにかかってくることくらいだろうか?バイノーラル録音ですら緊張で背筋がゾッとするのにこの生感覚はヤバい。
集中しないとまたしかられるのに。
その時、ノックもなしにガタンと言って千里さんの部屋の扉が開かれた。




