めぐる巡る
クラウスが朝、目が覚めて最初にすることは小瓶を宙に放り投げることだった。落ちても割れないかもしれないが、割れて台無しになるかもしれない。恐らく割れない確率のほうが高いだろう。瓶のガラスは分厚く、床には足の長いカーペットが敷かれている。
それでもクラウスの手は瓶を掴む。割れてしまえと念じて投げても、手元に来た瞬間に掴んでしまう。
必要ないものだとクラウスはわかっている。それなのに何か意味があるかもしれないと思って手に入れた、その事自体が危ない。一瞬躊躇って別の効能に変えたが、その時に使うことを考慮に入れたのだ。
毎朝のこの行為も、先送りにしているだけだ。いつか、きっと使いたくなる。忘れかけた頃に、きっと揺り戻される。
******
結局クラウスには伝えられなかったが、アメリが決心したこととは卒業後はグエンバドル公国に行くということだった。残った一年間はそのための勉強に費やそう。そう決めたのだ。
婚約成立の連絡は未だ来ていない。実家には伯爵家から正式な申し込みはあったのか、手続きはどこまで進んでいるのかを問い合わせているが、申し込みがあったと書かれた手紙が来ただけだ。何か箝口令でも敷かれているのだろうか。返事の内容が不自然だ。
「アメリ、独りかい?」
ヴィンセントが自分に声をかけるなど珍しい。ルネッタは今どこにいるのだろうか。
「ここ、いいかな?」
「どうぞ。ルネッタはいませんけど」
「いたら最高なんだけど贅沢は言わないさ」
ヴィンセントがアメリの前に座ると学食の給仕がヴィンセントの前に皿を並べた。
学食は程よく混んでいるが、相席をするほどではない。アメリはヴィンセントとは親しいが、二人きりで話をしたことが今まであっただろうか。
「勿論、理由はある」
アメリの心を読んだようにヴィンセントがウィンクした。ちょっとおちゃめというか、気障だ。
「星祭りでエスコートした仲じゃないか」
「ええと、失恋したってことでいいんですか?」
「まだしてない」
「……」
「まだこれからだよ」
これからする――ということではなさそうだ。タフだ。
「ジェレミーと婚約したんだって?」
「……会長から聞きました?」
「正式にはしてないってことを?」
アメリは思わずフォークを落としそうになった。
「書類はまだアメリの父親の手にはないみたいだね」
クラウスはそこまでの情報を掴んでいるのか。アメリはそれを聞いていない。一体どこまで彼は調べ上げているのか。
「一国の王子様ともなると、情報網が違いますね」
「その認識は間違っているから訂正しておこう。それは彼個人の手下の仕業だ。
いやあ、すごいよね彼。彼の国は実力主義とは聞いていたが、王を決める段階からこれだ。来年が楽しみだよ」
そうか。来年から彼は本格的に国の仕事を始めるのだ。
(遠い人になるな)
だからといって諦めるつもりはないが、どういう手段を取るかは悩ましい問題だった。
「個人的なことを伺ってもよろしいですか?」
「質問の内容によるな」
快活に笑っているが隙がない。言動に惑わされて忘れがちになるが、彼も結構食わせ者だ。アメリは彼のプライベートを何も知らない。確か侯爵家だったと記憶しているし、長男だったようにも思うが、印象だけでそう思い込んでいる可能性もある。
「副会長は来年どうされるんですか?」
「僕はグエンバドルに行くよ。殿下と条件を詰めているところさ」
思ってもみない返答にアメリは驚く。そこまでルネッタのことが好きだったのか。
「彼はアメリも欲しそうにしてるから、この国の貴族の婚約者になってしまうと困るんだね。僕の他にも何人か声をかけた生徒がいるみたいだし」
「えっ、ええ?」
(ルネッタが原因じゃない? え? どういうこと?)
「公太子が学園で比重をおいているのは、勉強よりも自国に連れて帰る優秀な人材の勧誘だ。――来たね。僕の仕事を始めよう」
もっと突っ込んで聞きたい事を言いだしたが、ジェレミーの姿を見てアメリは口をつぐんだ。もう少しで食べ終わるところだったのに、ヴィンセントと話していたせいでまだ少し食べ終わるのにはかかりそうだ。
「珍しい組み合わせですね」
彼が星祭りの出来事を誤解しているままなら、何とも意味深だ。
「そうかね。僕たちは役員同士だよ」
「星祭りでも楽しそうでしたし」
「ああ、君に睨まれて居心地が悪かったよ。――と、あそこでは誰でもあって誰でもない。それがルールだったと思うが」
「でもわかってしまいますよ。おふたりとも目立ちます」
「だそうだ、アメリ。愛の力だよ」
「重いですね」
「重いかなあ」
笑いながら鋭い目でヴィンセントはジェレミーを一瞥した。
「ねえ君、何を持っているんだい?」
「……なんでしょう?」
「ちょっと右手の動きが不自然だね。少し緊張している……?」
話し方も笑顔もいつもと変わりないように見えるが、少しだけ視線が鋭い。つられてアメリもジェレミーを見たが、こちらは顔がこわばっている。
「悪いことは言わないから、今日は帰りなよ。明日からはまた好きにするといい」
「それほど僕は愚かではないつもりです」
小さき息を吐き、ジェレミーはアメリを見てにこりと微笑んだ。胸ポケットから小瓶を出すとテーブルの上、ヴィンセント寄りの位置に置いた。
「もしお持ちでないなら、差し上げてください」
「おや、いいのかい?」
「もしお使いなら、残りを僕にくれると嬉しいです」
「約束しよう。残っていればの話だが」
二人だけで会話を成立させるとジェレミーはアメリに話しかけることなく立ち去った。
ジェレミーの姿が見えなくなるとヴィンセントは軽く口笛を吹いた。
「カマをかけたんだが、当たるものだねえ」
「え?」
「ペテンは得意なんだが……うん。彼は存外素直だな」
ヴィンセントは何事もなかったように食事を再開したが、アメリは状況がわからずぽかんとしている。よくわからないが、ヴィンセントがすごいことをしたということだけはわかる。クラウスが自分の国に連れて帰りたいと思うはずだ。
「君にあげるよ。持ち帰るようには言われていない」
ヴィンセントはナフキンで包んで瓶を持ち上げると、アメリの方へ寄せた。
「これはなんですか?」
「毒だよ」
もらったものの、これをどうしたものか。
数日前ヴィンセントが毒だと言ったそれは今アメリの手の中にあった。中庭の植え込みの陰でアメリは膝を抱えて座っている。
誰にも相談できないものをもらってしまった。ヴィンセントはもう自分には関係ないという態度だし、経緯が経緯なだけにルネッタには相談しづらい。おまけに彼女に言えばクラウスに知れてしまうだろう。もしかすると既にヴィンセントが報告しているかもしれないが、彼は素直な部下には見えない。
捨てようにも捨てられない。困った。
「ここはお気に入りの場所なんですか?」
「――っ」
心臓が飛び出るかと思った。
アメリがゆっくりと振り返ると笑みを浮かべたジェレミーがいた。
「子供みたいに座り込んで……可愛いですね。隣、いいですか?」
アメリは慌てて手の中に瓶を握り込むが、もう遅い。ジェレミーはアメリの手の上に自分の手を置いて軽く握った。
「返してほしいなどと言いません。貴方が持っているなら僕も安心です」
「……毒、なの?」
「毒……かもしれませんね。僕は薬だと思っていました」
何にしろ、飲用するもので間違いなさそうだ。ここで中身をこぼしたら、芝生が枯れたりするのだろうか。毒であり、薬でもある。アメリは具体的に当てようと思ったが、すべての薬が毒であると言われればそれまでだ。
「私に飲ませるつもりだったの?」
「そうですね。具体的には考えていませんでした。ただ、ひと目見てほしくなったんです」
「――」
「貴方と一緒ですね。ほしくなったのに、どうするかは考えていませんでした」
意味を理解するのに少し時間がかかった。気づいてアメリは苛つく。
「ほしくなったから婚約を申し込むというのは、殿方なら誠意ある行動だと思うわ」
「褒めてくださってるわけではなさそうですね」
皮肉は通じたらしい。気を悪くするわけでもなく嬉しそうだ。
「この薬は物を腐らせないんです」
ジェレミーはあっさりと毒の正体を吐いた。アメリはすぐに気がついた。彼はどこまでなぞろうというのか。ゲームのクラウスがアメリに飲ませた薬と恐らく同様のものだ。きっとクラウスはその可能性に気がついて、アメリにジェレミーと一緒に食事をしないほうがいいと言ったのだ。
アメリはビンの蓋を取って芝生の上に流した。この部分だけ芝生はずっと青々としたままになるかもしれないが、アメリは今すぐにこの薬を捨ててしまいたかった。
「高かったんですよ」
さして残念でもないようにジェレミーが言う。
「勿体ないなら、あなたが飲む?」
「貴方からいただけるなら何だって飲みますよ」
場違いなほどに明るい笑顔だ。
「どうして私が好きなの?」
「愛に理由などありますか?」
「――でも私を連れ去ったりしないのね」
ゲームでは誰もがした。連れ去って閉じ込めて、いびつな愛を囁いた。
ジェレミーは不思議そうな顔をした。
「どうしてそんなことをするんです? 貴方が望んでいるなら別ですが、貴方は会長と一緒にいたいのでしょう? ああ、僕はその薬を貴方と彼に飲ませたかったのかもしれませんね」
ジェレミーはこの世界で最もゲーム的なのかもしれない。
アメリは自分が何を望んでいるかよくわからなくなっていた。最近、見つけたと思ったことがあるが、それが正しい選択かわからない。でも自分が本当に望んでいるのなら、そんなふうに世界は動いていくに違いない。このまま何もしなければ何も変わらないまま、きっとジェレミーと結婚してしまうのだろう。
それでジェレミーは嬉しいのだろうか。ふと、そう思った。
「あなたと結婚すれば、あなたのことを好きになるかもしれないわ」
「それは嬉しいですね」
ジェレミーはとても嬉しそうに微笑んだ。
「本当に、僕と結婚してくれますか?」
「もう婚約してしまったのに、不思議なことを訊くのね」
「僕を愛してくれますか? それが貴方の幸せになりますか?」
「あなたがずっと愛してくれるなら、幸せになれるんじゃないかしら」
「ずっと愛していますよ。アメリ、貴方を抱きしめてもいいですか?」
ああ、この声がずっと好きだった。
好きだったことを思い出した。瞬きをすれば涙がこぼれ出た。
「涙を拭いてもいいですか?」
アメリは首を横に振った。止まらなくなった涙が頬を濡らす。
違う。望んだままに世界が叶ったりはしない。正しい選択を自分はしなければならないのだ。
******
ヴィンセントから報告を受けてクラウスは返した。君の判断は正しい、と。
しかし結果が斜め上だ。ジェレミーの持っているものの確認をと言ったのに、何故本人から取り上げることになったのか。何故それをアメリが持つことになったのか。
しかし自分たちが持つよりも安全だ。逆に盛られればそれはそれで面白い。気づいた自分は飲み干すだろうか?
(ないな)
だが、自分がやりかねない不安がある。このいびつさはどうだ?
彼女のために王位を、何もかもを捨てようとは思わない。執着というほどには強くはなく、羨望というほど熱烈でもない。ただ胸の底にくすぶり続ける何かがあるだけだ。その名前をクラウスは知らない。
(このまま卒業してしまえば、きっと思い出になる)
よくある言葉。慰め文句。知った口を、と吐き捨てる気はない。
それでも思い出にする自信がなかった。たった数日近くにいないだけで寂しくなり、わざと近くを歩いてみたり、遠くから眺めてみたり。我ながら、どうかしている。
気持ちを整理できないうちに、扉が開く。
「ようこそ」
扉の向こうには緊張した面持ちのアメリがいた。いつもと違う雰囲気に笑みが溢れる。最近は割とカリカリしていたのに、何だか今日は妙にしおらしい。
「どうしたの? 取って食ったりしないよ」
「私がメインディッシュとか言わないですよね?」
「……びっくりするようなことを言うね」
一拍あって自分の言葉の意味深さに気がついたのか、アメリは赤面する。愉しくなって笑った声は喉の奥から響いた。
「今日はどういった用件ですか?」
「一緒に食事でもと思って誘ったんだけど、ルネは変なことを言っていたかな?」
「あー……ドレス着ますか? って言われました」
アメリは制服姿のままで一歩部屋の中に入った。後ろの扉が開くのを少し緊張したまま感じているのがわかった。




